木漏れ日の下で

 

 出産から無事一週間が経った。チチも悟飯も経過は良好で、ふっくらふくふくしている。

 悟空はと言えば、あの後とうとう産婦人科の婦長に捕まり、うやむやのうちに逃げていた『お父さんのための子育て講座』になど通わされ、ある意味憔悴していた様子である。それを聞いたチチは腕に悟飯を抱いたまま大笑いしていたが、悟空にとっては本当に、修行よりも修行らしい数時間であったとの事。
 今日はそして、とうとう退院の日だ。例によって筋斗雲に乗っかり病院にやって来た悟空は、病室を覗き込んで困ったように頬を掻いた。
「おろ? チチのヤツまた居なくなってる」
 どうやら悟飯を生んで体の自由が利くようになったのがチチのフットワークを軽くしたようで、ここの所こんな日が続いていた。しかも今日は間の悪い事に、大部屋には誰も居ない。もぬけの殻だ。これではチチがどこに行ったか尋ねる事も出来ないではないか。
「オラ折角言われた時間に着いたのによ」
 チチに頼まれ持って来た、医師たちへのお礼の品が入った大風呂敷を彼女のベッドの上に置くと、悟空はきょろきょろしながら廊下を歩き出した。
 だが、10分経ってもチチの姿は見つからない。
「っかしいなぁ。どこ行っちまったんだ?」
 病棟の中は流石に女性ばかりだ。サラリーマン姿や私服の男性ならばまだ分かるものの、山吹色の道着姿の悟空がうろうろと、廊下を行ったり来たり、別の病室を覗き込むと言うのはなかなか目を引く。
 周囲からの視線に弱りきった悟空はナースステーションの前は素通りして、どんどん奥へ入っていった。
 すると。
 とある部屋の扉が締め切らずに薄く開いており、そこから聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。
「……だべ。悟飯ちゃんは食欲旺盛だから助かるだよ……」
 聞き取りにくいが間違いない。チチだ。
 ほっとした悟空が録に考えもせず、扉を開けて中を覗き込むと、そこには確かにちゃんとチチが居て、椅子に座って悟飯を抱いていた。
「なぁんだおめぇ、こんなトコに居たんか。探しちまったぞ」
 チチが、突然姿を現した悟空の姿を見つけて、口をぱっくり開け、真ん丸くした目で彼を見上げた。だが悟空はチチがなぜそんな顔をしているのかさっぱり分からぬどころか、気付いても居ない様子で、チチの乳に吸い付いている悟飯をまじまじと見つめた。
「お? 悟飯に乳やってんのか。へぇぇ」
―― そんなに美味ぇのかなぁ。
 やって来た父親をちらっと、見えているのか居ないのか、悟飯がほっぺたをもぐもぐさせたまま、見上げ、また乳に吸い付くのを見て、悟空はそんな風に思い、つい。
「チチ、それ後でオラにも飲ま……」
 チチの胸元を指差して言いかけたそのとき。
”パコッ!!”
 小気味良く、悟空の後頭部に何かがクリーンヒットした。
「い、痛ってぇ…な、何だ??」
 振り返るとそこには、腕組みをした婦長が仁王立ちになっていた。その手に持った分厚いカルテの角で、どうやら悟空のつむじを狙い撃ちしたらしい。
「孫さん」
婦長は眉を上げ、キッと悟空を睨んで言った。「ここは男性立ち入り禁止です。早々出て行ってください」
「……へ?」
 ひりひりする頭をさすりながら、そこで漸く悟空は辺りを見回した。
 そこには、チチと同じくあっけに取られた顔で悟空を見る女性達の姿。その腕には例外なく乳飲み子が抱えられていて、悟空と目が合うと気恥ずかしげに目を反らして、はだけた胸をそっと隠した。
 そう、ここは『授乳室』。



「もうもうもう! はっずかしいんだから、悟空さったら!!」
 頬を染めてぷりぷり怒りながら、それでも最後の荷物を畳んで風呂敷の口をきゅっと閉じるチチ。その間悟飯は悟空の腕に抱かれて、お腹がいっぱいになったせいだろう、ぐっすりと眠っている。この一週間でどうやら分かったのは、悟飯は腹さえ膨れればそれで機嫌がいいらしいという事だ。今日もきっと家に戻るまでは静かに眠っていてくれるだろう。
 悟空のほうも、あの婦長のお陰で何とか悟飯を抱く手もさまになってきているし、新米お父さんとしてはなかなかの出だしかもしれない。
「んな事言われてもよ。オラ別に見ようと思って入ったわけじゃねぇもんよ……」
 言い訳などではなくて、本当にチチと悟飯しか目に入っていなかったんだから仕方ない。
 そんな意味合いの事をしどろもどろに伝えられたが、チチの方はといえば気恥ずかしさとそれから別の意味もあって、まだ気が治まらない。何か言ってやろうと振り返り、腰に手を当て悟空に向かって口を開いた、そのとき。
 病室の扉が開いて、医師と婦長が姿を現した。
「いよいよ退院ですね。改めておめでとう、孫さん」
「あんれ、先生。わざわざ来てくれただか!」
 チチは逆ハの字に上げていた眉を下げ、ぱぱっと腰から手をはずし、「おしとやかな」奥さん風に身なりを整えた。
「外まで聞こえてましたよ。旦那さんも面白い方ですねぇ」
 『も』というところが気になるが、チチは「やんだもう、先生ったらぁ!」と思い切り医師の背を叩き、ぽっと頬を染めら。どうやら悟空に対する褒め言葉だと思ったらしい。
「げほっ、げほっ……いや兎に角体調もよさそうだし、何の問題もないですね。じゃあこれで退院という事になりますが、また何かあったら遠慮なくいらっしゃい。孫さんも悟飯君もね」
「はい。先生にはお世話になりましただ」
「お元気でね」
 コンパクトに畳まれ風呂敷に包まれた荷物は悟空が担ぎ、チチが悟飯を抱く。同室の人々に挨拶しお礼の品も渡して、さあ。家に帰るときが来た。
 婦長に玄関先まで送られた悟空とチチはもう一度振り返り、チチがペコリと礼をして、悟空は手を振って、お別れをした。


 筋斗雲に乗って、約二週間ぶりに帰った我が家。悟空に手を借りながら、腕に悟飯を抱き気をつけて筋斗雲を降りると、チチはうーん、と背伸びをし、悟空のほうを振り返った。
「やっぱり外のほうがいいだな、悟空さ?」
 深呼吸する。その表情を見る限りでは、先刻の一件についてはもうすっかり忘れてしまったらしい。
「だろ? オラやっぱし病院ってところはあんまし好きじゃねぇな」
 他愛もないおしゃべりをしながら『寿』のプレートが掲げられた玄関を開ける。
 そして一足先に家に入ったチチは、眼の前の光景にギョッとして足を止めた。
「な、な、なんだっていうんだ、これ……」
「おう、今帰ぇったのか、チチ!!」
 奥の部屋に行く事も困難なほど、積み上げられたベビー用品の山、山、山……そしてその向こうから、牛魔王がひょっこり顔を出した。
「あれからてぇへんだったんだぞ。おっちゃんが色々持ってきてよ」
 後ろ手に玄関を閉め、悟空が言った。
 どうやら子供が生まれたその足で、牛魔王は街へ買い物に。男の子だからとブルーや黄色の産着やら、ガラガラにメリーゴーランドに、とやたら買い込んで来たようなのだ。
「うわぁ……」
 あっけに取られてぐるりと見回すチチの横で牛魔王はニコニコ顔だ。
「まだあるだぞ。チチ、ちょっとごっちさ来てみれ」
 おいでおいでと手招きされて、チチと悟空は山の中をすり抜け、台所を抜けそのまた奥の寝室のほうへ。
 すると、いつも自分達が寝ているベッドの脇に、東方特有の彫り物をした揺り籠が置かれていた。
 中にはもう既にふかふかの布団が敷かれていたし、柔らかな曲線を描いた脚は、その揺れ具合の心地よさを物語っていた。
「これ、もしかしておっ父が作ったのけ?」
 チチが尋ねると牛魔王ではなく悟空が答えた。
「オラはこういうの苦手だかんな」
「いやいや、悟空さだってちっと手伝ってくれただ。材料集めたりな」
 本当の所、子供が出来たとわかったところから、こつこつ作っていたらしい。大きく無骨な手は実は驚くほどに器用なのだ。
「嬉しい。おっ父、ありがとう! 悟空さ、ありがとう!」
 プレゼントの山よりもこっちのほうがずっと。
 ね、と悟空を振り返り、チチは笑う。
 キャスター付きの足はベッドをどこへでも持っていけるようになっていたし、揺れないように固定する事も出来るようになっていた。一度子育てをした牛魔王ならではの心遣いなのだろう。そして枕元には例のあひるの木彫りが鎮座していた。
「早速寝心地試してみっか? 悟飯」
 悟空はチチの腕の中の悟飯に話しかけたが、悟飯といえば、先ほどから感心するほどに良く眠っているばかりだ。それに。
「その前ぇに、じいちゃんにも抱がせでくれや」
 どうやら牛魔王は孫の誕生がよっぽど嬉しいらしい。


 荷物だらけのリビングを片付ける事がまず一番の仕事で、それから腹っぺらしの男性陣の食事を作って、洗濯をして。
 退院したばかりのチチを手伝ってくれる女手はないから、彼女はいきなり大忙しだった。
 悟空と牛魔王は揺り籠をリビングまで持ってきて二人、悟飯は、悟飯が、悟飯の、とそればかりだし、そんな二人の気配を背中に感じるのがチチには何より嬉しい。
 食後の皿を片付けながら、なんだか思わず頬が緩んでいた。
「……な? ここん所をこうやって」
悟空の声が聞こえてきた。珍しい事に、なにやら牛魔王に向かって説明しているらしい。「くすぐると、尻尾が動くんだぜ、ほら」
―― ? なんだって?
「オラもくすぐってぇと尻尾動いたけど、悟飯もそうなんだなぁ」
「これっ! 悟空さっ!!」
チチは手をぬぐいながらリビングに。「悟飯ちゃんはオモチャじゃねぇんだぞ、いたずらしてっ」
 仁王立ちで現れたチチに、悟空は、ひゃっと一声漏らして、悟飯と戯れて(?)いた手を後ろに隠す。
「おっ父まで一緒になって。……んもう」
 脚を取って床に置かれた揺り籠の中、悟飯は、まだなんだかくすぐったいのが残っているのか、眠りながらムズムズと体を動かして、半分のけられた布団の下から尻尾がぴくぴく揺れていた。
「ぷっ」
 それを見たチチは思わず笑ってしまって。
「我が孫ながら可愛いべ〜」
 ともう一度こちょこちょとやられた悟飯の仕草に、とうとう大笑いしながら二人の傍に腰を下ろした。
「遊んでもいいけど、風邪引かせねぇようにしてけれな」
 そっと布団を引き上げて、それから、ふと気付いたように、悟空に尋ねた。
「そういえば、悟空さ」
なんだ? と顔を上げた悟空に尋ねる。「悟空さの尻尾は、どこ行っちまったんだ?」
―― 出会ったときは確かにあったはず。
「オラの尻尾?」
「大きくなったら抜けるのけ?」
 それでは乳歯か何かのようではないか。
「神様が取っちまった。もう生えてこねえってさ」
「へ? 神様?」
 牛魔王が首をかしげる。仕方ない。彼はあの死闘を見ていなかったし、神様に会ってもいないのだから。
「面白かったのになぁ。何でわざわざ取っちまったんだべ?」
「さぁ……?」
 嬉しいときにはぴくぴくし、悲しいときにはうなだれて、時には釣りにも使えた便利な尻尾だったのに。
 悟空は悟空で首をひねった。
―― 月がどうのこうのって言ってた気がすっけどな。
 と、その時、流石に回りの様子に気付いたのか、それとも腹が減ったのか、悟飯がぱっちり目を開けた。
「お、起きたみてぇだべ」
 まだあまり回りが良く見えないのだろうが、悟飯は辺りを見回して、差し出された悟空の指にきゅっと掴まった。
 たったそれだけで、3人は3人とも相好を崩しもうメロメロ状態。
 生まれたばかりの悟飯は、名実共に孫家のアイドルなのである。


 そんなお昼が過ぎ、悟飯がむずかるのも、笑うのも、眉をしかめるのも十分に堪能したところで、牛魔王は名残惜しげに腰を上げた。
 彼は別のところに住んでいるし、なぜだか悟空たちと一緒に住む気も無いらしい。
 多趣味な彼の事だから、家で一人になるのも、それなりにスキなのだろう。
 庭の大きな木陰に置かれたレトロタイプのホバーカー、銀製3型に乗っかった牛魔王は、手を振って飛び立っていった。
 ザザァ…と、風が吹いて、木の葉を揺らす。
 秋の日はつるべ落としで、もうすぐこの庭にも山の陰が差すだろう。
「寒くなってきたなぁ……中にはいろうぜ、チチ」
 半そでの道着は肌寒く、ぶるっと身を震わせ、悟空がチチを誘った。
「うん」
 頷いて振り返ったチチの腕には、牛魔王を見送るために出てきた悟飯の姿があって。
 木漏れ日にまぶしそうに目を細めたチチとは逆に、きょとんとした顔で、悟空のほうに顔を向けていた。
「なぁにニコニコしてるだ?」
 チチは悟空の表情に気付いて、尋ねる。
 悟空は今の気持ちをどう伝えていいか、ちょっと良く分からなくて。ただ、
「見てただけさ」
 と答えた。
「うふふ……へぇんなの。な、悟飯ちゃん」
 腕に抱いた悟飯の頬を胸元に引き寄せて、チチは肩をすくめ笑った。
「へへ……」
「あはは…」
 なんだか毎日笑ってばかりで。
 笑っても笑っても、嬉しい事や楽しい事は尽きなくて。
 たまに怒られたり、叱られたりするけど。
 こういう生活っていうのは結構いい。
「中はいろうぜ」
 促して、悟空はチチの背中をそっと押した。

 そして先刻のように扉が開けられ、扉が締まり。
 ここから先は3人だけの暮らし。


<終わり>

 

特に山もなく谷もなく。
こんな話でした。
2003.05.11.

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