雨の日に。


 

 「雨降りだなんて……結婚してから初めてでねえけ? 悟空さ」
 昼食の後片付けをしながら、チチはキッチンの窓越しにねずみ色の空を見上げながら、満腹になった腹を抱えてリビングに寝転がっている悟空に声を掛けた。
 だが、聞こえてきたのは付けっぱなしのテレビの音だけで、悟空の返事は無い。
「?」
最後の皿を拭いて、チチがリビングに顔を出すと、悟空がソファで転寝をしていた。「悟空さってば」
 シャツとハーフパンツ一枚でソファの背に足を掛け、大の字に寝転がっている夫の姿の、とてもじゃないがつい先日ピッコロ大魔王を倒し、地球を救ったヒーローとは思えない無防備さに、チチは思わず苦笑した。
 修行する時はとことんし、休む時にはとことん休む。
 それが、悟空のやり方なんだとは、最近知ったことだ。
「そのまんまじゃ風邪ひくだよ……?」
 チチは寝室から毛布を取ってきて、そっと夫の身体にかけた。
 大好きな洗濯も、この雨では出来なくて、かといって悟空にご飯を食べさせてしまえば午後はもう何もする事は無くて。
 クッションを敷き悟空の寝ているソファに背を預け、チチは付けっぱなしのテレビをぼんやり眺める。
 この世界で雨は珍しい。
 それでも荒野の多い西方に比べれば、パオズ山の周辺は水と緑が豊富な土地だ。現に悟空のチチの新居の裏手には、川幅こそさほどではないものの、幾種類もの魚が沢山泳ぐ川が流れているし、周辺には柔らかな下草も広がっている。
 いつも見ている昼のドラマも終わってしまって、チチはリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。
 普段ならここで、干した布団を取り込みに外に出るところなのだが。
 ローテーブルに肘を付き、目を閉じる。
「……静かだなぁ…」
 ポツリと呟く。
 だが雨の日の静けさは、寂しいものではなかった。
 地面やら屋根やらを叩くささやかな雨の音にまぎれて、時々思い出したように鳥の囁く声が聞こえる。
 窓ガラスには雨粒が散っては流れていくし。
 久しぶりの雨を喜んでいる下草の匂いも、扉の隙間を抜けて忍び込んでくる。
── それに、何より……。
 チチは目を閉じたまま、もっと耳を済ませた。
「くか〜……  …くか〜…」
 背後から悟空の心地よさげな寝息が聞こえる。
 …トクン… …トクン… …トクン… …トクン… 
 重なるように響く、かすかな自分の心臓の鼓動。
「…うーん……」
 悟空がもぞもぞと寝返りを打つ気配がする。
 ついでに腹も掻いているらしい。
 いつもは一人だけど、今日は二人。
 それだけで、何だか嬉しい午後。
「ふわ…ぁああぁ…」
 もう一度ソファに背を預けたら、大きなあくびがでて、目の端に涙が浮かんだ。
 実を言えば、夕べはあんまり寝ていないのだ。
 その理由は言わずもがなの新婚夫婦ではあるのだが。
── こうなっちまうと、おらも眠いような気がしてくるだなぁ……。
 チチは手近にあったクッションを引き寄せると胸に抱き、ソファに寄りかかったままでついうとうととし始めてしまった。

 それから2時間後。
「ふぁ…ぁああぁ〜…」
 大きく伸びをして、悟空が目を覚ました。
 目を擦り、もう一度大あくびをしてから、窓の外に目をやると、まだ雨は降り続いていた。壁にかけた時計を見れば、時刻はもう午後4時近い。
「良く寝たな〜もう夕方じゃねぇか」
 肩をまわし、腕をコキコキと鳴らしながら、ソファを降りようとして……

 ぐにっ

 という足の下の感触に驚いて、股の間を覗き込み、何を踏んだか知って、慌てて足を上げた。
 一体なんでそんな所で寝ているのか、チチがクッションを抱えて横たわっていたのである。
「何でこんなトコで寝てんだ?」
 踏んだ時に目ぇ覚まされなくてよかった〜などと思いながら、寝ているチチの身体を跨いで向こう側へ行こうとして、ふと悟空は自分では覚えの無い毛布の存在に気付いた。
 悟空はあまり鋭い方ではなかったが、毛布が一人で飛んでくるわけは無いから、ちょっと考えて見て、つまりこれはチチが寝ている自分に掛けてくれたのだな、と、判断する。
 手にした毛布と寝ているチチ。とすればやることは一つだ。
 悟空は毛布を手にして身を屈めた。
 と、その時チチが軽く唸り、寝返りを打った。
 普段から東方特有のチャイナ服を着ているチチ。
 今日は少し寒かったせいか、長袖のカンフーシャツを着込んでいた。
 だが、そのシャツというのがなかなかのクセモノで、割りと袖がたっぷりとしている分、腕を上げたりすれば、直ぐに捲れてしまうのだ。
 チチは俗に言われている東方美人というやつである。黒々とした睫毛は長く目はくりくりと丸い。色も白い。身体つきはといえば凹凸こそ派手には無いが、鶏ガラでは勿論無かったし、服を着ているとわからないが、出るところは結構出ていたりする。
 それに、なんと言ってもまだ若い、18歳の娘なのである。
 露になった腕のラインはなまめかしく。
 逆に頬の丸みはあどけない。
 毛布をかけてやろうとしていた悟空の手が、夕べのことを思い出し、つい止まってしまったのも無理は無かろう。

『や…悟空さ… …あんっ…』
『な、なにするだ…? や…っ…だめだべ、そんな…』 

 悟空は思わず身を屈める。
「や、やべ……」
── 夕べあんなにしたんだけどな〜。オラどっかおかしいんかな。
「くぅ… …くぅ …くぅ…」
 無防備な寝顔は、ある意味最強だ。
 毛布をかけるに掛けられず、手も出しかねて悟空は寝ているチチの傍でフリーズしたまま、ごくんと唾を飲み込んだ。
 チチを起こさぬよう、そっと額に掛かった髪を指先でよけ、傍に膝を付く。
 柔らかな頬に手を添えて、顔を近づけていく……。
 と、その時だった。
「悟空さっ!」
 チチがまるで悟空の考えていることに気付いたかのように、突然叫んだのだ。
「わっ!!?」
てっきりチチはぐっすり寝込んでいるものと思っていた悟空は、壁際まで一足飛びに飛び離れるが早いか、しどろもどろにこう言った。「オラ何にもしてねぇぞ! まだお天道様出てっもんな!!」
 しかし、悟空の予想に反して、チチは言った。
「またこんなに汚して来てっ! 洗う方の身にもなってみろっ!!」
「………へ…?」
 悟空はおそるおそる、チチの傍に戻った。
「……あぶねえことばっかりしてんだべ…もぅ……」
 言葉の最後は口の中でもごもごと呟かれ、また再び小さな寝息が聞こえはじめた。
── な、なんだ……寝言か。
 『悪いこと』をしようとしていた悟空は、ほっと胸を撫で下ろす。
 だが同時に、さっきまでのドキドキ感は、チチの怒鳴り声と共に何処かにすっ飛んで行ってしまった様だ。
 肩を竦め、悟空はチチの身体に毛布をかけた。
 そして隣に寝転がる。
 どうせやる事も無いし、チチが起きなければご飯も食べられないし。

── ま…、たまにはこういうのもいいかもな。

 悟空は大きく一つあくびをすると、チチの隣に寝転がって目を閉じ、再び眠りに落ちていった。

 

<END>

2003.1.25.

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