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41.女王になるということは

  

 

 雨が上がった。
 晴天と言う訳には行かなかったが、久しぶりに雨音が止んだ聖地。
 「品性」の教官・ティムカはその曇天を執務室の窓越しに見上げると、先刻から無意識なのだろうか…溜息をつきつき机に並んで座っている二人の女王候補達を振り返った。
── どうなさったんでしょうね、2人とも…。
 今日の2人の間には、どういうわけかいつもの気安い雰囲気がなかった。お互いに相手の様子を伺っているというよりは、僅かな気まずさとそして相手に話しかける為の切っ掛けを掴もうとして、そわそわしているような雰囲気。だが一方が口を開きかければ、もう一方はたまたま教科書に目を落としてしまう、というようにタイミングがあっていない。
 そこでティムカは先程から、ちょっと途方にくれた顔で2人の質問に交互に答えていたのだった。
── これでは、いつも以上に進みが遅くなってしまいますよ。
 ジュリアスからの達しには、「安定度を出来る限り早く上昇させよ。」とあったのだが…ティムカ自身は、こういった事は彼女達自身のやる気に任せるしか無いと知っている。
 だからティムカは、二人の女王候補につられて溜息を大きく漏らし、言った。
「今日の学習はこれまでにしましょう。」
そして頭をめぐらせて机の上にあるヴィジコンを覗きこむ。「…あまり上昇してはいない様子ですが、でも調子がいい時と悪い時というのは、誰にでもありますからね。頑張ってください、お二人とも。…その、明日もね。」
 明日は土の曜日。そして定期審査の日でもある。だが、それ以上に…。
 今日のこの学習だけでは安定度が足りないのは明かで、故に2人とも明日の審査を終えたらまたこうして学習するように、と申しつけられたのだった。
「忙しい日になりそうですが、僕も頑張りますからね。」
 ティムカは微笑んでそう言ったが、それを聞いたアンジェリークは逆に申し訳なさげに俯いてしまい、彼は「しまった」というようにレイチェルを見た。
 彼女はティムカの視線を受けて、アンジェリークを横目に見下ろす。そして何とも言えない顔をした。
 だがすっと背を伸ばすと、ティムカに礼をして、アンジェリークの背中を軽く押し促がした。
「ティムカ様、有難うございました! さ…行こう、アンジェリーク!」
「えっ…?」
 俯いて眉を寄せていたアンジェリークが驚いたように顔を上げる。
「ご飯だよ。もうお昼なんだから。」
日はそろそろ中天にかかりそうな気配だ。「庭園のカフェはどう? 久しぶりに雨が上がったんだもん。」
「…う、…うん…。」
 アンジェリークは気が抜けたように頷き。
 そして二人は、ティムカの心配そうな視線を背中に、彼の執務室を出て行った。

 

 

 

 久しぶりに訪れた庭園にはまだ上がったばかりの雨の名残が残っていたが、カフェはもう昼時とあって混雑し始めており、アンジェリークとレイチェルはそんな中、やっとの事で空きテーブルを見つけ、そこに腰を下ろした。
「ワタシはオレンジティとバケットサンドね。」
 レイチェルは学習用具を空いた椅子に置いて、やってきたウエイトレスにオーダーする。
「ええと、私はダージリンとクロワッサンサンドを…。」
 二人とも聖地に来て随分時間が経ち、それぞれお気に入りのメニューも出来たし、このウエイトレスとももう顔なじみになった。
「かしこまりました。」
 そう言って、可愛らしいヘッドカーフをつけたウエイトレスは軽く頭を下げて戻って行く。
「…ちょっと寒いね…。」
 その後姿を見送りながら、レイチェルが呟くように言った。雨上がりの聖地を吹き抜ける風は確かに肌に冷たい。
 アンジェリークは、レイチェルが髪を掻き上げる仕種をそっと眺めた。
 その横顔に怒りの色は見えなかったが、やけに静かに見えた。
 周囲を包む喧騒と切り離されたかのように、レイチェルとアンジェリークの座るテーブルだけがひっそりと静まっていた。
 だが。
「あ〜あ!」
 突然の声に、アンジェリークは驚いて顔を上げた。
 そこには、しなやかな両腕を高く上げて大きく背伸びをするレイチェルが居た。彼女は伸びながらぎゅうっと目を閉じて、そして一気に身体の力を抜くと、ぱっと開いた目でアンジェリークをまっすぐ見て言った。
「う〜んっ…と…! やっぱ…こんなの性に合わないネ。」
「レイチェル…?」
「ワタシの事。」
困惑した顔をするアンジェリークに、レイチェルがふっと微笑みかける。「昨日、泣いちゃったんダ。」
「えっ?」
 レイチェルが? と、アンジェリークは目を見張る。自分のことばかりで、あまりよく見ることができていなかった彼女の眼元は、確かに赤く染まっていて。
 自分のしたことが胸に迫って、そっと胸元に手をやった。
「アナタが、いきなりあんな事言うから。」
レイチェルはアンジェリークから目を逸らさぬままテーブルに肘を付き、そして顎を乗せて肩の力を抜いた。「ワタシ…多分びっくりしちゃたんダネ。アナタがそんな風に思ってるなんて思っても見なくて。だから、わーわー泣いちゃったんダヨ。あんなに泣いたのって、すっごい久しぶりで…なんだか新鮮だった。けど、やっぱりワタシらしくなかったかな、なんて、さ。」
「ご…ごめ…。」
「ストップ!」
アンジェリークが言いかけた言葉を、レイチェルが遮る。「謝る前に。ワケを聞かせてよ。…何か理由があったんでしょ?」
 あって欲しい、とレイチェルは思った。
 でなければ、本当に最初から彼女が女王になるのを望んでいなかったと…そう言う事になってしまうから。
「それに…ワタシが泣いちゃったのはアナタのせいだけじゃないし。」
「?」
「多分……。」
── 傍に、あの人がいたから。
 子供でいいんだよ、といつもそう言ってくれる人。
 やってきたウエイトレスが、二人の様子に怪訝そうな顔をしながら、紅茶を置いていった。
 ダージリンとオレンジティの香りが、テーブルの上に漂って混ざる。
「昨日…何があったのか、ワタシに教えてくれる? どうして、あんなこと言ったのか。それによっては、許してあげる。」
それだけを言うと、レイチェルは黙ってアンジェリークの次の言葉を待った。
「………。」
だがアンジェリークは、紅茶の入ったポットをそっと上げながら、しばらく黙った。
「ゼフェル様に、意地悪言われた?」
 アンジェリークは小さく首を横に振る。
「ジュリアス様に怒られた?」
 そうであってほしい、と期待して尋ねる。
 でなければ。なんだというのか。
「昨日のこと、……何かの間違いだヨネ?」
 いつの間にかうつむいていたアンジェリークが、そっと顔を上げる。
 どきりと、した。
 昨夜は気づかなかった、ほんのりとした艶。何か言いたそうにする唇が、開いては閉じる。
――アンジェリークって、こんな顔だった…?
 しかし、アンジェリークはそんなレイチェルには気づかず、ようやくのように口を開いた。
「レイチェル……私……私昨日ね…。私、皆さんとお別れした後でヴィクトール様の執務室へ行ったの。」
 アンジェリークは詰まりながらも訥々と、そこで自分がどうしたか、その後何があったのか、レイチェルに話し始めた。

 

 

 風がゆっくりと二人の間を流れた。何時の間にか昼の喧騒は去り、カフェテラスに残るのはアンジェリーク達二人だけ。
 レイチェルは相変わらず黙って聞いている。
「その時、ゼフェル様に『帰りたくないのか、女王になりたいのか』って聞かれたの。でも私、きちんと答えられなかった。」
「…どう答えたの?」
 レイチェルが静かに尋ねた。
「『私は女王候補だから』って…そう答えたの…。」
 しん…とテーブルが静まる。
── 私は女王候補だから、か…。
 レイチェルは軽く吐息を吐いた。
 何となく気付いてはいた。試験が始まってすぐの頃、彼女とて全くアンジェリークという存在を気にしていなかった訳ではない。だから時には八つ当たりめいた事も言った。けれどアンジェリークはそんな時困ったように笑うだけで、決して怒ったりしなかった。
 レイチェルはそれを物足りなく思いながらも、きっとアンジェリークの性格のせいだろうと、あのころはそう思っていた。
―― はじめから、違ったんだ。
 女王になりたいという気持ちの持ち方が。
 女王候補は、自薦でもえらばれるが、それ以前に、守護聖がそう選ばれるように、宇宙の中のだれかが、突然選ばれるものだ。
 断ることはできない。
 あなたは女王候補です、と言われたら、ここに来るしかないのだ。
 そうとわかっても、やりきれない。割り切れない。昨夜感じたもどかしさと、悔しさがあふれ出そうになって、レイチェルは、カップを持った肘をついたまま、アンジェリークに尋ねた。
「…もし今が、女王試験の一日目だったとして、そのつもりになってワタシに答えてくれるかな。」
アンジェリークが顔を上げる。「あのとき、アナタは女王になりたいと思ってた?」
「レイチェル…私……」
 アンジェリークが思い出すのは、聖地の門をくぐったあの日、あの晩のこと。
 家族や友人の顔ばかりが思い浮かんで、さびしくてさびしくて仕方がなかった。…あの日、ヴィクトールに出会った。
 ふっと思い浮かんだその顔を振り払う。唇が言葉を発するか、迷うように動く。けれど、しぼりだすようなこえで言った。
「…私……あのとき、女王様には、……なりたくなかった…。」
 その一言を口に出した途端、レイチェルがかすかに息を止めた。
 そして、アンジェリークは。
 自分の肩にずっと乗っていた何かが無くなり、そして同時に何かを…手放してしまったような気がした。
 そのぽっかりと空いた穴は、自分でも驚くほど、深く、広い。
 それに気づいてうろたえる。
 宇宙を総べる、そんなことは、恐ろしいことだと思っていた。
 女王とは、全てに愛を与え慈しむ、宇宙を統べる至高の存在であり、9人の守護聖に守られる唯一の存在。自分とは縁遠い存在だと。
 だが、この場所に来て、彼らとともに暮らし、言葉を交わし、笑顔を向けられた。
 彼らが女王を一個の人間として愛し敬い、支えているのを見た。
 女王は、宇宙という卵を抱く母なのだ。慈しみ、育て、見守るものなのだ。決して支配するものではない。
「あ……」
 いつの間にか震えていた手を、そっと開く。そこには何もない。
 手の中に、大事に育てていたはずの、新しい宇宙。
 自ら、手を放してしまった。
―― アンジェリーク、自信を持て。
 ぽろり、と涙がこぼれた。
「アンジェリーク……泣くなんて、ズルいよ。」
 レイチェル自身も泣きそうな顔をしていた。しかし、涙は止まらず、ほろほろと零れる。
「ちが…ちがうの…」
 光も、闇も、ここに来てから教えられた全てが、あの宇宙にある。
 一度自分の体を通った守護生たちの力は、今は、自分の中に溶け込んでいる。
「私……ここに来て、皆さんに、とても大切にしてもらったの…。レイチェルにも、ほかの方々にも…」
 ヴィクトールの傍にいたかった。褒めてほしかった。
 でも、頑張ってこられたのは、それだけのせいじゃない。
「いま、気づいたの……。今は…私……。あの宇宙が、とても大事…」
 目尻を染めて、アンジェリークがレイチェルを見つめる。
 なくなってしまった、掌の中の温かみは、あの、宇宙。
「もう手放せないの…。でも、でも、レイチェル…!」
 本当になくす前に、もう一度抱きしめなくてはいけない。柔らかな卵。だが。
 向けられた蒼碧の瞳が、そっと、閉じる。
「……あの宇宙に、ヴィクトール様は、いないの……」
 レイチェルは、静かに息を吐いた。
 目の前で泣いているのは誰だろう。細い肩を震わせて、掌で顔を覆っている。
「うん…」
ようやく出た声は、少しかすれていた。「ヴィクトール様は、いないね」
 びくり、とその肩が動く。
 エルンストが、外界にいなかったように。
 置いて行かれた、と思ったあの時の気持ちが、レイチェルの中でよみがえる。
 しばらくしてから、レイチェルが口を開いた。
「教えてあげよっか、アンジェリーク。」
「……?」
── アナタが正直に答えてくれなかったら、教えてあげないつもりでいた。
「アナタがこれからしなきゃいけない事。」
 レイチェルは少し悲しげで、しかし悪戯そうな視線をアンジェリークに投げかけた。
 涙を留めようとしながら、アンジェリークが顔を上げたところに、一本、指を立てる。
「まず、第一に、女王試験をやり遂げること」
 二本目の指を立ててみせる。
「次に、ワタシが女王になって、アナタを補佐官に任命するワ」
 三本目の指を立てて、泣き顔を覗き込む。
「……え?」
 まだ女王試験の最中だとか。
 今試験に負けているのはレイチェルの方だとか。
 そんなことは、お構い無しで彼女は胸を張った。
「女王になってサクリアを持ったら── …イイ? …ここが重要なの ── なんだって出来る、そうでしょ?」
 アンジェリークは驚いた顔をしてレイチェルを見ている。
「ワタシはアナタを新宇宙へ連れて行くし、アナタが望むならあの生真面目な精神の教官様を、あっちで雇う事だって出来るんだヨ?」
「…………っ」
「だってそうでしょ? あっちではまだ生命なんかは誕生してないケド、その分気候や惑星は全然安定してないじゃない。…必要人材ってコトだね!」
アンジェリークは、唖然としてレイチェルを見た。「新宇宙は…まだ誰の物でもないんだよ!? ワタシ達が育てて、ワタシが女王様になって、そして新しい守護聖様を探して…ワクワクしちゃうネ!」
 レイチェルは言葉通りその瞳を炯炯と輝かせた。
 そしてアンジェリークの瞳に、その輝きを映すように、じっと覗きこみ、言った。
「だって、ワタシ達は何もかも捨てて女王様になる。…なら、それくらいの役得は無くっちゃダメでしょ!?」
「…レイチェル…って…。」
── レイチェルって、凄い…。
「レイチェルって、本当に…素敵…。」
「…やだなぁ…照れちゃうじゃない。」
 アンジェリークの言葉と視線に、レイチェルが頬を染める。
 そして、今度こそひらひらとその手を振って、アンジェリークを立たせた。
「ついでに4つ目。アナタはね、今からヴィクトール様の所へ言ってちゃんとキモチを伝えなきゃいけないの。」
 いつの間にか涙も止まったアンジェリークはもう一度、驚いたようにその丸い蒼緑の瞳を見開いた。
「…え…?」
「あきらめる気? ただ別の女性の名前を聞いただけなんでショ?」
「でも…ヴィクトール様は、私のことただの女王候補って思ってらっしゃるだけだし…」
「だからナニ!? そりゃ、アナタが言うとおりヴィクトール様にはお好きな方がいるかもしれない。…だけどサ、考えても見てよ。今、惑星は新宇宙に充分な数に達しようとしてるヨネ? そう、だから…もう少しで試験は終わる…。 なのにアナタ、伝える事もせずにそのままお別れしても、それでもいいってそう言うの?」
── ワタシだったらそんなのはゴメンだヨ。
 レイチェルはそこで一呼吸置き、そして迷ったような目をしているアンジェリークに向かって
「一度振られたと思い込んで泣いたなら、今度はなんとでもなるデショ!? 行くの、今すぐ!」
 と、言った。
 アンジェリークは ── そっと目を閉じた。
 その瞼の裏に浮かぶのは、ヴィクトールの姿。
 彼の微笑んだ顔であったり、広い背中であったり、そして…1枚の写真に残された、そのやるせない表情であったり…。
 アンジェリークは、きっぱりとした視線でレイチェルを見上げた。
「…レイチェル…、私…言ってみる。」
 心臓が、それを思うだけで早鐘を打つように跳ねてしまうけれど。
 あまり見込みのない告白だけれど。
 でも。 レイチェルが破顔する。
「頑張ってよネ。」
 立ちあがったアンジェリークと、レイチェルの視線がからむ。
「行って来るね、レイチェル。」
 レイチェルはそんなアンジェリークの後姿をちょっとだけ目で追いかけ、それからゆっくりと席を立って呟いた。
「あ〜あ、ワタシってこんなにお人よしだったっけ?」
 だが、昨夜からのやるせなさはどこかに消えていた。
 宇宙が大事だと、アンジェリークは言った。
 アンジェリークが忘れて行った学習道具も纏めて持ち、テラスを降りる。
「でも、ま…ショウガナイか。それに、どうせなら…お人よしついでにもう1つだけ…ネ。」
 そして彼女は、学芸館ではない何処かへ向かって歩き出していった。

 

 

 

 

 

 正午をしばらく過ぎた。
 門の前に整列した30人ほどの王立派遣軍の軍人達は、柄にも無く緊張した様子を見せてその場に立ち尽くしていた。
 その訳は様々。まさか生きている間にこの門を潜ろうとは夢にも思っていなかった者、この門の向こうに自分たちを統べる宇宙の女王がいると、今更に信じられない思いでいるもの。
 だが、信じないわけには行かない。
「なんだなんだ、お前ら緊張しているのか?」
彼らの前で赤い髪の青年が振り返って笑った。「昨日までの勢いはどうしたんだ?」
 そう、彼は炎の守護聖オスカー。
 守護聖。
 この宇宙の誰もが、教科書を読む前に知っている存在。
 それが…目の前に立っているのだから。
 しかも、驚くべき事に自分たちは今彼の…つまりは守護聖の…「直属部隊」となっているのだ。
「ちょっとおよしよ。私達だって緊張しなきゃダメなシーンなんだから、ここは。」
 赤毛の青年の隣で、金髪を派手に染め分けた青年が言った。
「お前は緊張してるのか、オリヴィエ。」
 炎の守護聖がニヤリと口端を上げる。
「まっさかぁ〜☆ ねぐらに帰るのに誰が緊張するのさ?」
 オリヴィエと呼ばれた夢の守護聖が、マニキュアを塗った指をひらひらとさせて笑った。
 いきなりやってきたこの軟派そうな男と派手な男の二人組…しかも自分達よりずっと年下に見える…に、「隊を編成する」と言われてどう思ったか、想像していただけるだろうか。
 反発と不信。
 だが軍隊の掟はいつでも「実力」だ。
 彼らの腕前は想像以上だったとだけ伝えておこう。
「お? …そろそろ開きそうじゃないかい? あ〜これでやっとお役目も半分は終わりだね。」
 夢の守護聖が言い終わるか終わらないか。蒸し暑い夏の空気が、開き始めた鉄格子の向こうからの風に吹き流されるのが分かった。
 隊員達は、その向こうの風景に目を凝らす。この門がこうして大きく開かれたのは一体何百年ぶりなのだろうか。
 聖地の門、それ自体は低く作られ、そして外から見る限りさほど高くも無い木々が生えるだけの庭が続くように、見えた。
 だが。
 やがて開ききった門の向こうに見えた光景は、彼らの度肝を抜いた。
 そう、門のこちら側は汗ばむほどの晴天だったにもかかわらず、門の向こうは、曇天。しかも外から見ていたのとは全く違う風景がそこにあった。
 長く続くまっすぐな道。その両脇には低い植え込みと広い芝が見えるのみ。外から見ていたあの低木の垣根はどこへ行ってしまったのだろう。
 だが、彼らの動揺と興味を余所に、炎の守護聖オスカーは表情を曇らせた。
「………。」
 隊員達は預かり知らぬ事だが、聖地の曇天は女王の不調を表す。
 夢の守護聖の形の良い眉も不機嫌そうに上がる。
 だがその時、
「お帰りなさい、オスカー様、オリヴィエ様!」
「お帰りなさい。」
 澄んだボーイソプラノが辺りに響き、視線を延ばした先にいたのは、少女と見まごうかと言うほどの、だが少年が、隣に立つやはり年若く赤みがかった茶色の髪の青年と共に立っていた。
 その後ろは聖地の警備兵と思われる一個中隊が並んでいる。ただそれは当然の事だったようで、二人の守護聖は、若者達に向かって気安い笑みを見せて言った。
「あら〜アンタたちが来てくれたの? ア・リ・ガ・ト!」
「出迎えご苦労。俺達が居ない間に何も無かったか…って言いたい所だがな…」
 オスカーの言葉に、二人とも微妙な顔をする。そして茶色の髪の青年が答えた。
「…それは…ええと…何もなかったとは言いがたいんですけど…。でも、心配しないで下さい! 悪い事ばっかりじゃあないですから!」
 それから彼はオスカーの後ろに立ち並ぶ隊員達を振り帰った。
「初めまして! 俺、風の守護聖のランディといいます。至らない所はあるかと思いますが、俺とこの、緑の守護聖マルセルがこの数日間、皆さんのお世話係を務める事になりました。」
 隊員達はその年若い青年が言った言葉に思わず目を丸くした。…そう、彼は確かに自分達を守護聖だと名乗った。
 マントをつけた姿は、彼等にとってはひどくレトロで、そして見慣れない。
 だがこれがずっと小さな頃から寝物語に聞いてきた守護聖というものだ、とそう言われれば…もうそう納得するしかないんだ。と隊員たちは前例の二人の姿をこっそりと眺め、心のなかでそう思った。
 だがその守護聖様が今なんと言った? 俺達の世話をすると?
 夢の守護聖オリヴィエが、二人に向かって言った。
「あら〜? ゼフェルはどうしたのさ? あんた達が揃ってないなんてオカシイじゃない? ああ…そっか。あの子また逃げたね?」
「えっ? オリヴィエ様まだ聞いてらっしゃらないんですか、ゼフェルは…。」
「しっ、マルセル!」
ランディと名乗った青年が、留める。「…今は止めておこう。」
 ちらりとこちらに走らされた視線に、聖地といえど色々あるようだな、などと彼らは思った。
 と、そこへ。
「すまん! 遅くなってしまった。」
 駆けて来る人影に、兵士達はいっせいに視線を集め、それが誰かと気付くとある者はほっと息をつき、またある者は更に気を引き締めて立つ。
「隊長!」
「ヴィクトール隊長だ。」
 守護聖達がやってくる以前にヴィクトールに編成されていた一個隊から、声が上がる。
 その声を受けて、ヴィクトールが歩調を緩めてやってきた。
「お前達、ご苦労だったな。…万全か?」
 その低く良く通る声は、隊員達の憧れ。
「はいっ!」
 彼らは背を伸ばして答え、それを見たヴィクトールの顔に少しだけ笑みが乗る。
「そうか。だがこれからが大事だ。気を引き締めてくれよ。」
 ジュリアスからの通達は勿論ヴィクトール達学芸館の3人にも届いていた。今この事を知らないのは、女王候補の二人だけだ。
「はい!」
「おやおや〜凄い人望あついねぇ。…誰かさんとは大違い。」
 からかうようにオリヴィエが言う。
「誰かってお前の事か?」
 しれっとオスカーが答える。
「失礼だねぇ!」
 そんな脇の二人を置いて、先程ランディと名乗った青年が寄ってきた。
「ヴィクトールさん。」
 呼ばれて、ヴィクトールは振り返る。
「ああ、ランディ様。…すみません、すぐに学芸館を抜けられなくて。」
 その一言にどよめきが走る。あの「英雄」ヴィクトール隊長が…この青年を『様』付けで呼んだ…。
 兵士達は動揺を隠せない。
「いいんですよ、来てくださっただけで助かります。」
 その隣で、マルセルと言う少年が、背の高いヴィクトールを思いきり見上げるようにして言った。
「ヴィクトールさん。僕達これから皆さんを宿泊場所へ案内しようかと思ってるんですけど。…宜しかったらこのままご一緒してくださいませんか?」
「ええ、そのつもりで来ました。お手伝いしましょう。マルセル様。」
 その小柄な少年にまで敬語を使っているヴィクトールを見て、兵士たちはいよいよその光景に目を丸くする。
 だが、ヴィクトールが彼らにそれだけの敬意を払っているならば、つまりは自分たちもそれを求められると言う事だ。
 もっと早くそうと知っていたら、炎と夢の守護聖にも逆らったりしなかったのに…と、彼らはこっそりと思った。
「ねえねえ。じゃあワタシたちはとりあえず私邸に帰ってもい〜い? もぉホコリだらけの汗まみれなんだよ。はやく熱いシャワーが浴びたいんだ。」
「俺もだ。ヤホ用を先に済ませたい。」
 二人の言葉に、ランディが困ったような顔をする。
「それはちょっと…。ジュリアス様がお二人をお呼びなんです。」
「ええ〜? シャワー浴びてからじゃダメ?」
「ダ・メ・で・す!」
 ヴィクトールは相変わらずの彼らの会話に思わず苦笑をした。
 だが。
「…ちっ…。」
 どこかで、ほんの小さく舌打つ音がその場に居た全員の耳に届いた。
 炎の守護聖の眉があがる。
「…何か聞こえたな。」
 一瞬、場が冷えた。
「オスカー様!」
 マルセルの小さな囁き。それを背にヴィクトールがゆっくりと振り返る。
「今のは誰かな?」
 やや低いオリヴィエの声。
 隊員たちの中から、誰のものとも知れない声が上がった。
「ヴィクトール隊長、なぜそんなヤツらにヘコヘコするんだ?」
「…誰の声だ?」
 ヴィクトールが問う。自分を隊長と呼ぶその声に、だがしかし覚えが無い。しかも、その声が立ち並ぶ数十人の中の、一体どこから聞こえてくるのか何故か分からなかった。
「大体なんで俺達が、いきなりこいつらに編成されなきゃいけない。いきなり来て、頭ごなしに…。」
 またどこかで声がした。
 ざわめきが広がる。
「そう言われるとなぁ…。」
「俺達は親衛隊じゃないしな…。」
「まだ、編成の理由さえ知らされてないんだぜ?」
 オリヴィエがちらりとオスカーを見た。
「…私たち、やりすぎちゃった?」
「どうやらそのようだな。…だがたった3日でどうにかしろって方が無茶なんだ。」
 マルセルとランディが、不安げに目を見交わした。
「どうしたんだ、お前ら?」
ヴィクトールが困惑顔で尋ねる。「疑問なら俺が答える。それに、今回の任務がそう簡単では無い事は分かっている筈だろう?」
「待て、ヴィクトール。」
「はっ?」
 隊員達の中に目を凝らして、声の主を突き止めようとしていたヴィクトールが、オスカーを振り返る。
「こいつらの不満は、俺にも分からんでもないさ。」
 その唇に乗る、不敵な笑み。
 オリヴィエが、ゆっくりと眉を顰める。
 だが、その表情に気付かない振りをして、オスカーは隊員の一人の前に立った。
「だが、これから俺はお前達にどうしても俺の言う事を聞かせなけりゃな。…じゃないと不都合だ。」
するっと手を伸ばし、その腰に差された剣を引きぬく。
「オスカー様、何を?」
 ヴィクトールの声を無視して、オスカーはもう一人の剣を引き抜いた。
 オリヴィエが小さな溜息を漏らした。
「そんな方法じゃなきゃダメなのかい? …あーあ、スマートじゃないね。」
「男ども相手にスマートである必要なんかないさ。…手っ取り早く終わらせるさ。」
 答えながら、オスカーは鋭く振り返って二本目の剣をヴィクトールに向かって投げつけた。
「!?」
 ヴィクトールは思わずその柄を受けとめる。どこにでもある、軍使用の軽い剣。
「さあ…ヴィクトール。ついでだ。決着をつけておこう。」
「…なんですって?」
 ヴィクトールはオスカーのただならぬ雰囲気に、思わず鞘ごと剣を低く構え、1歩引いた。
 その二人の間、丁度中央を取るように、オリヴィエが立った。
「ヴィクトール、アンタはちょっと部下に慕われすぎてるみたいだね。悪いけど、ココでガツンとやらなくちゃ。」
「…つまり、俺と勝負されるおつもりですか?」
 ヴィクトールはオスカーと視線を合わせる。
「お前も色々と思うところがあるんだろう? …それに俺としても、いつまでも引きずられちゃ困るって事だ。」
「…何の事ですか…。」
 ヴィクトールが、その琥珀色の瞳を鈍く光らせた。
「俺を見るたび、妙な顔をするのはもうやめろって事さ。…さあ、構えろ、ヴィクトール。」
「ちょ、ちょっと待って下さい、お二人とも!」
「そうだよ、止めてください! そんな…喧嘩なんて!」
 年若い二人組が止めに入る。
「喧嘩…? はっ! 違うぜボウヤ達。」
「こういう事は早い内のほうがいいのさ。黙って見てな、お子様ども。」
 オリヴィエは笑みを浮かべながらも、有無を言わせない。
「だって…怪我したら…。」
 だが、マルセルの声は二人の軍人には届かない。
 オスカーが、するりと右腕を上げ、剣を引き抜く。
 そして、ヴィクトールは一瞬迷った目をしながらも、オスカーの本気を嗅ぎとってそれに倣った。
 抜き放った刀身に陽光が鈍く跳ねる。
「…隊長…。」
「隊長が…。」
 ヴィクトールが銃器の次に剣を得意とするのは、隊の誰もが知っている。
「ランディ、…ランディ止めて!」
 マルセルが、ランディのマントの裾を握る。
 だが、ランディはゆっくりと首を振った。
「ごめん、マルセル…俺じゃ止められない…。俺にはあの間に入れる腕がないんだ…。」
「オリヴィエ様!!」
 マルセルがオリヴィエにすがるような目を向けた、その瞬間。
「行くぞ!!」
 オスカーの気合の篭った声が響いた。
「…っ!!」
 初めの一撃を、ヴィクトールは刃の腹で受けとめた。それは、彼の細身の身体に似合わない、重い一撃。
「…受け流さないのか? …力に自信があるんだな。」
目の前で余裕の笑みを浮かべて、オスカーは低く言った。「だが遠慮せずに反撃するんだな、このままじゃ俺の勝ちだぜ!?」
「っ…そう言われましても…。」
 二人はお互いに飛び離れる。
「俺にはこの闘いが無意味に思えますが…。」
 ヴィクトールが言った。
 だが次の瞬間には、飛び離れた筈のオスカーの身体が目の前にあった。
 刀身が風を切る音。
 ヴィクトールは本能的に身体を逸らす。胸元を掠める刃先。
── この方は、本気だ…。
 表情こそ微笑んでいるが、そのアイスブルーの瞳の中にはひとかけらの暖かみも無い。
 ヴィクトールは次の太刀を下手に受けとめ、そのまま身体をひねって受け流した。
 入れ替わる立ち位置。
 足元に落ちる二人の影が、埃に掻き消える。
「優柔不断も…そろそろ…おしまいにしたら…どうだっ!?」
 矢継ぎ早に繰り出される剣を、ヴィクトールはことごとく受けた。
「どう言う意味ですかっ!?」
「俺は知ってるんだぜ? お前が今度の女王試験、どう思ってるかを。」
「っ?」
「いや…女王候補を、どう思ってるか…だな。」
 マルセル・ランディの表情に、一瞬不思議そうな色が走る。オリヴィエが舌打つ。
「…っ!!?」
 そしてヴィクトールの脳裏に、昨日のゼフェルとアンジェリークの姿が過った。
 ヴィクトールは、思わずオスカーの剣を高く跳ね上げた。
 オスカーの手に痺れが走る。
「…本気になってきたか?」
 にやり、と口端が上がる。
「過去に囚われて! …簡単な一言も言えないまま! それを…俺のせいにされちゃかなわん!!」
「あ〜らら、キツイねぇ…。」
オリヴィエが、巧みに身を翻しながら呟く。「焦っちゃって…。」
 オスカーが何故この勝負を挑んだのかを彼自身以上に分かっているのは、この男かもしれない。
 隊の統括など、口実。
 オスカーは。
 あの惑星ブエナでの災害に、全く責任を感じていないわけではなかった。そして…
 過去の自分とヴィクトールを、どこか重ねている。
 そして、心密かに望んでいる。
 自分と、そして女王アンジェリークが歩む事の出来なかった、もう1つの道を彼らが歩むことを。
 丁度、闇の守護聖が彼らにそれを望んだように。
「…………。」
「……………。」
 ヴィクトールの瞳が、鋭く細められた。
 そして、次に二人が見合ったその時、ヴィクトールの瞳から迷いは消えていた。
 ずっと、腕を引いて守りの体制に構えていた剣を、ゆるりと降ろす。
 軽く身体を開くように。
「本気に、なったか?」
「……ええ。…お言葉に甘えて…」
 振りきらせて貰おう。何もかも。
 今、見守る隊員の視線も、微かな音も。
 …全てが、消え去る。
 そして、オスカーはそれを見て姿勢を正した。
 騎士としての正確な構えに。
「…あんたたち、良く見ておきな…。」
オリヴィエの低い声が、隊員たちと、そして年若い二人の守護聖に投げられた。「二度と見られない、大勝負になるからね……。」 


 
- continue -

 

…さて。こういう展開です。
ですが、蒼太の思うほど彼らの親密度は低くなかったらしくて、
VS状態に持っていくのに苦労致しました(笑)。
では、また次回!
蒼太

2001.12.09


前半、アンジェリークとレイチェルのやり取り部分のみ加筆修正 2012.2.1.

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