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37.夢路

  

「…トール!」
 若く張りのある男の声が、白い靄の中から聞こえる。
 これは誰の声だっただろうか。聞き馴染んだ懐かしい声。
「ヴィク…トール!」
 俺は知ってる。この声が誰のものか。
 …知って、いる……。

 

「ヴィクトール!」
 聞き覚えのある声が後ろから飛んできて、惑星ブエナ所属第一部隊隊長・ヴィクトールは、人々がひしめき合う喧騒の中で降り返った。
 その声が一体どこから飛んできたものなのかと、連れの部下達が訝しがるのを横目に、ヴィクトールは空港の人ごみの中でその声の主を見つけ出し、唖然とした表情になった。
「…ダ…ダーシー…?」
 余りにも驚いたものでヴィクトールは、大き過ぎる荷物を抱えた男が人垣を掻き分けて近寄ってくるのを待つことしか出来なかった。だが相手はそんなヴィクトールの反応が嬉しくて仕方が無いとでもいうような顔をして、彼の元へと辿りついた。
「はぁ〜、随分寒いんだなこの星は。」
言って、その黒いビニール地の鞄を、ヴィクトールの足元にどかりと降ろし、彼の肩を大げさに2,3度叩いて快活に笑った。「久しぶりだなヴィクトール! 元気だったか?」
「…お前…いきなりどうしたってんだ?」
 ヴィクトールは呆気に取られたまま彼を見た。
「ははは。やっぱり驚いたな。」
「驚いたも何も…ダーシー、ここは…。」
 ヴィクトールが口篭もるのも無理は無い。この星はただやってくるには主星から遠すぎたし、それに観光にも向いていなかった。
「言ってくれよ『惑星ブエナにようこそ!』ってな。お前、今は空港管理責任者なんだろ?」
そして、彼の後ろにいる数人の軍服姿の男達に片手を上げた。「宜しく! 俺はダーシーって言うんだ。今日からここへ配属された。」
 ヴィクトールは、その言葉を聞いて思わず額に手をやった。
「…莫迦。今日はただ巡視にまわってるだけだ。」
「え? 違うのか?」
 ダーシーは、きょとんとした瞳をヴィクトールに向けて立ちつくした。
 向かい合った2人はほぼ同じ年恰好。ヴィクトールのほうが僅かに背が高い程度だ。だが彼は適当に刈ったような黒髪と、そして驚くほどに深い緑の瞳をしていた。
「…違う。だがお前、もしかして…。」
「嘘だろう!? じゃあ何の為にこっち勤務を選んだのか分からなくなっちまった!」
 両手で頭を抱えたその青年に、皆は驚いたようなまなざしを送ることしか出来ない。
「じゃあ、お前は一体今どこに所属してるんだ?」
「第一部隊だが…。」
 言ったヴィクトールの胸元を、ダーシーはいきなり掴み上げた。
「なんだって? お前また出世したのか!? ふざけるなよ!」
「隊長!」
「隊長に何をするんだ!」
 部下達が慌てて2人の間に割って入ろうとする。だがダーシーは気にも止めない。
「し・か・も。隊長だって!? …この野郎…」
「お、おい、ダーシー!」
 ヴィクトールは胸元を掴み上げる彼の手をどけようと、無意識に身を捻った。と、同時に部下が2人の間に飛び込んでくる。
 それとダーシーがヴィクトールの胸元を掴んだ手を緩めたのは同時。飛び込んで来た部下は素通りして2人の足元に転ぶ。
 しかしダーシーはやっぱり目をくれず、そのまま大きく笑ってヴィクトールの首に腕を回し、彼を抱き寄せた。
「…っやったなこの野郎!」
「ダーシー! 止めろ、こら…っ。」
 ヴィクトールは自分達に突き刺さる周囲の視線に目をやって、その腕から逃げようと彼の肩に手をやる。
「っははは…悪いな。ちょっとふざけすぎた。嬉しかっただけなんだ。」
「お前はいつもふざけてる。」
ダーシーの身体を押し返し、ヴィクトールは足元にきょとんとした顔のまま転がった部下に手を差し伸べた。「悪かったな。こいつは俺の知り合いだ。」
 そんなヴィクトールの仕種を受けて、ダーシーもにやりと笑って彼に手を差し伸べる。
「悪かったな。俺はこいつの親友なんだ。」
 そして2人に腕を掴まれた部下は、呆然とした態で、一瞬中に浮くように立ちあがらせられた。
「そ、そうですか。お知り合いでしたか。」
 別の部下が背筋を伸ばして2人に礼をした。ダーシーはヴィクトールから1歩離れて彼等を見て、大きく微笑んだ。
「俺とお前等も、もう『お知り合い』なんだぜ? これから宜しくな。」
「は、はぁ…。」
 困惑したようにヴィクトールを見る部下達に、ヴィクトールは苦笑いして見せる。
「こいつはいつもこうなんだ。…振り回されるなよ。」
「はっ。」
 かしこまって敬礼した彼に、2人は思わず顔を見合わせて笑いを漏らした。

 

 久しぶりに会ったにも関わらず、彼の笑顔は数年前と全く変わらず、その気さくさも、悪戯気に動く緑の瞳も、ともすればお堅い印象を受けるヴィクトールの琥珀の瞳をまっすぐに見詰めていた。
── そう、あいつはいつも、人を驚かせる為に苦労を惜しまない、そんな奴だった。
 ヴィクトールは、あの日の喧騒に包まれながら、まどろみの中ゆっくり過去へと遡って行った。

 

 俺とあいつが出会ったのは、俺が16、あいつが17に成ったばかりの春の事だった。
 俺達は主星出身でもない限り全員が寮へ入るように義務付けられていて、その日は寮へ新入生が集まった初めての日だったんだ。
「これから点呼を行う。名を呼ばれたら速やかに立って、返事をするように。」
 夕食になって、自室から食堂へ集められた俺達は、適当に腰掛けて、2・3歳年上に見える寮長の声に耳を傾けていた。
 こう言ってはなんだがその「点呼」とやらの前に彼の話は長々と続いていて、俺ならずとも皆相当に飽き飽きしていたに違いない。
 目の前にはこうして食事が既に並んでいると言うのに、もうすっかり冷めかけている。
 そんな中、俺は突然脇腹を突付かれて、隣を振り返った。するとそこには黒髪に緑の瞳のあいつがいて、目を細めて笑っていんだ。そして、掠れたような小さな声で俺に囁いた。
「よぅ。俺はダーシーっていうんだ。」
「あ、ああ…。俺はヴィ…」
点呼は既に始まっていたから、俺は半分上の空で自分の名前を言おうとした。…その時。
「D…D…ダーシー!」
 と、彼を呼ぶ寮長の声と共に。
 パパパパン!!
 突然、庭先から連続音が聞こえた。
「伏せろッ!」
 寮長の鋭い声が飛んだ。次の瞬間、食堂の入り口あたりに並んで立っていた上級生達がその号令にあっという間の反応を見せて床に倒れ込んだのが、目の端に映った。
 食堂の明かりが落ちる。一瞬で何も見えなくなり、
「うわっ!」とか「なんだっ?」とかいう混乱した声があたりに響いた。
 食器が床に落ちて割れる音。
 窓ガラスに何かが当たって大きな音を立てる。
 俺は半瞬遅れて背を屈めた。
── なんだ? 何が起きたんだ?
 先刻の音はなんなんだろう、などと思いながらも俺は、テーブルの上に置いてあったものを手探りで掴み寄せた。
「おい!」
その時俺は目の前でまだぼんやりと立ったままのあいつに気付いて声を飛ばした。「ダーシーって言ったな。伏せろっ!」
「え?」
暗い中、あいつは俺に顔を向けたようだった。「あ〜、そうだな…この場合は伏せたほうがいいのか…?」
「莫迦言ってないで…。」
 俺は思わず立ちあがり、あいつの胸元を掴んで引きずりたおそうとした。
 その時。
 ライトが回復した。
 ぱっと明るくなった室内で、テーブルとテーブルの隙間に座り込んだ新入生達はお互い顔を見合わせ、俺はあいつの胸倉を掴んだままあたりを見まわした。
「よーし、もういいぞ。」
振り返ると上級生達は何ともない顔をして立っている。「おい、そこの2人。」
 呼ばれたのが自分とダーシーだということは、すぐに分かった。なんせ、食堂中の視線が俺達2人に集まっていたから。
「名前は?」
「俺は…だから…ダーシーです。」
 あいつは呑気な声でそう言って。
「ヴィクトールです。」
 俺はあいつの胸元を離しながら答えた。
「どうして2人ともすぐに伏せなかった?」
 ニヤニヤしながらそう言われて、俺達新入生はやっとこれが彼らの悪戯だと気付いた。
「だって、名前を呼ばれたら『立って返事をしろ』って言われたから。」
 飄々とした調子でそう言ったあいつの横顔を、おれは唖然として見詰めた。
「伏せろ、とも俺は言ったよな。」
 寮長が僅かに険を含んだ調子で言った。
「だけど俺、あの音がポリパッチの音だって分かってたし。それに俺、すっごい夜目が利くんですよ。窓叩いてたの先輩達でしょ?」
 ポリパッチ? と俺は驚いて寮長のほうを見た。ポリパッチは大きな音をたてて弾ける祭り用の火薬花火で、勿論俺達が伏せて隠れるほどの危険さなどは全く無い。
「…なるほど。」
 寮長が軽く頷いて、他の上級生達を見た。
 俺は内心ハラハラしてたさ。たとえ後から『慌ててるようには全く見えなかった。』なんて言われたとしても、だ。
 そしたら今度は寮長の視線が俺に向かった。
「で、ヴィクトールとか言ったな。その手に持ってるのはなんだ?」
「え? …これ、ですか…?」
俺はその時初めて、先刻手に掴んだものがなんだったのかを確認した。「フォーク…ですね。」
「何でそんなもの持ってるんだ? 早飯食いでもしようと思ったのか?」
「いや…。」
俺は頭を振った。「とりあえず、何か手に持った方が良さそうだと思って。」
 寮長は頷いた。
「まあ、なかなかいい判断だな。たとえフォークでも武器になると言えなくも無い。」
 俺はホッとして息を吐いた。が、その次の寮長の言葉に、ぎょっとした。
「だがとりあえず、2人とも夕飯は抜きだ。」
── 何だって?
「ええ!?」
俺より早く、ダーシーが抗議の声を上げた。「どうしてですか?俺、寮長の言葉に忠実に従っただけじゃあないですか!」
「うーん。それは正しい。」
ダーシーの抗議に答えたのは寮長ではなく、その隣にいた副寮長。彼はやけに楽しげにこう言った。「でも、引っかからなかったから面白くないだけ。」
「そんな!」
 ダーシーは腹に手をやって眉を下げた。俺はそんな彼を横目に、ちょっと低い声で言った。横暴なやり方に、少し腹を立てていたのかもしれない。
「俺はちゃんと伏せましたよ。だた、コイツがのんびり立ってるから、引きずり倒そうとしたけで…。」
「出来すぎるのもつまらないからなぁ。」
と、副寮長が耳を掻きながら答えた。「それに、お前等友達だろ。一緒に辛さを分かち合え。」
「と、友達って…。」
 そうじゃない、会ったばかりだと、言おうとした俺の口は、背後から塞がれた。
「そう! 俺達友達なんですよ〜! な、ヴィクトール!?」
「ムグッ!」
 そのまま耳元で囁く声。
「…いいじゃないか。これから一緒にやっていこうぜ。」
「よし、二人とも退場!」
 嬉しげな寮長の声と、同級生たちの笑みを含んだ瞳。その頃でも背が高かった筈の俺を引きずって廊下に出て行こうとするダーシーに、俺は心の中で叫んだ。
── 真っ平ご免だ!
 ってな。はは…その時は本気でそう思ったんだ。何となくコイツには関わらない方がいい、関わると面倒に巻き込まれる。そんな気がして。
 そして、その予感は的中した。
 その後四年間続いた士官学校寮での生活の中で、あいつが起こした騒ぎは数えきれないほどで、そして俺はどういうわけか、あいつの起こす様々な事件でいつの間にか片棒を担がされていて。
 親の呼び出しなんかされたのは、学生生活の中で初めてだったよ。
 でも、お前の周りにはいつも人と笑いが絶えなかった。いつだって楽しそうにしている、そんな姿しか見たことが無かったよ。

 

「なに、言ってるんだよヴィクトール。」
 ぽんと肩を叩かれて、白い靄の中ヴィクトールは振り返った。
「ダーシー…俺を呼んでたのは、お前だったのか?」
「そう。」
 肩から手を下ろして、ダーシーは軽く微笑んだ。
「お前が何だか俺のことばっかり言うから。つい出てきちまった。」
「…俺の夢なのに?」
 ヴィクトールは、年若いままの彼に向かって小首を傾げた。
「そうさ。」
 ダーシーは何処かへ向かって歩き始めた。ヴィクトールは思わずその背中を呼びとめようとした。
「どこへ行くつもりだ? …そっちは…。」
── そっちには、何があったっけ?
 ヴィクトールは、何となく気が向かなかったが、さっさと歩を進めるダーシーに、仕方なく付いていく。
「何処へだっていいだろ? それより俺の話を聞けよ。…お前の事だぜ?」
「俺の…こと?」
「ああ、お前の事だ…。」

 

 俺は、初めてお前に会った時、何となくお前に惹かれた。だからこっそり声を掛ける隙を狙ってたんだ。
 お前は自分では気付いてないかもしれないが、お前って男は、ただその場に立ってるだけでも目立っていて、けれどなんだか声を掛けにくい、そんな雰囲気の男だった。
 だから、俺が最初に声を掛けてやろうって、そう思ってな。
 俺はお前を廊下に引きずり出してから、改めて自己紹介をした。
「宜しく、ヴィクトール。俺はダーシーだ。」
 さっと差し出した手を振り払われたら困るなと、ちょっとだけ思ってた。俺は人を見る目はあるつもりだったが、なにせ初日から少し飛ばしすぎてたからな。
 だが、お前はやっぱりそんな奴じゃなかった。少し呆れたような顔をしていたが、それでも俺の手をしっかりと握り返してきた。
「…宜しく、ダーシー。」
「悪かったな、巻き込んで。」
 俺は素直に謝った。お前が握手に答えなかったら、絶対に謝ったりはしていなかったと思うが。
「いいさ…。だが、正直言って参ったな。」
 その琥珀色の目を微笑ませて、お前は言った。その瞬間、お前の固い雰囲気が一瞬で崩れて、俺は不覚にもその笑顔に見惚れたね。…男に見惚れるなんて困ったもんだ。
「…腹が減った。」
お前は言って、肩を竦めた。「だが、明日の朝まで待つしかないか。」
「いいや。」
俺は、そんなお前に微笑んで見せた。「待つ事なんか無いぜ。これから外に行って食って来よう。」
「外って…お前…。」
 ついさっき言われた寮の規定を、お前は思い浮かべていたに違いない。すなわち、「夜間外出を禁ずる。」
 外はすっかり闇の中。そのうえ士官学校寮は主星の中でもワリと山深い場所にあって、麓まで降りなければ店なんかなかった。
「大丈夫だ。先刻も言ったけど俺は夜目が利くし、山地で育ったから山道はお手のものだ。それに…どう考えたって朝までもたねぇ。」
 言った途端に腹の虫がうずいて、グウと鳴った。
 何か考え込んでいた様子のお前は、その音に笑った。結構悪どそうな笑みだったぜ?
「よし、乗った。 …今すぐ行こう。」
 お前が俺に付き合う確率は5割だと思ってた。だから、俺は凄く嬉しかったね。…そうさ、あの時からお前は俺の相棒って、そう決まったんだ。知らなかっただろ?

 

 そして数分後。
 俺達はなんと、山の中のどっか良く分からんような穴の中に落ちていた。

 

「…こりゃ困ったな。」
 穴は深く、結構背の高い方な俺達がたとえ肩車してもその縁には届きそうに無かった。だから俺はちょっとした罪悪感を感じながらあいつを振り返った。結構その声が呑気だったのは、幸いお前も俺も怪我1つ無かったから、だけれど。
「……そうだな。」
 お前は短く答えた。流石に怒ったかな、と俺はお前の顔を月明かりに盗み見た。だが、それは俺の早とちりってもんだった。
 お前は考えてた。俺が適当に助けを待てばいいかなんて思ってるときに、ちゃんと自分で其処を抜ける手段を。
「とりあえず、ちょっと試してみるか。」
 お前はそう言って、穴の壁に取り付いた。
「おい、無理するなよ?」
「ああ。」
 だが、やっぱりダメだった。穴の壁土は砂混じりの崩れやすい土で、傾斜も少なく、森の中であるにも関わらず木の根も見あたらなかった。
 そして降りてきたお前は、穴の底をまるで織りの中のクマみたいにうろうろし始めた。
「おいおい…あと1歩でも動いたら空っ腹で倒れるぞ。」
 俺は穴の隅に座り込んでじっとその様子を見ていた。と、お前は振り返って俺に言った。
「ダーシー、お前体重はどれ位だ? 身長は?」
「俺? 俺は58キロの170cm。まだまだ成長期!」
 茶化して答えた俺の言葉に、お前はくすりと笑った。
「じゃあ、お前のほうが軽いな。俺の方が背もあるし。」
「いやいや、すぐに追い抜くさ。なんせ俺の足のサイズはさんじゅ…」
 言いかけた俺の言葉を、お前は手の平で制した。そして、俺に言った。
「そこから、こっちの壁までの距離が一番長い。俺がこっちで構えるからお前飛んで見ろ。」
「飛ぶって…。」
 俺は、思わず立ちあがった。
「俺の頭の上に、木の根が垂れてるのが分かるか? お前にそれなりの運動神経があれば、絶対に届く。上に着いたら適当に何か探して俺を引っ張り上げてくれ。」
 言われて振り仰ぐと、確かにそうだった。
 俺はこの体格にしては結構身軽ってのが密かに自慢だったし、まだその頃はあまり重い筋肉も付いてなかった。だから、頷いた。
「よし。じゃあやってみるかな。」
「やってみろ。」
 軽く言った俺に、お前はしっかりと頷いた。
 俺はゆっくりと尻の泥を払って、そして…走り出した。
 お前が壁に背を付けて、両手を組んでいる方へ。
「行くぞっ!」
「良しっ!」
 そして次の瞬間。足裏に、スプリングの利いた感触と、その後の浮遊感。俺達の呼吸はぴったりだった。
 俺は精一杯手を伸ばし、木の根を掴んだ。
「頑張れ、ダーシー!」
 木の根がホロリと壁から抜ける。俺は結構必死になってそれを伝って、そして穴の外に転がり出た。
「…脱出成功…。」
正直言って驚いた。あんなに飛べるとは思わなかったから。だが、じっくりと達成感を噛み締めてる暇はなく、俺は穴のふちから顔を出して下のお前に声を掛けた。「待ってろよ〜、すぐに何か探してくるからな〜。」
 穴の底でこくりと頷いたお前を見て、俺は駆け出した。山育ちの俺には一体何を探せばいいのか見当はついてる。一本で3メーター以上の伸びる丈夫な蔓を探せばいいんだ。どんな木にそれが寄生するかも分かってる。
 そして数分後。お前は俺が驚くほどに簡単に蔓を伝って這い登ってきて、そして俺達は2人、ちゃんと穴の外にいた。
「あ〜。良かったなぁ自力で助かって。」
 自力って所が結構大切だよな。と俺は何となく感慨深い思いを抱えてお前を見た。
「そうだな。」
お前は軽く頷いて、そして言った。「さあ、早く行こう。店がしまっちまう。」
 はは…俺は、その時ほどお前が凄いと思った事は、あれ以後そうは無いぞ。
「く…っ…。」
 額に手を遣って、俺は笑いをかみ殺した。
「なんだ? …どこか苦しいのか?」
 お前は俺に尋ねてきて、俺はもう…本当に…耐えきれなくなってしまったんだよ。
「…っは、あっはっはっはっはっ…!!」
 地面に転げて笑い出した俺を、お前は驚いたような目で呆然と見ていた。
「おい…ダーシー…。」
「す、済まん…。そう、そうだな…今度は穴に落ちないように行こうぜ…だが…。」
俺は、笑いすぎて呼吸が出来なくなりそうだった。「…もう少しだけ、笑わせてくれよ…もう、俺…ダメ…っく、くははははっ!!」

 

 そう、お前はいつだってそうやって落ちついた目で皆を見ている。あの日みたいに。
 慌てる時って言ったら、俺が何かしでかそうとした時か、それに巻き込まれる初めの時、それだけ。
 だから俺は安心して羽目を外せたんだよ。だって何をやらかしてもお前が必ずどうにかしてくれるし、絶対に助けてくれる。
 皆だってそれは分かってたさ。だからお前の周りには人が集まった。
 …俺だけの魅力じゃないさ。
 お前が、俺の傍にいたから、だから皆は…。
 俺達は、最高のコンビだったって、そう思わないか、ヴィクトール?

 

「お前の口グセはいつだって『困ったな』とか『参ったな』だったな、ダーシー。」
 ヴィクトールは前を進むダーシーの、時折見える頬に笑いを感じて、微笑んだ。
「そうだな。お陰でお前にまで口癖が移っちまった。」
 ダーシーの声に笑いが混じる。
 ヴィクトールは溜息を付いて、しかし笑いながら彼に言う。
「だけど、困っただけでお前は何もしようって思わないんだ。それがマズいんだ。」
「だって、お前が絶対なんとかしてくれるからさ。お前の『困った』は、本当は困ってないんだ。言ってる間に何か考えてる、お前はそんな奴だ。」
ダーシーは歩みを止めて振り返った。「まあ、お前にもどうにもならない事ってのも、あったけど…。」

 

 霧が晴れて行く。見覚えのある風景。
「士官学校…?」
 ヴィクトールは呟いた。

 

 大きな窓が取られた教室は、階段状に机が設けられ、遠い黒板に教師が何やら数式を書き連ねていた。そう、士官学校で習うのは何も実地訓練だけじゃない。幼年部を卒業したそのままの学力じゃ、この学校は卒業できない。
 俺は出された例題を解いていた。隣でお前が物凄くつまらなそうな顔をしているのを感じながら。
 ころり、と消しゴムが転がってくる。だが俺は無視する。お前のいつもの悪戯だったから。
「ヴィクトール、おい、ヴィクトール。消しゴム返せよ。」
「………。」
俺は黙ってそれを渡す。でもまた転がってくる。「少しは真面目にやれ、ダーシー。」
 だが、こんなに授業を聞いていないやつが、どういう訳か数学だけは妙に出来る。それが信じられない。他の教科については…まあ、言わぬが花だったが。
「ヴィクトール、おい、ヴィクトール。」
「なんだ?」
 俺は少しいらついて顔を上げた。だが、ダーシーは気にも止めずに、ペン先を上げて俺にある方向を指し示した。
「あの娘、見ろよ。」
「…?」
 俺は、思わず釣られてそっちをみた。そこには金に近い栗色の、まっすぐな髪をした女の子が座っていた。彼女は俺達が見ていることになどちっとも気付かずに、隣に座っているもう一人の子と…答えでも会わせているのだろうか、ノートを覗き合っている。
「好みだ…。」
 うっとりと呟かれた言葉に、俺は思わずペンを取り落とした。
「なんだって?」
「すげぇ好みの顔。なんか性格きつそう。」
「はぁ…。」
俺は改めて彼女を見た。確かに時折見える横顔は彫りが深くてその薄い緑の目は、冷静な感じがした。何となく俺も何かを答えなければならない気がして、こう言った。「俺は…どっちかというと、その隣に座ってる娘の方が、好みだが…。」
 正直、ちょっと言ってみただけで、その水色の髪の女の子の顔なんて殆ど見えなかったし、初めて認識した娘だった。でもその娘は士官学校にいるにしては少し華奢で、本当に好みと言えなくもなかった。
「よし、分かった。お前は左の娘。俺はあの右の娘な。」
 お前の言葉に俺はうろたえた。
「おい…。俺は別に…」
「いいって! ついでだから調べておいてやる。」
「そんなのは…。」
 気にするな、と言おうとしたがお前はその後すぐに教師に指名されて黒板のほうへ出て行ってしまった。俺は溜息を付いてお前の後姿を見送った。

 

 それから数日後。俺がそんな出来事をすっかり忘れた頃に、お前は小さな紙切れを持って俺の元へやって来た。
「ようヴィクトール! 分かったぜ?」
「…何がだ?」
「あの子の名前と、住所と、電話番号と、選択科目と…。」
「誰だって?」
 俺は教科書を纏めながら、訝しげに眉をひそめて聞き返した。お前はさもあらんというように、大げさに溜息を付いた。
「あの、水色の髪の子だよ。ほら。」
 渡された紙にはお前の言ったことがすっかり書かれていた。
「…これを、どうしろって?」
「まあ、参考にしてくれ。」
 鼻高々といった調子で腕を組んだお前に、俺は言った。
「俺の事よりお前の事だろう。あの金髪の子はどうした?」
「ああ、そのことなら…。」
お前は少し身体を捻って、後ろ手に教室の入り口を指差した。「ほら。」
 そこにはなんと、彼女がいた。俺は驚いてダーシーを見上げた。
「グループ交際なら可なんだそうだ。…協力しろよな、ヴィクトール。」
「…はぁ?」
 良く見ると、彼女の影にはあの水色の髪の女の子が立っていて、こっちを気恥ずかしそうに見ていた。
「な、協力してくれるだろ?」
「ダーシー…お前…。」
 溜息を付いた俺の肩を、お前はがくがくと揺らした。
「お前だって興味あるだろ? 寮に帰ったら、男、男、男ばっかり! 俺はそんな地味な生活にはもううんざりだ!!」
 その時、俺は17、お前は18になったところ。
「…分かった。協力するよ…。」
 俺は頷いて。
 お前は大きく笑って彼女たちを手招いた。
「紹介するよ。…彼女の名前はミーシャ………。」

 

「お前は恋愛事だけは不得手だったな。」
ダーシーはニヤリと笑ってヴィクトールを見た。「折角紹介してやったのに、3日と経たずに…。」
「しょうがないだろう。」
ヴィクトールは肩を竦めて僅かに頬を染めた。「あっちが俺の事を怖がってたんだ。俺にどうしろって言うんだ。」
「優しい台詞の1つや2つや3つや4っつ、掛けてやればよかったのさ。」
 ダーシーは笑いながらまたヴィクトールに背を向けて歩き出した。
「お、おい…。」
 ヴィクトールはその背を追う。
「そうしたら、お前だってもうとっくの昔にゴールイン! 愛する彼女とハッピーライフ!」
 ダーシーは白い霧の中駆けだしていった。

 

 緑の草原。風に靡く草の絨毯。
「俺達今度、結婚するんだ。」
「…は?」
 持ってきた弁当に手を付けようとしていた俺の手が止まった。
 顔を上げて2人を見る。
 2人は笑って、そして見詰め合って、それからもう一度俺の前で微笑み合った。
 それを見ながら、徐々に自体が飲み込めて行く。
 突然ピクニックに出掛けようなんて、おかしな話だと思ったんだ。
「そうか…。」
2人の微笑みに、こっちまでつられて頬が緩む。「…おめでとう!」
「有難う。」
 お前は大きく笑って俺に手を差し伸べた。あの日、初めて会った日のように。その指にはもうとっくの昔に交わした彼等の指輪が光っていて、俺はなんだかうらやましいような気分になった。
「しかし、お前も度胸があるな。ミーシャを嫁にするなん…。」
言いかけた俺の手を、ぎゅっとつねる細い指。「イタたた…。」
「私のどこが悪いの? 完璧でしょ?」
 その自信は、一体どこから来てるんだと言いたかったが、彼女は実際完璧な才女だった。
 その、物凄くキツイ性格さえ除けば。
「尻の下に敷かれるお前の姿が、目に見えるかのようだ。」
 俺がふざけてそう言うと、ミーシャはもう一度俺の手をつねろうと手を伸ばしてきたが、俺達はさっと手を離してそれを避けた。
「子供を沢山作ってな、大家族になるんだ俺達。」
 ダーシーが笑う。彼が天涯孤独の身なんだと知ったのは、知り合ってから随分経ってからの事だった。
 そんなダーシーの頬に、ミーシャの細い指が触れる。
「…愛してるわ。ダーシー。」
 囁くように言われた言葉に、俺は微笑む。彼女がこんな顔をするなんて、ダーシーや俺のほかに誰が知っているだろうか。
「まあ、そんなわけだ。…お前も頑張れよ。いつまでも一人身じゃつまらんぞ?」
「相手が居ないんだよ。分かってるくせに言うな。」
 言った俺に、ミーシャが答える。
「嘘つくんじゃないわよ。この間も情報部にアンタの噂が流れてきたわよ。…受付の女の子、泣かせたでしょう?」
「俺が泣かせたわけじゃない。俺は別に…。」
 慌てて言った俺に、ミーシャの鋭い言葉が降り注ぐ。
「アンタが大した事じゃないと思ってても、あの子には凄く大事な事だったの。いい?女の子っていうのはね…。」
「ああ、これは美味そうだよな! さあヴィクトール、食べて見てくれよ。ミーシャの手作りなんだ。」
 ダーシーがこっそりウインクを送りながら言った言葉に乗っかって、俺はミーシャの攻撃をかわす。
「そ、そうだな。凄く美味そうだ。…これをミーシャが作ったって?凄いじゃないか。」
 俺と、ダーシーは手元にあったパイを持ち、口へ運ぶ。
「そう?」
ミーシャはその薄い緑の瞳をまんざらでもなさそうに細め。「初めて作ったの。台所に立ったのなんて、何年振りかしら…? ねえ、美味しい?」
「………。」
「…………。」
 俺達は、パイを口に含んだまま、動きを止めた。俺はダーシーを上目使いに見、ダーシーは俺を見返す。
 そう、不味かったんだよ。凄く。
 見た目はあんなに良かったのに、味は…もう、これぞ筆舌尽くし難いような。士官学校の食事なんて大して美味くない。だから俺達は決して美食家なんかじゃなかったのに。
「…う、美味いよ…。」
 ダーシーが搾り出すような声で言った。そう言われたら、俺も頷くしかなかった。ミーシャの嬉しそうな顔もあったし、それに彼女を怒らせると…。
「本当? 正直言って自信はあんまりなかったんだけど、良かったわ。じゃあ私も食べてみようかな。」
 その台詞で、彼女が味見をしていないのが明かになり。俺達は慌てて彼女を止めようとしたが…。
 一口。彼女はパイを含んでそのまま動かなかった。
 そして、それからゆっくりと口を離すと、残りのパイと、俺達が手にもったパイを、そっと取り返した。
「これの…何処が美味しいって?二人とも。」
「い、いや…その…。」
「ああ、その…。」
 俺とダーシーはしどろもどろにお互いを見た。そんな、俺達の横顔に。
「不味いならマズイって、正直に言ったらいいでしょ!?」
 ミーシャの持ったパイが、均等に2分割されて飛んできた。
「ぶっ!」
「うわっ!」
俺達は出来の悪いミートソースまみれ。振り返ると既に、ミーシャは裸足で駆けだしはじめていて、それに向かってダーシーが叫ぶ。「ミーシャ!」
 呼ばれて彼女が降り返る。笑って。
「ヴィクトール! 追いかけるぞ!」
立ちあがったお前が俺にいう。
「俺もか?」
 俺はミートソースを拭いながら答える。
「あいつは素早いからな!」
 足裏に草の感触。
 俺が24、お前が25歳の夏の初めの事。
 風が吹く丘。涼やかな風。青い空。

 

「その後だったっけな! お前だけが辺境惑星の警備隊に赴任命令を受けたのは。」
何時の間にか草原はまたあの白い霧へ戻っていた。追いかけるヴィクトールに向かって、ダーシーが走りながら振り返る。「俺は…相当寂しかったんだぜ?」
「だから…追いかけてきたってのか?」
 ヴィクトールは息を切らせてダーシーを追った。
── ダーシー、そっちはダメだ。
 イヤな予感がする。その先には何があった?
「そうさ、ヴィクトール! 俺達はだって、相棒だろ?」
「お前の相棒は、ミーシャだろ?俺はもう…。」
 足が重い。何かにからめ取られるように。なのにダーシーはそんな様子は微塵も見せず、飛ぶような足取りで先へ進む。
「違う違う。相棒と嫁さんは違うぜ、ヴィクトール。…分かってるくせに。」
 ヴィクトールは、思わずその背中に叫んだ。
「ダーシー、そっちへ行くな! そっちは駄目だ!!」
「追いかけて来いよ、ヴィクトール! 俺がお前を追ってこの星にきたように。」

 

 この星に、来たように。
 その言葉に反応するように、辺りの風景が一変した。

 

 白い、リノリウムの上に散乱した幾つもの金属片。
 けたたましく鳴り響く警告音。耳が劈かれるようだ。
 ここは…どこだ? 渦巻く風の中で目を覆い、あたりを見まわす。
── 熱い。なんて熱さだ。
 窓の外に星空。そして飛び去って行く幾つもの宇宙船が見える。
 だがその割れた窓。
 風の正体を知る。空気が抜けて行っているんだ。この空港を包む人工ドームから。
 俺は手近にあった柱に掴まり、もう一度この情況を確認した。
 左手の奥に、人が固まっている。
 そうだ。俺はあそこまで行かなければならない。後ろに火が渦を巻いている。吸い出される空気と一緒に。
 そう思った瞬間に、背中がずしりと重くなった。
「助けて…死にたく…ない」
 咽喉を抑えた男が俺の背中には乗っている。救うべき一つの命。
 だが、俺の手足はうまく動かない。風に巻かれて飛んできた無数の破片…空港のドームは外が見えるように幾つもの金属柱を使ってその窓を支えており、先刻の爆発でそれが粉々に砕けた。
 俺が背負っているこの男の咽喉も、それに裂かれた。俺の手足も。
 手の平に血が滲む。柱をしっかりと掴んでいる筈の手が、滑る。
「ヴィクトール! 早くこっちへ!!」
 声がして、俺は顔を上げた。
 ダーシーだ…。俺は薄れそうになる意識の中で、そう認識した。
 これは、よく知っている感覚。あの日と同じ。こんな風にあの日もあいつを背負ってこの星の大地を駆けた。空気が、薄いんだ…。
 すぐに、あそこまで辿りつかなければ。そうしなければ、あいつはきっと隔壁を閉めない。…そういう奴だから。
 俺は最後の力を振り絞り、窓の外へ抜けようとする風に逆らって1歩踏み出した。
 この男を背負っていなかったらすぐに吹き飛ばされてしまっているだろう、それほどの熱風。
 そして、1歩。
 また、1歩。
 その時だった。
 ぐらり、と地面が揺れた。
 そのすぐ後で続く爆発音。
 この空港の真下には、大きな酸素発生装置が作られていた。それが…爆発したのだとその場に居た全員が理解した。
「ヴィクトール、危ないッ!!」
 血にけぶる視界に、ダーシーの姿が見えた。
 どすんと、胸にぶつかるその固まり。
 その瞬間、右目に熱い衝撃が走った。
 床に突き刺さった鉄片が、自分の右の目を掠って行ったのだと知ったのは、そのすぐ後。
 そして…。その熱せられた鉄片は…。
「いや……。」
女性にしては低い、彼女の声だけが、その轟音の中やけにはっきり聞こえた。「イヤよ…イヤぁぁぁあぁぁ!!」
「ダーシー…?」
空港管理部の白い制服の背中に、血色の染みがどんどん広がって行く。「…嘘…だろう…?」
 深々と突き刺さった鉄片が何を意味するのか分からずに、俺はその場に座り込んだ。その時は、何も…何も考えられなかった。
 ぐいと、引きずられる。
 1メートルと遠くなかった隔壁の向こうから、数人が決死の思いで俺と俺の背負った男と、それからダーシーの倒れた身体を引きずったのだと、後でわかった。
 呆然としたままの俺の前で、緊急用レバーが引かれ、厚い扉が落ちる。
 落ちて…静まり返った。
 何も、聞こえない。
 何も、感じない。
 ダーシーの倒れたその場に、血の染みだけが広がって行く。
 温い、その匂い。
「ダーシー…お願い…目を開けて…。」
ミーシャがその身体を抱き起こす。背中をその手で抑えて、溢れ出る血を少しでも押しとどめようとするかのように。「駄目…私を置いてなんて行かないで…。」
「…シャ…」
 微かな、声。
 その深い緑の瞳が薄らと開く。
「ダーシー!」
「ミーシャ…ご免、俺…。」
「喋らないで。体力を消耗するわ。」
 ミーシャは低く呟いた。
「ヴィクトー…ル…は?」
 こっちを見ているのに、ダーシーの目に俺は映っていなかった。
「無事よ。皆んな無事。…隔壁も閉めた。あとは助けが来るのを待つだけ。だからあなた…眠っちゃ駄目。」
「俺、助かる…?」
 軽く口端を上げて、ダーシーは微笑んだ。
「助かるわ。 …絶対に助かる。だから…。」
「何で泣くんだ? 泣くなよ…。」
震える手で、ダーシーはミーシャの頬をなぞった。その軌跡が血で描かれる。「ヴィクトール…。」
 俺は、名を呼ばれてふらりと立ちあがり、その傍に歩いた。
「ワリぃ…怪我したみたいだ。」
 ダーシーは、そう言って俺の手を手探りで捕まえた。その時、その震えはぴたりと止んだ。
「あのさ。」
やけにしっかりした声。そしてその瞳はちゃんと俺を見ていた。「ミーシャの事、頼むな。」
 困らせられたことは、沢山あった。
 でも、こいつから『頼まれた』ことは一度だって無かった。
 ただ俺が勝手にこいつを見てきただけ。放って置けなくて、一緒に居ただけ。
「なんで、そんな事いうの!? あなたが私の面倒見ればいいんでしょ!?」
 ミーシャの声が、悲痛に響く。
 その場に居た誰もが、ダーシーが助からない事を知っていた。ミーシャとダーシー本人も含めて。
 ダーシーが自分を抱いたミーシャを振り仰ぐ。
「ミーシャ、俺…この星が好きだぜ? 寒くて、何もなくて…つまん無い所だけど…。空気が薄い分月が綺麗で…。」
「ダーシー…?」
「ごめんな、ミーシャ。約束…守れなくて…。沢山家族を、作るって…俺…言ったのに…。」
「ダーシー…駄目。目を閉じちゃ駄目!!」
「月は…なんだかお前を思い出させるから…だから…。」
「逝かないで!!」
「好きだよ。…ミーシャ…。」
 それが、最後だった。
 ダーシーは、そのまま意識を失って。
 そして、二度と目を覚ます事は無かった。

 

「辛い思いをさせたな。」
霧の中で、ダーシーがやるせなさそうに笑った。「お前にも、ミーシャにも。」
「俺は…いいんだ。」
 ヴィクトールは、答えて俯いた。
 ダーシーが歩み寄ってくる。
「お前はいつも人の事ばかり考えて自分を押し留めようとするな、ヴィクトール。…それじゃ駄目だ。もう少しだけ自分に素直になってみろよ。」
「お前みたいにか?」
 ヴィクトールは、肩に置かれたダーシーの手に手を重ねて、軽く笑って見せた。
「そう、俺みたいになれ。たまにはさ。」
「お前みたいに? …それは…。」
「たまに、でいいんだ。そんなイヤな顔するなよ、失礼な奴だな。」
 ダーシーの憤慨したような声に、ヴィクトールは今度こそ微笑む。
「そうだな…たまには俺も素直にならなきゃな…。」
 ふと、心に思い浮かぶ華奢な少女の姿。
 思い浮かべたとたんに、霧の中に姿を現した。
 はにかむように微笑む、その笑顔。
「その娘が、お前が選んだ子か? ヴィクトール。」
「…ああ。だけど…。」
 言いよどんだヴィクトールの背中を、ダーシーが押した。
「お前は本当にこの手の事が苦手だな。…俺が保証してやるよ、あの子はお前の事が好きだぞ。」
「ば、莫迦…何を…。」
「俺の目に狂いは無い。さあ、行け!」
 大きく笑って、ダーシーが消えて行く。
「待ってくれ! ダーシー! …ダーシー!?」
 ヴィクトールは振りかえってその姿を探した。
 だが、見えない。もう居ない。
「ヴィクトール…様? どなたを呼んでるんですか?」
 微かな、ためらいがちの呼びかけ。
 ヴィクトールは、振り返って少女を見た。
「ああ、アンジェリーク…実は、先刻までここにダーシーが居て…。」
「ダーシー?」
「ああ。俺の…。」
 言いかけて、見上げているその少女の視線に気付く。
『あの子はお前の事が好きだぞ。…自分に素直になれ、ヴィクトール…』
「ヴィクトール様?」
 きょとんと、小首を傾げる少女。
「アンジェリーク…。」
 言おう。今言わなければ、駄目なんだ。
「…ヴィクトール…様。」
「俺は…お前が…お前を…。」
「ヴィクトール様…。」
 が、その姿が唐突に揺らいで、薄れて行く。ダーシーが消えて行った時のように。
 そして、その姿が変わって行く。別の女性に。
「…アンジェリーク…?」
「ヴィクトール。」
 背の高い、金に近い栗色のまっすぐな髪。
 暗い部屋。冷たく冷えた空気。
「…ミーシャ…?」
そこに立っているのはアンジェリークではなく、暗い緑の瞳を持った女性。そして彼女が手に持つのは、研ぎ澄ました薄い刃物。
「あなただけ、幸せになるの?」
 ミーシャは低く呟いた。
「俺は…。」
 彼女の手がゆっくりと持ちあがる。
 右の刃物が、左の手首に。
「あなただけ? 私はこんなに悲しい思いをしてるのに?」
 ヴィクトールは咄嗟に手を差し伸べる、その手を押し留めようと。
「ミーシャ! やめろ! 止めるんだ!!」
 だが、刃物は彼女の手首の上をすぅっと滑った。まるでバイオリンを弾く弓のように。

 

「ミーシャ!!!」
 腕の中に、暖かな感触。
 ここは、どこだ?
 全身にイヤな汗を掻いていた。
 温い室内。見覚えのある天井。
 …学芸…館…。
 俺は、大きく息をはいて、そして身体から力を抜いて、ふと気付いた。
 腕に、何かを抱えている自分に。
 そして、それが何かに気付いたとき、俺は心底驚いた。
「ア…ンジェリーク…。」
 俺の腕の中に居て、俺を潤んだ瞳で見上げているのは、紛れも無く女王候補のアンジェリーク。
 俺は慌てて腕を緩めた。
「な、なんでお前が…いや、俺は何を…?」
 すっかり記憶が混乱していた。長い夢を見ていたせいだろうか?
 すっと、アンジェリークの身体が離れる。俺はすっかり動揺して座ったまま彼女を見上げた。
「アンジェリーク、済まない…俺はもしかして、お前に何か…したのか?」
 アンジェリークは、小さく首を振った。
 俺はほっとして息をついた。
「そうか…いや、今ちょっと寝ぼけていたみたいなんだ…。学習にきたのか? 気付かなくて悪かったな。」
 彼女の体の温かさから、無理矢理現実へ戻ろうと、俺は焦っていた。
 だからなぜ彼女を自分が抱きしめていたのかと考える余裕も無かったし、彼女のその表情の暗さにも気付かなかった。
「い…です。」
 小さく、彼女が呟いて、俺はやっと顔を上げてアンジェリークを見た。
 俺の腕から抜け出たそのままのばしょで、アンジェリークは俯いていた。
「いいです…今日は…学習は…。」
 その頬から、ほろりと涙が零れた事に気付いて、俺は驚いてしまった。
「アンジェリーク…? どうしたんだ?」
「ごめ…ごめんなさ…い…っ!」
 アンジェリークは一声叫ぶと、踵を返した。
「おい、待て! どうしたっていうんだ、アンジェリーク!!」
 その時、扉が廊下から開けられて、ひょいと一人の男が顔を出した。
「ヴィクトール、居るか?」
 その、男はそう言って執務室を覗き込んだが。
「済みませんっ!」
 その脇にドンとぶつかるように扉を抜けて行った少女に驚いて、そのままその場に立ちすくんだ。
「レブン!?」
 俺はその男の登場にまたしても驚いて、一瞬なにをどうして言いか分からなくなった。
 それは、レブンも一緒のようで。
 廊下を走り去って行くアンジェリークの足音が遠ざかって行くまで、俺達は二人して顔を見合わせていた。
 それから。
 先に我に返ったのはレブンだった。
「よぉ…。」
俺に向かって軽く手をあげて見せ、困ったような顔をして頬を掻いた。「お取り込み中だったか? …俺はちゃんとノックをしたつもりだったんだが…。」
 そして俺も、我に返った。レブンに…というか、扉に向かって突進する。
「お、おいおい…何が起きてるんだ、一体!?」
 レブンの幾分慌てたような声。
 俺は、レブンに向かって叫んだ。
「悪い! 何の用だか知らないが、今は相手できない!」
「あ、…そう?」
レブンが身体を捻って扉を開く。「まあ、挨拶しに来ただけだから、俺は構わないが…。」
「すまん、ここでしばらく待っていてくれ!」
 俺は、階段を駆け降りながら、レブンに向かって叫んで。
 そして、アンジェリークの後を追って、土砂降りの雨の中を走り出した。

 
 


 
- continue -

 

はい! 第37話です。
ヴィクトール様の過去編。
オリキャラの中では
ダーシーが一番好きです。
ではまた次回!
蒼太

2001.10.21

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