喧嘩 4


 ベッドで眠る相手を邪魔しないようにカーテンを閉め切った部屋に、薄明かりが忍び込んできた。階下では宿泊客を起こさぬよう、静かに人が動き出している音がする。
 ドアをノックする音。なじみのある叩き方に応えてロマージュが顔を上げるとそこには、朝食のプレートを片手に二枚、器用に持ったルーウェンがいた。
「よう……エリーは?」
 飛翔亭の二階、個室になっているその部屋は、小型の丸テーブルが一つと椅子が二つ、ベッドが一つの簡素な造りだった。そのベッドの上にはまだエリーがオレンジ色の服のまま眠っていて、ロマージュはその隣に腰を掛ける様にして、しぃ、とルーウェンに囁いた。
「今寝たところよ。……それはそこに置いておいてね。後で食べるわ」
 昨夜遅くにエリーがやってきたとき、この部屋にはルーウェンがいて、真赤になって慌てて帰ろうとするエリーを引きとめるのはちょっとした騒ぎだった。
 もちろんロマージュはルーウェンを隣室に追い出し、代わりにエリーに強めの酒を飲ませて泊めたというわけだが。
「どうしたんだ? って聞いても構わないか?」
「まったく……男って本当に不器用だと思うわ」
 椅子をまたぐように座って、眠るエリーの寝顔を覗き込んだルーウェンに、ロマージュは返事とも厭味とも取れない言葉を返した。
「こじれてるみたいだな」
 ルーウェンにとっても、エリーは妹のようなものだ。寝顔に涙の跡が残っていることを知ると心が痛んだが、ダグラスの事も知らないではない。あの性格とエリーの扱い方では、いつかはこうなるかと思っていた。逆に、エリーの屈託のなさというか打たれ強さに感心していたくらいで。
「まだ若いんだよあいつも。もう少ししたら落ち着くだろうから、それまでは、な」
「あなたはもう年なの?」
 ダグラスをかばう発言に、もう一度やんわりと声を返され、ルーウェンは鼻白む。
「……もしかして、怒ってるのか?」
「怒ってるわよ」
 微笑みながらの返事に、ルーウェンの顔も引きつるが、ロマージュはそれも気にかけず、エリーの頬にかかった栗色の髪をそっと撫で、その寝顔を眺める。
「最初はちょっとしたすれ違いだったんでしょうけど、ダグラスは自分の言葉足らずをもう少し自覚したほうがいいわね。きちんと説明しなくても、エリーちゃんなら何でも分かると思ってるんでしょうから」
 その冷ややかな物言いに、おなじ男としては……そして一緒に冒険に出たことにあるルーウェンとしては、やんわりとながらそれを否定したくなる。
「いや、ダグラスはダグラスなりに、エリーを心配してるんだろう? 充分伝わってないか?」
「そんなこと言ってるんじゃないのよ? ルーウェン」
 薄い碧の瞳が細められ、すっとルーウェンに向けられる。
「あなたは私があなたの仕事を散々邪魔した上に、ケロッとした顔をしてほかの男を連れ歩いて謝りもせず、その上更にあなたの周りにうろつく女の子と、あなたの関係を疑ったらどうするのかしら?」
「いや……それは……」 非常にわかりやすいその言葉に、どうやら何も逆らわないほうがよさそうだと感じたルーウェンは、頬の傷を掻いてよそを見る。「怒ってもいい、と思う……けどな」
 本当は、本当の所、ダグラスの気持ちも分からないではなかったけれど。
 昨日の女性の護衛の話も又聞きに聞いたが、大体ダグラスは騎士なのだし、断れない立場と言うものもあるだろう。それに、いくらぶっきらぼうで口が悪くても、いつもエリーには最大限の注意を払って接していたように思える。
 けれどそれを言い出したらきっと、ロマージュの微笑みがなお冷たくなるだろう。
「とにかく私は、エリーちゃんの味方よ」
 ふ、と笑ったその顔に、ルーウェンは背筋を凍らせた。






 闘技場の高い壁の周りには出店が立ち並び、肉の油の焦げるいい香りとパンの匂い、それから賭け屋の野太い声が飛び交っている。
 大人の足元を走り抜けていく子供たちは手に菓子を持って、その笑い声が物売りの女性の声と入り混じり、そこは混乱の一歩手前の賑やかさがあふれかえっていた。
 いつものダグラスだったら、いくら手を添え補助していたからと言って、片足を引きずることでしか歩けないフロレットに一応、行きますよの一言くらいは声をかけてその人ごみに入って行った事だろう。
 けれど。
「今の所7対3でエンデルク・ヤードだ! 今ならダグラス・マクレインが高配当だぜ! 誰かいないか!」
 耳に入ってくるのは今聞きたくない言葉ばかりで。
「あ、あの……ダグラス様。少しだけ、少しだけ足を緩めていただけませんか?」
 ダグラスとしてはかなりゆっくり歩いていたつもりが、その左腕に手を添えて歩くフロレットが、息を切らせてそう言うまで、護衛のつもりで周囲ばかりに目をやり、護衛対象のことを考えていなかった。
 ダグラスが足を止めて振り返ると、巻いてゆるくウェーブをかけた髪の落ちる額にうっすらと汗をかいたフロレットは、ダグラスを蒼灰色の目で見上げた。
「申し訳ないのですけれど……周りをゆっくり見てみたいので」
 ダグラスが見下ろすほっそりとした顔を縁取るのは、テンの毛皮で作った分厚いフード。この辺りでは見かけないその装いと、コートの袖からちらりと見える高価な指輪に腕輪。何より同行する聖騎士たちが目を引いて、回りではささやきが漏れていた。
『誰だい、あれは?』
『隣にいるのは確かにダグラス・マクレインじゃないか。明日の下見か? まだ余裕があるみたいだな』
 だがフロレットは何も聞こえていない様子で、紅潮させた頬のまま、あたりを見回した。
「あ……あのお店は何を売っているのですか?」
 ダグラスが視線の先を追うと、そこには雑貨やアクセサリーを取り扱った店が露店を出しており、遠目にもきらきらと光るガラス細工が並んでいた。
「立ち寄られますか?」
 ダグラスが尋ねると、フロレットは嬉しそうにうなづいて、今度は先を行こうとする。
 エリーより3、4つ年上のはずのその女性は、どちらかと言えば華奢なエリーと比べても細かった。そして顔色は白く透き通るようで、今は自分の腕を借りながらぎこちなく背をまっすぐ伸ばそうとしているのが分かる。
── 少し、悪かった、か……。
 護衛は護衛だけすればいい、とはいうものの、相手は女性だ。
 エリーと居る時、飛翔亭でよく言われるのは『お前は女性に対しての気遣いが足りない』の一言。けれど、いったいこれ以上何をしたらいいのか分からない。
 邪魔にならないよう一歩離れて周囲に注意を向けながら、ダグラスは昨夜のエリーの事を考えまいとしてつい考えてしまう。
── 妖精の事は…
 あの腕輪の事は、今なら悪かったと思う。けれどエリーの仕事を近くで見ていると、妖精が居なければ手におえないような仕事を抱えて、この先もずっとやっていくつもりなのかと思ってしまうし、マリーが来てからは余計に、何でも一人でやっていこうとしているように見えた。
 それに。
── もう、アカデミー生じゃあねぇんだから。
 以前から気になっていたことだが、誰も彼もを工房に入れようとするのはやめてほしい。ただでさえ、最近のエリーは急に……きれいになったような気がして。
 はらはらするのだ。
 エリーを見る周りの目が、以前と同じに思えなくて、だから目も、手も離せなくて。
 けれどそれはどちらも、昨夜ダグラスがエリーを押さえつけた言い訳にはならない。
 それに、仕事についても工房についても、それはエリーとマリーが決める事だ。ダグラスがいくら心配や嫉妬をしたとしても、口出しすることではない。
 そう、分かっていた癖に夕べは止められなかった。
「あれはなんですか? 右上の…いいえ、その隣の」
 フロレットが地面に座った店主に尋ねる声で、ふと我に返った。興味深げに、布の上に敷き詰められた安いアクセサリーを興味深そうに見ているようだ。
 それを横目にダグラスは辺りに気を配る。
 外との往来が激しい今は、スリも居れば犯罪者すれすれの冒険者も居て、いつものザールブルグとは少し勝手が違う。
「これかい? これは猫だよ。猫のブローチ。かわいいだろ?」
 木彫りの猫の両目にガラス玉が入った、丸みをおびて掌になじみそうなフォルムのブローチを渡され、目をきらきらと輝かせているフロレットは、採取先で『いいもの見つけた!』 と喜ぶエリーと姿が被る。
「お買い上げになりますか?」
 気を利かせたつもりでダグラスが尋ねると、フロレットは一瞬考え込むような様子をして、それから目に宿した光を急に曇らせた。
「いいえ……ごめんなさい。買えないわ」
 戸惑うようにブローチを返す。
「なんだよ、冷やかしかよ」
「ごめんなさい」
 フロレットは急にそっけなくなった店主の言葉に驚いたように足を引き、身を返そうとしてダグラスにぶつかった。ごつん、と鈍い音がしたのはその滑らかな額をダグラスの鎧にぶつけたせいで、フロレットはそのままバランスを崩してダグラスの腕の中に倒れ込みそうになる。
「失礼」
 しかしダグラスは短く言うと、彼女の両肩に手を置き、その華奢な体を軽々と起こした。
「………!」
 ぱっと顔を上げたフロレットの青白い頬が、薔薇色に染まる。
 きっと男に触れられたことすらないんだろう、とダグラスは察してすぐに手を離し、もう一度言った。
「失礼しました」
 これがエリーだったなら。
 支えられたことすら気づかずに、さっさと次の材料を探しに走って行ってしまうだろうと思いながら。
 フロレットは、しゃんと背筋を伸ばし直して、いいえ、と小さく答え、再び雑踏に足を踏み出そうとする。
 護衛のダグラスはその先を行こうと、踵を返した。
 が。
「きゃっ…!」
 短い悲鳴と共に、男がフロレットの肩に肩をぶつける様にして走り去った。
 途端にダグラスの目の色が変わる。腰を地面に落としてしまったフロレットを見遣れば、案の定、先程までしていたブレスレットが見えなくなっている。
「アロイス、ここを頼む!」
 ダグラスはすれ違った男の背中を追い走り出した。



 駆け去ったダグラスの後ろ姿をやや呆然と見送っていたフロレットを抱き起したのは、アロイスだった。
「ここは安全とは言えません。隊長が戻られる間だけでも、馬車に戻りましょう」
「え……ええ」
 が、アロイスは彼女が健康な左足までひねって動けなくなっていることを知る。
 この数日行動を共にして、この華奢な若い女性が、どういうわけかあのぶっきらぼうな小隊長に恋か愛か憧れか……どの程度かは分からないが抱いているらしいということ位は十分察している。察していないのは当のダグラス本人くらいのものだ。
 大体今だって、スリを追うくらいアロイスにもできる事なのに、命令もせず自ら追いかけて行ったのは、貴族の護衛という仕事に飽きて、体を動かしたかったからに違いない。
 だから、彼女を横抱きに抱き上げるとき、アロイスは言った。
「ダグラス隊長ではなく、大変申し訳ありませんが、少しの間だけ私を隊長と思ってください。少なくとも、鎧は似てますからね。私のほうが少々地味ですが」
 フロレットはその言葉に驚いた顔をして、次に頬を真っ赤に染めた。
── やれやれ。気づかれていないと思うほうも、思うほうだな。
 それでもアロイスのおどけた口調にやがて少しだけ笑って、フロレットはアロイスの促すとおりにその首筋に腕を回し体を預けた。
 そして馬車に戻ったものの、ダグラスは掏りを捕まえ次第、王宮に戻ってくる筈だと言うアロイスの言葉に、フロレットは頑として馬車で待つと譲らない。
── 気の強い子は好みじゃないんだけどな……。
 同じく馬車に乗りこみ、フロレットと向き合うように座って、その様子を失礼でない程度に眺めた。
 いつもダグラスの背中越しにしか見てこなかった相手だが、亜麻色の髪は柔らかく、深みのある蒼灰の瞳によく似合って、こうしてみると決して悪くはない。
 その青白すぎる肌を除けば。
 多分、屋敷からほとんど出たことがないのだろう。いわゆる箱入り娘と言うやつだ。しかも、リュトガース卿と言えば王の傍系親族にあたる。十分な大貴族だ。足が悪くなくとも自由に出歩くことはできないに違いない。
── 隊長はさっぱり気づいていないようだが……。
 この護衛は見合いのようなものだ。わかっていないのは本人ばかりで、きっとエンデルク隊長も王も知っての事だろう。
 アロイスは年下の上司の最近の噂をもう一度思い起こして、それがかねてから宮中での勢力を伸ばしたいと考えていたリュトガース卿に伝わったのだろうことを予測する。
 ダグラスは貴族でもなければザールブルグの出身者でもない。ただの腕の立つ騎士の一人だ。通常ならば貴族の娘の相手には数えられない。けれど、とアロイスは彼女の足元をちらりと見た。
「気になりますか?」
 突然言われて、アロイスはいつの間にかこちらを向いていたフロレットと目が合った。
「何がです?」
 常の癖でやんわりと微笑み、アロイスは少女に向き直った。だが百戦錬磨の笑顔は少女に通用しなかったらしく、彼女はダグラスには決して見せない冷たい表情でアロイスを見返して短く言った。
「この、足です」
そして続ける。「生まれつきです。棒のように細かったでしょう? これでも、ずいぶん良くなったのですが」
 確かに抱き上げた時に、違和感があった。同じ年頃の女ではありえないほど軽く、肉付きが甘く、どこどなく……病人の匂いがする。
 黙っているアロイスに、フロレットは独り言のように言った。
「ダグラス様は、あなたのようには私の足をご覧になりませんでした。お医者様のように……と言ったらおかしいですけれど、どこがどう悪いのか、どれくらい歩けるのかとお聞きになっただけで、視線を外すふりをして眺めるような真似はされませんでしたわ」
 そこまで言われてアロイスの頬にも血が上る。無論、騎士としての態度ではなかったと気づかされたせいだ。
「……申し訳ない」
 一回りほども年の離れたこの相手にに、本気で謝る。
 すると彼女は驚いた顔をして、それから今度は恐縮したように眉を落とし、ためらったように言った。
「あなたは、キルシュタイン家の方とお聞きしていました」
 そういわれて、アロイスは形のいい眉をあげる。
「貴族らしからぬ放蕩息子ですけどね」
 女遊びの激しい三男坊は、家を飛び出してもう10年になる。騎士隊に入って貴族の暮らしもとっくに忘れたはずなのに、ただ女の足を眺めたその仕草に、昔身につけてしまった嫌な癖を見つけられた気がして苦虫を噛み潰した。
「いいえ、あなたは立派な方なのでしょう。ダグラス様はあなたを信頼されているようです」
 何事もダグラスが基準らしい返答に、アロイスは今さっきは大人びて見えた相手の幼さを知る。
「そうですかね。隊長はいい男ですが、いざとなれば私はあの人を騙すくらい訳ないですよ」
 一度信頼した相手が裏切るなど、絶対に思いつかないに違いない。
「まさか」
17歳の少女は短く言って、アロイスをじっと見つめる。「……まさか」
 いたたまれなくなって、アロイスは掌を彼女に向けた。
「でもそういう貴族らしいことはもうとっくにやめました」
 アロイスのおどけたような返答に、フロレットは驚いたように目を丸くすると、思いがけず笑った。その笑顔はなかなか良いと思う。ダグラスの前でするような、どこか窺うような微笑みではなく、彼女自身の……。
 と、同時にダグラスが夢中になっている錬金術師の少女の事を想いだし、微笑み返そうとした唇がそのままになる。
 健康な体も、あけすけのない性格も、生まれも育ちも生活も、何もかもが目の前のこの少女とはちがう。
 今は確かに喧嘩をしているようだが、あのダグラスが他になびくとも思えない。
「……ダグラス隊長の、どこがそんなにいいんですかね?」
 アロイスは半ば本気で彼女に尋ねた。
 すると、フロレットは急に頬を染めて俯く。
「そういうことを、騎士たるものが聞くのですか?」
「私にはゴシップ好きの貴族の血も流れてますので」
 フロレットはためらって、それから、話しだした。本当は誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「まず……何よりお強いところですわ。昨年の武闘大会で初めて拝見しました。その……とても、素敵で。私、お父様にお願いして絵姿をいただきました。とても良く描けていて、こうして本物に会っても、まるでご本人とそっくりです」
「絵姿、ですか」
それでダグラスにお鉢が回ってきたのかと、アロイスは思わず苦笑しそうになりながら、そっと口元を隠した。「それから?」
 促せば、フロレットは亜麻色の髪に手をやって、何度か撫でた。
「それから……それから、そうですわね、実際会ってみて思ったことは……」
「思ったことは?」
 我ながら意地悪だと思いながら、アロイスは更に促す。絵姿と本物では、何もかも違うだろう。年頃の娘だ、勝手な想像でダグラスを理想の王子にしているに違いない。本当のダグラスはと言えば、隊長として動いているときは非常にそれらしいが、普段の隊員に混じれば年下の部類で、からかわれもするし、下品な冗談も好んで口にする。
「心も、お強い方なのかと……」
「心?」
「まっすぐに、目を逸らさず私を見て……厭味がなくて……」
 それがこの女性には一番大事な事なのだ、とアロイスは気づく。
 それで、柄にもないことをした自分を、そっと責めた。



- continue -




2013.01.28.




フロレットは、ルノワールのイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢がモデル。もう少し大人ですが。

蒼太
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