秋の味覚狩

  

「おーい、こっちだ」
なだらかに続く丘の向こうから声が聞こえた。続いてひょこりとのぞく小さな頭。
「あったのけ?」
息を弾ませ登り切った斜面の向こうに、広がる下草の野。明るく柔らかな秋の日差しに目を細めるチチの元に、悟飯が駆け寄ってきて腿にしがみつき、彼女を見上げてにっこりと微笑んだ。
「お母さん、早く! いーぱい生えてるよ、野いちご畑みたいになってるんだから」
いくらか興奮ぎみの悟飯の頭を、撫でて褒めてやる。
「そうけ、いい所見つけたな悟飯ちゃん。えれぇぞ」
 毎年、この時期になるとやってくる、南の野原。この野いちごの群れを見つけたのは、本当は悟空なのだけれど、今日は先頭を切って歩いてきた悟飯のお手柄、という事にしてあげる。
 チチは片手に抱えた大きな籠と、悟飯が手に持った小さな籠を指で指し、言った。
「いいけ? 悟飯ちゃん。悟空さんとこ行って、どの実が食べられっか教えて貰ってくるだ。そんで、悟飯ちゃん持ってる籠一杯になったら、赤い粒々したのはおらの籠、黒っぽいのは悟空さが持ってる籠にいれるだぞ」
「はーい!」
「あんまし離れちゃなんねぇかんな。この辺は熊さ出るんだから、ちゃんとおらか悟空さと一緒に……」
 最後まで聞こえていただろうか? 悟飯はチチに言いつけられた事を悟空に伝えるべく、全速力で野原を駆けて行ってしまった。
 これから一週間ほどは、採っても採っても取りきれないほどの木の実が、野原でも森でも摂れる。常に腹っぺらしの大喰らいが2人に増えた孫家にとって、秋は恵みの季節であり、チチの保存食作りの腕が冴え渡る季節でもあった。
 早速手近に見つけたブラックペリーを腰につけた小さな籠につみ、木苺は大きな自分の籠に、つぶれて赤い汁が出ないよう、そっと、手早く放り込む。日暮れまでにどれだけ摘めるか分からないけれど、兎に角一杯摘まないと、ジャムだって蜂蜜漬けだって一冬で食べ終わってしまうんだから。
「悟空さー。採ったもん口ん中入れるのは三度に一度にしてけれよー! でねぇといつまで経ったって籠さいっぺえになんねぇんだから」
 ちょっと離れた所で、同じく木の実を摘む悟空の背中に声を掛けると、返事の代わりに、げほごほと咳き込む声が聞こえてきた。つまり既に口の中は甘酸っぱい実で一杯だったという事だろう。苦笑しながら振り返ると、また少し離れたところに、悟飯の背中が見えた。
(大丈夫だな)
 息子の悟飯は、本当に聞き分けの良い子だ。叱ってしまう事も時々はあるけれど、一度言えば二度も三度も言い聞かせなくていいし、素直で、頭も良くて思いやりもある。流石は悟空と自分の息子だけはあるなぁ、などとつい思ってしまうことも少なくない。
 それから。
 時々、棘のついた蔓に手の甲やらを引っかかれながらも、一生懸命に木の実を集めて、数刻。
 木の実集めに夢中になっていたチチは、いつの間にか悟空とも悟飯とも離れて、森の傍まで来てしまった自分に気付いた。耳を澄ませても、2人がふざけあう声さえ聞こえない。
「いつの間にこんなところまで来ちまったんだべか」
 額の汗を拭い、空を見上げれば太陽が中天より西に傾き始めていた。もうとっくにお弁当の時間だ。いつもなら2人とも腹を減らして自分を呼びに来る所だろうに、今日は木の実があるせいだろう、2人も時間を忘れているものと思われる。
「そんでももう支度してやんねばな」
 チチは立ち上がりながら傍にあった赤い実の籠を背に追い、後ろにあった小さな黒い実用の籠を手探りで掴もうとした。
 が、無い。確かに置いたはずなのにと、何の気なしに振り返るとそこには。
「…ふー、ウゥ…、…フゥー…」
 チチが集めた木の実の籠を前足で器用に掴み、黒い鼻を突っ込んでむさぼる一頭の熊が居た。
 チチが仰天したのは言うまでも無い。ただ、それは今年生まれたばかりであろう、立ち上がってもチチの腰ほどしか背もない小熊だった。
 チチの事などどうでもいいと言う顔をして、一杯摘んでおいてある木の実って素晴らしいと言わんばかりに、ガツガツと平らげていく。
 さて、それでチチも驚きはしたものの、この可愛らしいがふてぶてしい小熊の態度にすっかり呆れてしまった。小さいといえども熊は熊。ちょっと尻込みしながらも、しっ、しっと手を振って追い払おうとする。
「これっ、それはおらの集めた実だべ。おめぇのために集めたんではねぇんだからっ」
 だが勿論、人間の言葉など生粋の熊には通用しない。ちらっとチチの方を振り向いて、また食事に戻ってしまう。
 これにはチチも腹がたった。
「それは悟空さと悟飯ちゃんが食べるんだってばっ、返ぇしてけれっ」
拳を握り、脅すように両手を挙げる。だが小熊は動じない。「もー、あったま来たべ!」
 腕をまくり、一歩、また一歩近づいていく。
 と、流石の小熊もチチの殺気を察したのか、口に咥えた実をぽろりと地面に落として腰を引いた。チチはニヤリと笑みを浮かべ、悟空を脅すときの要領で声を低め、更にじりじりと近づいて行く。
「ほれほれ、ガツンとしちまうぞー。ガツンとされたら痛ぇんだかんな?」
 そこで漸く小熊にも、チチの怒りが通じたようだ。ニ三歩すり足で後ろへ移動すると、ぱっと身を翻して森の中に消えていった。
「はぁ、やれやれだべ……」
 小さな小熊とは言え、随分と食べられてしまったものだ……。チチは拾った籠の中身を確認すると、残念そうなため息をついた。これでこちらの籠は殆ど一から採り直し。
 でも気を取り直してさあ、2人の所に戻ろう。と振り返ったその眼の前に。
「フー…、ウゥ……ッ」
 今度こそ本当に、本物の、黒くて大きな熊が両足で立ち大きく手を広げて立っていた。
「ぎ……」
 ぇぇぇ! と、叫びそうになった口を辛うじて押さえ、立ちすくむ。声を上げて刺激でもしてしまったら……チチと熊の距離は、その吐く息が感じられるほど近い。
「ハッ、ハッ…」
 開かれた赤い口に鋭い牙。滴り落ちる涎。
 いくらチチとは言え、自分の二倍も三倍もありそうな熊を一撃でしとめる自信はない。そして一撃でなければ、次に来る一振りを凌ぎきれるかどうか……。
 避けられなければチチの首から上は無くなってしまうかもしれない。
 そう思うと身が竦んで動けなかった。籠を持った手が小刻みに震え始める。
―― ああ、悟飯ちゃん、おらが死んだら悟飯ちゃんの面倒誰が見てくれるんだべ…。
 心臓がばくばくと跳ねる。いっそ気を失うことが出来たら。
―― 悟空さ! 助けて!!
 獣と見詰め合う事に耐えられなくなり、チチは観念して目を閉じた。
 その次の瞬間。
 シュッ! と空を切る音、それから鈍い打撃音。重いものが倒れこむ地響き。
「……でぇ丈夫かよ、チチ?」
 聞き慣れた声。
「っ…っ、悟空さぁ!!」
 目を開けてそれが間違いなく自分の夫であると確認すると、チチは籠を取り落とし、その胸に飛び込んでいた。
「おっとっと……」
「うわーん、悟空さっ、悟空さっ!!」
 足元にはすっかり気絶した熊の巨体が転がっていた。
 飛びつかれた悟空は頬を赤らめ、慌ててチチの肩を押しのけようとしたが、
「怖かったべー! おら取って食われてもう二度と帰れねぇと思っただ〜っ」
 しゃくりあげられながらしがみ付かれては、もうどうにも出来ない。森の木の陰にちらっと目をやると、隠して来た悟飯が、興味深そうにこちらを見ている。
 悟空は、どうしても離れそうにないチチと悟飯を見比べて、ぽり…と頬を掻くと、悟飯に向かい、唇に人差し指を押し当て、それから目隠しのジェスチャーをしてみせた。
 悟飯とかくれんぼをするときに決めた、10数えてから目を開ける合図だ。
 悟飯は勿論、素直に目を閉じる。
「ひっく…、ひっく…」
「チチ、……顔上げろよ……」


 十秒後、そこにはすっかり落ち着いた(?)様子のチチと悟空がいた。





「くまさん、どうしちゃったの?」
 倒れた熊に恐る恐る近づいた悟飯の問いに、悟空が答える。
「気絶してるだけさ。オラ手加減したかんな」
「きっと、母熊だべ。おらが小熊さ襲うと思ったんかも知んね」
 木の実を奪われたいきさつと、その証拠を2人の前に差し出すと、明らかにガッカリした様子。
「熊鍋にして食っちまうか」
 秋の熊は脂が乗ってて美味ぇから。と悟空が真顔で言う。ところが。
「そんなのダメだよ! ……食べちゃうなんて」
 いつも大人しい悟飯が、珍しく声を荒げた。悟空は分からないというように首をかしげる。
「んな事言ったって、おめぇがいつも食ってる牛だって馬だって、熊と変わりゃしねぇんだぞ?」
「でも……」
悟飯は俯き、倒れた熊をじっと見つめてぽそりと呟いた。「お母さんが居なくなっちゃうなんて、僕、やだもん」
「悟飯ちゃん……」
チチは息子の頭に手をやって、優しく撫でた。それから悟空を見上げて、熊を指差す。
「な、悟空さ。熊鍋はおらもちょっぴり惜しいと思うけど、今は悟飯ちゃんの言うとおりにしてやるべ。この熊逃がしてやるだよ」
「うーん」
 まだ納得がいかないという様子の悟空に、チチが畳み掛けるように目で訴える。悟空はしばらく眼の前のご馳走とチチの視線を比べていたようだが、やがて諦めたように息をついた。
「……ま、いっか。怪我させられた訳でもねぇし、さしあたってメシが足りねぇ訳でもねぇしな」
「お父さん、大好き!」
 悟飯の目が輝いて、悟空の足に抱きつく。
「でも次見つけた時に腹減ってたら食っちまうかんな。そういうもんなんだから」
「う、うん…分かった」
 ちょっと引き気味の息子を抱き上げて、悟空はチチを見た。これでいいか? と言うように。
 悟空さにしては上出来だべ。とチチは満足して頷いた。


それから……。
 遅い昼ごはんをたらふく食べ、3つの籠がすっかり一杯になるまで野原に居た孫一家が家に戻ってきたのは、もうそろそろ夕闇も落ちるという時刻になってからのことであった。
 籠をひとまず台所に置き、早速今度は夕食の準備だ。
「2人とも疲れたべ? 先に風呂入っちまったらいいだ」
「チチ、おめぇは?」
「おらは夕食の支度。木の実がいっぺぇ入ったゼリーも作るだよ。おら楽しみにして、今日は食べるの我慢してたんだから」
 それを聞いて、悟飯が不思議そうな顔をする。
「食べてないの?」
 あんなに沢山あったのに、という意味だろうかと、チチは得意げに答えた。
「まだ一個も食ってねぇだよ。だってその方がきっと美味しく感じるべ?」
帰ってきたのはますます不思議そうな沈黙。「そんな顔してどうしただ、悟飯ちゃん。おら何かおかしなこと言ったけ?」
 すると悟飯は言った。
「だっておかしいよ。お母さん口の周りに青い色付いてるもん」
 それは、赤い実と青い実の汁が混じってできる紫色の汁。
 悟空が散々食べていた……。
 ぱっと口元を隠してももう遅い。
「お母さんの顔、いちごみたいに真っ赤っか……」
 どうして? と悟空を振り返る。悟空はそんなチチと悟飯を見比べ、ちらっと笑って、チチに聞こえないようになにやら悟飯に耳打ちした。
「母さんはな、ホントはこっそり食ったんだ」
「悟空さ、悟飯ちゃんに何言って……」
だが2人はもっと近づき、チチには囁き声しか聞こえなくなった。「全くもう…」
 ほてった顔を抑え、気を取り直して台所に立つチチ。
 悟空は悟飯の肩を抱き、その耳に囁いている。
「だからな、悟飯。お前ぇが大きくなったら、こっそり教えてやっからよ」


大人になってからしか食べられない、秘密の木の実の調理法。


<おわり>

 



 

秋の味覚、表バージョン(笑) 2003.09.24.

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