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44.作戦会議

  


 

 「サム・リー将軍がお見えになりました。」
 前を行く赤い髪の青年が自分の名を伝えると、重厚な扉がすっと内側に開いた。毛足の長い赤い絨毯の上に足を止めて何が起きるのかと斜に構えていた王立派遣軍の将軍、サム・リーは今日、大変重要なことを女王に伝えるために自ら聖地へと赴いていた。
 彼とて聖地に足を踏み入れるのは初めての事である。一足先に聖地入りした部下達…主にレブンとヴィクトールから多少の知識は得ていたもののやはりその特殊さには…特に「正式」な面会については溜息をつくしかなかった。
 彼自身軍において上層部に位置するだけあって、こういった謁見に手順は欠かせないものと知っているが…。
 聖地の門で茶色い髪の青年が出迎えてきたのはまだ分かる。その後ターバンを頭に巻いた青年の長々とした話ともてなしの茶席。そこから引き継ぐようにまた茶色い髪の青年。やっと女王の間に通されるのかと思いきや、きらびやかな部屋に通され、態度のでかい金髪の青年に書類を提出。一体何なんだと思うまもなく更に傍に控えていた赤い髪の青年がここまでを案内してきた。
――そんな場合ではないというのに困ったものだ…。
 扉の傍で、あたかも見張り役のように控えた赤い髪の青年とちらりと見、サム・リーは謁見の間に足を踏み入れながら、こんなことなら部下達と混じってこっそり入ってきてしまえばよかった、などと溜息をついた。どうやら彼は実質剛健のヴィクトールの上司だけあって、また華美を好まぬタイプの軍人であるようだった。
 だが、彼は兎も角扉をくぐった。尋常では人が通ることの無い扉を。
 そこには女王がいた。彼女の背中には黄金の翼が淡く光り、その体にこちらが知らぬうちに心を奪われてしまいそうなオーラを纏って立っている。あどけない姿形に目が行ったのはその後。
「ようこそ。聖地へ。」
 動きを止めたサム・リーに声が掛けられた。彼がとそちらを振り返るとそこに月と星のエンブレムを掲げた女性が立っていた。女王のオーラが外に向かって放たれる陽光ならば、彼女の纏うのは凛とした月明り。圧迫するほどの気配は無いが漂う気品が彼女の育ちのよさを感じさせる。
 これが女王と補佐官か。…年若く見える。だが年齢不詳の気もある。サム・リーは女王を前にしながら内心首を傾げたが、その後視線を延ばした先に並ぶ3人の青年の姿に…いや、正しくはそのうちの2人を見て、自分は多少甘かったようだと思った。
 一人は自分と茶を飲んだ青年。もう一人はあの憮然とした態度の青年だ。
「陛下。こちらは王立派遣軍サム・リー将軍でらっしゃいます。…そしてリー将軍。こちらにいらっしゃるのが光の守護聖ジュリアス様、闇の守護聖クラヴィス様。そして地の守護聖ルヴァ様です。」
 促されて一人一人が僅かこくりと頷く。これが先ほどまで自分と和やかに話しをしていた青年だろうか。手を伸ばせばすぐそこにいた人物と同じだろうか。彼とて守護聖達の姿を予測していなかったわけではない。だがあまりにも違いすぎる。
「早速だが現在の状況の報告と、今後の展開を簡潔に説明してもらおう。」
 光の守護聖ジュリアスがサム・リーを促した。彼らの変わり身に僅か驚きの色を浮かべていたサム・リーも気を取り直し、何事も無かったかのように背筋を伸ばした。幾多の場数を踏んだ初老の軍人ならではの落ち着きといったところか。
「では…まず惑星ネプラ第三の件から参りましょう。ヴィクトールからいくつか報告を受けていらっしゃるものと思いますが、ここで新たに入った情報と共に纏めさせていただきます。」
 全ての情報は彼の優れた頭の中に寸分違わず蓄えられている。そうでなければ総指揮官など勤まりはしない。
「当初ネプラ第三惑星に持ち込まれた爆発物の持ち込みルートをさぐるため、更にその目的を探るため、我々王立派遣軍は密かに一隊をかの惑星に潜入・捜査させておりました。これは軍内部でも極秘任務でした。爆薬というのはご存知のとおり現在はウォン財閥が一手に交易を引き受ける独占市場のひとつであり、加工された製品は軍の許可なくしてどうこうできるものではないからです。」
 ジュリアスが小さく頷く。そこまでは明確であったし、報告も受けていたからだ。
 彼は白髪の混じった茶色い髪とはしばみ色の瞳をもっていた。そして話しながら彼のその瞳は時に視線を外しながらも物怖じせずジュリアスたちを見詰め、タイミングよく彼らの視線を捉えることで、何が重要な部分か、そして何処が問題なのかをしっかりと伝える技術を持っていた。
「ここで重要なのは持ち込まれた爆発物の名称がP-118と呼ばれる古い型…いまではあまりお目見えしなくなった型であったことです。そしてそれは我々にとって…苦い思い出でもありました。」
彼は、言葉どおり眉を潜めた。「あの爆弾は、5年前惑星ブエナで起きた例の事件で使われたものです。」
 しん…とその場が静まった。女王アンジェリークの横顔には影が指して見え、ロザリアがそれを憂い顔で見つめる。
「ブエナに爆発物を持ち込む目的は、かの星の鉱物資源を狙うものであると突きとめ、現在、2個小隊が先行潜入中。先の一隊と合流。トレント中隊はすでにあちらに向かわせました。…その次点ですでに惑星ネプラに我々軍隊の目が注がれているという情報は、軍内に知れ渡り、また『生き残りでチームを組んだ』という噂が流れました。」
 そんな自分の状況が、なぜおかしいのか彼は僅かに微笑んだ。
「その結果、組織が動きました。……彼らの名は『6』。」
初めて聞いたその名前に、守護聖たちは息を潜めた。「初めは何を意味するのかわかりませんでした。ですが思い当たることがひとつ…あの事故で生き残った軍関係者はヴィクトール・ミーシャ・レブン・トレント・マニーシャの5名のみ。6という数字は…もしかしたら生き残れたかもしれないもう一人を示すのではないかと…我々は思っています。 つまり、やはりこれは我々に対する…復讐の意味も…込められているのではないかと。」
「亡くなった人の大部分は軍関係の方々でしたね。」
 ルヴァが気の毒そうに言った。
「私は…ヴィクトールたちを囮に使うつもりです。ですが彼らもそれを理解してくれています。」
 ヴィクトールは確かに知っていた。だからこそ自分に言い聞かせるように、アンジェリークに伝えたのだ。自らあの事件を受け止めるときが来たのだ、と。
「その後私の独断で、こちらへ協力を要請しました。惑星ネプラに対してはすでに一個中隊を向かわせておりますが、その後の報告によりますと組織は地下に潜んでおり、中隊では人員が足りない。今から援軍を派遣しても間に合いません。…こちらの守護聖様の、こんな形での協力が得られるとは、思ってもおりませんでしたが…。」
 サムは直接オスカーとオリヴィエに会ったことは無く、ゆえに今扉の外に控えている青年がオスカーであると知らなかったが、その腕の程は部下達から聞き知っていた。
「そうですね。確かにあなたからの伝言は『次元回廊を使わせて欲しい』とそれだけでした。二人の派遣を決めたのはこちらです。」
 と、ルヴァはちらりと女王アンジェリークを見た。
 彼女にはあの惑星ブエナの火災を止められなかったというトラウマがある。
 温和な表情に似合わず淡々と言った言葉とその意味に、サム・リーは一瞬息を飲んだ。
 だが彼の言葉に同じように…女王アンジェリークも動きを止めた。
 光の守護聖ジュリアスが、とがめるようルヴァを見た。だがルヴァはそれを無視する。
「これは私見ですが。私はあなた方に協力する必要は感じても、次元回廊の使用や聖地にあなた方を入らせたくはありません。またこれ以上オスカーとオリヴィエを現場へと向かわせるのは、今回は好ましくないとそう思っています。」
 危険はないかもしれない。けれど守護聖はやはり一人一人が唯一の存在であり、戦うことは出来ても、戦わせることは出来ない。
「大体なぜ、軍が次元回廊についてご存知なのですか?」
 これがルヴァだろうか。ぴりりと引き締まった表情に普段ののらりくらりとした様子は見られなかった。
 王立派遣軍において名の知れた将軍、サム・リーはその気迫に一瞬気圧された。だが、しかし。
「…私どもが知らぬとでもお思いでしたか。」
そして、一旦言葉を切り、今度はゆっくりとこう言った。「なんにせよあなた方は、我々を受け入れてくださった。惑星の危機に何もしない守護聖はいない。あなた方はこの宇宙を守り育てる存在だから。」
 彼の声は穏やかだったが、地の守護聖ルヴァはその言葉の端に潜む意味に、ふとゼフェルを思い出した。
 こんなとき彼だったら、どう言うのだろう。そんな義務などありはしない。かってに守護聖にしたくせに、とでも言うのだろうか。
 ルヴァは思わずかすかに笑みを浮かべ、言いかけた
「そう、確かに。ただ私達は…。」
 だがそのルヴァの言葉をさえぎって、低くよく通る声が謁見の間に響いた。
「…我々は……誰よりも我々は女王を守る為の存在なのだ。」
 闇の守護聖クラヴィスが、そこにいた。ただ黙ってサム・リーとルヴァのやりとりを聞いていた二人の女性が息を呑む。
 そこに、ジュリアスの鋭い声が飛んだ。
「そして、女王の決定は我々にとって絶対…そして今はその意見を述べる場ではない。そうだな、ルヴァ。」
 ルヴァはちらりとそんなジュリアスの渋い顔に視線を送り、それからゆっくり小さく頷いた。
「ええ…そうです。その通りです。」
 彼はちらりと頷いた。決してアンジェリークを見ないように。
 そして…しばらくの沈黙の後、サム・リーは再び口を開いた。
「しかし…事態は、つい先頃さらに深刻になりました」
 その言葉に、ルヴァも皆も、視線をサム・リーに戻す。
「『6』の後ろ盾が誰かわかりました。こちらにおられるおられる白亜宮の惑星皇太子・ティムカさまの故郷、白亜宮の惑星周辺の商業惑星帯連合です。」
「ティムカの?」
 驚いたように、ジュリアスが聞き返した。
「『6』はからのは今までにない、急に台頭してきた組織です。爆薬から爆発物への加工とその持ち込みルート、さらに資金源は不明でしたが、ティムカ様と…そして、更に裏付けとしてウォン財閥総帥チャーリー・ウォン氏の証言が伴い、発覚したのです。」
 お二人のご協力あってこそです、と一言置くと、サム・リーは乾いた唇を舐めて続けた。 「彼らが行った不定期経済会議の資料も手元に届きました。彼らは惑星ネプラの組織『6』への爆発物購入の資金を、掘り出す予定の資源を担保に出しています。それで、ほぼ間違いないでしょう。」
 一息に言い切った彼の言葉に、人々は息を潜めた。軍人口調の彼の言葉がきつく聞こえたのか、それともやはり、にわかには信じられないのか。
 反応の鈍さに、サム・リーは溜息をついた。
「正直、敵は『6』だと我々は思ってきました。ですが…惑星ネプラに向かったトレント中隊は…私としてはそのまま商業惑星帯へと進路変更させたい。商業惑星は、ここに自衛軍を抱えている。抵抗されても抑えられる力が必要です。」
「そして、ブエナは私たちに一任する。と、…こうですね。」
 ルヴァが言葉を継ぐように纏めた。
 サム・リーが頷く。地の守護聖と言われた彼はなかなか戦略にも優れた人物であるようだった。
「食えない人ですね。あなたは。」
ルヴァは僅かに微笑みながら言った。「初めからそのつもりだったでしょう。」
「いや、そんなことはありませんよ。」
滅相も無いというように、サム・リーは首を横に振った。「こちらからの情報が無ければ、私達『6』だけにかかればよかった」
 ジュリアスは鋭い視線をサム・リーに鋭い視線を投げて問うた。
「隊をこのまま守護聖に率いらせようというのか」
「無理にとは言いません。ヴィクトールもレブンもいる。守護聖様を危険な目にはあわせられません。」
 心からの言葉なのかどうか、判断の付きにくい表情でサム・リーは言った。
 女王アンジェリークに皆の視線が集まった。彼女はやや青ざめた表情でこの言葉を受け止めた。
 そして、ゆっくりと視線をめぐらせた…ジュリアス、クラヴィス、ロザリア…そして特にルヴァに。
 そのどの表情も、彼女の一言を待っていた。
「陛下。ひとつだけ…」
サム・リーがひっそりとそういった。その顔には、この日初めての焦りの色が浮かんでいた。「惑星ネプラに送った先の二人…ミーシャとマニーシャ、それから一小隊。連絡が付かなくなって数日経ちました。そしてトレントの艦隊は…明日にも軌道変更せねば、そのままネプラに着くしかありません。」
 そしてその一言が、アンジェリークの心を決めた。
「…分かりました。予定はこのまま…明日早朝に次元回廊を開きます。オスカー・オリヴィエは隊を率いてネプラへ…」

 

 

 

 

 サム・リーと女王、そして補佐官が去った後の謁見の間には、3人の守護聖が残っていた。
「珍しくよく喋ったな、クラヴィス。」
「………。」
 ジュリアスの皮肉げな言葉には耳を貸さず、クラヴィスはただかすかに口端を上げた。ルヴァがそれを見て苦笑する。
「そなたもな、ルヴァ。」
「私ですか?」
「そなたらしくない言葉だった。」
 軍に対しての協力を拒むというあの言葉を指して、彼はそう言った。
「あなたがフォローしてくださると知っているからこそ言えたのですよ。」
 肩をすくめてルヴァが微笑む。ジュリアスは彼に向かって呆れたように、彼にしては珍しく肩の力を抜いて笑った。だが、それも一瞬。すぐさま眉を引き締めて、言った。
「陛下は…女王としてはまだ未成熟だ。」
 軍を聖地に進入させるか否か、オスカー・オリヴィエを隊長として任命するかの決断をしたのは女王アンジェリークだ。そして明日の予定も。
 彼女にとって惑星ネプラの現状は見逃せないのだ。だが彼女にはその裏にある危険性に気づくほど、広い視野はまだ無い。
「いつもと立場が逆だな。」
「そうですかねぇ。あなたは陛下にあんな失礼な言葉を発するくらいなら死んだほうがましだと仰るでしょうに。」
 しれっと言われたルヴァの言葉に、彼は苦笑するしかなかった。
「兎に角、まずヴィクトールを呼びましょうか。それからオスカーとオリヴィエもね。第4回定期審査も終わりましたし。」
「陛下のご体調はどうなのだ…?」
 クラヴィスがぽそりと呟いた。
「ええ〜謁見前に倒れられたことには驚きましたが、今のところ大丈夫なようです。」
ルヴァの長々としたもてなしの茶席の訳は、つまりそういうことであった。「どうもまだそんなに思わしくないようすが、すぐにどうこうなるものでもありませんし、明日は頑張っていただくしかないでしょうね。」
「すぐにどうこう…か。」
 ふ、とクラヴィスは口端を上げて微笑んだ。だがルヴァもジュリアスもそれに気づかずに頷きあっている。
「どれくらいの時が掛かるものか…女王試験を滞らせるわけには行かない。長く見積もって3日。それ以上時が経つならば一度呼び戻す。」
「とすると通信手段も考えておかねばなりませんねぇ。」
「…ゼフェルに任せるかエルンストに任せるか…。」
「明日ですからねぇ。」
 そんな二人の隣でクラヴィスは僅かの間じっとしていたが……いつの間にかひっそりと姿を消していた。

 

 

 

 その夜。
 レイチェルとの食事を終え、ボレロを脱いで就寝の支度を始めていたアンジェリークは、扉をコツコツと遠慮がちに叩く音に振り返った。ドアにはきちんとチャイムがあるのに、どうしてか鳴らさない。
── こんな時間に…どなたかしら?
 アンジェリークは不審に思いながらも足音を忍ばせて窓に近づきドアの外を眺めた。窓の傍に頬を近づけると、夜気が涼しく感じられる。
 そしてそこにはヴィクトールの姿があった。彼と気づいたアンジェリークはあわてて窓から離れ、ドアを開けようとしたが、その足元にすっと紙が一枚はさまれたことに気づくと腰をかがめてそれを取り上げた。
『すまん、明日の予定が駄目になった』
と、それだけが短く書かれていた。アンジェリークは驚いてドアを大きく開いた。
「ヴィクトール様…。」
 その声に、門柱のほうへ戻りかけていたヴィクトールははっと振り返った。そしてアンジェリークの姿とその手に持った紙に気づくといたたまれないような表情をして、二三歩こちらへ戻ってくる。
「読んだか?」
 メモのことだと分かり、アンジェリークは頷く。
「直接言いたかったが、こんな夜更けにお前の部屋を訪れるのは悪い気がしてな。ドアを叩いたのは…その…」
彼は言い淀み、それから照れたように笑った。「出来心ってやつだ。」
 その表情にアンジェリークは思わず苦笑してヴィクトールを見上げた。だが手の中のメモのことを思い出し、尋ねる。
「…お仕事、なんですか?」
「ああ。」
 アンジェリークの心配げな声にヴィクトールは短くこたえた。
「約束を守れなくて、済まん。」
 その申し訳なさそうなヴィクトールに、アンジェリークはいえるわけが無かった。
 本当は凄く楽しみにしていたこと、ついさっきまでレイチェルと明日どんな髪型にしようか喋っていたことや、こっそりお弁当の支度をしていたことも。
「……いいんです。あの…私のことなら気になさらないで下さい。…お仕事、頑張ってくださいね。」
だがつい俯いてしまう。こんなとき大きく笑って見送れたら、どんなにいいか知れないのに。「危ないかもしれないんでしょう? …気をつけてくださいね。」
 言いながら、ヴィクトールはそういう人なのだと改めて気づく。彼は大人で仕事を持ち、持っているだけではなく頼りにされている。そして軍人であるからには、危険な目にあう可能性も高いのだ。
「本当に、気をつけて行って来てくださいね。」
 気づくと、先刻感じた残念さなどはどこかに行ってしまい、彼女は今度こそ本当にまっすぐ彼の目を見詰めて、そう一言言った。
 そんな彼女をヴィクトールは無言で見詰めていたが、やがて口を開いて彼女にこう言った。
「アンジェリーク…よければこれから庭園にでも行ってみないか?」
「え?」
「明日のデートの変わりと言っちゃなんだが。こんな遅くにお前を連れ出すんだ…ほんの少しの時間しか一緒にはいられないが、それでもよければ。」
 ヴィクトールは紙切れひとつで彼女との約束を破ろうとしていた自分に呆れた。
彼女が。
 こんなに嬉しそうな顔をすると知っていたら、初めからチャイムを鳴らしたのに。
 アンジェリークは、勿論彼の言葉に深く頷いていた。

 

 

 夜の庭園はまだ雨の名残を持って、水の気配を濃く漂わせていた。空に浮かぶ月は細く鋭く、代わりに星明りが瞬いていた。
 ヴィクトールはその空を見上げて、僅かに微笑むとアンジェリークを見下ろした。
「…そういえば、この間もこんな風に、夜ここへ来たな。」
 彼女は手のひらを小さく前で組み、ヴィクトールを見上げると嬉しそうに微笑んだ。
「あの時は、満月でしたね。」
 そんな彼女のしぐさがかわいらしくて、ヴィクトールは思わず微笑み返す。
「一回りして帰ろうか。」
 聖地の庭園は割合と広いが、それでもただ歩くだけならば30分も掛からないだろう。だがそんな僅かの間でも一緒にいられるならそれでいい、とアンジェリークは思って頷いた。
 噴水前を通り過ぎるとき、ヴィクトールが言った。
「前着ていたあの白い服、俺は知らなかったんだがオリヴィエ様の見立てだったんだそうだな。」
「はい。」
 あのワンピースを白い服、とあっさり表現してみせるのがいかにもヴィクトールらしく、アンジェリークはこっそり微笑む。
「あの方は普段その…アレだが、流石は美しさを司る夢の守護聖様だな。…またお前があれを着ているところを見てみたいもんだ。」
 ぽり、と頬を太い指で掻いて、彼は言った。言いづらそうにしているが、言いたいことは案外はっきり言ってしまっている。
 アンジェリークはぽうっと頬を染めて、慌てたように言った。
「オリヴィエ様はとってもセンスがいいんですよ。私たち…私とレイチェルですけど…日の曜日に遊びに行ったりするとお洋服をコーディネートしてくださったり…。」
「洋服って…。」
ヴィクトールが驚いたような顔をして尋ね返した「なんでオリヴィエ様のうちに女物が……?」
「……? …言われてみれば、何ででしょうか…。」
アンジェリークはおっとりと小首をかしげた。
「…レイチェルは『オリヴィエ様はコレクターだから』って言ってました。きっと集めるのがお好きなんですよね。執務室の机の中もお化粧品で一杯でしたし。」
何の疑いも無く彼女はそう言った。「それに、もしかしたら私達の為に用意してくださったのかもしれません。」
 それが実は彼女達のためだけではなく、主に年少組または占い師の為に用意されたものとは思っても見ない。勿論ヴィクトールにも考え付かない。
「そ…そうか…。うーん…。」
 歩きながら腕を組み、ヴィクトールは悩んでしまったようだ。
「そう、ヴィクトール様…この間私がつけていた口紅もオリヴィエ様がつけてくださったもので…。」
「口紅?」
「そうです、もう2週間以上前ですけど学芸館……あ…。」
 彼女はそのときの様子をありありと思い出した。
 口紅をつけた自分を、ヴィクトールがどう扱ったか。
 そして、自分がそれをどう思ったか。
 アンジェリークは月明りにも明らかなほど、あっという間に頬を染めて、そしてその場に立ち止まってしまった。
 その時だった。
「お!? 誰か来るぞ。…ひとまずそっちの茂みに隠れよう。」
 人影の見える前に、進む方向から誰かが歩いてくるその気配を察したヴィクトールは、あっという間にアンジェリークの細い腰をつかんで、約束の木の下の茂みの中へ彼女をまるで放り投げるかのように押し込んだ。
 突然のことにびっくりしたアンジェリークは硬直したままヴィクトールの腕の中。
「今日もいい月だねぇ。これで明日のお役目がなきゃ、家に帰って一杯飲んでるのになぁ〜ああ、残念だよ。」
 通りかかったのはオリヴィエだった。彼は宮殿でしばらくルヴァたちと話し込み、そのまま近衛の編成に就かされたオスカーや、先に帰ったヴィクトールより一足遅れて戻っていくところだったのだ。
「明日は早いしさっさと寝ないとお肌にでちゃうよ。は〜。帰ろかえろ。」
 と、彼はずいぶん大きな独り言を呟くと、通り過ぎていった。
「オリヴィエ様か…噂をすれば何とやらだな、アンジェリーク。」
と、ヴィクトールは腰をかがめた体を伸ばしながら、手元を見て驚いた。彼はつい無意識にアンジェリークの口をふさいでいたようだった。
「むぐ…むぐ…ぷは。」
 彼女は息苦しさにもがいたが、ヴィクトールはまったく気づかず、漸く手を離した時には彼女はちょっとぐったりしていた。
「す…すまん。やりすぎた。」
同じように体を起こし、木の幹に体を預けたアンジェリークを見て、ヴィクトールが頬をかく。「大丈夫か?」
 普通だったらちょっと怒るところだろうが、アンジェリークは大きくひとつ息をついてこくりと頷いた。
「………。」
「…………。」
 いつもどこか堅苦しかった二人だったが、目を見合わせたら、思わずくすりと笑いが漏れた。
「はは…こんなにあわてることは無かったな。」
「うふふ、そうですね。」
 アンジェリークははにかみながら小首をかしげた。
 ヴィクトールはぺたりと座って自分を見上げる彼女に、どこかで見たような既視感を覚えて、無意識にそれをさぐったが、思い出せなかった。
 その代わり、鼻をうごめかせてヴィクトールはかがめた腰を更に伸ばして辺りを見回した。
「ん? 何かいい香りがするな。」
 アンジェリークもつられてクンクンと鼻を動かしたが良く分からない。
「…お花の香りですか?」
 すぐ傍の植え込みに咲いた小さな花を指して彼女は言ったが、振り返って驚いた。すぐ目の前にヴィクトールの顔があったから。
 琥珀の瞳は少し驚いたように見開かれ、彼女を見詰めていた。そして、ふっと逸らされる。
「いや、…どうやらお前の髪の香りだったらしい…。」
 その言葉に、ぺたりと座り込んだまま、アンジェリークは頬を染めた。
「いやその…済まん、変なことを言った。」
「いいえ…。」
 かすれたような声でアンジェリークが答える。そして、沈黙。
「か、帰るか。」
 ヴィクトールはまるで少年のような態度を彼女に見せてしまった自分と、やはりそれなりに年齢の行った男としての反応が、このまま居たら顔を出してしまいそうで、思わずそういった。
「え?」
 もう? とアンジェリークは思わず、立ち上がりかけたヴィクトールの腕を掴んだ。ヴィクトールはぎょっとして動きを止める。
「…アンジェリーク。」
背を伸ばす余裕も無く、ヴィクトールは中腰のまま彼女を見下ろした。「そんな風にされると…くそ、参ったな。こんなことになるなんて…。」
 もごもごと、彼は口の中で何か呟いたがアンジェリークの耳には届かなかった。彼女はそのままヴィクトールの腕にしがみつくようにしている。
 だが最初こそ狼狽していたヴィクトールも、アンジェリークの様子があまりにも必死なので、心配になったらしい。
「…どうした?」
 尋ねられたがアンジェリークは上手く答えられずに、その手を離してしまう。
 今、手を離したら彼がどこかへ行ってしまうような…そんな気分になったのだとは、そのずっと後で気づいた。
 だがこのときは…ただえもいわれぬ雰囲気をまとったその蒼緑の瞳で、彼をじっと、見詰めることでしかそれを伝えることが出来なかった。
 だが、ヴィクトールには彼女のそこまで深い気持ちは…残念ながらあまり伝わらなかった様子であった。彼はそんなアンジェリークを見下ろしてふっと微笑み、先ほどよりくつろいだ様子でその場に腰を下ろした。
「そうだな。…もう少しこのままでいようか。」
アンジェリークは驚いたように顔を上げた。
「いや…。」
ヴィクトールは腕の長さだけ離れて座る彼女の頬に手を添えた。先ほどの衝動は、なぜかもう影を潜めて、彼女に触れることも自然に出来た。「このままで居たいのは俺だな…。頼む。もう少しだけこうしてここで話そう。」
「ヴィクトール様…。」
 アンジェリークがかすかに彼の名を呼ぶ。そして…やっとのように微笑んだ。
「はは…照れるな。」
 頬に触れた手のひらは一瞬の温かみを残して離れる。それが寂しく感じて、そしてもっとと思ってしまうのはもうその腕の中に抱きしめられる心地よさを知ってしまったからだろうか。
「ヴィクトール様?」
 約束の木の葉が夜風にさわさわと揺れた。
「ん? なんだ?」
── 大好きです。
 とアンジェリークは言いたかったが、彼女は気恥ずかしくていえなかった。
「森の湖、いつか一緒に行きましょうね。」
「…そうだな。」
ヴィクトールは小さく笑った。「分かった。今度こそ約束を守ろう。」

 

 

 そして彼らはしばらくそこで語らった後、ゆっくりと女王候補寮へと戻った。その間にどんな言葉が彼らの間で交わされたのかは、二人にしか分からない。
 そして、次の日の早朝。
 次元回廊の前には、女王以下主要な面々が揃い、とうとうその目の前で扉が開かれることとなった。
 


 
- continue -

 

前半は小難しくなかったでしょうか。私の頭の中身も一緒に整理です。
後半は2度目の夜の庭園デートでしたが。もしオフィシャル通りにしたとしたら
私は蕩けてしまうでしょう。くは、はっずかし〜。
栗ちゃちゃ屋は今日で一周年です。皆様有難うございます。
蒼太


2002.04.10

大変わかりにくいと感じたので修正 2012.2.1.

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