チチの修行



チチが洗濯もんたたんでる時、オラはソファに座って、その後姿を眺めてる。
 てれびってのは、どこが面白いんだかわかんねぇし、だったらおめえが魔法みてぇにさっさと服たたむの見てた方がいいだろ?

 あれ…? なんかオラ、最近おめえの後姿ばっかみてんなぁ。



「チチ、チチ」
 何気なく掛けられた悟空の声に、洗濯物をたたんでいたチチは振り返った。首の後ろで一本に縛られた黒髪が、振り返ると同時に背中でさらりと流れ、黒い瞳がまっすぐに悟空の方を向く。
「おめえ、明日どっか行くんか?」
 突然何を言い出したのか、と言う顔でチチは首を傾げた。
「別にどこも行かねえだよ? 買出しなら一昨日行ったばっかしだし、町に用事はねえもの」
「じゃ、オラと一緒に来いよ。オラと一緒ならおめえも筋斗雲に乗れっだろ? だからさ」
「へ?」
 一瞬、何を言われたのか理解できずに、チチは眉を潜めた。
 もしかして、どこか特別な所にでも連れて行ってくれるのだろうか。でも、どこへ? 山の温泉にでも行くつもりか?
 聞き返そうとしたチチの言葉はだが、悟空の台詞に遮られた。
「おめえもたまには修行しねえと、体なまっちまうぞ」
── やっぱし。そんなところだと思ったべ。
 ガッカリするより、なぁんだ、と苦笑が沸いて、チチは悟空の顔を見た。
 この、のほほんとした顔の旦那様は、こう見えてあの天下一武道会で優勝した男である。
 その天下一武道会は、この旦那さまが武舞台をすっかり破壊したのが原因なのかどうなのかは分らぬものの、一応、今年の第23回大会でおしまい。また始まる予定も無い。でも悟空にはそんなことは関係ないし、時々「ピッコロがまた強くなってオラと戦うって言ってたしな!」なんて恐ろしいことを、チチには理解しきれないけれど、嬉しそうに言う。
 目に見えないスピードで動き、観客の前から姿を消した、天津飯戦。
 「あの」ピッコロ大魔王と戦った決勝戦。
 チチはその一部始終を見ていた。胸に大穴を開けられて、体の骨も沢山折られて…。あの時は、本当に悟空が殺されてしまうと思って、幾度も顔を覆ってしまったっけ……。
「おらのこと、修行に誘ってくれるのけ?」
 普通なら、「修行」の部分に「デート」という単語が入りそうなものだが。これがこの夫婦というものだ。
「おう。行くか?」
「そうだなぁ……」
 チチは、一応悩むフリをして、ちらっと悟空の表情を伺った。悟空はチチの返事を待って、ソファから身を乗り出している。
 あの日のことが嘘のように感じられるのは、チチといる時の悟空がいつだって穏やかで暢気で、子供の頃と同じ笑顔を持っているから。
 背丈は自分とさほど変わらないし、鬼のような顔をしているわけでもない。寧ろ年のわりには子供っぽいくらいだ。
 まぁ、多少は……その強い腕やら、堅い筋肉やらで、思い知らされる時もあるのだが。それでも、本質は優しくて。
 だから余計に、信じられない。
 チチはくすっと笑って、悟空の顔を悪戯気に覗き込んだ。
「はは〜ん、分ったべ。さては悟空さ、おらが作った弁当喰いてぇんだろ。こないだテレビの弁当特集見て涎たらしてたもんな」
 悟空がテレビに釘付けになるのは、料理番組をやっている時だけだ。
「そ、そんなことねえけどよ」
悟空は眉をハの字に下げて、でもからっと笑うと、言った「弁当つきなら尚いいや。行こうぜ」
「…うん、行く!」
 チチは大きく頷いた。



 8月ももうそろそろ終わり。
 季節の移り変わりが薄いこの世界でも、夏だけははっきりとやってくる。抜けるような青が続く空を、二人はわた飴のような筋斗雲に乗って一ッ飛び、飛び上がった。
「悟空さ、家があんなに小っこく見える!」
 久しぶりに道着に袖を通して、すらりとした二の腕を露にしているチチは、悟空の肩に掴まって、地上を見下ろし叫んだ。
 悟空は彼女のはしゃぐ声に釣られるように下を見て、いつもの光景を思い出す。チチは毎朝大抵、洗濯物を抱えて庭から悟空を見送ってくれる。
「おめえなんかもっとだぜ? こーんな、こーんな、米っ粒より小せえの」
「米っ粒より?」
「……ノミくれえかな」
「ノミだなんて酷ぇだ!!」
 お掃除洗濯お料理。家で悟空を待つのは好きだ。だけど外でのびのび過ごすのも、勿論大好きなのだ。まして悟空と一緒なら。怒ったような声を出してもそれは悟空に伝わるようで、ただ笑ってかわされた。
 そして……二人がやって来たのは東の森。悟空が時々(例の)夕食のおかずを取りにやってくる場所である。
 そんなこととは露ほども知らぬチチは、筋斗雲から飛び降りると、くるりと辺りを見回して悟空に笑いかけた。
「きれえな所だな、悟空さ」
 この辺りは一度パオズ山の噴火に巻き込まれた辺り。樹齢50年ほどの木々と、適度な空き地がぽつりぽつりとある。もっと東に行けば、100年以上経た密林になるのだが、このあたりはまだ木陰も爽やかで、渡る風も心地よい。
「んじゃ早速やっか」
 ぐっと背を伸ばし、悟空が言う。悟空が少々情緒欠落気味だというのはチチもしっかり分っているから、綺麗云々に感想が無いことには目をつぶり、うんと頷いて、軽く柔軟をすると悟空に向き直った。
 直弟子ではないが、チチも亀仙の亜流として父に武道を習った。構えは悟空と同じだ。
 じゃり…と土を踏み、ちょっと挑むように笑う。
「お手柔らかにな。おら悟空さとはつくりが違うんだから」
「よし、かかってこいよ」
 悟空は構えるまでも無く、ちょっと笑うとチチに向って体を開いた。
「てやぁっ!」
 呼吸をおかず、見事な跳躍でチチは悟空に踊りかかった。
「よっ…と」
 いきなりの膝蹴りを、半身捻ってかわす。
「やっ! たぁっ!」
 正拳突きから肘打ちへの見事なコンビネーション。それからくるりと背中を見せて、反動を利用した裏拳。だが、勿論悟空の身体にはかすりもしない。悟空の顔には、やっぱりなぁという色と、それでも…という不思議そうな色が浮かぶ。
「チチ、おめぇ本気でやってんのか?」
「めぇっちゃくちゃ本気だべ!!」
 かわいい声で、チチは怒鳴る。額に汗が光る。
「そっか、やっぱし本気なんか〜」
「んもう悟空さ! 避けてばっかりいねえで、ちっとは手えだしてけれ! 修行になんねえべ!?」
 自分のはもとより、悟空の。
「んな事言われてもよ…」

そして、1時間後……

「はぁ〜っ。こんなに動いたの、久しぶりだぁ……」
二人は木陰に座り、チチは木の幹に背中を預けて一息ついた。「風が気持ちいい」
 汗を拭ったタオルを握って、体の力を抜き目を閉じる。
 悟空はそんなチチの隣に胡坐をかいて肘を付き、ただ黙ってその様子を眺めている。勿論汗一つかいていない。
「そんな所にいねえで、隣に来たらいいのに」
 チチは薄目を開けて言った。悟空が今座っている場所は、木漏れ日も強い。
「オラここでいい」
「へ〜んな悟空さ」
 クスクス笑って、チチはまた目を閉じた。
 そよ風が頬を撫でる。
「おら弁当詰めてきただよ。もうちっと修行したら食べような」
 今朝頑張って作ったものを、カプセルに詰めて胸元に入れてある。全くもって便利なアイテムだ。
 しかし、返事がなくて目を開ける。
「悟空さ…?」
 悟空はそこにちゃんと居た。でも。
 ザザァ……と二人の間を風が抜けていく。
「悟空さ」
 チチは身を起こし、背を伸ばし、少し身を乗り出した。
 悟空は頬についていた手を外して、ちょっと驚いたような顔をする。
「なんだよ?」
「………うぅん…なんでもねぇ……なんでもねぇけど……」
 今、一瞬。
 悟空がそこから消えてしまうように思えた。
「続きやっか?」
 悟空は立ち上がり、チチに手を差し伸べる。チチは悟空の顔をじっと見つめたままその手を取り、立ち上がった。
 手のぬくもり。
 一度きつく目を閉じて。
 もう一度開く。
 ……ここにいる。
「なんだ? じろじろ見て」
手を握ったままのチチを、不思議そうな顔で見返す。「ヘンな感じすっだろ?」
 もう一度、目を閉じて。
 次に目を開けたとき、悟空がそこに居る事をどうしても、確かめてみたい。
 なぜそんな気持ちになるのかはわからない。
 こうして手を繋いで、確かにそこにいることが分っているのに……なぜ?
「ほら、チチ」
 手を引かれ、ぽん、と背中を押されて、チチは木陰から出た。


 
 悟空の何よりの目標は、修行して『この世の誰より強くなる』事。それ以外のことは全頭の片隅にも無い。
 だからこそあれほど強くなれるのだろう。
「たっ、だだだだっ!!」
 もう一通り身体を動かし、持ってきた敷物を敷いてお昼をたっぷりと食べ、木陰で昼寝をした。
 そしてチチはそのまま木陰で、すっかり空になった食器をカプセルに戻し片付け、その間悟空は自分の修行に精をだしている。
 チチが見ている限りでは、本当に地道な修行だ。走ったり飛んだり、それから、もともと型らしき型も無い亀仙流ではあるけれど、悟空なりに何か考えているらしく、チチも習った一通りの動きを幾度も繰り返したり。
 時々音だけ残して姿が見えなくなるあたり、いかにも悟空である。
「だっ、でぇっ、とあっ!」
 軽々と動いているように見えるが、あれで片足50キロある靴やらリストバンドやらアンダーシャツやら着ているのだから信じられない。
 洗濯をしようと持ち上げて、ぎっくり腰になりかけたのを思い出し、チチは呆れてその横顔を眺めた。
── 悟空さ、すげえ真面目な顔……。
 実は、こうして修行にくっついてきたのははじめてである。
 悟空に誘ってもらわなかったら、もしかしたらこの先もずっとそんなこと、思いつきもしなかったかもしれない。
 なんとなく。なんとなく。
 悟空の事は家で待っていたかった。…なぜ?

ゴロ……ゴロゴロゴロ……

 遠くから微かに聞こえてきた音と、急に翳った日の日差しに、チチは空を見上げた。
「雷……」
 雨が来る。
 チチは立ち上がって、修行に夢中の悟空に向かい、口元に手を当て叫んだ。
「悟空さー! 雨ー!!」
 空気が急に濃密な水の気配を含む。悟空がチチの声に気付いて振り返るか否か、最初の一粒が降りだす。
 はやく、はやく、とせかすチチの手のほうへ、悟空は慌てて駆け込んだ。

……そして、土砂降り。

「ひゃぁ……あんなに晴れてただになぁ」
「にわか雨だなんて珍しいな」
 二人して木陰に並び、空を見上げた。
 遠く西の空は青い。きっと直ぐに上がるだろう。
「そうだ。さっき敷いてた敷物かぶろう、悟空さ」
 葉の重なりから零れ落ちる雨粒に頬を打たれて、チチは一度仕舞ったカプセルを開き、ずるりと青い布を引き出して来た。
 片端は悟空の手に、片端はチチの手に。
「オラが持ってやるよ」
 肩先から手を伸ばし、チチの持った布端を受けとる。
 多分、ただ背をかがめているのが大変だったからとか、そういうことなんだろうとは思うが。
 チチは、そっと悟空の傍に身を寄せた。
「なんだよ…くすぐってぇな」
「…………」
 黙ったまま、もっと傍へ。
 悟空の手が少し迷ったように動いて、それから包むようにチチの肩を抱いた。
 チチは驚いて顔を上げる。悟空がそんな事をするとは。
 悟空はそっぽを向いて、知らん振りをしている。
「……悟空さ?」
「ん?」
「おらとずっと一緒にいてくれる?」
 どこかへ消えたりしないで、傍に居てくれる?
「当たりめえだろ」

 『オヨメって何だっ!?』
 『オヨメにもらうってのは結婚するってことだよ!!』
 『夫婦になって ずーーーっとふたり一緒に暮らすんだぞ…!』

「オラ、おめえとケッコンしたんだからさ」
 あん時はわかんなかったけど、それって結構いいじゃねえか?
 こうやって一緒に雨宿りもできるしさ。
 口には出さず、悟空はただチチの顔を見下ろした。
 チチの深く黒い瞳が悟空の顔をじっとじっと見て、そしてゆっくりと切ない色を和らげた。
「……じゃ、おら明日はまた、家で飯さ作って悟空さのこと、まってる」
 悟空の肩に額を置いて、チチは囁くように言った。
 布を持ったままぽり…と頬をかいて、悟空は尋ねる。
「今日、ヤだったか?」
「ううん、そんなことねえだ。すっごく楽しかっただよ!!」
チチが首を振ると、切りそろえた前髪が悟空の肩に押し付けられる。「悟空さと一日一緒にいれたもんな」
 顔をあげ、にこっと笑ったチチの表情は晴れやかで、悟空はほっと胸を撫で下ろした。
「でも、修行は時々でいい。だって悟空さが修行するのとおんなじで、おらは家で悟空さが帰ぇってくるの待つのが…一番好き」
「チチ……」
「だから、悟空さは安心して修行してきたらいいだよ。おらいつだって美味しい飯いっぺえ作って待ってるから」

 どこにも行ったりしないと、そう言ってくれたもの。

 なぜだか少し不安だった気持ちも、通り雨みたいに何処かに行ってしまった。
 ふと気付けば、辺りは明るく、雲間から射した陽光が水滴に跳ねる。濡れた地面の心地よい匂いがする。
「ほら、止んできた。続き、しよう悟空……」
 言いかけたチチの目の前が、青でふさがれる。
 それから、唇に柔らかな感触。
「……そんでも時々は一緒に来いよ」
「…うん……」



  8月も、もうそろそろ終わり……そんな頃の、話。

 

<END>


 

 

2003.02.??.

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