でんぐり返し

  

 窓の外から鳥の声が聞こえ始めた。白い光も差し込み始めている。
「はぁ…もう朝なのけ……?」
チチが漸く目を開けちらりと枕もとの時計を見上げると、時刻はもう午前5時を回っていた。「いい加減に起きねぇと……」
 一月ほど前から、息子の悟飯は幼稚園に通い始めた。8時までに大喰らいの旦那と息子、それから自分のためのささやかな朝食をつくり終え、食べさせて送りださなければ、東の森の向こうにある、『アタマヨカバイ学園』幼年部の始業時間に間に合わない。このアタマヨカバイ学園は、『お子様の最も大切な時期を大切にお預かりしその可能性を余すところなくのびのびと育て、その限りない可能性を云々……』という方針に基づいて創設された、東地区で最も有名な私立幼稚園である。
 だがアタマヨカバイ学園はこの家から20公里も離れた場所に建っていた。
 だからもう起きなければと思うのに、体がだるい。まぶたはくっつき引き上げられず、腕にも力が篭らない。
―― ここんとこしばらく、寝不足気味だったからだべか?
 薄目を開けて隣を見ると、天真爛漫悩みゼロの顔つきで、寝不足の原因である悟空がぐうぐう眠っていた。それを見ていたら、どういう訳だがいつもと違って頭がいらいら、胸がむかむかし始めて、チチは思わずその頬っぺたをつねってやりたくなった。
 むに。
 むににに。
 良く伸びる。
 伸縮率135.3%と言うところか。だが悟空は目を覚まさず、チチはぐったりと枕に顔をうずめ、呻いた。
「ううぅん……」
 すると、その小さな声を聞きつけた悟空が、ふっと目を覚まし、チチの様子に気付いて体を起こした。
「あれ? チチ、どうした?」
「ん……」
 時期は6月の半ば。チチは夕べの名残で体にシーツを巻きつけただけの格好である。
 寝返りを打つと露になった背中の骨がくっと浮き上がって、黒髪と共に陰影を投げた。
「チ〜チ、チチってばよ」
 肩に手をやり、揺らすとチチは眉をしかめて悟空を見上げ、
「今起きるだよ……。揺すらねぇでけれ…」
 それから幾度か咳き込んだ。
 悟空の顔色が少し変わり、彼はチチの額に額をくっつけて体温を確かめた。チチは黙ってされるがまま目を閉じている。
 ほんのり熱い額と吐息。悟空は小さく頷いて足元の布団を引き上げチチの体に掛けるとそのままベッドを出た。
「悟空さ?」
 悟空と自分の熱の違いに、自分が風邪を引き込んだと漸く気付いたチチだが、尚も起き上がろうとして動けず、布団の中から道着を身につける悟空の背中をびっくりした様に眺めた。
「ま、寝てろよ」
「でも、悟空さ……」
「心配ぇすんなって。悟飯の事ならオラに任しとけ」
 きゅ、と帯を結んで振り返り、にっと笑う。
―― 悟空さが? 悟飯ちゃんを?
 一抹の不安が過ぎる。だがチチは体の怠さと布団の温かみと、体のだるさに逆らいきれ無かった事、そそれからやっぱり、心のどこかがほっとしてしまったようで、あっという間に再びの眠りに落ちていった。


「おーい、悟飯っ 朝だぞ、朝っ!」
 カプセルハウスの二階に、4歳になった悟飯の一人部屋が出来た。悟空とチチだけが暮らしていたときには空部屋だった部屋は、天窓がしつらえられ屋根裏風に天井が低い。
 入り口で身を屈め、朝から高いテンションでやって来て自分を起こした父親の声に、悟飯は半分眠ったような顔で、目を擦りながら起き上がった。
「うぅん……あれ〜、お父さん?」
そこにいるのが悟空だけだと気付くと、悟飯は首をかしげてもぞもぞとベッドを降りた。「お母さんは?」
 怖い夢を見たりすると、階段を下り二人のベッドに潜り込んで来る事もまだまだあるがだが悟飯はこのささやかな広さを、悟飯なりに一人だけの部屋として嬉しく思っているらしく、チチが整えた左隅の机の上には虫籠を置き、右奥の本棚には牛魔王から貰った図鑑の類を、好きな順に並べて楽しんでいる。
「母さんは寝てる」
悟空は部屋に入って辺りを見回し、机の上に、チチが夕べのうちに用意していた悟飯の園服に目を留めてなるほどと頷いた。「今日はオラが幼稚園まで連れてってやっから」
「何で寝てるの? もう朝だよ。お寝坊したの?」
「うーん…」
服を手に取って試す返すしながら、悟空は困ったような顔をした。オレンジ色の靴下に黒い半ズボン。悟飯に無理やり着せつけて、頭から水色の園服をかぶせる。「母さんは具合が良くねぇんだ」
「えっ」
 ぱふっと襟から出された顔が不安そうな色を浮かべるのを見て、悟空は言い足す。
「ちっとだけな」
「ちょっとだけ? 大丈夫?」
「ああ、一日寝てたら治るさ」
 さ、支度は出来た。下に行って飯食おう。と悟空は悟飯を腕に抱き上げ階段を下りる。いつもならチチがもう温めているはずの台所にはまだ火の気が無く、ただきっちり片付いていた。
 子供用の高い椅子に悟飯を座らせ、さて、と悟空は辺りを見回した。
 皿洗いならまた話は別だが、何かを作る為に台所に立つなんてことは久しぶりすぎる。
「えっと…とりあえず何か探すか」
 そう言って棚を開け、冷蔵庫を探り、悟空は手に取ったものをポンポンとテーブルの上に投げ出し始めた。悟飯の視界があっという間に塞がれていく。
「お…おとうさ〜ん」
「ん〜?」
悟空は一応何か作る気らしく、悟飯の声に上の空で返事をしながらぶら下がっていた鍋を下ろして火にかけた。「何だこれ。た…た…たぁめりっく…? コショウみてぇなもんかな」
 野菜やら肉を切って炒めるだとか煮るだとかする前に、味付けをしようとしている父親の行動がどうも間違っているらしい事は、4歳になたばかりの悟飯にさえ分かる。煮込まれていく鍋と一緒に、悟飯の胸にも不安がふつふつと湧き上がってきた。
「ま、いっか。ここに置いてあるんなら食えるだろ」
 中蓋まで外して一本丸々投入。だが台所には食えない物だって存在するのだ。洗剤ではなく香辛料だっただけでもマシというものである。
 それから悟空は適当に野菜入れ缶詰を開け、他のビンからも適当に粉を降り注いで、後はパンを焼き、珈琲を淹れる。そちらはなかなかの手際だったが、悟飯としてはその間に煮えていく得体の知れないスープの事が気になって気になって仕方なかった。
 そしてとうとう、大皿に盛られたソレが目の前に置かれた。いつの間に入れたのか、魚の頭が丸ごと中に浮いている。
  ―― ど、どうしよう…。僕今日死んじゃうのかもしれない……。
 毎朝の楽しみが一瞬にして地獄と化した。お母さん……チチさえ元気でここに立っていてくれるなら、こんな目に遭わないで済むのに。
「よっし、食うか!」
 満面の笑顔で、悟空が席に着く。悟飯は震える手でスプーンを持ち、材料の内の何がどう反応したのかとろみが付いたスープを一掬いした。
「〜〜〜〜〜っ……」
 ぎゅっと目を閉じ、口に含む。
―― あ、あれ?
「……美味しい」
 びっくりした目で父親を見ると、迷いも躊躇いも無く既に一枚目の大皿を空けていた。
「ん? 美味ぇか?」
 どうやら香辛料その他諸々の基本的な量に対し、彼らの腹を満たすための質量が絶妙なバランスで折り合ったらしい。まさに奇跡の一品であった。
「うん!」
 次からの一口は笑顔でぱくつき始めた悟飯を見て、悟空はにこっと笑う。
「そっか。じゃ後でチチにも食わせてやっかな」
 事も無いように言う父親を、悟飯が尊敬のまなざしで見たのは言うまでも無い。



 寝室の扉を薄く開けると、チチは頭まで布団を被って眠っていた。
 小さな吐息が聞こえるのを確かめて、悟空は足元の悟飯を見下ろす。
「な? 平気そうだろ? 母さんはここんとこちっと頑張り過ぎて…」
何を頑張ったのかは少々省略である。「それに、最近暑くなってきたからって腹出して寝てたから、風邪引いちまったんだ」
「お腹出して寝ちゃダメって、お母さんいつも自分で言ってるのにね」
「ま、気ぃつけろって事だ」
 腹を出していた訳じゃなく、力尽きて裸のまんま寝てしまっただけなのだが、その辺はお子様への刺激が強すぎる。再び省略である。だが悟飯は悟空の言う事に納得し、また母親が苦しげでも無い事を確かめる事が出来て、ほっとしたようにきびすを返し、悟空の手に捕まって玄関に向かった。
 オレンジ色の帽子を自分で被り、紺色の靴は悟空が履かせ、あとは黄色い肩掛けバックを持てば準備完了…と思いきや。
「お父さん、あれも」
 上を指差し背伸びしながら悟飯が言った。見れば白い袋が丁度悟空の肩の辺りに引っかかっている。
「これか? 何入ってんだ?」
「ようちえんで体操するんだよ」
それで、中身が体操着だと分かった。「今日、でんぐり返しならうの。いってきまーす」
 聞こえはしないだろうが、奥のチチに一声、悟飯は表に駆け出した。
 扉を後ろ手に閉め、後を追う悟空は、悟飯がガレージのほうに行くのを見て、引き止めた。
「悟飯、そっちじゃねぇぞ」
「筋斗雲で行くの?」
 駆け戻ってくる悟飯を腕に抱き、悟空は首を横に振る。
「途中っからな。森を抜けたら」
 悟空の含み笑いを見て、どうやら何かいつもと違った事が起こるらしい事を悟飯は予感した。

 ズシン…ズシン…  ズシン…
 重い足音が辺りに響く。悟空と悟飯は緑の背中にクリーム色の腹をした恐竜の上に乗って、原始の森を闊歩していた。
「どうだ悟飯! 乗り心地いっだろ!?」
「う、う、うんっ」
 正直言って上下の揺れが激し過ぎ、うっかり気を抜くと舌を噛みそうな程だ。悟飯はぎゅっと悟空の背中に捕まって冷や汗をかいている。
「お父さん、このコどうしたの?」
「友達さ」
 『友達』の首に跨りった悟空は、竜の頭に生えた二本の角をがっちりと掴んで、歩く方向を微妙にコントロールしている。恐竜のほうは大変な力で首を上げさせられて、本来ならしっかり四肢を下ろして歩くはずの所、短い前足が浮き気味になっているからちょっぴり息苦しそうだ。
「お母さんは、森の恐竜は危ないから気をつけなさい、って言ってたよ」
「そっだな」
 アッサリとした答えが返ってくる。悟飯はちょっと不思議なものを見る目つきで父親の横顔を眺めると、辺りを見回し始めた。その頃になって漸く、悟飯は辺りの風景に目をやる余裕が出てきたのだ。
 うっそうと茂る背の高い木々には蔓が絡まり、見上げても小さな空しか見えないほどに深い。その空を連隊になった翼竜が翼の音を立てて飛んでいく。
 それから悟飯は、おそるおそる竜の背中に触れてみた。五角形のウロコが大小そろった緑の皮膚は、ごつごつしているけど、決して冷たくはなく、温い位だ。
 非日常と言うのはいつだって楽しい。恐竜に乗るなんて機会は、サーカスやふれあい動物園以外でやたらある事ではない。幾ら家の周りは自然で一杯とはいえ、鳥や昆虫や、動物にしか触った事が無かった悟飯は恐竜の歩き方に慣れて来るとだんだん嬉しくなってきて、幼稚園で習った歌を歌い始めた。
「♪ 青いお花がありました  赤いお花もありました  まぜたら葉っぱの緑色 ♪」
 ぴくっと恐竜の耳が後ろを向く。しっぽが悟飯の歌に合わせて揺れはじめる。
「♪ 緑は竜さんの背中いろ  緑はバッタの緑いろ  緑はかえるの緑いろ……♪」
 二人の乗ったそのドラゴン――東では良く見かける温厚な性格の竜で、イーストグリーン種に属する――の歩くスピードは結構速く、鼻先でシダを掻き分け掻き分けどんどん進みあっという間に森の半ば。
 森のこんな奥まで入ってきたのは初めてである。チチが送り迎えしてくれるときは水陸両用、高速移動可のホバーカーで高く飛び、上を抜けていってしまうし、悟空の筋斗雲のときだって同様だ。虫取りやらはいつも入り口近くの川の傍か家の周りだけだし、ここまで一人で来ようと思ったら、半日歩いたって辿りつけないに違いない。
―― お父さんはいつもここまで来てるのかな? 一人で来てるのかな? こんな大きなドラゴンとも友達だし、……凄いなぁ。
 そんなことを考えながら歌を歌い終わった悟飯が、その事について尋ねると、答えは
「なら今度一緒につれてきてやるよ。チチはおめぇのこと修行させんなって言うけど、遊ぶんなら構わねぇだろ」
 だった。悟飯が思うに、悟空はなぜだか、聞きたかった事とはちょっとズレた答えを返してくる事が多い気がする。何でだろう、僕の聞き方がヘンなのかな。と悟飯が首をかしげた時。
「ところで、『でんぐり何とか』って何だ? 悟飯」
 と、悟空が振り返らぬまま聞いてきて、悟飯は首をかしげた。
「わかんない。でも『でんぐり返し』だよ」
「ヘンな名前だな」
そして、半身を捻って悟飯を振り返り、子供ってやつもてぇへんだな、なんて心の中で思いつつも、ニッと笑って言った。「でも今日『おべんきょう』してくるんだろ? 帰ったらチチとオラに見せてくれよな」
 それを聞いた悟飯は、ひどく嬉しそうに笑って、もう一度しっかり、悟空の背中に掴まった。



「う…ん……」
 次に目が覚が覚めたとき、チチの意識は大分クリアになって、朝の頭の痛みも体のだるさも、かなり楽になっていた。
 窓の外に目をやり、驚く。
 たった数時間の寝坊をしただけのつもりだったのに、もう夕暮れの空になっているではないか。
「ご、悟飯ちゃんと悟空さは!?」
 食べるものも無く、腹を空かせ切っているに違いない。挙句外でブタの野焼きでもし始めていたりしたら、シャレにならない。
 ガバッと起き上がり慌てて髪を結び、着替えてリヴィングに走りこむ。それ位の事は十分出来るくらいに回復していた。
 だが、そこで見たのは。
「こうか? 悟飯」
「違うよお父さん。こうして…こうだよ、えいっ」
 帰り道は筋斗雲で一っ飛び。幼稚園から戻った悟空と悟飯で、でんぐり返しの練習をしていた。
 だが悟空は、でんぐり返しがどうしても「受身」になってしまって、うまくいかない。くるりとうまく体を丸めて上手に起き上がる悟飯と違って、上手く行きそうになっても思わず一回転半。転がって来た方向に背を向けて立ち上がるなんて無防備な事が出来ず、斜めに膝立ちになってしまうのだ。
「…っかしいなぁ。簡単そうに見えんのに……」
何十回目かの挑戦をしようとして、傍に立つチチの姿に気付いた。「おっ、チチ! 目ぇ覚めたか?」
「はぁ…二人とも何してるだ?」
 床に布団を敷いてまで、なにやら一生懸命やっている二人に、チチはぽかんとした顔で言った。てっきりこの世の終わり位の勢いで腹を減らして死に掛けているかとおもったのに。「ご飯はどうしただ? 食べたのけ?」
 孫家の夜は早い。その分夕食の時間も早い。午後の5時にはもうすっかり食べ終えているくらいだ。
「ああ、お前ぇの分もあっぞ」
 ちょいちょい、と台所を指差されて、チチは心底驚いた顔をした。
 一体どうやって。と覗いてみれば、ああ…。
 空けた缶詰は置きっぱなし、大きな鍋はかまどの上にそのまんまですっかり乾いているし、どういう基準で使ったのか、空になった色んな味のビンも散らかしっぱなしだった。
 でも。
 食卓にはきちんと、チチの分のスープがきちんとスプーンも添えて残されていた。
「食べないの? 美味しいよ?」
 後ろからそっとやってきた悟飯がチチの服裾を掴んで見上げて来たとき、チチの胸にはほわんと暖かい気持ちが広がって、とてもじっとしていられないような気持ちになって、思い切り良く悟飯を腕に抱き上げた。
 たった一年前は、もっと軽々抱き上げられた悟飯の体は、もうすっかり重みを増している。
「おらの分、残しておいてくれたのけ? ありがとな、悟飯ちゃん」
 日に日に、悟飯は大きくなり。
 そんな悟飯と、自分と、それから悟空がいる空間が、大切で大切で仕方がなくなる。
「悟空さが作ってくれたんだな」
 悟飯を抱いたままリヴィングに戻り尋ねると、悟空はああ、と短く頷いて、もう一度コロン、と転がった。だが、失敗。
 どうやって作ったのか、とか有難うとか、言いたい事や聞きたい事が沢山あったのだけれど。
「お父さんさっきからでんぐり返しできないんだ」
 腕の中で悟飯が言うのを聞いて、チチは微笑みながら悟空の傍に行き、悟飯をその腕に渡した。
 悟空は軽々悟飯を膝上に抱き、チチに尋ねる。
「お前ぇ、できっか? 『でんぐり返し』ってやつ」
 チチはわざと面白がっているような呆れたような顔をして見せ、逆に尋ね返す。
「悟空さはできねぇのけ? おら、得意中の得意だだよ」
 悟飯と悟空の目が期待を含んでチチを見上げる。チチはふふふと笑って敷かれた布団の脇に立ち、芝居がかって腕をまくって、表演の場に立った武道家のように掌と拳を合わせて一つお辞儀をして見せた。



 その後、見事に決められたチチのでんぐり返しを皮切りに、倒立前転やら後方回転、または華麗な連続技などの披露が、孫家のリヴィングで行われたのだという。
 無論その技を短時間で事も無く見につけた悟飯が、次の週幼稚園で行われた体操の時間、一躍人気者になったのは言うまでも無い。
 ただ、本人にはなぜそんな風に皆が騒ぐのかがさっぱり分からなかったそうだ。




「だって、僕ん家のお父さんとお母さん、もっと凄い事出来るから。」


<終わり> 

2003.06.23.

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