子供に戻りたい! -2-

  

 次の日。
 悟空は腹が減って起き出した。いつもならいい匂いが漂いはじめているはずの時間なのに、チチは大きなベッドの中でまだ小さく丸まったまま。
「何か食うもんねえかなぁ……」
 台所で冷蔵庫の中を漁ろう、とそちらに向かう途中で電話が鳴った。
 悟空がぴょいと飛び上がって受話器を取ると、相手は、悟飯たちから事情を聞いた牛魔王だった。
『チチが子供になっちまったんだって?』
 どこかわくわくしたような声。腹をすかせた悟空が上の空で相槌を打っていると、牛魔王はやきもきした声ですぐこちらに向かうといって電話を切った。勿論、悟空の食料も持ってくるとも約束した。
 受話器を置き、改めてぐぅ…と腹を鳴らし、台所へ向かおうとした悟空の後ろでそのとき、軽い足音が聞こえた。
「悟空さ?」
 目をこすりながら、チチが立っていた。昨日の黄色いワンピースは、しわくちゃになり後ろの裾が上がってしまっている。眠り込んだ彼女を、悟空がそのままベッドに放り込んだから。
「おう」
 短く答えた悟空をまじまじと見て、それからチチは見慣れぬ室内をぐるりと見回した。
「……おら、まだ夢みてんのかなぁ……」
眉をひそめ、だがチチは、流石にこれは違うと気付いたようだった。「いいや、やっぱし違うべ! これが夢であるはずねえ!」
 というが早いか悟空の傍にきて、いきなり悟空のふっくらしたほっぺたを、ぎゅうッと抓った。勿論痛い。悟空が悲鳴を上げると、チチは確信を得たとばかりに大きく頷いて、こぶしを固めた。
「ぜってえ夢じゃねえ! と言うことは……と、言うことは……?? 一体どういうことなんだべ?」
 首をかしげる。
 と、悟空が頬をさすりながら、言った。
「なあ、チチ。なんか作ってくれよ。オラ腹減った」
「へ? 腹へってんのけ、悟空さ」
ここは台所。チチは背伸びしてテーブルの上や流しの様子を確かめる。「おらたちのほかここには誰もいねえのけ? …勝手に台所使ってもいいんなら、おら、作ってあげられるけど」
「誰もいねえよ」
正確に言うなら、悟天は一緒に住んでいるが、今は居ない。「だってここはオラたちの家なんだから。それにここはおめえの台所だろ」
「へっ!?」
チチは心底驚いて悟空の顔を見た。抓った頬が痛いのか、悟空は赤くなった頬を抑えているが、チチの顔も負けず劣らず真っ赤になった。「お、おらたちの家?」
「そうさ。当たりめえだろ」
 記憶をなくしたチチに当たり前も何もないのだが、悟空はそんなことにはこだわらないのだ。
「この家が? ……おら、自分のほっぺた抓ってみるべきかな…でも、ホントにこれがまだ夢だったら、覚めちまったら勿体ねえもんな……」
ぶつぶつとつぶやき、それから、意を決したようにエプロンドレスの袖をまくった。「まっててけれ、悟空さ。すぐに朝飯にしてやっから」
 どうやら、考えるのは一旦放棄したらしい。
 チチは背伸びして大きな冷蔵庫の扉をあけ、体の半分もあろうかと言う中華なべを持ち上げようとして……その重さに唸る。
「夢なのに、この家おらのサイズには合わねぇみてえだ」
 椅子を引っ張って来てやっとこ鍋を火にかけ、かまどの様子を見る。
 いくら小さくなったからといっても、11歳かそこらだろう。この年でこの手際ならなかなかのものだ。でも、今のチチは、丁度悟空と会ったばかりのチチだったのか、テーブルの上に出来上がったのは、目玉焼きと、うず高く積み上げられた食パンとコーヒーだけ。
「さあ、召し上がってけろ」
 ニコっと笑ってチチは悟空の対面に座った。テーブルも椅子も体に合わなくて、二人はまるでおままごとをする子供のように見えた。
 悟空は、いただきます、と言うや否や手を伸ばし、パンの山をどんどん平らげていく。チチはそんな悟空の前で、恥ずかしげに小さく口をあけ、お上品にパンをかじり、悟空と目が合うたびに、照れたように笑った。
「こうしてるとなんだかおら達、夫婦みてえだな」
 もじもじしながら頬を染め、チチは言った台詞に、悟空はなんとも答えられず、パンを口に咥えたまま、ぽり…と頬をかいた。
「悟空さ、ご飯食べたらお外に遊びに行こ」
 まだ朝早い。太陽が昇りきる前に森へ行けば涼しいべ……とチチは言いかけて、はて、と首をかしげる。
 なんで、森があることを知っているのか。
 なんで、森の様子が目に浮かぶのだろう。
「そんなら、暑くなる前に行こうぜ」
最後の一切れを口に放り込み、悟空はパンの粉を手から叩くと、椅子からぴょいと飛び降りた。
「うん!」
 チチはお行儀良く口元を拭き、そして悟空に習い、椅子を飛び降りて、「変だなぁ。この皿も鍋も、これまでに何度も洗ったことあるみてえだ。なんでだべ……おら、なんか所帯じみてるみてぇ。まだ11だってのに」などとつぶやきながらきちんと後片付けをしてのけた。
 と、そのときだった。
「おーい!!」
玄関の向こうで、太く低い声がした。「オラがきだぞー! あげでけれや」
 牛魔王の声だ。思ったよりもずっとずっと早い到着。悟飯が生まれたときに奮発して買ったジェットフライヤーでかっ飛んできたのだろう。
「あれ? おっ父まで……おっ父、だよな?」
 声を聞きつけ、リビングに出てきたチチは、悟空に出迎えられ家に入ってきた牛魔王を見上げて不思議そうに首をかしげた。
 角つきヘルメットは? 皮のチョッキは? 遠眼鏡は?
 一方、小さくなったチチを一目見た牛魔王は、感極まった様子で一声叫ぶと彼女を両脇から抱き上げた。
「ホントだべ! チチ、こんなにちっこくなっちまって!」
「ひゃぁ!」
 眼鏡の奥の優しそうな目やら、でっかい手、それに笑い顔もおっ父だけど。
 チチはぶるぶるっと震えて、下から彼女を仰ぎ見ている悟空に向かって叫んだ。
「悟空さ! おっ父がじいちゃんになっちまった!!」
 髪に白いものが混じり、目元には皺が深い。だが牛魔王は気にも留めない。
「いや、めんこい、めんこい! 悟空さもちっこいし、思い出すなぁ、何十年も昔になっちまったころのことをよ」
「何十年も……昔?」
 狐につままれたような顔をしたチチは、大喜びする牛魔王に振り回されて目を白黒させた。



「遊びに行って来るだ〜!」
 玄関先で二人を見送る牛魔王に向かって、これも何とか自分の中でけりをつけたらしいチチは、振り返り手を振った。
 彼女は、可愛らしいけれど動きにくかったエプロンドレスから、牛魔王が嬉々として持ってきた、あのピンク色のビキニに着替えていた。11にしてはひどく子供子供した、むっちりと肉付きの良い手足が覗いている。
 その肩からかけられた白いマントの向こうで、悟空が如意棒を肩に担ぎ、チチが後についてくるのを待っていた。チチは牛魔王が手を振り返すのを見てから、それで安心したように、先にいった悟空の後に走って追いついた。
 別に行く当てはない。当てはなくても遊びはいくらでもある。二人は牛魔王が悟空にと持ってきた弁当をそのまま持って来ていたし、夕暮れ時まで十分に遊んでいられるはずだった。
 山あいの家をでて、なだらかな草原を抜け、もっともっと東へ行くと森の入り口。
 秋近く、まだお昼前とはいえ、流石に蒸し暑かった森の外と比べて、こちらは静かで涼しい。
 森の奥まで入るとそこには野恐竜が沢山いるので、悟空とチチは森と草原を分ける小川まで行って、そこから引き返すことにした。チチは向こう岸に見える森の様子をぼんやりと眺めて、やはり見たことがある気がすると首をかしげいたが、悟空には何も言わなかった。
「チチ、疲れたか?」
 家から一時間近く。子供のチチには結構な道のりだったはずだ。
「平気だだよ」
川辺に座り、掌から水を飲むと、チチは悟空を振り返って額の汗をぬぐった。「んでも、暑いなぁ……」
 それからチチは透明な水面を覗き込み、ピンクの手袋を外すともっと奥まで腕を浸そうと身を乗り出した。深い森から流れ出てくる川の水は冷たくて、少し寒いくらいだけれど、気持ちがいい。
 じっとしていると、手のすぐ脇を魚がスイと泳ぎ抜けていった。木漏れ日が魚の鱗を金色に輝かせてとても美しかったので、チチは思わず身を乗り出した。
「ほら、ほら悟空さ」
 チチに言われて悟空も一緒に手を浸した。
「ひゃぁ、ちめてー! うー、ブルブル…」
 あまりの水の冷たさに頭の先から足の先までしびれさせた悟空にチチは大笑いし、水から手を引き上げた悟空は頬を掻いた。

 そして。
 日向でお弁当を食べたり、その辺りで遊びまわったり、昼寝をしたりでゆっくりと過ごしたその日も、そろそろ夕暮れ。
  家までもう少しの南の野原は、小さな二人の足首まで隠すほどの草が一面に生えている。チチは時々何かを見つけては立ち止まったり座り込んだりし、悟空はだまってついていく。と、チチが空を指差した。
「あっ、悟空さ! とんぼ!!」
オレンジ色に染まった空に、一匹。よく見ればもう一匹、さらにさらに、沢山のとんぼの群れ。「わ〜…」
 目を丸くして空を見上げるチチの横顔は、小さい頃の悟飯にとてもよく似ている。悟空は背中から如意棒を引き抜くと、空に掲げた。
 一匹が迷うように傍をかすめ、それから、一匹がト…とその先に止まる。
「悟空さってば凄ぇべ! まるで魔法使いみたいだべ」


『凄いや、お父さんは魔法が使えるの!?』
あの時悟飯は、チチが買い与えた昆虫図鑑を小脇に抱えて、悟空を尊敬のまなざしで見上げた。『だってね、トンボって凄く飛ぶのが早いんだよ。ジェットフライヤーよりかちょこっと遅いくらいなんだよ。捕まえるの大変なんだって書いてあったもん。』
 悟空は腰に手を当てて、ちょっと考えると悟飯の前に座り、目線をあわせた。
『いっくら早く飛んだって、休むによさそうなところがあったなら、そこで居眠りしてぇだろ』


 如意棒をするすると手の中に収めると、4枚の羽をあわせて持ち、チチの手のなかに入れてやる。
「くすぐってえだ」
 ふふふ、とチチは笑って、すぐに手を開く。パリリ…と羽音をさせて、一瞬ホバリングをすると、トンボは空に戻っていった。
 それでもチチは十分満足そうに笑っていた。
 悟空は、なんだか色々と思い出して。

 今は自分より少し背の高い、チチの小さな手を引いて、牛魔王が待っているはずの家路についた。

 

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