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38.冷たい雨

  

 アンジェリークは脇目もふらずに駆けていた。
 土砂降りの雨の中、聞こえてくるのは自分の荒い呼吸と身体に伝わる心音だけ。
 無我夢中で走るその素肌へ、雨は痛いほどに降りそそぐ。
「は…はぁ…、あ…。」
 走りながら、深い溜息が唇から漏れる。
 そして、溜息と共に熱い涙と冷たい雨が頬を伝って落ち始めたのがわかった。
── 駄目…泣いちゃ駄目…。
 もう泣いたりしてはいけないのに。女王になるのだから、泣くような心弱い事ではいけないのに…。
 だが、涙は止まる気配を見せず、ますます零れる。
 色々な想いが一度にアンジェリークを襲って、彼女を混乱させていた。
── ミーシャって、誰?
 それは、女性の名前。私の知らない誰かの名前。
── 私は、一体なにをしようとしたの?
 キスを、しようとした。眠っている彼にそっと。
 自分がそんなことをしでかそうとするなんて信じられなかった。もし、あの時ヴィクトールが目を覚まさなかったら。そして他の誰かの名前を呼ばなかったら、自分はきっととんでもない事をしでかしていた。
 彼が眠っているならば、せめて一度だけでもと。
 自分がこんなにも我侭で勝手な人間だなどとは知らなかった。
 そして、この身体に残る彼の腕の感触。
 強く、思い切り抱きしめられた。
 あの人は、女性をあんな風に抱きしめるのだろうか。私の知らない人を。
── 分かってるの。分かってたの…ヴィクトール様は私みたいな子供の事など、気にも止めてらっしゃらないなんていうことは。
 羞恥と混乱と、そして絶望。
 私のしようとしたキスなど、彼はとっくの昔に知っている。
 私が抱えた淡い気持ちなど、彼にはきっと邪魔なだけ。
 だって、彼には夢に見るほど愛しい人がいる。


 このまま雨に打たれて消え入ってしまいたい。
 アンジェリークは走りながら頬を白い手の平で拭った。
 その時だった。
「アンジェリーク!!」
 後ろから声が飛んできて、アンジェリークは走りながらもびくりと身体を竦ませた。
 石畳に足音を響かせ、追ってくるその声の主は見ずとも分かる…ヴィクトールその人だ。なぜ追いかけてきたのか。礼を失した退室のしかたをしたせいか、それとも抑え切れなかった涙を見られてしまったのだろうか。だがアンジェリークはその理由がどちらであったとしても、振り返りたくなかった。今だけは彼の顔を見たくはなかった。だから立ち止まらずに走り続けた。
「待つんだ! アンジェリーク!」
 2度目の声は、自分のすぐ後ろで聞こえた。女性である上に生来おっとり目のアンジェリークの足に、ヴィクトールが追いつけない訳が無い。
 そしてその声と共にいきなり手首を強く掴まれ、引かれて、アンジェリークは身体ごと振り返らせられた。
 そこには、呆然とした琥珀色の瞳。雨に濡れた赤銅色の髪があった。
 アンジェリークは彼を切なさに満ちた瞳で見上げ、そして目を逸らした。彼女の栗色の髪もすっかり濡れそぼり、毛先から頬へ水滴が伝っている。
 そして彼女の手首を掴んだヴィクトールは、アンジェリークの頬を濡らすのがやはり涙であった事を知って、混乱した眼差しを彼女に向けた。
「…何で、泣いてるんだ…?」
 雨が更に強まる。
 2人の間で石畳に跳ね、耳が聞こえなくなるほどの音を立ている。だがそんな雨の中、ヴィクトールの低 い声は驚くほど鮮明にアンジェリークの耳に飛び込む。
 問われて、アンジェリークは俯いたまま身を引いて、彼の手から逃れようとした。
 答えようとすれば涙が更に止まらなくなると知っていたから。
 しかし、ヴィクトールの胸元を押して逃げようとしたもう片方の手首も、彼の無骨な指にしっかりと捕らえられてしまう。
 ひとしきり、アンジェリークはいやいやする様に手を捩ってみたが、それでも駄目だった。
 弱りきって顔を上げればそこには射抜くような彼の視線。
「アンジェリーク…?」
 ヴィクトールは彼女の両手を取って、まっすぐに彼女を見詰めた。だが、その琥珀色の瞳に浮かぶのは、一体何が起きているのか分からないといった、そんな色だった。
 アンジェリークが何故泣くのかも、何故逃げ出したのかも少しも分かってはいない。そう思うと、アンジェリークの瞳からは新たな涙が溢れ出してしまう。
「ごめ…ごめんなさい…。」
 アンジェリークの答えはか細い謝罪。
「なんで謝るんだ?」
ヴィクトールは僅か苛立ちを込めた声でもう一度問うた。彼の赤銅色の髪からも、雨は絶え間なく滴り落ちる。「アンジェリーク、俺の目を見ろ。」
 僅かに鋭い声で言うと、アンジェリークは雨の冷たさに震えながらヴィクトールを見上げた。
 掴んだ細い手首だけが酷く熱い。
── 何か、おかしい。
 アンジェリークのこの態度は一体なんだ? 
 夢に引きずられて抱きしめてしまったからか? …いいや、違う。
 ヴィクトールは先程の夢を、思い出しかけていた。
 脳裏に微かに残るあの姿は…あの声は…ダーシーだ。そう、それから…?
「…俺は………誰の名前を呼んでた?」
 ヴィクトールがそう言った瞬間、アンジェリークははっと身を固くし、彼は思い出しかけていた。
── 俺は、もしかしたら…あいつの名前を…?
 確信はない。
 だが、そのせいでアンジェリークが泣いていると…そんな風に思うのは俺の勝手な期待でしかないのか。
 ヴィクトールの顔を見上げたまま、アンジェリークは唇をきゅっと結んで首を横に降る。そんな彼女の髪の先を伝って水滴が跳ねる。
「知らない…知りません…。」
 辛うじて搾り出される否定の言葉。
 言いたくなかった。だからアンジェリークはもう一度視線をそらして俯いた。
「答えてくれ! アンジェリーク!!」
 ビクリ、と彼女が震えるのが分かった。
 自分の声が、自分で思うより良く通る事をヴィクトールは知っている。そして今も、空気を伝わったその声は、雨の音をかき消すほどにはっきりと辺りに響いた。
「…知らないっ…。離してくださいっ…。」
 少女は一声叫ぶと、もう一度もがきはじめた。それはヴィクトールに大声で怒鳴られたせいであり、心の箍をはずしてしまったせいであり…。
 その幼い泣き顔。潤んだ蒼緑の瞳と、その濡れた髪。
 それを見たときヴィクトールの中ではまた1つ、何かが確実に変わった。
 今まで彼女に対して抱いていたのは、ただ彼女を守りたい、そして支えたいという気持ち。
 今は。
 愛おしくて、恋しくて…そして…
── 誰にも、渡したくない。
 夢は今はもう記憶の彼方。今目の前にいる彼女が、そして自分が現実。
 こうして、僅かな期待を持ってしまう自分。
 彼女の、傘の向こうの微笑みと銀の髪をした鋼の守護聖。
 色々なことがヴィクトールの中で交じり合った時。ヴィクトールはゆっくりと口を開いた。
「アンジェリーク…。」
ヴィクトールは掴んだ彼女の両手を痛いほどに強く握って、彼女の身体を引寄せた。お互いの身体が触れるほどに近く。「俺は…ミーシャの名前を呼んだか?」
 アンジェリークは、その言葉に身体を強ばらせて思わず彼を見上げた。
 琥珀色の瞳がまっすぐに自分を射抜く。
 アンジェリークは、息を止めた。
 その時。


「何してんだ!! アンジェリークから離れろ!」


 雨の中鋭く響いた声に、2人はハッとしてそちらへ振り返った。
 そこには朱色の瞳を燃やして立つ、一人の青年。
 そして彼はそのまま青い傘を投げ捨てて、2人の間に飛び込む。
 左手を彼らの間に割り込ませるように。アンジェリークを背中に庇う様に。
 ヴィクトールは手を緩め、2人の手が離れて落ちる。
「アンジェリーク、こいつに何された!?」
 ヴィクトールを睨み上げながら、ゼフェルは背後のアンジェリークに尋ねる。だがアンジェリークはうろたえて答えられなかった。
「…ゼフェル様、俺は…。」
 僅かに背を屈めて、ヴィクトールは何かを言おうとしたが、ゼフェルの声に消える。
「何もしてねぇって言うつもりか? 泣かせたのはどうみたってお前だろ!?」
 あっちへ行けといわんばかりの剣幕に、ヴィクトールは取り付くしまもない。
 三人の立った石畳の上に、雨が跳ねて白くけぶる。
 そして傘を手放したゼフェルも、他の2人と同様にどんどん濡れて行った。
 アンジェリークはゼフェルの後ろで黙って俯いたまま。
「…謝れよ…。」
低く、雨に混じってゼフェルが呟く。「アンジェリークに謝れっつってんだよ!!」
「俺は何もしていません!」
 ヴィクトールは思わず声を上げ、ゼフェルは一瞬怯む。
「アンジェリーク、そうだな?」
 ヴィクトールはゼフェルの後ろに立つアンジェリークに向かって尋ねた。
「………っ」
 アンジェリークはきちんと答えるべきだった。なのに彼女は思わずヴィクトールのその強い視線から逃れ様と、後ろへ1歩下がってしまった。ゼフェルの背中に隠れるように。
 混乱して何がなんだか分からなかった。
 なぜ彼が追ってきたのか。今何が起きていたのか。彼が一体何を言おうとしていたのか。
 そして何よりも、彼の口からまた同じ名前を聞いてしまった…。
 苦しくて、切なくて、ゼフェルの白いマントの裾に思わずすがりつく。
「…アンジェリーク…。」
 その僅かな仕種に、ヴィクトールは愕然とした。
── 怯えているのか…俺に…。
「見ろ、これでも何もしてねーってのか?」
 ゼフェルの鋭い声が飛ぶ。そしてそのままアンジェリークを庇う様にヴィクトールを睨み上げた。
 ヴィクトールは言葉も無くその光景を眺めていた。
「もぉいい、帰れよおっさん! …アンジェリークは俺が送って行くから!」
 ゼフェルが言う。そしてただ黙って涙を零すアンジェリーク。
 守護聖と、女王候補と、そして教官。
「………。」
 ヴィクトールは。
 1歩後ろに下がり。
 そして、小さく頭を下げると。
 土砂降りの雨の中、ゆっくりと2人に背を向けた。
「アンジェリーク…大丈夫か。」
ゼフェルは、立ち去って行くヴィクトールの背中を満足そうに見ながら、後ろにいる彼女に言いかけた。「もう行っちまったぜ、これで…」
 アンジェリークはぼんやりとゼフェルを見上げる。
 その瞳は涙に濡れて、揺れる。
 それからアンジェリークは。
 ふっ とゼフェルから目を逸らし、ヴィクトールの背中を追った。
「…アンジェリーク……。」
 それは無意識だったのだろう。だがその一瞬で、彼女の瞳は全てを物語った。そしてゼフェルには分かってしまった。アンジェリークの心が。
 アンジェリークの、誰を想っているのかが。
 彼女の手は未だに自分のマントの裾を握っているのに。
── そんな顔、すんな…。
 あいつは行っちまったのに。ここにいるのは俺なのに。
「っ…アンジェリーク!!」
ゼフェルは大声で彼女の名前を呼んで、そして彼女の両肩を強く掴んで振り返らせた。「こっち見ろよ!」
 アンジェリークが驚いたような顔をしてゼフェルを見た。その手をぱっと離して。
 だが、それからどう声を掛けていいのか分からなくて、ゼフェルは乱暴にマントを脱ぎ彼女の頭から被せる。彼女の視界を遮るように。
「きゃ…っ。」
 小さな声。
「濡れるなっつっただろ!? 風邪ひいたらどうすんだ!?」
 苛立ちを込めた声で言う。
「ごめんなさい…ゼフェル様。」
蚊の泣くような声がマントの下から聞こえ、マントを掻き分けるように、アンジェリークが震えながら顔を覗かせた。「あの…ヴィクトール様は…悪くないんです…私が…。」
「謝るな!!」
── くそっ!
 ゼフェルは強く舌打った。アンジェリークが身を竦ませる。
「謝れって言ってんじゃねぇんだ、たた…ただ俺は…!」
 上手い言葉が見つからない。何をどう伝えればいいのか。
 次の瞬間、ゼフェルは彼女の細い身体をマントごと強く抱き寄せていた。
「ゼ・ゼフェル様…っ!?」
 アンジェリークは驚いて身体を固くした。身動き取れないほどに強く抱かれて、伝わる、相手からの体温と鼓動。
「おメェはこないだ言ったよな? 俺に女王になるって、そう言ったよな?」
 突然の問いかけにアンジェリークは目を見張る。
「女王になるって…言ったろ…?」
 搾り出すような、声。
「私…私は…。」
震える声。だがアンジェリークにはその続きが、どうしても言えない。「私…女王に…」
 ゼフェルが身体を離し、アンジェリークの顔を覗き込む。
「なるん、だよな?」
── 違う、俺はこんなこと言いたいんじゃない…。
 ゼフェルは彼女の泣き顔を見ながら、自分に問いかける。
── 俺は…本当はどうしたいんだよ?
 燃えるような赤い瞳に見詰められながら、アンジェリークは唇をきゅっと結んで答えられないまま。
── ずっと、守護聖なんてって思って来た。いきなりお前は「鋼の守護聖になるんだ」って言われて連れてこられて、真っ平ご免だって、そう思って来た。
 アンジェリークの白い肌が雨に濡れている。
── でも、おめぇが来て、俺はほんのちょっとだけ…守護聖になって良かったって、そう思えるようになってきたのに。
 ルヴァと、ロザリアの会話が脳裏を掠める。『時間を越えたからこそ、あなたにめぐり合うことが出来たんです。』
「痛い…痛いです、ゼフェル様…。」
 柔らかい肩に、ゼフェルの指先が食い込んでいた。ゼフェルははっとして手を緩める。アンジェリークが泣き顔のまま彼を見上げる。
冷たい雨。
── 俺は。守護聖になんてなりたくなかった。
「アンジェリーク…。」
ゼフェルは、小さく尋ねた。「…オメーは…女王になりたいのか?」
 がらりと変わった、感情を殺したような声。
「もう一回だけ、聞いてやる。オメーは本当に、女王になりたいのか? 帰りたくないのか?」
── 俺は、なりたくなかったから。帰りたかったから。
「本当の事、言えよ。言えば…もしオメーが女王になってもならなくても、なれなくてもなっちまっても…俺だけはそのこと、覚えておいてやるから。」
── 言えよ、お前の本当のキモチ。 …俺に。
 朱色の瞳がじっと自分を見詰める。
 目を逸らせない。
 こんな目で見詰められて、嘘を付ける人間は、きっと居ない。
 だがアンジェリークは。
 唇をきつく結んだまま、その蒼緑の瞳を揺らめかせ。
 そして、言った。
「私は、女王候補…ですから…。」
 その瞬間、高い音が辺りに響いた。
 アンジェリークが頬を抑えて立ちすくむ。
 そしてゼフェルは、彼女の頬を打った手の平を上げたまま、怒りに満ちた眼差しで彼女に言った。
「…勝手にしやがれ!!」
 吐き捨てるように、彼女に言い、そして背を向けて駆け出す。
 手の平が痛む。
 女性に手を上げたなんて、生まれて初めてだった。
 自分の名を呼ぶアンジェリークの声が聞こえたような気もしたが、空耳だったのかもしれない。
 目を伏せて闇雲に走る。雨が素肌に痛い。
 どこへ向かって走っているのか。
 …王立研究院へだ。
 途中で、誰かにぶつかった。
「きゃぁっ!」
 と声がしたが、謝る余裕もなく走り続ける。
 そして研究院に着くと、そのままいつもの前の間まで駆け込んだ。
「ゼフェル!?」
 ランディがそこにまだ居て、そしてずぶぬれになったゼフェルを見ておどろいたように彼を見る。
「じゃまだ! どけよ!!」
 ゼフェルはランディの脇をすり抜け、そして係の者の静止を振りきって丁度閉じようとしていた次元回廊に飛び込んだ。
「ゼフェル! 何するんだ、ゼフェル!!」
 ランディの声が、遠のく。
 目の前に広がる宇宙。
 こうして、ここまで足を伸ばして見るのは、久しぶりだった。
 生きている宇宙の鼓動。
 ゼフェルは片手を高く差し上げた。
「俺の…鋼の力…!! アンジェリークの宇宙へ送ってやるぜ!」
 手の平に、身体中から鋼のサクリアが集まる。
 強烈な、意思の力で。
「届け!!」
 差し上げた手から、目に見えない力が宇宙へ放出されて行く。
 力は、ある一定の場所へと吸い込まれて行く。
── そんなに女王になりてーって言うんなら…。
 アルフォンシアだろうか。宇宙の意思が喜びに震えるのが分かった。
 ゼフェルの心とは裏腹に。
── 送ってやるぜ、俺のこの力を。…オメーの為に!!


 そして宇宙に、新たな1つの惑星が誕生した。

 
 


 
- continue -

 

ゼフェル様も、ヴィクトール様も、アンジェリークも…
それぞれいろんな想いを抱えているようです…。

2001.10.28.

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