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42.心の扉

  

 

ACT.1

 その場に居る全員が見守る中、冷たい空気を裂くように幾度目かの刃鳴りがして、ヴィクトールは耳元を切る風を辛うじて避け、そのまま1歩しりぞいた。
 頭上に重く垂れ込める鼠色の雲を背景にして、ヴィクトールの目にはオスカーの真紅の髪が鮮やかに浮かんで見える。
 次の瞬間、目の前でアイスブルーの瞳が不敵に笑った。だがその笑みは決して余裕や侮りの笑いではない。彼はヴィクトールが左肩の防備を一瞬開けた事に気付いたのだ。
 誘っていると分かったのだろう。だがそれでも一足飛びに切り込んでくる。ヴィクトールはそれを左上がりに薙ぎ払い、そのまま彼の咽喉元に突き込んだ。通常なら、相手を殺す気が無ければ狙わない場所だ。だが今この瞬間にそこを狙わなければ、返す刀で自分の腿が切られると、ヴィクトールは知っていた。
 そしてオスカーは剣の軌道を瞬時に変えて、ヴィクトールのその一太刀を跳ね除ける。
── 見事だ。
 ヴィクトールは頭の隅でその反応に感嘆した。彼の剣は彼の体格からは想像できないほどに重い。ヴィクトールはゆえにオスカーのはじめの一太刀こそ受けとめたがそれ以後は全て受け流している。
『太刀は受けるな。かわせ』
 士官学校で学んだ時の想い出が、なぜか思い出された。今打ち合わせているのは真剣だというのに。
『剣技は流れだ。流れを止めるな。』
『流して、そしてその反動を次の一太刀に繋げるんだ。』
 あの日は…確かいつもの講師ではなく、どこからか呼ばれて「特別講師」が来ていた。夏の暑い日だった。
 隣では同じようにダーシーが剣を振るっていて。
『剣は好きか?』
 脳裏に浮かぶその姿が囁くように言った。
『好きです。』
 太刀合わせながらの会話だった。
 あれは…誰だったのだろう。もう少しで思い出せそうな気がする。
「オリヴィエ様…。」
ランディが剣を交す二人から目を逸らさぬままに、隣に立つ夢の守護聖に話しかけた。「俺…なんだか…」
「ドキドキのワクワク?」
 くすり、とオリヴィエが笑う。
「………はい。」
 困ったようなはにかんだような顔でランディは答えた。
「その気持ち、分からないでもないねェ。…こんな情況だけどさ。」
 目の前で繰り広げられる光景は、それほど魅力的だった。
「僕には分かりません。」
マルセルが憮然とした表情でオリヴィエを見上げた。「皆に分かってもらいたいなら、こんな風じゃなくてお話をするべきです。それをそんな…ドキドキなんて。」
 その言葉に、ちちち…とオリヴィエがマニキュアを塗った指先を、マルセルの目の前で動かして見せた。
「関係無いんだよ。もうそんな事は…ね。」
そしてそのブルーグレーの瞳を二人へ向ける。「まあ黙ってもうちょっと見ていてご覧? アンタにもきっとこのドキドキが分かるよ。」

「ヴィクトール」
オスカーは疲れを見せぬまま打ち込みながら、ヴィクトールに話し掛けた。ヴィクトールの琥珀色の瞳が、重ねた刃の向こうで答えるように鈍く光る。「お前と俺の差…それが何か分かるか?」
 密かに上がる息に気付かれぬよう溜息のような声で囁くが、その声は静まった辺りに響いて行く。
 オスカーは、その問いに答えるヴィクトールの瞳の不服そうな色に思わず笑んでしまった。
「差、じゃないな…違いと言っておこうか。それはな…。」
 彼は自分のどこがヴィクトールより優れていて、そしてどこがヴィクトールより劣っているか、良く分かっている。
 優れているのは、スピード。劣っているのは力。だがその二つは、どちらもほんの僅かの差でしかなく、ヴィクトールはそれだけで勝てる相手ではない。
 オスカーは正面に構えた剣を一瞬鋭く左に振った。
 思った通りヴィクトールの右腕が反応を返し、翻される。
 今度こそ、オスカーは微笑んだ。
「っ…戦場に、出たことがあるか無いか…だ。」
 そう囁いて、オスカーはフェイントに騙されたヴィクトールの懐に踏み込んだ。…ばかりではなく、その左の足先に全体重を乗せた。詰まり、ヴィクトールの左足を地面に縫いつけたのだ。
 ヴィクトールが一瞬息を呑む。
 だが踏み込みと同時に繰り出したオスカーの剣は、ヴィクトールの剣の腹で受けとめられた。
── やるな…だが、まだまだ…っ
 オスカーは剣を止められた事にも構わず、さらに踏み込んだ。そして受け流された剣の柄をヴィクトールの胸元めがけて突き込んだ。
 足を踏んだことで相手はもう後退できない。ゆえにその一撃はヴィクトールのあばらを折る…筈だったが。
 ふっと目の前のヴィクトールの身体が消える。そして次の瞬間、彼はオスカーの身体を右下から切り上げてきた。
 踏まれた左足は僅かも動かさぬ。
 切ってきた剣を握るのが片手ではなく諸手だという事が、足を縫いとめて尚ヴィクトールに体捌きの余裕があったという事を示す。
「…甘くは、ないか…。」
 二人は向かい合い。
 ヴィクトールに向けられたオスカーの微笑は、もう1度引き締められた。

「オスカー様、ずるい!」
 マルセルの声が上がる。
「ずるいってアンタねぇ…」
オリヴィエが呆れたような声で言った。「あんなの常識だよ。常識。」
「俺…オスカー様はああいう手は使わないって思ってた…。」
 ランディが言う。
「そうだね。アンタの前で見せた事はなかっただろうね。まっすぐなアンタには必要なさそうだし…似合わないし。」
そして、ちらりと目線をヴィクトールに投げた。「アンタがあの手を学ぶなら、ヴィクトールと同質のものがいいだろうね。」
「違いが分かりません。」
 真ッ正直にあっさりと答えたランディに、オリヴィエが笑い顔を向けた。
「アンタ…時々凄く面白いよねぇ。」
「茶化さないで下さい。」
「あのね…。」
オリヴィエが軽く腕を組みなおして、目の前の二人をじっと見た。「二人の様子を見ていてご覧。洗練されているのは…実はオスカーよりもヴィクトールなのさ。」

 

 足を踏まれたことで、ヴィクトールの中に僅かに残っていた油断が消えた。
── そうか、戦…か。
 オスカーは守護聖だ。若く見えてもヴィクトールの知らない時代を知っていて、知らない事を経験している。
 聖地に来てからはどうか知らない。だが聖地に来る前の人生の密度は、きっと今の時代の人間とは比べものにはならない。
 その時初めて。
 ヴィクトールの瞳にも微笑が乗った。
 これほど手応えのある人間を相手にするのは一体いつぶりだろう。軍にも確かに腕の立つものは居る。だが彼らと打ち合ってもこんな高揚感は無い。
 そしてもしこの気持ちをオスカーも味わっているのなら、もしかしたら…
── この人はただ単に、俺と手合わせしたいと思っただけなんじゃないのか…?
 隊の事も、ひょっとするとアンジェリークのことさえも口実なのかもしれない。
 1度そう思ってしまうと、もうそうとしか思えなくなっていく。ヴィクトールはいつしか、この情況になった原因を忘れて、楽しみ始めていた。
 それならば分かる。この気持ちの訳が。命を掛けているという実感が確かにあるのに、打ち合う剣の中になぜか「危険」が感じられないその訳が。
 今ここにあるのは、ただ…「心地よさ」とそして「懐かしさ」だけ。
 ではこの心地よさが、またとない相手に出会ったせいならば、この懐かしさはどこから来るのだろう。
 オスカーが左から切りかかってきた。ヴィクトールは剣を地に這わせるように鋭くそれを跳ね除ける。
 聞いたことがある。オスカーは僅かの間ながら軍に身を置いていたことがあり、女王陛下直属の派遣軍に入るはずだったと。
 自分が身を置くよりずっとずっと以前の、古き良き王立派遣軍。
 今。彼の太刀筋には独特のそれが随所に見え隠れしていた。
── 面白い…そして……荒い。
 ランディから伝え見た、あの時の正直で清廉な剣ではない。
 オスカーの本質。それは…実戦を潜りぬけてきた剣だった。
 ヴィクトールのそれと同じように。
 双方から思いきり振り下ろされた剣が、高く鈍い音をたてて弾かれた。
 二人の腕に痺れが走る。
 そして、一瞬の嵐のようなあれほどの太刀合いがふと静まった。
 今だお互いの身体には傷一つない。

 その二人を取り囲むように。
 整然と並んでいたはずの隊員達とそして、聖地の警備兵達がいつの間にかその壁を崩し渾然一体となって人垣を作っていた。

「あんなヴィクトール隊長、見たことがあるか?」
「オスカー様は、あんなに強かったのか…。」
 食い入るように見詰める中、時折ため息と共に上がる同じような声。
 彼らの剣は果たしてあれほど鋭かっただろうか、彼らの動きはあれほどに柔軟だっただろうか。
 隊員達が知らなかったそんな彼ら自身のの底力を引き出したのは、間違いなく、お互い。
 ……最早、誰もオスカーの言葉に逆らうまい。そして、そんな彼らの作った人垣の後ろで一人の少女が、人垣の向こうを覗こうと必死で背伸びをしていた。
 その少女の名は、アンジェリーク。
 柔らかな栗色の髪と蒼緑の丸い瞳を持つ、17歳の女王候補。
── 何が起きているのかしら?
 アンジェリークはつい先程学芸館で、感性の教官セイランから毒舌と一緒にヴィクトールの行き先を引き出してここまで走ってきたのだった。
 だが、辿り着いてみればそこにはこうした人垣があるばかり。アンジェリークは困惑しながらもその向こうにヴィクトールが居るのではないかと思って、弾む息のまま背の高い彼らの後ろをぐるりと回ってうろうろしてみたが、何かに夢中になっているらしい彼らは、アジェリークがうろついていることにも気付かない。
 そしてアンジェリークはふとこの異常な情況に気付いた。彼らはどう見ても全て軍人。もしくは警備兵。普段は見ることのない人々だ。なぜ聖地にこんなに沢山の軍人がいるのだろう。しかも彼らは一様に腰に剣を携え、銃を持っている気配さえし、その雰囲気は一様に緊張に満ちている。
 その時。
 アンジェリークの耳に高く鈍い音が飛び込んできた。何の音なのか最初は分からなかった。アンジェリークは無意識に音のした方向にふっと顔を向けた。そして見た。
 探していた当の本人── ヴィクトールと、炎の守護聖オスカーが剣を構えて向き合っているまさにその場面を。
 その意味が視界から脳へ伝わった瞬間、アンジェリークの足がすぅっと冷えた。
 なぜあの二人が?
 と、アンジェリークが信じられない思いで目を見張った瞬間、オスカーがヴィクトールの懐に飛び込んだ。
 その行動がアンジェリークの目には、彼の剣がヴィクトールの左肩から右腰を切り下げたように、見えた。
「……っ!」
 思わず目を閉じる。
 だが。
 ヴィクトールの気合が耳に届いて、アンジェリークは恐る恐る目を開けた。
 ヴィクトールは無事だ。それどころか今切りかかっているのは彼の方で、そしてオスカーはヴィクトールの太刀を軽やかにかわしていた。
 なぜ二人が戦っているのかは分からなかったけれど。ぎりぎりで交わされる剣の鈍い光に、アンジェリークの小さな心臓は跳ねた。
 と、二人の動きが止まる。
 何か言葉を交わしているようだ。
 だが辺りの緊張は上がる一方で、アンジェリークにもその緊張が伝わってきた。
 つまり二人は、闘いを止めたわけではない。
 アンジェリークは、人垣をかき分けるようにして走り出していた。

 改めて向かい合ったヴィクトールとオスカーは、お互いの顔色と呼吸を密やかに窺った。
 闘い始めて、10数分が経った。
 軍の剣は軽いとはいえ、真剣独特の重さがあり、それを息継ぐ間もなく振りまわし続けたら、普通の人間であれば既に肩で呼吸をするほどであろうに、二人は今だ軽く唇を開く程度。
「…整理がついたか?」
 オスカーが構えを崩さぬままに囁いた。
「………そう上手くはいかないですよ…。」
ヴィクトールも剣を構えたまま皮肉気に笑った。「しかし…あなたに対する気持ちだけは、さっぱりと。」
 心の底では遠の昔に分かっていた事だ。炎のサクリアは敵視するものではない。
「そりゃ良かった。」
オスカーは口端を可笑しげに上げた。「男に好かれても困るが。」
 ヴィクトールは思わず言った。
「誰も好きだなんて言っていませんよ。ただ吹っ切れただけです。」
「………そりゃ、良かった。」
 オスカーは答えた。呼吸を整え……囁くように。
── ?…この、声は……。
『剣は好きか?』
 オスカーの掠れた囁き声は。そうだ…あの時その言葉を囁いたあの男は、燃えるような髪と、笑いを含んだアイスブルーの瞳を持っていた。
 その時オスカーの鋭い気合が響いた。
「はあっ!」
「……っ!?」
 ヴィクトールは。そしてオスカーは。
 お互いにその隙に唖然とし。
 そしてその時。

「ダメですッ……!!」

 二人の間に、突然飛び込んできた影。
 栗色の髪、蒼緑の瞳。
「なにっ!?」
「くっ…!」
 オスカーは、自分とヴィクトールの間にその両腕を精一杯に広げて立ちふさがった少女の姿を認めると、振り抜こうとした腕を無理矢理に引き止めた。
 そしてヴィクトールは咄嗟に剣を振り上げ、彼の剣を逸らした。刃先は逸らされ、剣の腹がひらめく。
”がつんっ…”
 鈍い音がして、二人の間に飛び込んできた少女は、敷石の上に倒れ込んだ。
「アンジェリーク…っ!!」
「アンジェリーク!」
 オリヴィエ、ランディ、マルセルが駆け寄って来る。
「お嬢ちゃん!」
「…アンジェリーク…!」
 二人は剣を納めるのももどかしく、アンジェリークの傍に片膝をついた。
「なんてこった…俺が女性を殴っちまうなんて……。」
「オスカー様、そんな事言ってる場合じゃありません!!」
「アンジェリーク! …おい、アンジェリーク!!」
 ヴィクトールは倒れたアンジェリークを掬うように抱きかかえた。
「動かすんじゃないよ!」
オリヴィエの鋭い声が飛んだ。「そのまま…。頭を打ってる。救護の心得のあるのは居るかい!?」
 呆然と彼らを取り囲む人垣に向かってオリヴィエは叫んだ。彼らは突然飛び込んできた栗色の髪の少女が一体何者なのか、なぜ守護聖やそしてヴィクトールがこれほど必死になっているのか分からずに、ただ驚いたような顔をしていた。
「って言ったはいいけど、私そんなやつら編成してなかった〜!!」
 不覚! とオリヴィエが頭を抱える。
「俺が。」
 ヴィクトールがアンジェリークを抱いたまま顔を上げた。アンジェリークの顔は青ざめているが幸いにも外傷は無い。剣の勢いが緩んでいたのもあるだろう。だが打ちつけたのは側頭部。ヴィクトールは彼女を揺らさないようにに静かに抱き上げた。
「アンタが?」
「ああ。」
 ヴィクトールは短く答えて歩き出す。
「俺が…俺が女性に…。」
 オスカーはまだ膝を付いたまま、なにやらぶつぶつと呟き続けていた。
「呆然としてる場合じゃないですよ、オスカー様ったら。」
 マルセルがアンジェリークを心配しながらも、オスカーを降り返った。オスカーは聞こえたのか聞こえていないのか、更に身を沈める。
「一生に一度の不覚…いや、1度たりとも…ああ〜〜!!」
「オスカー様っ!」
 ランディは辺りの目を気にしてオスカーを立ちあがらせようと手を差し伸べる。
「あんた達っ、後を頼むよっ!!」
 オリヴィエがヴィクトールの後を追いながら降り返って三人に叫んだ。その三人の後ろには、ずらりと呆気に取られた顔が並んでいて。
「オリヴィエ様〜〜っ!!」
 そしてランディとマルセルは、現在役立たず同然のオスカーと共に、屈強の隊員たちの前に残されたのだった………。

 

ACT.2

 

 アンジェリークはすぅっと息を吐いて、ゆっくりと目を開けた。
 ベッドに横たわっている。
 部屋の中は薄暗く、だがキッチンの方から明かりが漏れてきていてアンジェリークはその光が天井に映るのを目で追いかけた。
 誰かがそこに居る。光に人影が映って揺らめいていたから。
── 私…どうしたんだっけ……。
「レイチェル…私…また倒れちゃった…?」
 漂ってくる香りに小さな鼻をうごめかせ、アンジェリークはキッチンに立つ人物に囁くように尋ねた。
 キッチンの人影が、身じろぐ。
「…済まん、レイチェルじゃあないんだ。」
 低く良い声が、部屋の中に響いて、その声と共に人影がキッチンから出てきた。レイチェルなどよりも余程背の高い人影が。
「…っヴィクトール様っ…!?」
アンジェリークはそれが彼だと気付くと、余りの事に驚いて飛び起きた。「…つっ…。」
 くらりと頭の芯が揺れた。頭部に鈍痛が走る。
「大丈夫か?」
 ヴィクトールはアンジェリークの枕元に寄った。そしてその手を伸ばして彼女の身体を支えようとしたが、それは留まる。彼女はいつもの制服姿ではなく、レイチェルが着替えさせた淡いオレンジ色のパジャマ姿だったから。
「だい…じょうぶです。あの…ヴィクトール様…どうしてここに?」
「その…俺もどうかと思ったが、レイチェルがどうしてもここに居ろと言うから…。」
──  レイチェルが?
 アンジェリークの脳裏にその悪戯気な薄紫の瞳が思い浮かぶ。
「アンジェリーク。…痛むか?」
「あ……。」
 アンジェリークは、そっと頭部に手をやった。包帯の感触。
「寝て居ろ。スキャンでは特になにも無かったが、お前…熱があるんだぞ。」
「えっ?」
枕元からたちあがるヴィクトールに、アンジェリークは驚いたような眼差しを向けた。「スキャンって、なんですか?」
「覚えていないのか?」
ヴィクトールはアンジェリークを見下ろして呟くように言った。「お前は俺とオスカー様の間に飛び込んできて、頭に剣の腹が当たって、そのまま気を失ったんだぞ。」
「……そう言えば。」
「それに風邪を引いてる。気付かなかったのか?」
 言われてみれば、なんだかいつもより疲れている気がしたし、頭がぼんやりしているような気もしていた。
 そしてヴィクトールはそれだけ言うと、そのままミニキッチンへ戻って行った。
 アンジェリークはぼんやりとしたまま、ヴィクトールに言われたようにもう1度ベッドに横たわった。
── ヴィクトール様とオスカー様が…闘ってらっしゃって。私は止めに入ったんだわ。そして、その時に…
 目の前で閃いた剣の軌跡と、頭の痛みが繋がって、徐々に事情が飲み込めて行く。
 そして、こう言う状況になっていると言う事は。
「っヴィクトール様!」
「な、なんだ?」
 突然大声を上げたアンジェリークに驚いて、ヴィクトールがミニキッチンから顔をだした。
「あ、あ、あの…私…ヴィクトール様…あの…。」
 アンジェリークはもう1度半身を起こして、ヴィクトールを必死の目で見上げた。
「どうしたんだ、落ちついて話せ。」
 アンジェリークは、ごくりと唾を飲み込んで、それから一言言った。
「……ヴィクトール様、どうしてここに?」
「だから…レイチェルに言われて。豆のスープを作っているところだ。」
 とすると、先ほどから漂っているこの匂いは、その…と、考えそうになって、アンジェリークは慌てて頭を振った。
「違います、そうではなくて…もしかして私、またヴィクトール様に…皆様にご迷惑をかけたんじゃ…。」
 スキャンとか風邪を引いたとか、それに何より自分の記憶が飛んでいる事がそれを示している。
「ああ………まあ、気にするな。」
 確かに一時大騒ぎにはなった。ジュリアスは血相を変えて駆け付けてきたし、オスカーは女王陛下への謁見を禁止されるし、何故止めなかったのだとオリヴィエやランディは説教された。叱られなかったのはマルセルと、それからアンジェリークに付き添っていたヴィクトールくらいなものだ。
「やっぱり……。」
アンジェリークはブランケットの端を掴んで、がっくりと肩を落した。「私…また……。」
 だが、ヴィクトールは言った。
「お前が気に病むと、俺達はそれ以上に居たたまれなくなる。…椅子を借りていいか?」
 そう言うと、ヴィクトールはアンジェリークの答えを待たずに椅子をベッドの傍に引寄せて彼女の枕元に腰を下ろし、背を少し伸ばしてアンジェリークの額に自然に触れた。
 どきん、とアンジェリークの心臓が跳ねる。だが、ヴィクトールは気付いていない。
「なあ、アンジェリーク。勝手に私闘をしたのは俺達だ。それをお前は…お前みたいに華奢なのが、飛び込んででも止めようとしてくれた。責任は俺達にある。」
「でも……。」
「熱が下がらないな。薬を飲んでくれ。」
 すっとその手が離された。だが、ヴィクトールはそう言っただけで動こうとしなかった。
 そのままじっと、アンジェリークの顔を見詰めている。
「……ヴィクトール様…?」
「………驚いた…。…お前が俺の目の前に飛び出してきた時は。」
ヴィクトールは琥珀色の瞳でアンジェリークの動きを止めた。「あれがどんなに危ない事か、分かっていなかったんだろう?」
 アンジェリークは頷いた。彼女には剣術の心得も武道の心得も無い。飛び込むタイミングもその危険さも分からない。ただ居ても立っても居られなくて飛び出しただけだ。
「お前は俺に背中を向けていた。」
 ヴィクトールは言った。
「…? …はい。」
 アンジェリークはなぜそんな風にヴィクトールが声を低めているのか分からずに、困惑する。
「もしかして…俺を庇うつもりだったのか?」
「あ……。」
── ヴィクトール様は、もしかして…。
「ご…めんなさい…。私…ヴィクトール様が負けるとか、そんな風に思ったわけじゃないんです。違うんです。」
「俺が言うのはそう言うことじゃないんだ。」
 ヴィクトールは真摯な瞳をアンジェリークに向けた。
「……あの…?」
 まっすぐに見詰められ、心音が高まって行くのを感じてアンジェリークは俯きかけた。だがいつもと違うヴィクトールの雰囲気に目を逸らせない。
「俺の方が弱いとか負けるとか、お前がそんな事を考えるやつじゃないって事は分かってる。お前にはその辺の判断は出来ないだろうし…」
そのまま、ヴィクトールは言葉を一旦切った。そして、ゆっくりと尋ねた。「お前、俺を…守る気で飛び出してきたのか? オスカー様ではなく、俺を。」
 自分に背を向けていたと言う事は、つまりそう言うことだ。
「あ………。」
 ヴィクトールが何を言おうとしているのか。アンジェリークにも薄らと分かってくる。
「お前が目の前で倒れた時…俺は正直動転してしまった。…お前が…死ぬかと思った……。」
 ヴィクトールは大きく息を吐いてアンジェリークから目を逸らした。
「ごめんなさ…」
 言いかけたアンジェリークの言葉を、ヴィクトールが遮る。
「謝るんじゃない。アンジェリーク。」
強い口調にアンジェリークは思わず怯む。そしてそんなアンジェリークに彼は言った。「いいかアンジェリーク。お前は女王候補なんだ。俺などを庇って…もし死んだらどうするんだ。」
「………っ!」
 ヴィクトールのその一言に、アンジェリークは心ごと揺さぶられたような衝撃を受けた。
「お前があんな事でもし俺の前から消えたら、俺は…一生自分を恨むだろう。」
 ヴィクトールはアンジェリークの表情に気付かぬまま、目を逸らして苦しげな顔をした。
 もし、あのまま2度とこの蒼緑の瞳が開かなかったら。
 抱き上げた腕の中で呼吸を止めてしまっていたら…そう考えると、恐ろしさに冷や汗が伝った。
「俺は、もう2度と誰も失いたくないんだ。庇ってなんてくれなくていい。庇われるのは、もう2度と…。」
 その時彼の脳裏に浮かんでいたのは、あの惑星での出来事。部下達は災害の最中一人ずつ命を落として行き、そして親友は自分を庇って逝った。
「そんな……。」
アンジェリークの小さな声が、ヴィクトールの耳に届いた。「そんなのって、ないです!」
「アンジェリーク?」
 困惑して上げた目の前に、頬を上気させて自分をまっすぐに見詰めるアンジェリークの顔があった。
「女王候補は、目の前で危ない目に遭っている人を見過ごさなきゃいけないんですか?」
 身を乗り出すように、アンジェリークは訴えた。
「アンジェリーク、そう言う意味じゃないんだ。お前は分かってない。お前にはかけがえの無い使命がある。それに俺なぞ庇っても…」
ヴィクトールは言いかけた。だがアンジェリークの声に語尾をかき消される。
「そんな事言ってるんじゃないんです。」
アンジェリークはベッドの上に手をついて、ヴィクトールの傍に寄った。「ヴィクトール様は何度も教えてくださったでしょう? 人の命に差なんて無いって。なのにどうして私だけそんな風に特別扱いされるんですか? どうしてご自分の命だけをそんな風に軽く扱うんですか? …そんなの、間違ってます。」
「おい…。」
 はじめて見たこの温和な女王候補の怒った顔に、ヴィクトールは思わず怯んだ。
 そしてアンジェリークもそんな自分に驚いたように、口を噤んだ。
 静まった室内に、コトコトコト…と、ミニキッチンの方から、スープの煮える音が響いている。
「…私、知っています…。」
 アンジェリークは、ひっそりと言った。
「知っているって、何をだ?」
 ヴィクトールは彼女の顔をやけに静かな気持ちで見詰めた。
「…ヴィクトール様が、『悲劇の英雄』って呼ばれてらっしゃる事です。」
「………。」
 ヴィクトールは、一瞬驚いたような目をして、それからゆっくりとアンジェリークから目を逸らした。
「初めは知りませんでした。だから私色々と失礼な質問をしたと思います。でも…あの日…お茶会の日、ヴィクトール様が少しだけ私に話してくださったでしょう? 昔の事…あの惑星でおきた事を、ほんの少しだけだけれど。」
 アンジェリークの声だけがヴィクトールの耳に届く。
「…ああ。」
 ヴィクトールは短く答えた。…この少女は、あんなたわいの無い繰言を覚えていたのか。
「あの後、図書館に行ってあの惑星で起きた事件の事を知りました。」
 だが、何も知らないと思っていた少女がそれを知っていたという事実に、ヴィクトールは少なからず衝撃を覚えていた。そして、低く囁いた。
「それなら…分かっただろう。」
ヴィクトールは苦しげにアンジェリークから目を背けた。「俺は英雄なんかじゃない。お前がどう思っているかは知らないが…。」
 そして、きっぱりと言った。
「…俺は、ただの人殺しだ…。」
 マスコミに英雄と書きたてられ帰ってきた主星で、ヴィクトールを待っていたのは部下達の身内からの鋭い言葉の数々だった。
『なぜあの子が死ななきゃならなかったの? あなたが…生き残ってるのに。』
『何が英雄だ。どうせ自分だけは安全な場所にいたんだろう…』
── 止めてくれ。俺は…俺だって死なせたくなかった。
『事件は事前に防ぐ事は出来なかったのかね? こんな大災害を引き起こすとは…。』
『責任は私にはないよ。……現場にいた者が取るべきだろう。』
── そうだ、俺の責任だ。あいつらが死んだのは…。
 だが、ヴィクトールを持ち上げるマスコミの報道はますます激化し、彼は祭り上げられ、取る筈だった責任はいつのまにか霧消していた。
 そして数ヶ月後。
 ミーシャが手首を切った。
 命に別状はなかったが、久しぶりに訪れた彼女の自宅は閉め切られて薄暗く、散々に荒れた室内に残された遺書には、ダーシーの後を追うのだと書かれていた。
 ヴィクトールは、彼女に会いに行くことがどうしてもできなかった。
「そんな事、思っていません!!」
 俯いたヴィクトールに向かって、アンジェリークが声高に叫んだ。
「ヴィクトール様は人殺しなんかじゃない! そんな事ない!」
「もう止めてくれ、アンジェリーク!」
「止めません!!」
頭を抱えたヴィクトールへ、アンジェリークは叫んだ。「どうしてそんなに自分を責めたりなさるんですか? 自分に自信を持てって仰ったのはヴィクトール様なのに…ヴィクトール様は沢山の人の命を助けたのに!」
「だが全員じゃない!」
ヴィクトールは叫んだ。「ダーシーも、クリスも、ジンも死んだんだ。それに沢山の部下が。民間人だって無傷じゃなかった。あの時死んだのもいるし、あの後一生足を引きずってた人間だっている。アンジェリーク、お前が思うよりずっと沢山の人間を、俺は救えなかったんだよ。それを…忘れて生きろっていうのか!? 俺に英雄でいろってそう言うのか!?」
 しん…と部屋の中が静まった。
 惑星ブエナの火山爆発。そしてヴィクトールの過去。
「ヴィクトール様……。」
 アンジェリークはしなやかに腕を伸ばし、その手をそっとヴィクトールの手に重ねた。
 頭を抱えていたヴィクトールは驚いて身を起こし手を引こうとしたが、アンジェリークはもう片方の手を伸ばして無理矢理に留める。
「アンジェリーク……何を…?」
 アンジェリークは、その手を自分の元にそっと引寄せた。
「私……。」
白い手袋をはめた、大きな手。無骨な指。「私……ヴィクトール様が…好きです。」
 アンジェリークは、そう言うとヴィクトールの手をぎゅっと強く握り締めた。
 重なった小さな手は、細かく震えていた。
 その華奢な肩も、震えていた。
 ヴィクトールは今自分が聞いたその言葉を一時には信じられず、現実味の無いその情景を眺めていた。
「ヴィクトール様が、好き…なんです……」
 目の前の少女は、もう1度繰り返して俯いた。
「試験中、ずっと私はヴィクトール様に支えられてきました。ヴィクトール様はいつも私を励ましてくださって、私に自信を持つ事を教えて下さいました。
そんなヴィクトール様はいつでもまっすぐ前を向いて…お強くて、とても頼りになる方で…元気付けて頂くたびに、学習でお会いする度に…私は段々、ヴィクトール様のこと…。」
 アンジェリークは頬を染め、それからヴィクトールの手に重ねていた自分の手をゆっくりと引いて、自分の胸元に祈るように組んだ。
「でも…ヴィクトール様があの災害で心に大きな傷を負って…でもそんなそぶりは欠片もお見せにならずに、ああして私を励まして下さっていたんだって知ったとき…。」
 そして蒼緑の瞳を上げて、ヴィクトールをまっすぐに見上げた。
「私、強くなりたかった……。」
「強く…?」
 ヴィクトールは困惑の眼差しをアンジェリークに向けた。
「おかしな話だって、私も分かっています。私はこんなに弱いし、小さいし…だけど、そんな事じゃなくて…。」
アンジェリークは、ヴィクトールの琥珀色の瞳をまっすぐに見上げた。「あの日私は…ヴィクトール様をお守りしたいって思ったんです…。」
 ヴィクトールは呆然としたように彼女を見た。
「俺を…お前が?」
── これは、夢か?
 ヴィクトールは目の前の少女を、驚きに満ちた表情で見ていた。
「あの災害でどれだけの方が命を失ったか、私ももう知っていて……だからこそ、ヴィクトール様があの惑星で起こった出来事を、この先もずっと抱えて生きて行こうとなさるなら…私も一緒にそれを担って行きたいってそう思ったんです。」
 まっすぐな蒼緑の瞳が見惚れるほどに強い意思を秘めて自分を見詰めている。華奢な身体には熱が篭り、ヴィクトールでさえ圧倒されるほどの気配を纏っている。
「そんな強さが私にあったら…って、そう…思ったんです……。」
 そう言うと、アンジェリークはそっと俯いた。
「だから私、ヴィクトール様に英雄であれなんて、言いません。あの事を忘れてしまえばいいなんて言いません。どんなに辛い過去でもそれはヴィクトール様の一部だもの…。」
 アンジェリークはこんな表情をする少女だっただろうか。
 彼女は今、正に女王のオーラを身に纏っていた。全てを包み込み、癒しを与えるオーラを。
 だが。
「…勝手な事を言っていますね…私。」
ヴィクトールがずっと黙り込んでいるのを見て、アンジェリークはとうとう目を伏せた。「本当に勝手です。…私なんかが…。」
 その時彼女の心に思い浮かんでいたのは、ミーシャと言う見も知らない女性の名前。
 彼女は小さく囁くと、見る見るうちにその瞳に一杯の涙を浮かべていった。
「ご…ごめんなさ…。あの、ヴィクトール様が、私のこと女王候補としか見ていないこと、わかってます。…だから、泣かないようにしようって…思ってたんですけど…。」
 本人にもどうしても留められないらしく、ヴィクトールの手を離して、無理矢理にその涙を留めようと身体を背ける。
「アンジェリーク。」
「私って駄目ですね。こんな変な事いきなり言って、泣いちゃうし…全然…強くないです…色んな痛みを抱えていても、やっぱりヴィクトール様の方がずっとお強い。これじゃ私がヴィクトール様を守ったりなんて…無理ですね…。」
「アンジェリーク……。」
 その瞬間は、まるで背中を誰かにポンと押されたかのようにやってきた。
 身を乗り出すのが早かったのか、それとも、彼女をその腕の中に抱き寄せるのが、早かったのか…。
 細い体。小さな手足。そしてこんなにも薄い肩。
 アンジェリークは驚いて、ヴィクトールの腕の中、泣き濡れた顔を上げた。
「…お前は、いつも俺の予想以上の答えを俺にくれる…。」
「ヴィクトール…様…?」
── 涙…?
 一瞬そんな風に見えて、アンジェリークは思わず彼の頬に手をやった。だがヴィクトールはその手を途中で捕まえてしまう。
「アンジェリーク…お前は今、俺を救ってくれたんだ。…それが分かるか…?」
「私……が?」
「ああ……。」
 突然抱きしめられた驚きに身を固くするアンジェリークに構わず、ヴィクトールはそのまま彼女の肩に頭を預けた。
「ヴィクトール様っ…?」
 アンジェリークは驚いて身を引こうとしたが、ヴィクトールはそうはさせじと彼女の身体を尚いっそう抱き寄せる。
「あ…あの…。」
「済まん、アンジェリーク。…少しだけ、少しの間だけこうさせてくれないか…?」
 ヴィクトールの低い声がその薄い肩先に響いた。
「………。」
 アンジェリークは迷い、迷った後に…微かに頷いた…。

 

 そして、どれ位が経っただろうか。
 アンジェリークはやがて肩に掛かるヴィクトールの重みに馴れて行き、自分の流していた涙も乾いていくのを感じていた。
 だが、今この人は何を考えているのだろう…と、アンジェリークはヴィクトールの肩越しに彼の背中を目で追った。広い背中は呼吸をする度に上下し、だがなにも言わない。
 肩先に触れる赤銅色の髪は、思ったよりもずっと柔らかくて、そしてヴィクトールの香りがした。
 アンジェリークの小さな心臓は、ドキドキを繰り返し。
 抱きしめられたままの身体は温かみを増してゆく。
 ゆっくりと続くヴィクトールの軽い呼吸。それを聞いているうちに、アンジェリークの心臓の音はだんだんと静まって行く。
 だがそれから更に長い時間が経って、アンジェリークはとうとう、ヴィクトールがそのまま眠り始めてしまったのではないかと疑い出した。
「あの…ヴィクトール様…眠らないで下さい。」
 アンジェリークは躊躇った末、ヴィクトールの背中にそう声をかけた。すると、くっくっく… と、その背中が揺れた。
「アンジェリーク…お前ってやつは…。」
ゆっくりと、ヴィクトールはアンジェリークから身体を離した。「眠っているわけがないだろう。」
 晴れた青空のような笑顔がそこにあった。固く張り詰めていた心を解き放つような、そんな表情だった。
「ヴィクトール様…。」
 アンジェリークはその笑顔にどきりとし、なんだか急にまぶしく感じて彼から目を逸らした。…だが、ヴィクトールはアンジェリークを抱く力を緩めた訳ではなかったので、逃げる事は叶わなかった。
 薄明かりにも、アンジェリークが頬を染めた事は分かった。
 ヴィクトールはそんな彼女の反応を、面白げに見詰め。
 そしてそっとその耳元に、唇を寄せ、こう言った。
「俺はな…お前を愛してる。」
 至極あっさりと口に出されたその言葉に、アンジェリークは一瞬頭の中が真っ白になった気がした。
 それからも、すぐには信じられなくて、驚いてしまって、おろおろして。
「…え……?」
 やっと出た言葉は、そんな短いものだった。
 ヴィクトールは、深く1つだけ頷いた。そして彼女の身体を強く抱いたまま、良く通る低い声ではっきりと言った。
「お前を、愛してるんだ。」
「ヴィクトー…ル…様?」
 アンジェリークは、自分の身体を抱きしめるこの男性の腕の力に、どぎまぎしながら彼の顔を見上げようとしたが、ヴィクトールは勿論彼女を離さない。
「…試験が始まった頃はあまりにも頼りなくて放って置けないだけだった。だが、いつのまにか別の意味でお前から目が離せなくなっていって…そしてお前に惚れた自分に気付いた。」
 淡々と語られるその言葉が、徐々にアンジェリークの心と身体に染み込んで行く。そしてそれを充分に理解するやいなや、アンジェリークはあっという間に頬を朱に染めた。
「あ、あの…。」
 うろたえるアンジェリークを置いて、ヴィクトールは言葉を続ける。
「だが俺には…恋だの愛だのに関わる資格なんぞない…だからこの気持ちは伝える前に消すべきだと思っていた。」
 その言葉に、アンジェリークの表情が曇った。その理由が痛いほどに良く分かって。
「……だが、消すのは…無理だったな。」
 ヴィクトールはそこで、大きく笑った。
 その笑顔は驚くほどに透明で、飾り気の無い男の微笑だった。
 アンジェリークは思わずその表情に見惚れてしまう。
 だがそんな事とは気付かずに、ヴィクトールは真剣な眼差しをアンジェリークに向けたまま、言葉を続けた。
「アンジェリーク、お前は俺を出口のない後悔から救ってくれた。閉ざした扉を開いてくれた。…お前は…全てを癒し平等に愛す事が出来る強い女性だ。女王候補にふさわしい……。」
 そう言って、ヴィクトールはゆっくりと…琥珀の瞳は一寸たりともそらさぬままに彼女の身体を押し返した。
 女王候補。その言葉で一瞬にしてアンジェリークの心が冷える。
「だが、お前が女王候補だろうがなんだろうが……俺にはもう、お前を離すことは出来ない。」
「ヴィクトール…さ、ま…。」
 二人の間に出来た、彼の腕の長さの分だけの空間。 至近距離に琥珀色の瞳を見て、アンジェリークは動けなくなった。
「俺の傍にいてくれ、アンジェリーク。……一人の女性として、俺の傍に…。」
 男の顔がそこにあった。教官ではなく、一人の男性なのだと、そう思った。
 アンジェリークは、ゆっくりと頷いた。
 ヴィクトールはそのしぐさを認めると、長く深く息を吐いた。緊張に息を留めていたのだと、その時気付いた。
「俺も…まだまだだな…。」
「え?」
「いや…」
 琥珀色の瞳が、薄暗い明かりの中でじっとアンジェリークを見詰める。
 そうなって漸く、アンジェリークに気恥ずかしさが沸いてきた。心臓がドキドキと跳ねて…気を失いそうにぼんやりとしてしまう。
「アンジェリーク。」
 その名を呟き終わる前に、ヴィクトールの腕はアンジェリークの半身をもう1度抱きしめていた。
「あ……っ」
 身体から力を抜ききっていたアンジェリークは、簡単にヴィクトールの腕の中。
「アンジェリーク、お前が俺を守るって言うなら…。」
 耳元で、ヴィクトールの可笑しげな声が聞こえた。アンジェリークをからかう時のような、声。
 だが、一変してその声は真剣味を帯びて、囁いた。
「俺はお前を一生かけて守ろう。…これからずっと…守らせてくれ、アンジェリーク。」
 きつく抱きしめた腕の中で、お互いの体温は暖かく伝わり合い。
 アンジェリークは小さく頷き…目を閉じた。
 ヴィクトールの唇が、耳元から、アンジェリークの口元へ…そして唇の上で。
「お前を愛している……。」
 そう、囁いた。
「……はい…。」
 頷いたアンジェリークの顎先にヴィクトールの無骨な指が触れ、軽く持ち上げる。
 それから。

 

 アンジェリークは生まれて初めての…包み込まれるようなキスを、ヴィクトールから貰った。

 


 
- continue -

 

さて。クリスマスですね。
こんな日に、こう言う1話。不思議と巡ってくるものなのですね。
別に計画してやってるわけではないのですが。
では。聖なる夜に!
…ちなみに、豆のスープはコゲたと思います。
では、また。
蒼太より
 
UP 2001.12.25

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