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39.レイチェル・ハート

  

「ったぁ〜〜!」
レイチェルは、走ってきた誰かに突き飛ばされる形で後ろへ倒れ込んだ。「一体誰ヨ!?」
 雨の中目で追うと、走り去る白のマント。
「ゼフェル様じゃない…。」
 彼がアンジェリークを送って行ったことを知っているレイチェルは、その薄紫の瞳を丸くしてその背中を見送った。
「何かあった様子ですね。」
 彼女の頭の上から、声。
 レイチェルははっとして顎を上げた。
 自分の両肩をしっかりと掴んで、同じくゼフェルの走り去る方向を見ているのは、エルンスト。
「きゃあ!」
 レイチェルはレイチェルらしからぬ声を上げて、慌てて態勢を立て直した。
 エルンストは雨粒のついた眼鏡を指先で押し上げて、そんな彼女を呆れたような顔をして見降ろす。
「支えないほうがお好みでしたか? だとするとあなたは、無残に泥だらけになっていたと思われますが。」
「そ、そんなことないヨ!? あ、アリガト…。」
「そうですか。」
 あっさりとそう言って、エルンストは彼女に背を向けた。泥の上に仰向けに転がる灰色の傘。レイチェルが倒れ込んだ時咄嗟に手放したのだろう。
── 良く付いて来てくれたよねぇ。ホント。
 無理矢理に頼んで、こうして送ってこさせたのは自分だが。
 レイチェルは、屈み込んで落ちた傘を拾おうとするエルンストの背中を、ぼんやりと眺めた。

 

 今からほんの少し前。
「あ〜!雨凄くなってきちゃったネ!」
 レイチェルはランディの差した赤い傘の下で辺りを見回した。
「少し待てば良かったかな。」
ランディが答える。「でも…ゼフェルのやつ、なんだか機嫌が悪かったからね。あのまま俺達だけいるわけにはいかなそうだったろ?」
「あらヤダ。ランディ様ったら気付いてないの?」
 研究院まで後少し。たわいの無い会話をしながら2人は連れ立って歩いていた。元々裏表無く仲がよく、そしてスポーツ万能の2人であったから、凄い勢いの徒歩(?)である。丁度同じ位の背だったから、変わりばんこに傘を持ったりして。
「なんのこと?」
 ランディが怪訝そうな顔をして彼女を見た。
「だから〜。…あんなに分かりやすいのに。」
「何が?」
── 言ってもいっかな。
 レイチェルは気軽な気持ちでそう思った。
「ゼフェル様はさ〜、アンジェリークのコト好きなんでしょ。きっと。」
「えっ!?」
 ランディは心底驚いた様子だった。
「ニブっ!」
 レイチェルはその形の良い眉をきゅっと寄せて言った。
 そしてランディは歩きながらもしばらくぼんやりと遠くを見ていたが、やがて彼女を振り返って尋ねた。
「すごいなぁレイチェルは。一体いつから気付いてたんだい?」
「ん〜、結構前だよ。でもさ、だからっていってどうってわけじゃないからネ。」
「あははは。それはそうだね。」
 ランディは愉快そうに笑う。
 雨粒が傘の端から落ちて、時折靴先と肩を濡らしていく。
「ランディ様たちって…。」
 レイチェルは、言いかけてちょっと口を噤んだ。
「なに?」
 首を傾げて問うてくる。
「そういう話し、しないの?」
 それがどんな類の話が、流石のランディも分かったらしい。ちょっと照れたように笑って肩を竦めた。
「好きな人とかさ〜。いないワケ? マルセル様やゼフェル様と話しないの?」 
 レイチェルは勢いづいて尋ねる。箍が外れたように。ルヴァとロザリアの会話のせいか、それともこれから向かう場所にいる人を思ったせいか。
「レイチェルは…素直だな。」
 ランディが少しはにかみながら答える。
「そう言う答えが聞きたいんじゃないの。」
 むきになって尋ねる。
「そうだね。」
ランディはそんな彼女を見て、降参するかのように空いた片手を上げた。「そういう話は、俺達の間ではした事がないな。」
「ええ〜!?」
 そして、研究院の表玄関に2人は付いた。
 雨粒を弾きながら、ランディが傘をたたむ。
 白い階段に灰色の雨跡が散る。
 抜かり無く用意された傘立てに、傘を放り込みながら、ランディは後ろで待つレイチェルに何気なく尋ねた。
「レイチェルはアンジェリークとそういう話をするの?」
「勿論!」
勢いに乗って、レイチェルは答えてしまった。「…あ。」
「あははは…。」
 こんなに屈託無く笑う人も珍しいだろうと、レイチェルは思いながら彼について研究院の玄関を潜った。扉がしまると同時に雨音が遮られて、いつもの通りの筈の受け付けの事務員も、肌寒い廊下も、奇妙に静かに思えた。
 2人とも目的の部屋は同じ。エルンストのいる新宇宙への前庭だ。
「じゃあ、ランディ様には好きな人はいないの?」
 何となくその背中に尋ねたら、少し微妙な肩をした。
「ん。」
 聞こえた答えは、肯定だったように思う。
 足を緩めて、ランディが振り帰る。その茶色い瞳は何となく大人びて見えた。
「レイチェルは?」
 尋ねられて、レイチェルは唇を尖らせる。頬を赤らめて。
 すると、ランディはふっと笑って彼女の頭を掻きまわした。
 ごく親しい人間にするように。
── ヤダ…。
 ちょっとドキッとしてしまった自分がいて、レイチェルは眉をハの字に下げる。
 以前、アンジェリークに向かってランディを弟のようだと言ったことがあったが、今だったら…もしかしたらやはり兄のようだと、そう答えるかもしれない。
「じゃ、俺はデータ見に行かなきゃならないから。帰りはエルンストさんで、いいんだよね?」
「ハ〜イ。アリガトウございました、ランディ様!」
「どういたしまして。」
 撫でられた髪を整えながら、レイチェルは左奥のブースに歩いていくランディを見送った。
 そして何気なく降り返り…驚いた。
 そこはエルンストが立っていたのだ。あまりの近距離に目を丸くしたレイチェルに向かって、彼は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「な、なによエルンストったら!驚いちゃうでショ!?」
 急な事に思わず憎まれ口をたたいてしまう自分がいる。
「…あなたに驚かれる筋合いはないかと思われます。」
フレームを指先で上げながら、彼は答えた。「どうしてあなたはそう落ちつきがないんですか。」
「な、何よ、別にイイでしょ!?」
 頬を赤らめて、エルンストにつっかかる。そんな2人を周りにいた研究院たちは、「またか」といった様子で見ていた。
 この金の髪の女王候補が、堅物の研究院を気にしていることなど、皆すでに承知の上。
 なにせ彼女は何かしら用を作っては、三日と空けずにここに通ってくるし、もしそのときエルンストの姿が見えない事がありでもすれば、明かに気落ちして肩を落とすのだ。
 レイチェル本人は、それに気付いていないだろう。そしてそんな時の彼女はどう言う訳かひどく可愛い。
 そう、エルンストに憧れる職員は男女問わず多い。だから初めこそそんな彼女の態度を好ましく思わない職員もいた。けれど最近ではこの『鈍すぎる』主任にどうにか彼女の気持ちをわからせるべきなのでは? との意見さえ出ているほど、彼女の健気さは増していた。
「アナタこそどこに行ってたのよ。いきなり後ろに立ってるなんて。」
 胸を張って腰に手をやり、エルンストを見上げる。
 スリムで背の高い彼女は、16歳らしいまっすぐさをその身体に纏っている。それはもう一人の女王候補とは違う、躍動感に溢れる魅力だ。
 だがエルンストがそれに気付く気配は全く無い。レイチェルの前からすっと身を引いて自分のブースへ戻ると手に持ったファイルをデスクに置いた。
「私が何をしていたかなどどうでもいいでしょう。…それより今日はなんのご用ですか? 女王候補レイチェル。」
彼がこのブースに入ってしまえば、出てくる言葉は呆れるほどいつも同じ。「育成物の観察をなさいますか? それとも情報をご覧になりますか?」
 だがその時レイチェルは彼のブースに手を置いて、彼の置いたファイルのタグを眉を顰めて見ていた。
『時空の扉使用についての注意点(SEACRET) 及び決定項』
 その視線に気付いたエルンストがさりげなくそのタイトルを手の平で覆う。
「レイチェル?どうなさいますか?」
 レイチェルが、その声にはっとしたように顔を上げた。
「観察に行くよ。この間の土の曜日はホラ、お茶会でダメだったからネ。」
「それは正しい判断ですね。…では、時空の扉を開きましょう。」
 エルンストは言って、その長く整った指先でキーボードを叩いた。
 ふぁん…と、いう音とともに開く、新宇宙への暗い扉。奥から無臭の風が吹いて来る。
 レイチェルはその穴を見詰めて一瞬黙り込み、それからエルンストを振り返って快活に笑った。
「じゃ、行ってくるヨ!」
 彼の前でひらひらと手を振り、廊下へ1歩踏み込んでいく。
 エルンストは軽い溜息と共に、彼女の後姿が消えて行くのを見送った。

 

「…主任。」
 青い帽子を斜めにかぶった職員の一人が、レイチェルを見送った彼の背中に話し掛けた。
「なんですか?」
 エルンストは振り返って彼を見る。
「先日の件ですが、纏まりましたので目を通して頂けませんでしょうか?」
「分かりました。」
 彼の差し出した書類を受取り、エルンストは小さく頷く。職員は一旦下がる。
『惑星ブエナ・環境及びシステム報告』
 彼はブースの中に設えられた高いスツールに腰掛けて、その1ページ目をめくった。

 

地表面における大気情況: P2
水質: P3〜P4
周辺惑星との連携: P5 
空港管理態勢: P5
次元回廊使用についての注意点(SEACRET): P6

 

 目次をざっと確認すると彼は押し黙って、またページを繰る。そしてその薄緑の鋭い瞳で最後まで一気に読みすすむ。
 それから、もう一度「水質」の項へもどって、興味深そうにじっくりと目を通した。
「…きみ。」
 顔を上げて、先程の職員を呼ぶ。彼は緊張した面持ちで戻ってきた。
 エルンストは彼に書類を返しながら、言う。
「良く纏まっています。ではこれをKACCに落としましょう。1枚は全ての項目を。それは私に頂きたい。 それから…この『水質』の項だけを二枚落として、1枚はリュミエール様へ、もう1枚はゼフェル様へ届けてください。必ず君の手で。そしてお二人に一度目を通していただきたい旨お伝え下さい。何かと問われたら、後に私が行って説明するからと。」
「分かりました。」
 誉められたせいか、彼は少し緊張を緩め、満足そうな顔をした。
「それから、最後の1項目についてはこの書類は勿論、PCDに記録を100%残さないデリートをしておいてください。」
「はい。」
「早急な用件ですので、すぐにお願い致します。」
「わかりました。」
 彼はこれが思ったより重要な任務らしいと気付いたようだ。頬を上気させて自分のブースへ戻って行く。
 そして、そんな彼と入れ替わるようにランディがエルンストのブースへやってきた。
「こんにちは、エルンストさん。」
「ランディ様…ご苦労様です。」
 明るい笑顔を浮かべてやってきた彼に向かって、いつも通りの冷静な瞳を向ける。
「ええと…今あっちに寄って聞いてきたんですが、なんだか、アンジェリークの宇宙がちょっと不安定になってるって…。俺、この間彼女に力を送ったばっかりだから心配で。レイチェルが出てきた後でいいから、覗きに行きたいんですが。」
「ええ、分かりました。そのように致しましょう。」
 そう言うが早いか、ランディの身体特徴を入力し、時空の扉へ入る為の準備を整え始める。
 ランディは端からそんな彼の様子を眺めていたが、やがてその態度に普段との微妙な違いを感じて、何気なく尋ねた。
「エルンストさん…なんだか疲れてらっしゃいませんか?」
「は?」
 エルンストは思わず画面から顔を上げ、ランディのきょとんとした顔を見詰めた。ランディは慌てたように付け加える。
「いえ! 俺の勘違いならいいんですが。」
 そんなランディに、エルンストは僅かに目元を緩めて言った。
「いいえ、お気使いありがとうございます。しかし、私の体調は充分水準を満たしていると思われます。」
「そ、そうですか。」
 エルンストの独特の答えに、ランディは困ったように笑う。
「ええ。」
 そこに、先程の職員が戻ってきた。
「エルンストさん、出来ました。」
差し出す薄い1枚のKACC。「じゃあ、僕はこのままこっちの二枚をお渡しに行きますから。」
「助かります。よろしくお願い致します。」
 たとえ部下に対してでも崩れない敬語で言うと、エルンストは軽く頷いた。
「なんだか急がしそうですね。」
 彼の背中を見送って、ランディが言う。改めて室内を見回してみると、相変わらず静かではあったが、いつものような気軽さを感じ取る事ができなかった。
 するとエルンストはまた微妙な表情をした。
「…そうですか? これでいつも通りですよ。」
「そうでしたっけ…?」
 ランディは何故か素直に頷く事が出来ずに、語尾を濁した。その時。
 ふぁ…ん
 軽い音と共に、奥の扉が開いて、金の髪の少女が姿を現した。
 2人は揃って降り返る。
 急に視線を集められ、レイチェルは驚いたように目を丸くした。
「な、ナニ? 変な顔しちゃって。」
「なんでもありません。観察は終了ですね。」
 エルンストは言って、手に持ったKACCを一旦デスクに置くと、彼女の育成物との対面時間を入力し、そしてデータの自動更新ボタンを押した。
「じゃあ俺が入っても…。」
 ランディが言って扉を指差す。だがそれを遮るように、レイチェルがエルンストとランディの間に割り込む。
 そして、言った。
「ねえエルンスト。お願いがあるんだケド。」
レイチェルはブースに寄りかかって上目使いに彼を見上げた。エルンストはランディから彼女へ視線を移して彼女を見る。「ええと…ちょっとさ。ワタシを寮まで送っていってくれないかな。」
「は?」
 エルンストにとっては突然の事だっただろう。レイチェルが新宇宙でルーティスと「どうすればいいかなぁ」などと会話していた事などは全く知らないのだから。
 レイチェルの頬は、少しだけ朱に染まっていたのだが、面食らった様子のエルンストがそれに気付いたかどうかは定かでない。
「だって! 雨が凄いんだヨ!? これじゃ帰れないヨ!」
 軽く拳を固めて、レイチェルは言った。
「…ならあなたはどうやってここまでいらっしゃったんですか?」
 レイチェルは傍にいたランディを指差す。
「ランディ様の傘に入れて貰って来たんだヨ。」
「そ、そうなんですよ。」
 ランディが答える。そんな2人をじっと目を凝らして見た後で、エルンストは少し低めの声で尋ねた。
「………それで、どうして私があなたを?」
フレームを押し上げて、エルンストが言う。「傘ならお貸しします。私の分を…。」
 言いかけて、はっとしたように手元を見た。KACCがそこに置いてある。これはすぐに宮殿まで持っていかなければならないものだ。
「…お貸ししたいところでしたが、実は外出の予定がありまして。すみませんがどなたか余分な傘を持ってらっしゃいませんか?」
 声のボリュームを少しだけ上げて、エルンストは室内の職員達に尋ねた。
 だが、誰も答えない。勿論聞こえていないわけではない。
「? …どなたも予備をお持ちではないのですか…? 困りましたね。」
「外出ってドコへ行くの?」 
 レイチェルが尋ねる。
「宮殿…ですが?」
「じゃあイイじゃん! 途中で少しだけ遠回りしてよ!」
 やった! といわんばかりの表情で、レイチェルは声のトーンを上げる。
「しかし…。」
エルンストの視線が何故かランディのほうへと向けられた。そして、もう一度手元のKACCへ。「ランディ様、育成物の観察後にレイチェルを送って頂けませんか?」
「えっ? 俺ですか? 俺なら別にい…。」
 いいですが。…そう言いかけたのは明かだったが。
 その瞬間、全職員の視線がランディに集まり。そして何よりエルンストの向こう側から、レイチェルがその薄紫の瞳をきつく光らせて彼を見た。
「…なるほど…。」
 ランディが小さく呟き。
「なんですか?」
 ひとりだけその情況に気付かないエルンストが尋ねる。
「ええと…それなんですけど、俺ちょっと〜…その、アルフォンシアだけではなくてレイチェルのルーティスの様子も見ておこうかなんて…結構時間かかっちゃうと思うし、…その、できればエルンストさんがレイチェルと一緒に行ってくださるなら、凄く助かるんですけど。」
 …凄く。だってここで自分がレイチェルを送る羽目にでもなろうものなら、後が相当に怖い。
 しどろもどろのランディの言葉に、エルンストはほうっと深い溜息を付いてレイチェルを見た。
「…仕方がありませんね。では、行くことにしましょう、レイチェル。ですが一人用の傘に二人で入る事になります。多少濡れるということは、覚悟していただきたい。」
「分かってるって! サンキュー、エルンスト!!」
 軽い礼の仕方だったが、その瞳はぱっと輝きを増す。
「では、ランディ様については…そこのあなたにお願いしましょう。」
 エルンストはそう言って職員の一人を手招くと、入れ替わるようにブースからでた。
 ランディは彼と話し始め。
 そして、エルンストとレイチェルは連れ立って研究院を出たのであった。

 

 雨は勢いを増している。
 傘を拾ったエルンストは、雨に目を細めて彼女に傘を差しかけた。
「これは酷い。早々に目的地へ急がねば。」
 レイチェルは傘の下に飛び込み、もういちどエルンストと肩を並べて歩き始めた。
 気温はどんどん下がって行き、もう少しで吐く息さえも白くなろうかというほど。レイチェルの丈の短い制服では、肌寒いのを通り越しでしまいそうだった。
「ああ…もぉびょびしょだよ〜ぉ!」
 期待していたのはこんなに酷い雨ではなかったのに。これでは折角隣り合って歩いていても、お互いの声さえ上手く聞き取れないほど。
「だから私が言ったでしょう。文句は言わせませんよ。」
「文句じゃないよ。現状を言葉にだしただけだヨ。」
 なら、どうすればいいのだろう。
 レイチェルはその天才的頭脳をくるりと回転させた。
「あのさ、エルンスト…。ウチでちょっと雨宿りしていきなよ? 少しは雨足も緩むかも。」
 と、僅かにもじもじしながらレイチェルは言ったのだが。
「この雨は女王陛下の体調次第ですから、外界の雨と同じという訳には行きません。…私は急ぎの用ですし、立場上あなたの部屋に寄りこむのは好ましいこととは思えません。」
 全て否定形で答えられてしまった。
「そ…そっか。…そだね。」
 どうやら彼女の頭脳も、たまには鈍るらしい。それは…彼女が「女のコ」だから。
 それから、2人は黙って歩き始めた。
 灰色の傘は、どうやら普通のものより多少大きめに作られている様子だったが、何かの拍子で幾度も肩が触れ合う、僅か10センチほどの身長差。
── ランディ様とだったら…。
 ちっとも、こんな気持ちにはならないのに。
 ドキドキしたり、切なくなったり、そんな気持ち。
 勿論会話が途切れる事もない。
 レイチェルは彼の横顔をこっそりと見上げた。
── もし、もしね。
 ここが聖地なんかじゃなかったら。
 こうして傘にならんで入って歩いて。それってデートみたいな感じ。
 もしここが外界の街並みだったら、ウィンドゥショッピングや、軽い会話。
 もしここが外界の公園なら、腕を組んで歩いてみたい…な。なんて…。
 そんな事を考えていた時だった。
 隣を歩いていたエルンストの顔色がはっと変わって、急に歩みを止めた。
「な?なに?」
 レイチェルは驚いて立ち止まる。エルンストは顔色を変えたまま前方を凝視していて、レイチェルはその視線を追って前を見た。
「きゃあ! 何? オバケ!?」
 大雨の中、緑の森を背に、白くぼんやりと何かがそこにある。
「ちがいます、レイチェル。幽霊などというものはこの世にも聖地にも存在しません。…ですから、あれは…。」
エルンストは眼鏡を中指で押し上げた。「…人、です。」
 それは、白い布を頭からかぶった、人。布の裾からは紺のハイソックスと茶のローファーを履いた、すんなりとした足が覗いている。
「あれって…アンジェリークじゃない!?」
 レイチェルは一声叫んで思わず傘の下から走り出た。
「ま、待ちなさいレイチェル。」
 豪雨の中、1歩遅れてエルンストが彼女を追いかける。
 アンジェリークに走り寄ったレイチェルは、彼女の肩を掴んで降り返らせた。かぶっていた白い布がはらりと肩へ落ちて、栗色の髪がのぞいた。
「どうしたノ?」
 だが、アンジェリークは片頬を手の平で押さえたまま、レイチェルをぼんやりと見るだけだった。
 この白い布には、見覚えがある…ゼフェルのマントだ。
 そこに至って、レイチェルはやっと先程走り去って行ったゼフェルと、そしてアンジェリークの間に何かあったのだと気付いた。
「ゼフェル様だネ? 何か言われたんでショ!? 苛められたノ?」
 苛める、という表現は合っていなかったかもしれないが、レイチェルの中では、ゼフェルのアンジェリークに対する気持ちの表し方というのは、いつも「好きな子にはつい意地悪をしてしまう。」というものだったから、そんな風に言ってしまった。
「…レイチェル、落ちつきなさい。」
 傘を2人に差し掛けながら、エルンストがよく通るテナーでそう囁いた。
「分からないの…。」
そんな中、アンジェリークはぽつりとつぶやいた。雨の音にかき消されそうな小声で。「何が起きてるのか…よく分からないの、レイチェルっ…!」
 とすんっ と、アンジェリークの華奢な身体がレイチェルの腕の中に飛び込んで来る。
「ゼフェル様をまた怒らせてしまったの。…ヴィクトール様が…ヴィクトール様が行ってしまったの…っ。」
 堰を切ったように、アンジェリークは泣き始めた。
「アンジェリーク…。」
 レイチェルは、そっとその背中に腕を回す。
 そして、エルンストをチラッと見上げた。それを受けて彼は、
「傘はお貸ししましょう。持って行ってください。」
 と、言いながら傘を二人に差し出したが。
 レイチェルはアンジェリークを抱き寄せていない方の手でそれを受取り、器用に片手で閉じた。
「レイチェル?」
「もうこれだけ濡れてるんだもん。いらないよ。」
確かにその通りだった。今となっては三人ともずぶぬれと言っていい。「…さ、行こう…アンジェリーク。もう泣かないでヨ。」

 

 レイチェルはアンジェリークの部屋に入ると、彼女とエルンストを立たせたまま暖房を入れ、そして手早く湯を沸かし、更に風呂に湯を入れ始めた。
 そんな彼女を見ながら、エルンストは、自分がここに居ていいものなのかと、少々複雑な顔をしていたが、それでも黙っている。
「ほら、そのマントは置いて。」
一通り用事を済ますと、レイチェルはアンジェリークの身体を覆うずぶぬれのマントを外した。水を吸って酷く重い。「濡れたままじゃ風邪ひいちゃうでショ? …それに、突っ立ってないで、ほら、座って!」
「う、うん…。」
 勢いに押されて、アンジェリークが腰掛ける。
 レイチェルはそれから、勝手知ったる様子で彼女のチェストから三人分のタオルを取り出すと、それぞれに手渡した。
「ごめんなさい…心配してくれてありがとう、レイチェル。」
 部屋が温かくなってきたせいだろうか、先程まで青い顔をしていたアンジェリークは、徐々に顔色を取り戻している。
「イイヨ。」
レイチェルは短く答えて、その手に紅茶の入ったカップを持たせた。「ほら、お風呂が入るまで、コレ飲んでて。」
 すると、アンジェリークはこくりと頷いて、カップを手の平に包み込むようにして一口含んだ。
「…美味しい…あったかい…。」
「あったり前デショ!? なんて言ってもこのワタシが煎れたんだもん!」
それから、僅かに眉を寄せて彼女を見降ろす。「何があったか聞きたいけど…今のアナタの顔色ったらサイアク! まず身体を暖めるのが先だネ。」
「うん…。」
 頼りない答え方に、レイチェルとエルンストは目を見交わす。
 しかし、今はどうしようもない。
「じゃ、ワタシたちは行くよ? 夕食の時間になったら、呼びにくるカラね?」
 その時までには、アンジェリークも考えが纏まって落ちついているだろう、というのがレイチェルと、そしてエルンストの考えだった。
 相変わらず元気の無いアンジェリークを、降り返りながらも、玄関へ向かう。
 だが、そんな彼らの背中を。
「ま、まって…レイチェル!」
アンジェリークは、意を決したように呼びとめた。
「ナニ? ナニかして欲しい事があるノ?」
 レイチェルはきょとんとして扉の前で降り返る。
「聞きたい事があるの…あの…」
そこで一旦言いよどむようにアンジェリークは視線をさ迷わせ、それから漸く絞り出すような声で、言った。「私たち…絶対女王様にならなきゃならないのよね?」
「何言ってるの、今更。」
レイチェルは、肩を竦めて見せる。「あったり前じゃない。っていうか、なりたいからこんなに頑張ってるんでショ?」
 それが先刻の事と何か関係があるのだろうか。レイチェルは訝しげに眉を顰めた。
 すると、アンジェリークは乗り出した身をまた椅子へと戻して、視線を床に落としてしまった。
「…なんでも、ないの…ごめんね、レイチェル。」
「ちょっと〜! 気になるでしょ? そこで止めないでよ。」
 レイチェルは歩を戻してアンジェリークの元へ歩み寄った。
 エルンストは、その後ろでどうしようかという顔をしたが、結局そのまま部屋の中に残った。
 アンジェリークは、おずおずと視線を上げて、目の前に立ったレイチェルを見上げる。
 そして、彼女が次に口に出したのは、レイチェルが思っても見なかった、一言だった。
「私…やめちゃ、駄目…?」
『ワタシ・ヤメチャ・ダメ?』
 レイチェルの頭の中で、その言葉が繰り返される。
── このコ、何を言ってるんだろう。
 レイチェルは、まず始めにそう思った。それから、
── 止めるってなんのコトだろう。
 …そう、思った。
 それから。
『〜なきゃいけないのよね。』
 と、言った彼女の言葉が繋がった。
「…………。」
 〜なければならない。それは、アンジェリークが本当はこの試験をどう思っていたのかと、レイチェルに知らせる事になった。
「…ふざけないでヨ!!」
 咽喉から漏れた、自分のものとは思えない割れた叫び声。目の前でビクリと身体を竦ませる、栗色の髪のもう一人の『女王候補』
「レイチェル!」
 後ろから、エルンストの声がした。だが、今は構っては居られなかった。
「やめちゃ駄目かって? それってアナタは女王になりたくないって、そういうコト? …そういう事だよネ?」
 アンジェリークの頬から血の気が引いている。真っ青なその頬。
「女王になりたくないのに、試験を受けてるの? もしかして、ずっとずっとそう思ってたノ?」
── 結構イイライバルだって、そう思ってた。
 初めは全然物足りないコだった。だからせめて相手になるくらいに育ててあげようなんて、そんな気持ちで一緒に学習したり、してた。
 そうしたら、だんだん目が離せなくなってきて。
 だけど、このコはどんどん力をつけてきて、惑星もどんどん増やして行って、そして…。
「そのくせワタシに勝ってるって、そう言うノ!?」
 震え出した彼女の手がわずらわしくて、レイチェルはアンジェリークの、カップを持った手を叩いた。
「きゃっ!」
 力の入っていないアンジェリークの手から、簡単に滑り落ちるカップ。
カシャ…ン
 床に散る白い破片。
「…やめたければ、止めればイイよ…。アルフォンシアも、何もかも忘れて…でも、その代わり……。」
レイチェルは、低く呟いた。「アナタとは、もう絶交だからネ!」
 そして、踵を返して部屋から走り出して行った。
「レイチェル…!!」
 その後姿に、エルンストが叫ぶ。
「…っ…く…。」
 小さな泣き声が、雨の音に混じって室内に響く。
 エルンストはゆっくりと振り返った。
 アンジェリークが泣いている。
「…アンジェリーク。」
エルンストが、呟いた。「今の一言、あれだけは…彼女には言ってはいけませんでしたね…。」
 そして、泣き続けるアンジェリークを置いて、部屋を出て行った。

 

「レイチェル、ここを開けてください。」
 女王候補寮の東の部屋。
 天使の呼び鈴は蒼い髪をしている。先程から何度も押しているが、中から返事は返ってこない。
「レイチェル!」
 エルンストは声のトーンを上げて更にその名前を呼んだ。
 部屋の中には、確かに居る。彼女の気配がするから。
 だが、一筋縄ではこの扉は開きそうに無かった。策を練る。窓辺に回って見るか、それとも力ずくで鍵を壊して見るか。
── けれど、私はこの扉を開けさせて、一体どうしようというのか。
 レイチェルは確かに傷ついている。だが同時に彼女がそれほど弱い人間ではない事も、自分は知っている。
 そう言う点では、今先刻置いてきてしまったもう一人の候補、アンジェリークのほうが数段に自分を必要としている筈だ。たとえ、こんな人間付き合いの苦手な一介の研究院が相手だとしても。
 しかし、手はその思考とは裏腹に、扉を叩く。
「レイチェル、お願いです、ここを開けなさい。」
── 嘆願と命令が一緒になってしまっている。私としたことがどういう訳だ。
「…レイチェル!!」
 最後の一声は、我ながら情けないと思った。けれど…
 扉が、薄く開いた。
「……分かってると思うケド、ワタシ…今最低な気分だから…。」
のぞいた薄紫の瞳は、驚くほど力を失っていた。
 これがいつも私を睨み上げているあの瞳とは到底思えない。
「私を中に入れなさい、レイチェル。」
── 待て、入ってどうしようというのか。私は。
 エルンストはしかし、嫌そうな顔をした金の髪の候補に向かって、強くもう一度言った。
「私を、部屋の中へ。」
「………。」
 しぶしぶ、と言った様子で、レイチェルが身体を引いた。
「お邪魔させていただきます。」
 エルンストはそれを受けて部屋に足を踏み入れる。
 薄暗い室内。整った無駄の無い内装。間取りは先程の部屋と変わらないはずなのに、随分違った印象を受ける。
 後ろでぱたりと扉が閉まった。
 雨の音が途切れる。
「…どうしてこっちに来たの?」
 レイチェルが、ぽつりと呟いた。
「どうして、とは?」
 エルンストは眼鏡を押し上げながら問う。
「だって…アンジェリークのほうが…心配じゃないノ?」
 …僅かに、ほんの僅かに期待の篭った、レイチェルの囁き。
「あなたの方が心配だから、こちらへ来たんです。」
 さらりと、そんな言葉が彼の唇から零れた。
 そして、次の瞬間、はっと2人は共に息を呑む。
── それって、どういう意味…?
── 私は何を…。
 だが、レイチェルは軽く頭を振るう。
── 変な期待しちゃダメだよ…。
 エルンストも。
── だから何だというつもりですか、私は。
 …そして、室内に微妙な沈黙が落ちた。
「…出来れば、私にタオルを頂きたいのですが。」
 エルンストは、辛うじてそう言った。
「あ、…あ、うん。…待ってて。」
「それに、この部屋は多少温度が低すぎます。それに、照明も灯していない。」
 チェストを開けるレイチェルの後姿に、エルンストは声を掛ける。
「ワカッタよもう。…細かいんだカラ。
 タオルを彼に手渡して、レイチェルは大きく溜息を付く振りをして、暖房をつけ、そして電気をつけようと壁に向かった。
 が。
ふわり…
 目の前が、暗くなる。
 それがたった今エルンストに手渡したタオルの陰だと、レイチェルは気付いた。
「あなたの方が濡れているようです。」
 薄暗い中、背後から聞こえるテナー。
 髪留めが、タオルごしに外された。
「エ…ルンスト…?」
 何が、起きているというのだろう。
 レイチェルは混乱したまま動けない。
 細く、長い指。
 いつもキーボードの上を軽やかに走る彼の指が、髪を拭っている。
「ワ、ワタシ自分で出来るよ…大丈夫…っ」
 頬が熱くなる。心臓が高鳴る。
「黙っていなさい。もう少しですから。」
 厳しい口調にレイチェルは黙りこむ。ウエーブのかかった長い金の髪。絹糸のように細い。
── 私は一体何をしているのだろう。
 彼女の髪にタオルをからめながら、エルンストは先刻のランディとレイチェルの姿を、何故か思い出していた。
 時折ちらつく、彼女の細い首筋。
 それは彼女がもう、11やそこらの子供ではない事をエルンストに教える。
── けれど。
 彼女はそれでも、まだ16の…やはり、子供だ。
 エルンストの目には、相変わらずあの時の…研究院の中庭で、目立たない繁みの奥にちょこんと座り込んでいた、あのレイチェルの姿が焼きついている。
 たった一人で、小さな身体を更にちぢこませて。
 あの次の年、レイチェルは言葉通り研究院の院生として目の前に現れた。たった12歳で。
 それだけでもその存在を認めるに充分だったというのに、彼女は…。
 こうしてまた、目の前に現れた。
 12から16へ、一足飛びに大きくなって。
「レイチェル。」
エルンストは、彼女に声を掛けた。「あなたはまだ、成長途中の人間なのです。丁度あなた方が育ててるあの新宇宙のように。」
── 私は、こんなに言葉の上手い人間だっただろうか…。
 エルンストは、言葉を紡ぐ自分を、まるで別人のように感じていた。
 けれど、これは間違いなく自分の想いそのものだ。
「…なにが言いたいノ?」
 レイチェルは低く尋ねる。
「あなたはね…。」
エルンストは、溜息をついて、その手を止めた。「もっと私に対して素直になる権利があると…そう言っているのです。」
「子供だって…コト?」
 レイチェルは、小さく言った。
「そう…ですね。」
── 余計に怒らせてしまっただろうか。
 エルンストは、薄らとそう思った。
 彼女は、子供扱いされるのを極端に嫌っていたから。
 昔は。
 …子供だと言われて喜んでいたのに。
「…ふ…。」
 小さく、その肩が震えた。
「レイチェル?」
エルンストは、彼女の顔を覗き込もうと背を屈めた。「やはり、怒らせてしまいましたか?」
「見ちゃダメ!」
 声が飛ぶ。そこで彼は初めて気付いた。レイチェルの肩の震えが、彼女が泣いているせいだという事に。
「…レイチェル…。」
「…っ、っ…ん…。」
 タオルを頭からかぶったままで、レイチェルは泣き出していた。
 本当なら一番子供扱いされたくない相手に、こんな事を言われたのだ、怒っても良かった筈なのに…この気持ちは、一体どういう訳なのだろう。心の箍が外れたように、外に開いていく。
「ホントは…あそこまで言うつもり無かったんダヨ…本当だよ…。」
 しゃくりあげながら、言う。
「それは、先刻の事ですか?」
 エルンストは、彼女の髪を拭く手を再び動かし始めた。
「…っ…そう。」
レイチェルは、手の甲で涙を拭いた。「でも…そんなのナイよって、そう思ったら…あんな事してたんだもん…。」
「それは、アンジェリークも分かっている筈です。」
「どうしたらイイ、エルンスト? …ワタシ…アンジェリークを泣かせちゃったよ…。」
 そしてレイチェルは、泣き濡れた顔でゆっくりと彼を振りかえった。
 素のままの、子供の泣き顔。
 その時、微笑んでしまったのは何故だったのだろうかと、エルンストは後から考えた。
「そうですね…それについては、ゆっくりと考えて行きましょう。」
 そして彼女の髪がすっかり乾くまで。
 エルンストはその場に居続けたのだった。

 
 


 
- continue -

 

ものごっつ難しい…エルレイ…(汗!!)
毎回アンジェリークにだけいい思いはさせません。
蒼太

2001.11.04

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