君が生まれた日

 

 どうにも落ち着かない。
 薄暗い廊下の片隅に置かれた長椅子の前で、悟空は腕を組み珍しく複雑な表情をして行ったり、来たり。
 その長椅子に腰掛けた牛魔王が、見かねて声をかけた。
「大丈夫だ、悟空さ。そったら心配するもんではねえだ。チチは腰つきもしっかりしてっし、お医者様も安産になるだろうって言ってたべ?」
「けどよ……」
と悟空は言って牛魔王の隣にどすんと腰をおろした。「チチ、えれえ痛がってたかんなぁ」

 それはある朝のことだった。
 目を覚ますと、いつもならとっくに床を出て、朝食のいい香りをさせているはずのチチが、悟空の脇腹の辺りで体を丸め、腕に手を絡めていた。
「おい、おいチチ、どうしたんだ?」
 肩をゆすり起こすと、チチは億劫そうに目を上げ、言った。
「おら、お腹いてえ……」
 悟空はぎょっとしてチチの体を支え起こす。
「腹痛えって、なんか悪ぃもんでも食ったかよ?」
 自分は当たらなくてもチチはあたるかもしれない。と自らの腹の強さを知っての一言。だがチチは言い返す気力も無く悟空の腕へ体を預けた。
「……ちがうべよ…。おら、よく分かんねえけどこれ……ジンツウってやつだと思う……」
 荒く息をつくチチを悟空はしばらくぼんやりと眺めた。
「へ…? ジンツウ?」
 そんな腹イタあったっけかなあ。とチチを見下ろし、しばらくぼんやりした後、悟空ははっと気づいた。
―― ジンツウってのは、あれのことか!!
「ホントか!? てえへんじゃねえか! すっげえ痛えか?  痛えんだろ?」
 額にうっすら汗を掻いて眉をしかめるチチの頭まで一気に布団をかぶせると、悟空はベッドから飛び出した。
 切ったの打ったのではない未経験のものだからこそ、余計にハラハラしてしまう。胴着を引っつかんで腰に帯をまわすが早いか、チチを布団ごと抱えあげた。
「ひゃぁ、悟空さっ、そんあ大騒ぎしねくても平気だだよ、平気だからってば」
「何言ってんだ。そんな痛てそうな顔しててよ」
「悟空さってば! これっ!!」
ぴしゃり、とチチの手が悟空の胸を叩いた。「人の話を聞けってば。おらもう痛くねえんだから」
「へっ?」
 悟空の腕から布団ごと滑り降りたチチは、けろりとした顔で言った。
「悟空さ、棚に入院の荷物へえってるから、持ってけれ。……な〜に驚いた顔してるだ。やっぱしちゃんとお医者様の話聞いてなかっただな? 痛えのには合間があるんだってば」
 その通り、医者の話など半分ほどしか聞いていなかった悟空は、腰周りのゆったりしたワンピースに着替えて片手に小さな風呂敷包みを持ったチチに言い返す。
「合間があるって言ったってよ、おめえさっきすげえ顔してたのに」
「でも今はけろって直っちまってるだよ。そういうもんなんだべ。だから心配しねえで、悟空さ」
大きな包みを持ってきた悟空を見上げ、チチは言った。「でもまた痛くなるだ。その前におらのことお医者に連れてってけろ。そうだおっ父にも連絡……っ…?」
「チチ? チチっ」
 貧血を起こしたチチの体を抱きとめた悟空の、それからの行動はすばやかった。
 筋斗雲を呼び飛び乗って、病院に駆け込み、それから「まだまだ生まれやしねえだよ」という牛魔王の腰を無理やりあげさせまた飛んで帰ってきた。
「やんだ、悟空さったら。おら電話してって言ったつもりだったのに」
 駆け込んできた悟空と、引っ張りつれてこられた牛魔王の姿を見て、チチはほほを染め、同じ病室の女性たちをチラッと見た。
 悟空が居ない間に、チチを運び込んできた時の彼の慌てぶりはここ最近で一番の見物だったわね、などとからかわれてしまったのだ。
「だってよ、オラ……」
 ほほを掻く悟空を見て、病室の隅からくすくす笑いが漏れる。
 ひとつベッドをもらってそこに落ち着いたチチは、ワンピースを脱ぎ、襟の無い青い寝巻きに着替えており、どこと無く華やかな、女性ばかりのその部屋で牛魔王は居心地悪そうな顔をしてたずねた。
「悟空さにひっぱられて来ちまっただよ。チチ、でえじょうぶか」
「おっ父、呼んでしまって悪かったんだけんども、おら、お腹痛えの収まっちまったみてえだだよ」
 お医者様が言うには、そういうこともあるんだって。それでもきっともうすぐだし、また悟空をあわてさせるのもなんだからここにいることにするだ。
 チチはそう言った。いくら事前に本やらなにやらで勉強したといっても、初めての出産である。チチには母親がもう居ないし、やはり不安もあったのだろう。 チチの言葉にそうか、とうなづいて牛魔王は帰っていった。
 さてそれで困ったのは悟空である。
「じゃあ、オラは何してたらいいんだ?」
 チチのベッドの傍に腰掛け、手持ちぶたさの悟空は訪ねた。
「悟空さもけえっていいだよ。おら大丈夫だもの。修行でもしてきたらいいだ」
「でもよ、オラがいねえ間にまた痛くなったらどうすんだよ」
 チチはその言葉を聞いてくすりと笑い、周りからはまた別の笑いが漏れる。
「大丈夫だからってば。痛えようになったらなったでそれは良い事なんだからよ」
心配げな悟空を諭すようにチチはいい、それから彼の気を逸らそうと、ぽんと手を打った。「あ、そうだ。こんなこともあるかと思って、飯は冷凍庫に入ってるカプセルの中にたーんと作ってあっかんな。でもいっぺえあるからって食べ過ぎるんじゃねえぞ。なくなっちまってもお代わりこしらえてやるわけにいかねえんだから」
「オラそんな食い意地張ってねえぞ」
「なぁにが。今ちくっと言っとかねば、ぜってえ食っちまってたに違いねえ癖に」
コロコロと笑って、チチは悟空の胸を押す。「案外心配性だな、悟空さは」
 それはそれで、とても嬉しいけれど。でも具合が悪いわけでもないのに悟空を引き止めておくのは忍びない。
 乗らない顔つきの悟空を何とか説き伏せ、立ち上がらせたチチは、振り返りつつしぶしぶ出ていく背中を微笑みながら見送った。
 途端に。
 病室から再び黄色い声が上がって、面食らう。
「今のが旦那さんよね?」
「さっきはあっという間に出て行っちゃったから、よく見えなかったけど」
「ハンサムよねぇ」
「見た? あの体つき」
 チチくらい若い女性から、幾度目かの出産になるのだろう、落ち着いた感じの女性まで一そろいいる。多分新人が入ってくる度に、旦那の品定めでもしているのだろう。
 隣のベッドの女性は、ちょうど配食されたテーブルの上から身を乗り出してチチにたずねた。
「年はいくつ?」
「へっ? おらのことけ? おら今年で19になりますだ」
 きゃぁ〜という声が上がる。やっぱりね、若いわよね。とそんな声だ。続けて悟空の年も聞かれ、チチが首をかしげて同じ年だと伝えると、また声が上がった。
「素敵な旦那様ね。ちょっと奇抜な髪型してるけど」
 悟空のことをほめられて、うれしくないはずは無い。チチは思わず相好を崩して手のひらで頬を覆った。
「やんだ、悟空さがめっちゃくちゃ格好ええだなんて。そ、そりゃおらにとっては世界一の旦那様だけんどもっ」
「誰もそこまでは……」
「しかもすんげえ優しくって、強えかったりもすっけども!!」
「聞こえてないみたいだわよ」
 妊婦用の滋養たっぷりスープを思い切りかき回して照れるチチに、病室の女性たちは少なからず当てられた様子だ。 
「ところでここに入ってきたからには聞かせていただかないとね。二人の事、あれやらこれやら」
「おらたちの話?」
「そうよ。それが新人さんの役目なの」
子供が生まれれば入れ替わり立ち代り、新しい人が入ってきてまた出て行く。「そうねぇ。まずはどこでどう出会ったのかとか」
「どこでどう……」
チチは思い出していた。忘れようも無いあの「ぱんぱん」事件を。「そ…そったらこと恥ずかしくってとっても言えねえだよ……(ポッ)」
 これでは火に油を注いだようなもの。場はいっぺんに盛り上がり、チチは一人につき軽く5つの質問に答えなければならなくなった。

「…で、おらが11の時、悟空さがおらのとこに来ただよ。そん時おっきくなったらお嫁にもらってけれって頼んだんだ」
 まさかそれがあの魔の山フライパン山に、何でも願いをかなえてくれるドラゴンボールを探しに、とは思うまい。また悪名高き伝説の牛魔王の娘がこの目の前にいる少女だとか、さっき来た大柄な男がその本人であるとかも。
「そんで悟空さはうん、って。おらのこと迎えに来てくれるって約束してくれたんだ」
「ドラマチックねぇ」
 ほぅ、と観客席からはため息が漏れ、チチが悟空を追いかけて武道会に出場したくだりを話し始めると、まるで恋愛映画を見るノリになってきた。『それでそれで、どうなったの?』などと身を乗り出されると、チチもつい乗ってしまう。
「んでな、おら血だらけの悟空さに駆け寄っただよ!」
チチも昼メロドラマは大好きだ。ついつい…ちょっとばかし話を大胆に……「そしたら(仙豆のおかげで)悟空さはがばっと起きて、おらのこと抱きしめて(本当は抱きついて)、それからおらたち筋斗雲に乗って(実家まで)飛んでったんだべ〜〜vv」
「愛の逃避行? きゃああああ! 素敵〜!」
 筋斗雲なんて名前のカプセルプレインあったかしら? などと彼女たちの頭にはかすかに疑問がわいたがそんなことは一大抒情詩の中ではどうでもいいことなのである。大切なのは細部よりもストーリー。チチが今話している武道大会が、約一年前の天下一武道会のこととも気づいていないようだ。気づいていればピッコロ大魔王を倒したのが悟空だと分かったはずだから。
「そこでおらたち初めて(おでこに)ちゅーしただ。おら本物の雲の上にでも乗っかってるような気分だっただ……」
 思い出しているのか手を組んで目を潤ませているチチにつられて、観客たちもうっとりである。
「旦那を追いかけて、女の身で武道会なんて。いいわねぇ、いまどきそんな一途で積極的な子いるのねぇ」
 わいわい意見を言い合っている女性たちをよそに、チチはこっそりこぶしを握り締め、こっそりと心の中で叫んだ。
―― 入院って……入院って……
 辺境とも言えるあの土地で暮らしてきて、小さい頃言葉を交わした覚えがあるのは父と牛乳やら新聞やらの配達員くらい。大きくなっても食料品店の店主やら、町でのお買い物の時の一言二言、それくらい。
―― なんだか、すっっっげえ楽しいべ!!
 かつてこんなに女性に囲まれたことがあっただろうか。
 だが彼女たちも、チチが、悟空とともにその後の2ヶ月を父親の家で暮らした話をし始めたところで、首をひねった。
「どうして? 彼のご家族は一緒に暮らそうって言ってくれなかったの?」
「悟空さの? 悟空さは捨て子だったんだ。おらは会った事ねえけどじいちゃんに育てられたんだって言ってた」
 その言葉を聞くや否や、じぃいぃ…ん……と感動の嵐が病室内に吹き荒れた。
「そのお爺さま」も、もしかしてもうお亡くなりに…?」
「んだ。悟空さが8っつとか9つの頃にはもういねくなってたんでねえかな。悟空さそれから一人ぽっちだったんだべ」
「まぁああぁ…」
 ホロリ。と我慢できなくなった涙が一人の観客の目から零れ落ちる。
「でも、今の悟空さにはおらもおっ父もいるもの。それに……」
 ちらっとチチはお腹を見下ろして手を当てた。
―― もうじらさねえで早く出てくるといいだ。悟空さもおらもずぅっと待ってたんだから。
 その気持ちが伝わったのか、まだ見ぬ赤子が力いっぱいチチのお腹を蹴った。
「私たちもあなたも、丈夫な子が産めるといいわね」
 すでに子供がいるらしい婦人の、優しい母親の瞳。
 チチは深く大きく頷いた。

 その頃。
 チチに言われて修行に出たはずの悟空は、ほとんどまっすぐ家に舞い戻っていた。
「カプセルってコレか?」
 冷凍庫を開けっ放しにして、悟空は手に取ったカプセルを電子レンジに入れた。3分後ピーンと音を立てて開いた扉から熱々のカプセルを出し、食卓に放るると、並んで出てきたのはチチお得意の素敵な料理の群れだった。
「ひょー!!」
なんだか集中できなかったのは、そういえば朝ごはんを食べていなかったせいかもな! そう考えた悟空は、修行より先にすきっ腹を満たすことにしたのである。箸を構えて卓に着き、笑顔で唱えた。「いっただっきまーす!」
 あっという間に一枚目の皿、二枚目の皿、そして三枚目の皿に手をつけ、そして4枚目…しかし、なぜか少しずつ、食べるペースが落ちていく。
「……こんな味、してたっけかな〜」
 ほかほか湯気を立てているスープやご飯はいつもの通りに見えるのに。
 もぐ……もぐもぐ……。…もぐ。
 ズーッ ジュルッ ズゾゾゾ……。
 ガツガツ ……ガツ…ガツ…。
 坦々鳥の照り焼きが消え、地豚の釜焼きが消え、牛尻肉のソテーが無くなり……。
「は〜っ 食った食ったぁ!!」
黙々とすべての食事を平らげた悟空は、カラン、と箸を置いて腹に手を当てた。「美味かったー!!」
―― …よなぁ? うん、美味かったよな?
 いつもどおりのチチの飯。
 ……なんだけど。
 空になった皿を流しに運んで、洗い始める。手つきはぎこちないが、チチのお腹に赤ん坊ができてから、時々は手伝うようになった。力を入れすぎて割ることはあれども、絶対に落としたりはしないし、特にいやだとも思っていないようだ。
 だけど今日は、ソファに座って「ありがとう悟空さ」と一言言ってくれる姿は無い。
「………」
 悟空はプルプルと手から水を払うと、ポリ…と頬を掻いて外に出た。
 いつものようによく晴れた、修行日和の気持ちの良い秋の空。
 伸びをしてあたりを見回す。
 鳥の声と川のせせらぎ。
 でも、何かがいつもと違う。
「なんだ、そっか」
 小さく声を漏らして、手を打った。
 どこかおかしいと思っていたが、なるほどいつもあるはずの、白くはためく洗濯物が見当たらないのだ。
「おーい、筋斗雲ー!」
 悟空は高らかに呼び、飛んできた筋斗雲に飛び乗ると、再び元来たほうへ飛び去っていった。

 

 チチの陣痛が本格的に始まったのは、それから一週間もたった頃だった。
 この一週間は、流石の悟空も病院嫌いを引っ込めて、産院にいるチチの元へ幾度も顔を見せた。
 同室の女性達にからかわれるのが苦手なのか、いつもさっさと帰ってしまうが、日に二度くることさえあり、チチもそれには驚いた。 帰り道には牛魔王の家に寄りこむことも多かったようだ。それは多分、一週間は持つようにとチチが作ったあのご飯が、3日目にしてすっかり無くなってしまったせいもあるだろう。
 そして今日も、悟空は何の気なしに産院の前に降り立った。院内では筋斗雲から飛び降りる悟空の姿も見慣れた光景になりつつある。まぁ、変わった形の乗り物だと思われている程度にしか認識されていない様子だが。
 しかしその日、いつもの病室をたずねるとチチの姿は無かった。聞けば他の部屋に移っていったのだという。看護婦に案内され、悟空が通された部屋はほのかに暖められており、チチだけが低いベッドに腰かけていた。
「あんれ悟空さ、修行に行ったんでねかったのけ?」
 大きく取られた窓の向こうに、色づいた木の葉が揺れている。
 窓の手前に置かれたベッドに体を起こして座ったチチは、驚いた顔をしてから微笑んで、悟空の方に体を向けた。手は自然にお腹の上に乗せられている。
「丁度良かった。今ね、おら悟空さとおっ父に電話すっべと思ってたんだ」
「電話?」
「んだ。けども、よく考えたら悟空さが家にいるかどうか分かんねかったし」
 思えばいつも家にいたから、外から悟空に連絡をつける方法など考えても見なかった。昼間は修行に行っているだろうし。 そりゃそうだな、と悟空も頷く。彼自身、その日どこに修行に行くかなんて決めても居ないし、チチが居ない今は昼飯時に家に戻ることも無い。
「孫さん、じゃあ旦那様に付き添っていただいたほうがいいかしら?」
 チチから牛魔王への伝言を頼まれた看護婦は、チチに尋ねた。
「オラが付き添う?」
 状況を把握できないまま立ち尽くす悟空に、チチはささやくように言った。
「悟空さ、あのね。……赤ちゃん、生まれてくるだよ」
「……生まれてくる?」
「ん、生まれてくる。おらちょっと前ぇからだんだんお腹痛てくなってきてたんだ。だから悟空さきてくれてよかった」
 陣痛が始まったチチは、一人別の部屋に移されたのである。間隔が一定になるまでは、ここでこらえなければならない。
 黒く長い睫で縁取られた瞳が、悟空の目をじっと見つめた。看護婦は部屋を出て行った。
「悟空さ……ここでおらと一緒に居てくれるけ?」
「………うん」
悟空はひとつ深くうなづいて、チチの頬に手をやった。心なしかいつもよりも柔らかい手つきで。「また痛えのか? 寝てた方がいいんじゃねえのか?」
 チチは首を振る。
「ううん、おら起きてるほうが楽みてえ。きっとお腹の中の子が元気な子だからだべな」
 それでもベッドの端に腰掛けたチチは、ジンツウとやらが来るたびにしかめ面して、先日と同じように額に汗を浮かべているが、悟空にはどうしてやることもできない。
「オラが支えててやるよ。こうしてりゃ少し楽なんじゃねえか?」
 チチの隣に、靴を脱いで上がりこむ。それから細い体を足の間において、後ろから抱きしめるようにしてやった。
 それだけで、チチの体から張り詰めた雰囲気が抜け落ちる。
「……やっぱしやさしいだなぁ、悟空さは」
「だって痛えんだろ? おめえだってオラが怪我したらこうしてくれるじゃねえか」
 チチは黙って目を閉じて、ほっと腕に体を預けた。
 痛みの波がやってくるたびに、悟空は一生懸命な様子でチチの腰をさすってやる。もうまもなく子供が生まれるという事には実感が持てず、チチがまるで病気のように見えることのほうが気になった。
「よぉ、平気か?」
「もう、何べんおんなじこと言うだよ、悟空さは」
 どうやらチチのほうが度胸が据わってきたらしい。今度は途中で痛みが終わってしまうことも無い様子だ。しかも合間には心配そうな悟空に向かって微笑んで見せるほど。
 だが、流石のチチもやがて疲れを見せ始め、痛みがくればだんだんと苦しさの増した顔つきをするようになってくる。
 荒い息を吐くチチに、悟空はとうとう痺れを切らしてたずねた。
「なぁ、いったいいつ生まれてくるんだ? もう長ぇこと経ってんのに」
「まだまだ。あと何時間もかかるんだって」
経産で6時間ほど、初産なら12間ほどかかるのが通常なのだそうだ。チチは悟空の腕に顎と肩を預けて、息を付きながらささやくように言った。「生まれてくるのは真夜中か明け方になるんでねぇかな」
「ま、真夜中!?」
 悟空は肝を抜かれてチチの顔を後ろから覗き込んだ。
「だってほら、おらまだ、痛えのと痛てくねえ時間の合間がなげえべ? 一時間に6回くらいちゃんと痛てくなるようになったらば、それでどうにか生まれてくる準備ができたってところだってよ」
「ひえ〜〜……6回もか!」
病気でもねえ、怪我したんでもねえ、なのになんで我慢できるんだ? と悟空はチチをまじまじと見つめた。「おめえ、えっれえなぁ」
 偉いなどといわれて、苦笑がもれた。
「だって、そういうもんなんだもの仕方ねえべ。悟空さだって嬉しいって言ってたでねぇけ」
「でもオラこんなんだと思ってねかったもんよ」
 例のアレがこの原因なら、悪いことをしてしまった……と悟空はしょげる。かといって、我慢できるものでもないのだろうが。
「ばっかだなぁ、悟空さは」
チチは手を差し伸べ、細い指先で悟空の頬を軽くつねった。「痛えったって、せいぜいこんなもんだべ。ちっとも痛かねえだよ」
 無論うそに決まっている。悟空は困ったような顔をするしかない。
「な? これっぽっちだもの。おらぜんぜん平気。後何人産んだってでえじょうぶだと思う」
 それはまだ出産を体験していないから言えた台詞なのかもしれないが、チチは本気だった。
「チチ……」

 それから、夕暮れて、夜が来て、牛魔王がやってきて悟空はチチと離れた。

「おめえでもそんな顔すっことあるだなぁ、悟空さ」
 薄暗い廊下に差し込むのは秋の大きな満月の明かり。そのわずかな明かりの元、牛魔王は大きな手のひらの中で、何か削っている。
「さっきっから何してんだ? おっちゃん」
 じっと扉の向こうの気配をうかがっていた悟空は、声を掛けられようやくそれに気づき、尋ねた。
「これけ? これはな、赤ん坊が生まれたら遊ばせてやろうと思ってよ。山に入ぇって探してきただ」
無骨な手のひらの中を覗き込むと、小さな犬の木彫りが出来上がりかけていた。「そんな落ちつかねえなら、悟空さもやってみっか? オラんときはこれでだいぶ落ち着いたもんだ」
 ちょっと迷って、悟空は首を振った。扱ったことのある刃物といえば、せいぜい斧か鎌か鉈か鋤か。
「オラそんなことしたことねえもん。無理さ」
「そんなこだねえど思うぞ。バイクが直せるならよ」
 微かに低い笑い声が牛魔王の喉から漏れ、悟空はぼんやりとその手つきを眺めた。
「こうやっでな、うまーく丸みをつけるどいいだよ」
―― チチが生まれたときはな、アヒルの形したのを作ってやっただ。5つか6つになるまでもっでたけど、どうしただかなぁ。
 シャ…シャ……と木を削る音がかすかに響く。
―― なんでオラこんな気持ちになるんだろう。
 徐々に出来上がっていく子犬を眺めながら、悟空は思った。
 赤ん坊が生まれてくるのは分かってる。だからチチがあんなになってるってことも。
 だけど赤ん坊ってなんだろう。そりゃ見たことが無いわけじゃない。でも今生まれようとしているのは自分とチチの子なのだ。
 落ち着かない、落ち着かない。
 徐々に月が傾き始め、そして子犬が出来上がりかけた、そのときだった。
 かすかな産声が二人の耳に届いてきたのは。
「おお……っ?」
 牛魔王が小声でつぶやき立ち上がった。
 扉の向こうであがった大きく元気な声を聞いた瞬間、悟空はなぜか動けなくなった。
「悟空さ。ほれ! こっちさきて耳すまして聞いてみろ!」
 牛魔王に引っ張られ、立ち上がった悟空。だがそのとき、牛魔王の背中の向こう、扉の奥に何かいやな空気を感じ取り、悟空ははっと気を張った。何か騒然としている。医者達の興奮したような声も漏れ聞こえてくる。
「…? どうしただ…?」
 牛魔王の顔に不安げな色が浮かび、二人ははっと顔を見合わせた。
 扉はまだ開かない。
「まさか…。チチ…、チチよぉ!」
 妻の思い出と重なってしまったのか、牛魔王が扉を叩くその姿を見て、悟空は自分の背中にゾワッと粟が立つのを感じた。
―― チ、チ…?
 そのとき、扉が細く開き、室内の明かりが廊下に一筋漏れ、悟空と牛魔王は光に目を細めてそちらを見た。
 そこにはひどく動揺した顔つきの看護婦が一人、立っていた。
「孫さん、生まれましたよ。男の子です。ですが……」
看護婦にとって、幾度も伝えた台詞である。だが、次の言葉は。
 二人は息を呑んだ。
「落ち着いて聞いてくださいね、信じられないかも知れませんが、その………」
看護婦は、言葉を詰まらせながら、漸くのように伝えた。「お子さんのお尻に……しっぽが……」




「でかしたぞ! チチ!!」
 後産が終わって、先ほどの部屋に戻ってきたチチは少しはれぼったいような顔をしていた。
 窓辺のベッドに、赤子とともに横たわっている。
「ほれ悟空さ」
牛魔王の手がどんと悟空の背を押した。「何してっだ。早く子供さ抱いてみれ。次はオラの番だでな」
「やんだ、おっ父。あわてねえで」
ちょっとかすれたような声で、チチが言い、ギクシャクした様子の悟空を見上げた。「ほら…悟空さ……」
 チチは少し体をずらして、生まれたばかりの赤ん坊の背中に、悟空の手が入る隙間を作る。
 その柔らかな手つきは、つい昨日まで悟空が見てきたチチの、どの仕草にも当てはまらなくて、なんだか、変な気分になった。
 牛魔王が、チチが。看護婦の手を借りて赤ん坊を抱くぎこちない悟空の姿を息を呑んで見つめる。
「まだ首が座っていませんから、気をつけてくださいね」
「う、うん……」
 看護婦の手が、そっと離れる。
 そして悟空の腕には、軽くて、暖かな感触だけが乗っかった。
「う…ふぐ…ふにゃ……」
 生まれて間もない赤ん坊は、ほんのちょっとむずかりながら潤んだ瞳で悟空を見上げた。
「おうおう、めんこい子でねえか。まだまっかっかだけんどもよ、キリっとした眉毛も目の様子も悟空さそっくりだ」
「うふふ。笑っちまうくれえだべ。鼻の頭の形まで悟空さとおんなじなんだから、おらの血なんでどこにへえってるやら」
「そうでもねえぞ。耳はおめえにそっくりだ」
 赤子を覗き込みながら交わす牛魔王とチチの会話は、悟空の耳をすり抜けていた。
 抱いた腕から、確かな鼓動が伝わってくるのだ。こんな小さな、生まれたばかりの子供が、息をしているのだ。
―― なんだ、この気持ち。
 どきどきする。落ち着かない。
 でも、チチを扉の前で待っていたあのときとも、また違うどきどきだ。
 そういえば、チチと結婚してから、不思議だけれどこれと似たような気持ちになったことが幾度かあった。
 胸が切なくて、そわそわして。
 でも、今はその上、なんだか訳も無く駆けたり、転げまわりたくなって、あんまりにもいつもと違いすぎてどうしていいのか分からない。
―― なんだってんだ?
 おくるみの合間から覗く小さな手に、悟空は思わず指先を近づけた。と、そのとき。
 きゅ……っ。
 その小さな手が、悟空の指を捕まえた。
 まさかそんなことがあろうとは思っても見たかった悟空は、言葉も出せずに息と動きを止めてしまった。
 いや、息は。
 赤ん坊を抱いた瞬間から、もうずっと止めてしまっていたのに気づいても居なかったのだけれど。
「把握反射っていうんですよ」
 固まってしまった悟空の様子があんまりなので、つい微笑みながら看護婦が教える。
 そして。
「……爪が生えてら」
漸くのように、悟空の喉から発せられた一言は、これだった。「こーんな小っちぇえ手に、爪がそろって生えてっぞ、チチ!」
 信じらんねえ! とチチの前に赤子の手を差し出す。
「ほれ、見てみろチチ! 動いてっぞ! こんなちっこいのが!!」
 チチは思わず噴出しそうになって、けだるそうではあったが手を伸ばし、悟空の腕の中に居る赤ん坊の爪の先をちょいちょいとつついた。
「当たりめえだべなぁ、いっくらちっこくっても、立派な人間だもんな。へぇ〜んな、おっ父、ってな?」
―― おっ父?
「どれオラにもみせてけれ、悟空さ」
牛魔王が覆いかぶさるように覗き込む。「そうけそうけ、じっちゃんの指も握っだか。おうおう…本当に小せえ指だだな…あ、あ、……ア、イタタただぁっ!!」
 赤子の力は牛魔王の想像を絶していたようだ。赤くなった指先をふぅふぅと吹く。どうやら並はずれて強いところも悟空に似たようだ。
 チチはそんな二人の様子がおかしくて嬉しくてたまらない様子で、ひとしきり笑ってから、漸く息をついて、悟空にたずねた。
「悟空さ、な、こん子の名前ぇ、どうしよっか」
「名前?」
「そうだ、早くきめでやっで、呼んでやらねばなぁ」
指を振りつつ牛魔王は首をひねった。「なんで名がええだかな。男の子だかんな、強えそうな名前ぇにしてやるとええだ」
 その時。
 赤ん坊の爪と顔を覗き込んでじっと見つめていた悟空が、ふと口を開いた。
「……悟飯」
牛魔王とチチは、ふっと悟空を見た。「悟飯って名前ぇにしようぜ」
「悟飯って、悟空さのじっちゃの…?」
 悟空を拾い、育てたその人の名だ。
「そ……そりゃええだ。ええ名前ぇだ! チチ、お前ぇにも幾度も話たっげな。悟飯さんはオラの兄弟子でよ、えれえ人柄の良が人だっただよ。それにそりゃもう、強がっだ。オラなんでよ、指先ひとつで跳ねとばっしちまうような人だっただぞ。こりゃいい!」
 悟空は横たわったままのチチの傍に背をかがめ、赤ん坊と一緒にその顔を覗き込んだ。
「どうだ? チチ」
 チチは黙って悟空の手に手を重ね、それで赤ん坊の頬に触れた。
 悟空という人は、これでなかなか物や人にこだわらない人間だ。
 でもこの一年と少しの間に、育ててくれたという悟飯のことは不思議なほど話題に出た。多分悟空自身も、今まで彼のことを話す機会に恵まれていなかったのではなかろうか。たとえば亀仙人やクリリンも悟空と暮らしはしたが、それは一年にも満たない時間で、チチほどにあれこれと悟空のことを知りたがることもなかったからだろう。
 そして振り返っても、彼にとって悟飯より他に、誰かに話して聞かせようという人は、居なかったのではなかろうか。
 そういう名前を、悟空は息子につけようと、そういってくれたのだ。
 チチは、かみ締めるようにその名を幾度も口の中で繰り返した。
 悟飯。孫悟飯。
 孫悟空の息子、孫悟飯。
「うん……。……うん! いい名前だな、すっごく!」
「へへ…そっか? チチもそう思うか? …そっかぁ」
悟空は腕に抱いた赤子を見て、大きく笑った。「よおし、決まりだ! お前ぇの名前は孫悟飯だぞ!」
「いい名前ぇだ、本当に良い名前ぇだ! オラが一筆書いてやっからな、楽しみにしでるどええだ」
 はしゃぐ牛魔王につられるように、チチと悟空は目を見合わせて笑った。
 夜明けの光が窓の向こうから差し始める。そして悟空は、まだ首も据わっていない赤子を、嬉しさ全開、といった顔で高々と抱き上げた。
「早く大きくなれよ悟飯。オラが鍛えてやっからな!」
「悟空さっ、ダメだべそったら乱暴しちゃ!!」
 チチの喉から悲鳴があがる。
「でえじょうぶさ、落としたりしねえって。なぁ悟飯!?」
「首が折れっちまうってばよ! おっ父!なんとかしてけれ!!」
 だが赤ん坊は、大分良い度胸をしているようで、すやすやと眠ったままだ。
「悟空さ、オラにも抱かしでけれや。ほう、ほれベロベロベー」
牛魔王が悟空の腕から悟飯を受け取って、あやし始める。「悟飯、じっちゃんだぞ。牛魔王のじっちゃんだぞ」
「オラは父ちゃんだぞ。悟飯〜」
「……もう、二人っとも……」
 チチは苦笑して体の力を抜く。これはある意味先が思いやられそうな予感がする。……せめて自分だけでも厳しく行かねば。
 これがまさしく、チチのこれからの抱負となる。

 そして、それから少しもしない内。
 悟飯は看護婦に抱かれて赤ん坊だけの部屋に移されることになり、牛魔王は離れがたい様子でしぶしぶ悟飯を看護婦に抱き渡した。
 悟空とチチは、悟飯を抱いた看護婦の後について出て行く牛魔王の背中を黙って見送り、悟空はベッドでまどろみ始めたチチを見下ろした。
「……もう痛くねえのか?」
 額から手を離し、悟空は背を伸ばして椅子を引き寄せ、ベッドの傍に腰掛けた。
「ん。……心配してくれてありがとな、悟空さ」
 額の髪を上げる大きな手のひらは、まるで風邪で熱を出したときのように、チチの体温を測っている。病気じゃないと何度言ったら分かるのか。
 でも、だけど、やっぱり嬉しくて。
「そっか。ならいいや」
 あっさりとうなづいて離れていった温かみが、ちょっと寂しくて、思わず名前を呼んだ。
「悟空さ?」
「なんだ?」
「……うぅうん。何でもねえ。呼んでみただけ」
「もう寝ろよ。疲れたんだろ」
 肩の傍、腕を付いたベッドが、軽い音を立ててきしむ。うっすらと目を開け、チチはうなづいた。
「寝るけど……悟空さも寝てねえんだべ? ずっと表にいたんだろ」
 くっつきそうになるまぶたを無理やり上げて、チチは悟空を見つめた。
「まぁな。でもオラもうちっと起きてるよ。なんだか寝れそうにねえしさ」
 隅のほうに肘をつき、のんきに答える。
 腕の中に、悟飯を抱いた温かみが残っている。その産声も耳に残っている。
「……あのさ」
「…うん?」
 眠りに落ちかけているチチは、夢うつつに相槌を打ち、悟空はそんなチチの顔を眺めながら、つぶやくように言った。
「早く帰ってこいよ、チチ。…悟飯と一緒にさ」
「………。……うん」


 それからチチは、心底嬉しげにひとつ微笑んで、あっという間に眠りに落ちていった。
 戻ってきた牛魔王は、チチの寝顔を眺めている悟空の背中を見つけると、音を立てぬようそっと外から扉を閉じ。
 結局チチの傍で居眠りを始めた悟空が、くしゃみひとつするまで放っておいた。

 とある秋の日の、朝のことである。

<END>

 





2003.03.05.

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