お風呂に入ろう2



 

 香ばしい香りが、カプセルハウスの窓から漂ってくる。
 修行を終えて帰ってきた悟空は、くんくんと鼻をうごめかせて、『寿』と書いた札の張られた扉の前に降り立った。
「たでぇま〜!!」
 一日目一杯動いたとは思えないほど元気良く扉を開け放ち、一足重さ50キロの靴をぽんと脱ぎ捨てリビングへ入ると、においはさらに濃くなった。
「お帰り、悟空さっ」
 大きな中華なべをたくみに操りながら、チチが首だけ振り返らせて悟空を迎えてくれる。
 そして、当然のように台所まで侵入して行って、並んだ皿の上の肉をこっそり取ろうなんてしていた悟空の手を、持っていた菜箸でぱしっと叩いた。
「こらっ、つまみ食いしちゃなんねって、何べん言ったら分るだっ」
「イチチ…いいじゃねえかよ、一口くれえ」
 悟空は叩かれた手の甲を擦りながら、チチを見下ろす。
「食事は落ち着いて食うもんだ。早く食いたけりゃ、さっさと風呂入って汗流して、着替えて……」
 それ以上聞いても、どうぜいつもとおんなじ台詞だろうから、と悟空は早々に台所から退散する事にした。
 お風呂にすっだか?それともご飯にするだ? なんて頬を染めていた頃が懐かしいようなチチの言いよう。
 しかし悟空は、走りこんだ脱衣所で服を脱ぎながら、にひひ、と笑った。
 その右手にはいつの間にか、皿の上で一番大きかったから揚げがつままれている。
 目に見えないスピードで戦う世界にいる悟空には、チチの目を盗んでのつまみ食いなど楽勝なのだ。
── つまみ食いのほうが、普通に食うよりちょっと美味え気もすっしな。
 口をもぐもぐさせながら、そう思う。けれど、悟空がホントの本気なら、チチに手を叩かれるようなことも無いだろう。
 結局、悟空はチチをからかって楽しんでいるのかもしれず、それが「ちょっと美味い」原因なのかもしれない。
「悟空さ? バスタオルここにおいて置くかんな。きちんと拭いて上がって来るだぞ?」
 天然温泉のたっぷりとした湯に浸かる悟空に、擦りガラスの向こうからチチの声が掛かった。
 もう、結婚して3ヶ月。
 その間にチチにも悟空の事が大分分ってきた。悟空はまるで大きな子供みたいで……一言多く言わなければ必ず何かしでかしてくれる。
 泥だらけの足で家中歩き回るのもそう。
 疲れたら風呂にも入らず寝てしまうのもそう。
 掃除を頼んでみたら、家の中を竹箒で掃いた事もある。
 それに、人と暮らしたことが…特に異性と暮らしたことが無かったせいか、チチがすること成すこと何もかも珍しいようで、その度尋ねてくる。
『チチ、何してんだ?』
『これってどうやんだ? チチ』
 それはもう、チチ、チチ、チチ……とうるさいほどで。
 でもチチにはそれが嬉しくて。
 困ってしまうから、怒るのだけれど、後ろを向いてこっそり笑ってしまうのだ。
「おーい、チチ」
「? なんだべ?」
 風呂場からの声に、チチは振り返った。
「せっけん無えぞ〜。オラは別にいっけどよ〜」
 そうだった。今朝掃除している時に気づいていたのに、新しいのを出すのを忘れていた。
「ちょっと待っててけろ」
チチは脱衣所の棚から出した白い包みを破いて、曇りガラスの傍に立った。「悟空さ、ほら、せっけん……」
「おう」
 がらり、と戸が引かれる。突然だったから、きゃっと小さく叫んでチチは目をそむけ顔を覆った。
「? なんだよ…」
「んもうっ、ちゃんと隠してけれっていっつも言ってるべっ」
 それでもしっかり指の間から覗いてしまうのが乙女心というものか。
 石鹸を手渡された悟空は、肩を竦めて言った。
「何度も見てるじゃねえか。今更変なやつ」
「それは夜だけのことだっ。 親しき仲にも礼儀あり、って言葉、こないだ教えたべっ」
「朝だって見てっだろ」
「莫迦っ、おらが言ってんのはそういう事ではねえ!!」
 手近にあった小さいタオルを、悟空の胸元に押し付ける。
 ところが悟空は、ひょいと石鹸を風呂場に置くと、そのタオルで身体を拭き始めたのだ。
「…ちょっと待った。悟空さ、もしかしてもう出るのけ?」
「ああ、腹減ってんもんよ」
 何でも無いことのように答える。無論下半身を隠そうともせず。
 チチは、羞恥心そっちのけで悟空の前に仁王立ちになった。
「悟空さ」
「へ?」
 不穏な空気に、頭を拭っていた悟空が動きを止める。
「頭洗ったんけ? 体は? 耳の後ろは!?」
「……あ、うん…。…洗ったぞ……」
 悟空はわざとらしく目を逸らしながら言った。
 ぴりっとチチの表情が変わったのはその時だ。
「うそこけ! 石鹸ねかったんだべ? タオルで擦っただけじゃ、風呂入った事にはなんねんだぞ!」
チチは悟空の耳を引っ張って身体を回転させると、その背中を風呂場に向って押し戻した。「きちんと洗うまでは出てきちゃダメだかんな!」
 全く…とぷりぷりしているチチに、悟空は
「ちぇ……言うんじゃなかった」
 石鹸のことなんて、と小さく呟く。それがチチの耳に入ったから大変だ。
「ひょっとして悟空さ、今まで適当に風呂に入ってたんではねえべな?」
 自分が目を離している時、ずっとそういう風に入ってきたなら、それは妻として見過ごせない。
 チチは、ゆったりとした胴衣を脱ぐとカンフーシャツの袖を捲くった。さらに裸足になって、風呂場に入る。
 なんだなんだ? というように悟空の目が丸くなった。
「そこさ座るだ、悟空さ。……ちゃんと前かくして」
 タオルを手に取り、降ろしたての石鹸をこすり付けると悟空の後ろに陣取る。ミルクの香りがふわっと広がる。
「な…何すんだ……」
 殆ど怯えたような様子で、悟空は椅子ごと後じさった。
 その時悟空の目には、チチが鬼のように見えたという……まだ本物の鬼と出会う前だったから。
 そして…。
「ひゃあ、染みる染みる…止めてくれっチチっ!」
「自業自得だべ」
 わしわしわし、と固い髪の毛が洗われる。そして背中ならまだしも、わき腹まで容赦なく擦られた日には。
「わ、ひゃ、ひゃひゃひゃはは…!! くすぐってえよ!!」
「我慢しろっ」
 銃弾を跳ね返す悟空の身体も、チチの親切心(?)には弱いようだ。
 普段だったらチチも怒っているわけではないから、もう少し優しくしてくれるのに……。
 そういう時は流石の悟空も多少気恥ずかしいが、今日はもう、物のように洗われているわけで。
 羞恥心を感じている暇もない。
「や、やめろってばよ、チチっ!!」
 余りのことに、悟空はとうとうチチの手をふんずかまえて、ぐいと手前に引いた。
「ひゃっ…??」
 泡だらけの手に掴まれて、前抱きにされる。
 チチはあんまりにも軽く身体を移動させられたもので、驚きにきょとんとしていたが、悟空のほうは目に入った水に目をしぱしぱさせながら言った。
「もう勘弁してくれよ。自分でちゃんとやっからさ」
「ぜ…ぜってえだな? 約束するか?」
 まん前にある悟空の顔。内心の動揺を顔に出さぬように抑えながら、チチは無理やり眉を顰めた。
「ぜってえ、ぜってえ。約束すっから。」
 チチの腕と腰を掴んで、ひょいと膝上からどかす。
 この頃の悟空はといえば、チチとあまり背丈も変わらず、まだ若者然とした顔立ちをしていたが、やはり力の差は大きかったのだ。
「だ、だ、だったら、今日はこのくらいで勘弁してやるだ」
 その差を急に見せつけられたような気がして、チチはしどろもどろに悟空の手を解き、脱衣所へ出た。
 子供のようだけど、子供じゃない、悟空。
「だけど道理でいっつも風呂から上がってくんのが早ええと思ってただ…全くもう……」
 足を拭きながら、独り言のように呟くと、それが聞こえたのか、
「一人で入っててもつまんねえからさ」
 ざばぁ…と頭から湯を被りながら、悟空は擦りガラスの向こうから、言った。

「だから今度また一緒に入ろうな」



<END>

 


こう…徐々にアダルティ(?)な感じを目指して…ええ。
2003.01.31.

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