子供に戻りたい! -3-

  

 ダイニングの床にぺったりと座り、チチがトランプを切る。
「おっ父、おっ父の番だべ」
 差し出されたチチの小さな手から、牛魔王の指がカードを一枚引き抜く。
 夕食の後での、ささやかな楽しみ。
 小さくなったチチは、楽しみにしていた連ドラにチャンネルを合わせるどころか、テレビには見向きもせず。
 一体どこから引っ張りだしてきたものか、もう一時間も延々とババ抜きをやっているのである。
 そして悟空は10戦中1勝9敗。
 現実の世界での戦いと比べたら、まったく信じがたい戦績だ。
「きゃぁ! また悟空さの負けだな!!」
 コロコロと笑い、チチは空になった掌をパチパチと打って、はしゃいだ。
 悟空は眉根を寄せ、なぜ自分がいつも負けるのかさっぱり分からないと言うように首をかしげる。ちょっぴりだけ目立つように出されたジョーカーを、素直に引いてしまうのがいけないのだということに、まったく気付いていないのだ。
「まぁ今日はごんぐらいにしどいでやれや、チチ。悟空さが頭から湯気だしちまうぞ」
 牛魔王は、腕を組んで真剣に考え出した悟空を見てカラカラと笑い、膝の傍に座ったチチの頭をポンと叩いた。
「えぇ〜? おらもうちょっと起きててぇだ……」
「明日はブルマさが来るって言っでだだぞ。早く眠らねば朝起きれねぇべ」
「ブルマさ……」
チチは何かを思い出しかけたが、首を振り、悟空を振り返った「悟空さ、もう一回やろ」
 だが悟空がそれに答える前に、牛魔王は腕を伸ばしてチチの体を膝の上に抱き上げる。
「おめえは楽しぐったっで、ほれ悟空さみてみれ、困ってるべ」
「うぅ…ん……」
チチは渋い顔をして、それから肩を落とした。「んだな。未来の旦那さまを困らすわけにはいかねぇだ」
 その言葉に牛魔王は嬉々とした顔で笑い、悟空に向って言った。
「んだば、悟空さ、オラごれで帰ぇっがら。いや今日は楽しがった」
「へっ…?」
その言葉に驚いた様子を見せたのは、チチのほうだ。「おっ父、どっか行っちまうのけ?」
 きゅっとつりズボンのベルトに手を掛けて、チチは牛魔王を見上げた。
「そりゃそうだべ」
「………」
 チチは父の顔を見上げ、それから迷うように悟空の顔を見た。
「チチ?」
悟空はその微妙な気配に気付いてトランプから顔を上げ、尋ねた。「具合ぇでも悪ぃのか?」
 彼女は眉根を寄せて額に指先を当てている。
「う……ううん。大丈夫」
「夜更かしで疲れちまったんだべ。ほれ、もう9時過ぎるどこだ」
 壁にかけられた時計を見上げて、牛魔王が至極健康的な台詞をつぶやき、そして腰を上げた。ところが。
「お、おっ父! 帰らねぇで!」
 チチはなぜかひどく切羽詰った声で牛魔王の服裾にしがみつく。悟空はびっくりした様子でその様子を眺めていたが、牛魔王はそれを甘えているのだと取ったらしく、相好を崩してチチを腕に抱き上げ、悟空に言った。
「こりゃ帰れなぐなっちまっただなぁ。今日はこっぢに泊めて貰っでもいいが、悟空さ?」
「かまわねぇけど」
 答えながら、牛魔王に軽々抱えられたチチがちらっとこちらを見て、また牛魔王の肩に顔をうずめてしまうのがちょっと、いやだと思った。


 リビングに、布団を3組引いて、漸く大柄な牛魔王が収まり、隣にちょこんとチチが座っている。
「……なぁ、おっ父」
 悟空が寝室に行ってしまい、二人きりになった。
 チチは髪をとかしながら、父親を見上げて、先ほどと同じ様に眉根を寄せた。
「どうしたチチ。まさか本当に頭でも痛えんではねぇべな?」
「ううぅん……でもなんだか頭がぐるぐるするだよ」
 チチは櫛を握ったまま、ぱふっと布団の上に身を投げた。
「頭がぐるぐる?」
「……なんだか、色々な事を思い出して……でも、そんなはずがねぇと思うのに……」
 牛魔王は手を伸ばし、チチの体に布団をかけた。
「頭悩ましたりしねぇで、寝ちまえ。朝起きたらすっかりなんもかも、いい風になっでるさ」
 チチは目を上げ、牛魔王の笑顔をじっと見つめると、それからゆっくり頷き目を閉じた。



 深夜。
 悟空はふと目を覚まして窓の外を見上げた。夕べが新月だったから、まだ星明りだけの空が、山の端から中天へと続いている。
 体を目いっぱい伸ばしても、寝返りを何度打っても、指先に触れるものはない。
 一人だけだと広いベッド。時計の音がやけに耳付く。
『悟空さなんて、だ〜いっキライだべ!!』
 何十年も一緒に居て、チチが些細な事から家を飛び出したことが、何度あっただろう。悟空はその度彼女がなぜそんなにも怒るのか分からなくて、はじめの頃など追いかけることもなくて、翌日むっとした顔をしてチチが戻ってくるまで、ぼんやり家で待っていた。
『どーして、どーして、探しに来てくれねぇだよ!』
 どこで何をしてきたのか、くもの巣だらけになったチチが玄関先に現れ、突っかかってきて初めて、追いかけなければならなかったのだと知った。
『だっておめぇオラの事キライだって』
『ばかっ!!』
 それからチチは悟空の腕の中でわんわん泣いて、いつの間にか二人ベッドの中にいた。
 一人で寝るのは久しぶりだ。
 そして、家の中にチチがいるのに一緒に床についていないなんてことも、初めてかもしれない。
 悟空はむっくり起き上がり、ベッドから飛び降りた。
 足音を忍ばせて台所に向かう。夜中に目を覚ましてしまうなんてめったにありえなかったし、水でも飲めば気も落ち着くだろうかと思ったのだ。
「……くぅ……すぅ……」
「んごー、ごー…」
 牛魔王とチチの寝息が聞こえて、途中で足を止める。
 そっと布団に近づき、闇に慣れた目でチチを見下ろした。
「……ん……」
 小さいチチ。
 何にも覚えていない、チチ。
「………悟空…さ…?」
 気配に気付いたのか、チチが目を開けた。悟空は何も言わなかったが、チチは体を起こして布団から出てきた。
「チチ、外行くか?」
「うん……」

 牛魔王が寝ている傍をそっと歩いて、玄関をでる。
 外は星の夜だった。
 川面に星明りが映り、悟空とチチは川辺に生えた深い草の上に腰を下ろした。
 さらさらと静かに水が流れる。
―― 夢だべか……。
 悟空は隣で胡坐をかいて、やっぱり何も言わないし。
 そして脳裏を幾つもの記憶がよぎる。
「悟空さ…蛍」
 川面に映る星影の内いくつかが消えては灯りしているのに気付いて、チチは腕を上げ川面を指差した。
「ん、そうだな」
「綺麗だなぁ……」
 良く梳かした黒髪が、悟空の肩に寄せられ、軽く体重がかけられる。
 頬の感触が、チチの微笑を悟空に伝えており、悟空は体の力を抜いた。
 けれども。
 熱い何かが肩に感じられ、悟空はぎょっとチチの横顔を見下ろした。
「チチ…なんで泣いてんだ……?」
「分かんねぇ……分かんねぇけど、さっきから色んなことが思い浮かぶだよ」
チチは手を伸ばし、悟空の腕に腕を絡めて、言った。「悟空さ…おら、怖い……」
 怖いって、何が? と答える前に、チチはもっと強く悟空の腕にしがみついた。
「これは夢なのに……悟空さ。おらは今、11歳のはずで、悟空とは久しぶりに会ったばかりのはずで……夢の中の出来事のはずなのに……。おらさっきから色んな事を思い出す。悟空さと結婚して、悟空さと暮らして、悟空さの子供を生んで」
 秒針が巻き戻されていく。
「チチ……」
 泣きながら震えるチチの体を抱きとめる。
「怖い……悟空さ」
―― おらの中に今、何も知らないおらと、大きくなったおらがいる。
 小さいおらは、悟空さに会いたくて会いたくて。
 大きなおらは、ずっと悟空さと一緒に居たいと思っている。
「悟空さが、死んじゃう……もっと何年か先に、おらが大きくなったら。おらはそんなの嫌。嫌だ」
 それは未来の事ではなく、過去の事なのだけれど。
「あれもこれも夢なのけ? 悟空さ。おらを置いてかないでけれ。これが夢なら……!」
その瞳には、小さいチチがいる。だがこれが夢ではないともう分かっている大きなチチの影もちらついている。「悟空さ…!」

 悲しい想いをさせないで。
 少女の頃夢見たように、ずっと傍にいて。

「……チチ…」
 悟空が生き返ったとき、死んでしまったとき。
 チチは泣いて、怒って。
 それから諦めた様に肩の力を抜いた。
『悟空さはいつまでもどこまでも悟空さなんだな……。はぁ。それならもう、仕方ねぇ』
『普通の人なら生き返るなんてことできなかったんだもの。おら神様に感謝しなければ』
 でもそれは、大人になったチチの、考え方で。
 子供のチチは、奇麗事も、自分を納得させる術も知らない。
 だからこれはチチの、本当のキモチ。
 抱きついてきたチチの温かな体を、悟空ははじめそっと、それからもっと強く抱きしめた。小さくなってしまった事で短くなった腕で。
 それから、耳元でささやくように尋ねた。
「なぁチチ。思い出すのは怖い事だけか?」
びくり、とその言葉に顔を上げたチチに向かい、悟空はニッと笑って見せた。「そうじゃねぇだろ?」
 悲しい事が一個あったとしたら、楽しかった事も幸せだった事も、その10倍も100倍もあった。
 涙がいっぱいたまった瞳で、チチは悟空を見、それから深く大きくため息をついて、悟空の腕から体を起こした。
 頬には笑顔が浮かび、指先で涙をぬぐうと、それはもういつものチチだった。
「………うん…」
「な。」
 悟空はチチの頬に残った涙の筋を、ごしごしとこすり、こすれたチチの頬は赤くなる。

 思い出す沢山の、チチが悟空にくれた幸せ。それを覚えていないチチは、半分はチチだけれど、やっぱり半分はチチじゃない。
 チチだからいいけど、今の悟空に今のチチは物足りなかった。
 12歳のときの悟空には、11歳の時のチチ。
 18歳の悟空には、17歳のチチ。
 45歳になれば……それと同じだけ一緒に暮らしてきたチチが悟空には必要で。

 悟空は今初めて、小さいチチ……悟空の事を良く知らないチチを不安に思っていた自分に気付いた。
 外見などどうでもよくて。
 だから今は、久しぶりに安心してチチに笑いかける事ができる。

 悟空は手を差し出し、立ち上がって言った。
「冷えてきた。中に入ろうぜ」
 蛍飛ぶ星空の下、チチはそっと頷いて立ち上がり、その手をとる。
 小さい二つの掌が重なって、温かだった。




 翌日。
 一体どんなことになっているかと興味津々の顔でやってきたブルマや、おそるおそるの体の悟飯とビーデルの前には、すっかり元の姿に戻り、台所で中華なべを振るっているチチと、食卓に着いた牛魔王と悟空の姿があった。
 それはまったく日常と変わりなく、振り返ったチチが
「あんれー! いきなし何だってんだ。こんなにいっぺんに人が増えたら、支度がまにあわねぇべよ」
 などといったのまで、ごく当たり前の風景だった。
「チチさん、小さくならなかったの?」
 促され、ちゃっかり食卓に座ったブルマが尋ね、悟飯はそんなはずはないと首を振る。
「うーん、薬の効き目が弱かったのかしらね。なんせ5.6年前に作ったやつだったし」
 首をかしげるが、悟空は出された飯をかっ込むばかりで返事などしやしないし、牛魔王はなんだかガッカリした様子で
「こんなに早ぐ元にもどっぢまうんだったら、もっと一緒にいだらよがったべ」
 などとつぶやいている。
「いつごろ元に戻っちゃったわけ?」
 ビーデルはチチの手伝いをするために台所に立ち、チチと一緒に増えた3人分の朝食の支度を始めていて、ブルマはいつもどおりのその光景を、テーブルに肘を着いて眺めながら言った。
「さぁなぁ。夕べはオラと一緒に寝たがよ、起きだらもう悟空さと一緒の部屋に戻って寝でだみてえだがらな」
「なぁんだ…それじゃデータも取れないわ」
 ガッカリした様子のブルマの隣で、悟飯は首をかしげた。
「でも、お母さんはこれで元気になった……のかなぁ」
 悟空が小さくなってからのチチの気落ちした様子が、今は見られない。だからこの数日間の事が彼女に何らかの影響を及ぼしたには違いないのだが、それを悟空に尋ねてもきっと答えは返ってこないだろう。
「……まぁ、いいか」
 悟飯は孫家の男性陣そのものの諦め方をして。
 ビーデルとチチが運んできた大量の朝食に目を輝かせた。

 それはもう、その場にいなかった悟天が後で悔しがるような。
 とても豪華な朝食だったのだという話である。


<終わり>

イメージソングは『タイム・アフター・タイム』
のごく一部の歌詞でした。
蛍の夜とチチの素直な気持ちを書きたかったです。

2003.04.25.

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