青いバイク 悟空と牛魔王



 パオズ山からフライパン山辺りというのは、世界の中で東の果ての、それも割合北のほうに位置する。
 年中の気候はほぼ一定で、上着を羽織らなければ過ごせないほど寒すぎもせず、少し動けば舌を出してしまうような暑い土地でもない。
 それは、一時火の山となった事から「フライパン山」と呼ばれるようになった牛魔王の棲家が、かつては涼景山と呼ばれて居た事からも分る。
 ただし、並みの人間が生活をするには、多少の勇気が必要だ。
 なぜならばこの辺りには、大型の肉食獣や古代恐竜などが良く出没するからである。
 だからこの辺りに住む人々は大抵一箇所に寄り集まり、村や町を築いている。そして自衛の為に銃を持ったり高く丈夫な塀を町に施すのが当たり前だ。
 しかし、物事にはいつでも例外というものがあったり居たりする。
 それが彼ら……孫悟空とその周辺の人々。





「おっちゃ〜ん! 牛魔王のおっちゃーん!」
 その日の朝、一人朝食を済ませ新聞に目を通しつつ珈琲を啜っていた牛魔王は、表で自分の名を呼ぶ大声に、顔を上げた。
「なんだ、悟空さでねぇが」
 新聞を置き、キングサイズのカプセルハウスの玄関にのっそり出ると、そこに声の主が、当たり前のように笑って立っていた。その後ろの空を翼竜が滑空している。牛魔王は突然の訪問に驚きつつも、悟空の背後に小さな人影が無い事に気付き、辺りを見回した。「チチはどうしただ?」
「チチはいねえよ」
よっ、と挨拶しながら、当たり前のように悟空は言った。「家で色々すっことあるんだってさ」
 その言葉を聞いた牛魔王は、新婚ほやほやの愛娘が、『悟空さの為に』と気負って働いている姿を想像し、思わず微笑んだ。
「まぁとにかく家ん中入ったらどうだ」
 以前の牛魔王を知る人が今の彼を見たら、酷く驚くことだろう……かつての彼は宝を守る為、人殺しさえした男だ。
 それが、悟空という婿を迎えてニコニコと微笑んでいる。
「オラ用事があって来たんだ」
 だが悟空は玄関から動かず、家に入りかけた牛魔王の背中に言った。
 牛魔王は首をかしげる。
 普段は修行修行で、その他の目的なぞ持ったためしが無いのではないかと思われる悟空だ、組み手の相手でもして欲しいのだろうか。
「悟空さがおらにか?」
 悟空は今でも十分に強い。強すぎる程だから、もし修行に本気で付き合ってくれなどと言われたら、ちょっと困る。
 だが悟空は、思いも寄らぬことを口にしたのだ。
「昨日見た蔵ん中に、青いバイクがあったろ? あれオラにくんねえか?」
「青いバイク……?」
牛魔王は首を傾げた。「呉れるくれえ訳ねえが、あれは壊れでて動かねかったべ。もってってどうするだ」
「そんなん、直せばいいだけだろ?」
「直し方知ってんのか、悟空さ」
「知んねえけどよ」
 牛魔王はさらに疑問に思う。悟空は筋斗雲を持っている。
 パオズ山とフライパン山は近いように見えて100公里以上離れている。だのに、なんでもない事のように朝一番、こんな風に訪れて来れるのはその筋斗雲のお陰だ。
 それに悟空は足が速い。
 バイクになど乗らずともいい理由が目白押しの男だ。
 もっと言えば、彼がバイクに興味を持って居るなどと一言だって言ったのを聞いたことは無いし、乗ったことがあるかどうかさえ怪しい。
 それが、なぜ突然?
「バイクが欲しいんなら、いっくらでも新しいの買ってやるだよ。何もあんな古いの持ってかねぇでもいいべ」
「あれがいいんだ」
 物に執着しない悟空が、珍しく言った。
「まぁ、そごまであれがいいっで言うんなら、おら寧ろ歓迎だけども」
 牛魔王は悟空をつれて昨日の蔵へ向った。




 青いバイクが陽光にさらされている。
「さて、どっから手をつけるかな」
 仕舞いこんでいた工具を出し、必要な材料を町で買い足して、牛魔王と悟空は蔵の前に簡易工房を作り青いバイクに向き合った。
 つもり積もっていた埃を拭い、泥を落としただけで、すっかり様変わりしたそれは、実の所牛魔王にとって思い出の一台だ。
 まだ若かった頃、チチの母親と2人乗りしては遠出していた。
 彼女は、あまり身体の丈夫な方ではなく、遠出と言ってもその辺りの山や、遠くても川沿いに下って海へ出る程度のことしか出来なかったが、人にやっても有り余るほどに強い身体をしていた牛魔王は、太陽の下でも儚げな彼女に、自分の半身半霊をもし譲れるものならばと、そう思っていたものだ。
 結局、彼女はチチを生んでからしばらくして、亡くなってしまったけれども。
 チチは成長するごとに母親に似て、見るたびに懐かしいような嬉しいような…それから少し切ないような気分になった。
「もっと聞かしてくれよ」
 牛魔王の指示する通りにナットを緩めながら、悟空が促した。
 そういえば悟空は捨て子だったのだったな、と牛魔王は思い出す。
 兄弟子の孫悟飯は大層穏やかでよい人間であったが、それでも母という存在にはなり得なかっただろう。
「…ああ、あいつの話ならいっぺえあるだぞ」
 それから3日、悟空と牛魔王は青いバイクを間に挟み、色々な話をした。
 悟空から聞いたのは、山で暮らしていた頃のこと、修行で出会った人々の事。
 牛魔王が話したのは、釣りやバイクや車の事など。
 息子の無い牛魔王にとってはかなり楽しい数日間だった。



そして3日目の夕暮れ。
 最後のボルト閉めながら、悟空がふと言った。
「変な話なんだけど、オラさ」
 ……小っちぇえ頃には、山を出るって事も考えた事ねかったから、毎日じっちゃんと暮らした家へ、当たり前ぇに戻ってたけど、ここんとこはずっと修行修行で、いろんな所に行って、あの家に戻る事も無かったべ? いつの間にかそれが当たり前でよ、オラ気にもしてなかった。
 それが……昨日も一昨日も、オラちゃんと家に帰ってんだ。
 言っとくけど、じっちゃんとこじゃねえぞ?
 別にさ、戻んなくてもいいじゃねえか? チチの作る飯はそりゃ美味ぇけど、腹が減ったら火ぃ起こして何か焼いて食えばいっだろ?
 明日もあさっても、どうせオラ修行に出かけんだからさ。
 だのに今日も日が暮れたら、チチのいる家に帰ろうって思ってる。
「そんな風に思うなんて久しぶりでさ、だから、それが不思議な気がすんだ」

「そりゃ悟空さ、当たりめえの事だべ」
 油に汚れた手を拭きながら、牛魔王は微かに笑った。
「悟空さが帰る場所は、家じゃねえんだ。悟飯さの所だったり、チチんどこだったり、そういう事だ」
 たとえばおらが城に戻りてえと思っでたんは、宝が一杯あったからだけではねえ。
 城にいっぺえ思い出があったからだ。チチの母ちゃんの写真も、この青いバイクもみんな…。
 だからよ、悟空さ。
 その気持ちは、おらにとって嬉しいことだ。
 悟空さ。
 おらの本当の宝もんは、チチだだよ。
「ああ見えて結構気の小せえ娘だ。大事にしてやってけれな」


 オイルを抜き、エンジンをばらし、磨き、もう一度組み立てる。
 やれるだけのことはやり、それ以上のこともした、3日間。
 あとは、エンジンさえ掛かればいい。
「さあ悟空さ、キーをまわしてみるだよ」
 バイクに跨った悟空の背中にぽんと手を置き、牛魔王が声を掛ける。
 悟空が頷いてキーを捻ると、強い振動と共に、バイクは息を吹き返した。
「……じゃ、オラ帰る」
 しみじみとバイクを見つめている牛魔王に、悟空はあっさりとした口調で言った。
 これが悟空という人間なのだろうと、牛魔王は苦笑して、それから言った。
「帰ったらチチに聞いてみろ。何で飯作って待っててくれるんだって」
「うん。分った」


あっという間に道の向こうへ消えていく悟空の後姿を見送りながら、牛魔王はゆっくりと手を下ろした。
 夕闇が迫りつつある中、家に入ろうとしてふと気付く。
── そういえば、ここ数日寂しいとは思わねがっただな…。
 チチが嫁に出た。
 しばらく一緒に暮らしていた悟空も当然居なくなった。
 狭いと思っていた家が、急に広く感じられた初めの晩が、今更のように思い出された。
『悟空さ、バイクに興味があんのけ?』
『ん〜…』
── ……まさがだなぁ。
 そこまで気の効く男ではないような気がするが、どうだろう。

 そして牛魔王が一人の食事を摂り終わった頃、青いバイクに跨った悟空は漸くパオズ山の麓の家に戻ってきた。
「お帰り、悟空さ」
暖かな部屋の明かりを背景に、チチが悟空を玄関まで迎えに出てくる。そしてそこに例のバイクがあることに気付いて、少し驚いたような顔をした。「あんれまぁ、悟空さっでば、修行に行ってたんではなかったんけ?」
 台所の方からはよい香りが漂ってくる。悟空は鼻をひくひくとさせて、にっと笑った。
 どうやらさきほど牛魔王に言われたことはもうすっかり忘れてしまった様子だ。
「今日の飯なんだ?」
 昨日と同じ台詞に、だがチチは嬉しそうに答える。
「今日け?  ボウボウ魚のから揚げだ」
「へー。食った事ねえけど美味そうな名前だな」
「栄養だってたっぷりだだよ」

 二人の会話は閉じた扉の中に吸い込まれるように消えて行き。
 玄関脇に留められた青いバイクが、淡い月明りを受けて鈍く光りながら、静かに残されていた。

<END>



 

2003.01.26

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