青いバイク 悟空とチチ


 それは、悟空とチチが結婚式を挙げ、紆余曲折ありながらも一週間ほどの時間が流れた頃のことだった。


「悟空さー!? どこいっちまっただ〜!?」
 もう少しで昼になろうという頃、パオズ山の麓に立った小さな家の窓から顔を出し、チチは外に向って声を掛けた。
 朝食を食べるが早いか、修行だと言って毎日家を飛び出していってしまう夫の姿を探しているのである。
 だが、家を出てあちこち見渡してみても、どこにも居ない。
「しょうがねぇな、もう……」
 きっと一つ二つ山を越えどこかへ行ってしまったんだろう。昼時になってお腹が減らない限りきっと戻ってなんか来ない。
 チチは、そう判断すると裏庭に回って、彼女の身体つきにしてはちょっと車高の高い、簡易バイクを引っ張り出してきた。
「運転すんには大っきすぎっかんな。…あんまり無理して乗りたくねえだけども」
 洗濯物を干す時に使っている足場に上って、チチは丈の長いチャイナ服を腿の辺りまでたくしあげ、後ろに足をからげてバイクに跨った。
 そのバイクは、チチと悟空と牛魔王とで、亀仙人のかめはめ波を喰らって跡形も無くなった城から引き上げたものを仕舞った蔵に、新生活に必要な物を取りに行っていた時に見つけたものだった。

 ガラクタの山のに半分身体を埋めるようにして、悟空と牛魔王がチチの言うものをいちいち探しては外に運び出している。
「あと、釜が二つくれぇあるはずだべ。それに鍋ももう一つ欲しいだな」
 裕福なのだから、それくらい新しい物を買ってしまえばいいと思わないでもないが、そこはそれ、正しい花嫁修業をしたチチだから、本物の『良く出来た妻』は倹約という言葉を大切にするものだ、と思い込んでいるし、それはある意味正しい。
「あ〜ダメだ、こっちは底に穴が開いちまってるだよ…」
 蔵の外で、出してきたものを試すがえすしては、嬉しそうに笑ったり眉をヘの字に落としているそんなチチの背中を一休みしながら眺めて、牛魔王は悟空にそっと耳打ちした。
「初日からこき使われてるだな。…悟空さ、あんまし尻の下に引かれてねぇで、時々はびしっと言わねぇどダメだぞ」
 二人はその前日に式を挙げたばかりの、新婚ほやほやだった。だから選んだ家財道具はこのままパオズ山のふもとの家に運ばれる事になる。それもまた牛魔王と悟空の仕事になるに違いなかった。
 悟空はシャツの袖で、額に落ちてきた煤を拭い、怪訝そうな顔をして振り返った。
こき使われる、という言葉も尻の下云々という言葉も、彼にはあまりピンとこなかった。分ったのは、ちゃんと手伝えばあの新しい家でも牛魔王の家でも、どちらでも美味しいご飯が食べられるようになる、と言う事と……色々言いながらも嬉しそうな顔をしている牛魔王のこと、チチのこと。
 悟空はただ笑って答えると、言われたものを全部背負って日の当たる蔵の外へ運び出した。
「ありがと、悟空さ」
 出てきた悟空の手からフライパンを受け取ったチチは、これで一通り揃った家財道具──古く味のでた箪笥や、食事用のテーブルや、台所用品、それからベッドの天蓋まで──に満足した様子だった。あとは ホイポイカプセルに詰め込んで、新しい家にどんどん詰め込んでいけばいい。
 牛魔王の買ってくれた家はそんなに狭くも広くも無い、二人で住むに丁度良いくらいだったから、量としてもこんなものだろう。
 彼女は悟空の頬についた煤を、指に唾をつけてちょいちょいと拭くと、蔵の中の父に声をかけた。
「おっ父! もういいだよ。ありがとう」
 だが、薄暗い蔵の中から父親は出てくる気配を見せない。「おっ父…?」
 悟空とチチは目を見交わした。
 連れ立って中に入ると、牛魔王は大きな身体をちぢこませ、蔵の隅で何かを懸命に引っ張り出そうとしていた。
「手伝おうか、おっちゃん」
 そして、ガラクタの山から、悟空の手を借りて外に出されてきたのが、この青く塗装された古いバイクだった。
「なんだべ、見たことねぇけど…こんなん家にあったっけか」
 首を捻るチチに、牛魔王は笑った。
「ははは…チチ、これはおらが若けぇ頃乗ってたやつだ。どうだべ、まだ動くかな」
 差しっぱなしのキーをまわし、スイッチを入れたがバイクはうんともスンとも言わなかった。
「ダメか…」
 少し寂しそうな顔をして牛魔王はバイクを見下ろした。
「死んじまったのか? こいつ」
 悟空の言葉に、牛魔王は曖昧に首を傾げた。
「さあ…長いこと置きっぱなしだったかんな。オイルが腐っていたりすんだべ。エンジンもバラして掃除してみりゃ治っかもしんねぇけど」
 一大市場を占めるカプセルコーポレーションのマークも入っていない。本当に古くて、自転車みたいに華奢なバイク。
「へぇ……」
 その時の悟空は、ただそういっただけだった。でも。
 あれからいつの間にか悟空は、牛魔王の元に通っては、男二人だけで、どうにかそのバイクを治してしまったようだったのだ。
 悟空は修行に行っているものとばかり思って、何にも知らずにいたチチとしては、意外な悟空の一面を見た気がしたものだ。

「…うーん、やっぱり足がとどかねぇだ…」
 父親は若いときから体格の良い男だったのだ。踏み台から、布の靴を履いた足を離すことを躊躇いながら、太腿で胴体を締めて、チチは恐る恐るキーをまわし、スタートボタンを押した。
 するとすっかり調子の良くなっていたエンジンは、軽快な音を立てて動き出した。
「かかった! えっと…あとはこのハンドルを……」
 こう見えて免許もちである……原付でしかも2年間ものペーパードライバーではあったが。
 チチはアクセルを捻った。
「て、え、えっ?」
勿論ズルズルとバイクは動き出し。「ふんぎゃー!!!!!」
 あっという間に高速で走り出した。
── バイクって、バイクって…こんなにスピード出るもんだったべかー!!?
 チチが驚いたのも無理は無い。そのバイク、実は悟空と牛魔王の手によって、超高速レース用に大改造されていたのである。
「ひゃあぁあああ!」
 古いとは言え完全オートマのバイクである。エンジンをかけてバランスを取ってさえ居れば乗れると言う事だけは分っているのだが。
 必死でハンドルを握り、チチは目を細めた。風圧で顔が痛いくらいのスピードが出ている。
 とてもではないが、しがみつく以上のことは出来ない。しかも田舎道の凹凸がさらに運転を困難にする。それでもチチだから乗っている事が出来るわけで、他の誰かだったらとっくの昔に振り落とされていた所だろう。…いや、だがその方が帰ってよかったのかもしれない。
 バイクに振り回されて、彼女はさらに強くアクセルを捻った。ブレーキを握っても居るが、それでは何の役にも立たない。彼女は自転車のように足で地面に擦りバイクを止めようとしたが、足は勿論届かない。
「きゃぁああああ!!」
 あっという間に流れていく辺りの景色に、とうとうチチは気を失いそうになって、ぎゅっと目をつぶってしまった。それが良くないことだと分っていたのに。
 その時、強い衝撃と共に、チチの体がふわり…っ と宙を舞った。
 青いバイクの前輪が、大きな石にぶつかって、自分を放り投げたのが、なぜかスローモーションのように見え、分った。
── おら、ここで死んじまうんだべか……まだ新婚ほやほやの、幸せ一杯の、ピチピチギャルだのに……。
 うっすらとしか覚えていない母の顔、小さい悟空の顔、修行を付けてくれる父親の顔、それに…にかっと笑う今の悟空の顔が走馬灯のように脳裏を過った…。

「おい、おめえ何やってんだ?」
「……悟空さの幻が見えるだ…おら天国に来れたんだべか」
 チチの目の前に、不思議そうな顔をした悟空の姿があった。その向こうには青い空が広がっていて、身体は何かに包まれるように温かくて。
「ごっ…悟空さ!?」
「おう」
 腕の中で飛び起きたチチの顔を覗き込んだまま、悟空は筋斗雲を地面に寄せた。
「おら…助かっただか?」
 悟空に抱かれたまま筋斗雲を下り、チチは悟空に尋ねた。
 チチを地面に降ろそうとしていた悟空は、彼女の微かに震えている体と声に気付いた。
 脇の草むらでは前輪をカラカラと回して青いバイクが倒れている。その傍の草の上に彼女を座らせ、悟空はチチの額に浮かんだ冷や汗拭ってやった。脳裏に一週間前の牛魔王の言葉が過る。
── 『時々はびしっと言わなきゃダメだぞ…』
「おめぇよ、その…あんましあぶねぇことすんなよ。オラ、ちっと吃驚したぞ」
昼近くになり、腹をすかせて戻ってきていたから良かったものの、もしたまたまここを通りかかっていなかったら、多分チチの身体はあのまま地面に叩きつけられていただろう。鍛えていて丈夫な身体をしているとはいえ、チチは…女の子だから。そんな事になったら耐えられないだろう。
 バイクに乗っていたせいでチャイナドレスの裾がめくれ上がり、むき出しになったチチの白い足がちらりと見えて、悟空はなんとなく気恥ずかしくなって目をそらした。
 そう、結婚すると言ってからふた月、そして結婚してから一週間。悟空は初めゆっくりと、それから急激に、男女の違いと言うものが分り始めていたのである。
 ところが。
「悟空さの莫迦っ!!」
目に一杯の涙を湛えて、チチは悟空の胸を叩いた。「莫迦ばかばかっ! 誰のせいでこんな目にあったと思ってるだ!!」
「だ…誰のせいって……」
「悟空さのせいだべ? 街まで連れてっ貰いてかったのに、呼んでもどこにもいねえんだもん!」
 別に元々約束していたわけではない。でも……
「おい…チチ…」
 がむしゃらに叩きつけてくるチチの拳を受けながら、悟空は困ったような顔をした。
 チチに泣かれると、弱ってしまう。
 何を言ってやればいいのか、どうしてやれば無き止むのか、さっぱりわからない。
「そんなに泣くなよ…。オラが悪かったってば」
「怖かったんだからな! すっげぇ、すっげぇ怖かったんだからっ」
「悪かったってばよ…」
 悟空は泣き続けるチチの肩をそっと抱いた。

── じいちゃん、じいちゃん…どこにいんだ?
── じいちゃん……オラ腹減ったよぅ…。

呼んでも呼んでも、誰も来ないのは、辛い。
誰も居ない山の中で、ひとりぽっちになるのは、寂しくて寂しくて。

「……悟空さ?」
 黙ったままの悟空を不審に思い、しゃくりあげながらもチチが顔を上げたのはそれからしばらく経ってからのことだった。
 肩を抱かれたまま、悟空の顔を見上げる。それから、辺りを見回した。
 青いバイクはそのまま草の中に埋もれていた。
「あ……」
 チチははっとして悟空とバイクを交互に見た。幾ら物に無頓着な悟空とて、自分で治したバイクを大事にしていなかったとは思えない。それを自分は勝手に持ち出して、転んで台無しにしてしまったかもしれないのだ。
「ご…ごめんなさい、悟空さ!」
 さっきとは違う意味で顔色を変え、チチは悟空の胸元に手を掛けた。「おらどうかしてただ。助けてもらってお礼もいわねぇで、それにバイクが…」
 慌てて立ち上がろうとしたチチの手を、悟空が引きとめた。
「…悟空……さ?」
 深い漆黒の目の色に、チチははっとして動けなくなる。
「チチ、おめえ…おめえって…、その、えっと……」
「…?」
 チチは訝しげに首を傾げた。もどかしそうな悟空の様子に引き込まれるように、また腰を下ろして首をかしげる。
「おめえ、オラの家族なんだな」
 ぽん、と手を叩きそう言った悟空の顔は、納得がいったというように晴れやかだった。
── バイクは物でしかなくて、チチは家族で。…とても比べ物にはならなくて。
 訳が分らずきょとんとしているチチの手を取り、悟空は勢い良く立ち上がった。
「家に帰ろうぜ、腹へってんだ」
「へ? でも……」
 間近にある悟空の顔を見上げる。だが彼はさっさとチチの手を離し、バイクの様子を見始めた。車体を起こして軽く草を払い、キーを改めて回す。
 ドルルルル…!
「壊れてなかっただか! 良かったぁ!」
 軽快なエンジン音にチチは心底嬉しそうな顔をした。
 悟空は道までバイクを引っ張り出し、さっと跨って彼女を振り返る。
「早く乗れよ、チチ」
「乗れって…おらと二人で?」
 どきりと心臓が跳ねて、ほっぺたが少し染まった。
── やんだ。恋人同士みたいでねえけ!
「あったりめぇだろ。それともおめえ、筋斗雲で帰っか?」
 思わず彼女は大きく首を横に振った。筋斗雲には乗れることは乗れるが、先日2人で試してみた所、全く操ることが出来なかったのだ。
 それが、持ち主の悟空しかできない事なのか、それとも単に彼女に運転センスが無いのか、どちらなのかは分らない。
 チチは先ほどと同じように、少し高い足場を見つけて悟空の後ろに腰掛けた。
「もっとちゃんと掴まれよ。さっきみてぇに振り落とされっちまうぞ」
 宙を飛んだことを思い出し、チチはぎゅっと悟空の腰に手を回して抱きついた。
 そして青いバイクは走り出す。
 走る道は先ほどと同じで、きっとスピードだって大して変わらないだろうに、なぜか今度は流れる緑の風景も安心して眺められ、しかも、心が躍るような気さえした。
 チチは気恥ずかしさと嬉しさにほんのりと染まった頬を、悟空の背中にそっと押し付けた。
「チチ、おめえ今度っから出かける時は先にオラに言えよ」
エンジンの音に負けないような声で、悟空が叫ぶ。「ちゃんと連れてってやっからさ」
 町は人が多くてあんまり得意では無いけれど、チチを送るくらいだったら別にいいだろう。
……自分の知らないところで、死にそうな危ない目に遭うよりは。
……自分が何処かに取り残されるよりは。
 呼んだ先に、振り返ってくれる家族が居るのは、とても幸せな事だという事だ。
「ほ…ほんとけ? 悟空さ!」
チチは嬉しさに飛び上がらんばかりで尋ねた。「いつでも? 何回でも??」
「ああ。いいぞ」
「有難う! 悟空さ!」
 ぎゅうっと悟空の身体を抱きしめる。
「お、おいっ…チチっ! あんまし強くひっつくなって…」
 柔らかな感触が背中に当たる。
「やんだ! 離さねえもん」
 ふざけた様子で、さらにきつく抱きつき頬を寄せる。
 なんだか悟空は前かがみでバイクがちょっとふらついたりしていたけれども。
 そんな事には気付かずチチはしっかりと悟空の背中に張り付いて、家に戻る事になったのであった。





 そして……
「今日町まで連れてってって言っただろ!!」
「わりぃ。すっかり忘れてた」
 悟空が朝した約束を昼まで覚えているのが3度に一度だと知ったことだとか。
 実は彼が『免許証』と言う言葉さえ知らなかったのだと分り、結局チチが教習所に通うことになるのは。



 また、後日の話になるのでありました。




     

    2001.06.??.


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