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36.それぞれの想い

  


「じゃあよ、そう言うことで今日はまあお開きってもんだな。」
 というゼフェルの言葉に、皆は頷いた。
 気付けばもうとっくに就業時間は過ぎている。これがジュリアスにでもバレたら雷が落ちることに間違いは無い。
 だが、地下室のエアコンダクターからは小さな雨音が外から響いて聞こえてきていた。
「降って来たなぁ…ゼフェル、悪いけれど傘を貸してくれないか? 俺、今日は王立研究院に行かなきゃならないんだ。」
 ランディは耳を澄ませてその雨音を聞くと、ゼフェルに向かってそう言った。
 レイチェルもそれに習って言った。
「あ、ワタシにもお願いゼフェル様。」
「メルにも〜。」
「僕にも。…えっとアンジェリークも傘なんて持ってきていないよね。」
 マルセルに言われてアンジェリークは頷いた。
 ゼフェルが困ったような顔をする。
「オイオイ待てよ。そんなに何本も傘ばっかり持ってるはずねーだろ? えっと〜、確か…。」
 すると、レイチェルが言った。
「ならワタシ、ランディ様と一緒に行くワ。王立研究院にも用事があるし。…いいでショ?ランディ様。」
「俺は別に構わないよ。でも少し濡れちゃうかもね。」
「びしょ濡れになるよりマシ。それに…向こうでエルンストに傘借りる事にしたから。」
 といってレイチェルは不敵に笑った。
「そう? 君がそう言うならいいよ。」
 ランディはその笑みの理由がわからずに曖昧に笑い返す。そして部屋の隅でごそごそとやっていたゼフェルが降り返って言った。
「三本しかねーよ。…これだけあっただけでも感謝しろよな。」
「あ、なら僕はメルと一緒に占いの館に行くよ。」
と、マルセル。「随分行ってないから、久しぶりに占って欲しいんだ。」
「じゃあ最後の一本はアンジェリークにだネ。丁度いいじゃない。」
「ありがとうございます、ゼフェル様。」
 アンジェリークはペコリと頭を下げた。
「アンジェリークはこれからどうするの? 育成?それとも学習?」
レイチェルが尋ねて、アンジェリークは答えた。
「私、一度候補寮へ帰ってそれから学芸館へ行こうと思うの。何でもなかったのかもしれないけど…やっぱり私、ヴィクトール様の事が気になっ…」
 アンジェリークが言いかけたその言葉に、ゼフェルはふっと顔を上げた。
「…んだよ。ヴィクトール ヴィクトールって。」
「え?」
 アンジェリークは低く言われたその言葉が聞き取れずに、ゼフェルを振り返った。
「俺も一緒に行く。」
 ゼフェルは立ちあがり、椅子の背にかけた白いマントを取り上げた。
「ゼフェル様ったら。傘は…。」
言いかけたレイチェルの言葉を遮るように、ゼフェルが言う。
「うっせーな。俺の傘で俺が出かけちゃいけねぇってのかよ。」
そしてさっさと一人、階段を昇り出した。「…行くぜ、アンジェリーク! 置いてっちまうぞ!!」
「は、はい…っ」
 アンジェリークは慌てて彼の後を追う。
 そしてレイチェルの脇を擦り抜けながら、ちらっと困ったように笑って、階段を上って行った。
「…行っちゃった。」
レイチェルは少し心配そうにその後姿を見送ったが、肩を竦めて溜息を付くしかなかった。「しょーがないネ。じゃ、ワタシたちも行こうか。」
 そして後に残された3人は、レイチェルの後にしたがって、地下室のオレンジ色のライトを消して出て行った。

 

 

 パゥッと軽い音を立てて、長い間使われる事の無かった青色の傘が、グレーの空に広げられた。雨はまだ思ったよりも強くない。
「あの…ゼフェル様?」
館の入り口に立ったゼフェルの後姿に、アンジェリークは声をかけた。「いいんですか? こんな天気なのに、送っていただいてしまって。」
 ゼフェルが不機嫌そうな顔をして降り返る。
「別にオメーを送るわけじゃねー。俺が宮殿に行こうってだけの話だ。…一応守護聖サマだかんな。」
 そういって、アンジェリークに向かって傘を差し掛けた。どうやら中に入れという事らしいと、アンジェリークは頷いて彼の隣に入り込んだ。
「そ…うですか。」
「そーだよ。」
 無言で歩き始める二人。
 ゼフェルの館は森の湖から流れ出る川の、二股分岐の側にある。
 雨が降り出した森の緑はいつもよりも一層濃く見え、そして青い傘の上に、木の葉からの雨粒が時折強く落ちて音を立てた。
「…水溜り。」
 呟くように言われて、アンジェリークは小道に出来た小さな水溜りを避ける。
 こうして、2人で森の中を歩くのは2度目だった。
 けれどこの間はこんなに寄り添って歩いたわけではなく…。
 アンジェリークは、ちらりとゼフェルの横顔を見上げて、その赤い瞳がまっすぐに前だけを見ている事を知って、こっそりと息を吐いた。
── ゼフェル様、なんで怒ってらっしゃるんだろう…。
 いつも、こう。
 ゼフェルと一緒に居ると、彼はどうしてか途中からつまらなそうな顔をし始める。
 森の湖の時もそうだったし、それに見晴らしの木登りへ行った時だって。…でも、あれは私のせいだったかも…。
 そう考えてみると、とアンジェリークは思った。
 試験ももう半ばを過ぎ、終りが薄らとながら見えて来ているこの頃なのに、私はまだゼフェル様を含め、守護聖様たちときちんと話せないで居る。いいや、ゼフェル様はまだこれでもいい方だ。アンジェリークはうっすらとその脳裏に光の守護聖の顔を思い浮かべた。
 レイチェルのようにはきはきと物も言えず、育成をしようと彼らを尋ねても、つい彼らのペースに巻き込まれてお話で済ませてしまうことが、まだある。
── 女王候補なのに。
 それも、今はレイチェルに育成で勝っているというのに。
 また、身に着けた筈の自信が揺らぎそうになって、アンジェリークは深呼吸して「あの言葉」を思い出した。
『お前がレイチェルに劣っているとは、俺は思わない。二人の性質が違うだけなんだ。』
 そして、アンジェリークは小さく頷いた。
── 大丈夫。…私は大丈夫。
 ゆっくりでも、がんばって行ける。
 大切な言葉を言ってくれたその人の姿を思い出して、アンジェリークの頬は僅かに緊張を解いて緩んだ。
 ふと、目を彼女に向けたゼフェルが、その微笑に気付く。
「おい、どうしたんだよ。」
「えっ?」
 アンジェリークはビックリして顔を上げた。ゼフェルが自分を見ている。
「オメーって…たまに一人で笑ってんのな。何がそんなに面白れーんだ?」
「いいえ…なんでもないんです。」
 アンジェリークは軽く微笑んでまた前を見た。ちゃんと見ていないとぬかるみ始めた地面に足を取られてしまいそうで。
── そう、そして頑張って女王様にならなきゃ…。
「何でもねーって…何もなくて笑えるもんかな…女ってのは。」
 大方、先刻のルヴァとロザリアの事でも思い出しているのだろう、とゼフェルは彼にしては良い推測をして、一人納得した。
 だが、アンジェリークが考えていたのはその2人のことでは勿論無く。
── 女王様になればヴィクトール様は私を誉めてくださるし、それに、自慢に思ってくださるし…。
 彼の微笑みは、女王候補であり、そして一人の生徒である私に向けられるもの。
 だから、彼に振り返ってもらう方法はただ1つ。私が頑張って学習の成果を出す事だけ。
 そして、私が女王になったら…
── 女王に、なったら?
 アンジェリークは、ふとその歩みを止めた。
「アンジェリーク?」
 ゼフェルが、傘の下から彼女が出てしまった事に気付いて降り返った。
 真紅の瞳が訝しげに細められる。
 小雨降る中でアンジェリークの蒼緑の瞳は薄くけぶって、その眼差しが読めない。
「どうしたんだよ。置いてっちまうぜ?」
 苛立ちの中に秘められた心配の声は、アンジェリークには遠く聞こえた。
── 私が女王になったら、彼は。
『良く頑張ったな。…教えた甲斐があったよ。』
 そう言って、私の期待通りの微笑を見せてくれるだろう。
 そして、…そしてそれから?
「…アンジェリーク、おい!?」
── それから、待っているのは……
『じゃあ、な。アンジェリーク…。』
 別れ……だ。
「おいったら!!」
 肩をぐいと掴まれ、揺すられ、ぱしゃんと頬に冷たい雨の粒が落ちた。
「……え…?」
 アンジェリークはそこで初めて、目の前にゼフェルの顔がある事に気付いた。
「え、じゃねーよ! 何ボヤっとしてんだよ。」
「あ、…あ…ごめんなさい…。」
 強く掴まれた肩から、ゼフェルの手が離れて行く。アンジェリークはその痛みに、無意識に自分の肩を抱いた。
「ワリぃ…痛かったのか?」
 心配そうな、ゼフェルの顔。
「…いいえ…いいえ、大丈夫…です。」
 アンジェリークは、唇の端を一生懸命に上げて見せた。その心を隠して。
「そっか…?」
ゼフェルは小首を傾げながらも、彼女の傘を差し掛けた。「じゃあ行こう…それ以上濡れんなよ。…風邪でも引かれたら、俺のせいになっちまうかんな。」
「ごめんなさい…。」
 アンジェリークは小さく呟き、そして急に重みを増した足を踏み出す。
 そしてゼフェルの酷く濡れた左肩には、気付くことがなかった。

 

 

「ありがとうございました、ゼフェル様。」
 なんだかやけに儚げな表情で笑ったアンジェリークと女王候補寮の玄関先で別れて、ゼフェルはもう一度青色の傘を差してその前庭を出た。
 森の中で一度立ち止まってから、いくら話しかけても彼女は上の空で頷くばかりだった。
 時折浮かべるその笑顔もどこか不自然な気がして、ゼフェルは何度も彼女の横顔を覗き込んだが、結局はその訳を尋ねられなかった。
「…なんだったんだろな。」
 ゼフェルは門の前で振りかえって、女王候補寮の赤い屋根を振り仰いだ。
 雨はしっとりとその屋根を濡らし、その向こうにはまだまだ雨の強まりそうな雲が厚く覆い被さっている。
 だが勿論そんな風景からは何も読み取る事はできず、ゼフェルは諦めたように肩を竦め、宮殿へ向かって歩き出そうとした。
 と、その目の端に、人影が映る。
── ヴィクトールじゃねぇか…。
 彼は、この雨の中、傘も立たずにその場に立っていた。
 が、ゼフェルがその姿に気付いた時には、こちらに背を向けて歩いて行く所だった。
 ゼフェルは、一瞬その後姿に声を掛けようかと思った。アンジェリークが今日彼のところに行くつもりだと言っていたと、伝えてやっても良かった。
 だが、彼はそうしなかった。
 学芸館の方へ去っていくヴィクトールの後姿をそのまま見送り、自分は宮殿へと向かった。
 歩きながら、何となく罪悪感のようなものが胸中を過ったがそれは忘れる事にして。
 そして。
 宮殿に着くなり、ゼフェルはルヴァの姿を探して地の守護聖の執務室を尋ねた。
「ルヴァ、いるか?」
 慌てたような気配が、執務室の中から聞こえた。もしかしたら…とゼフェルは一瞬思ったが、予想に反してそこにロザリアの姿は無く、ただ彼だけが執務机の前に座っていた。きっといつものようにぼんやりしていたのだろうな、とゼフェルは思った。
「ど、どうしたんですか、ゼフェル?」
 いつものルヴァの顔。ゼフェルは先程のヴィクトールのことを忘れてしまう。…いや、忘れてしまおうとした。
「別に〜。」
 先程覗き見していた事はしらばっくれて、そのまま執務机の向こうへ回り、窓際の天球儀をさりげなく回し始める。
「めずらしいですねぇ。あなたがこんな朝早くからちゃんと宮殿へやってくるなんて。」
 ルヴァはいつもと違うようすのゼフェルの態度に何かを感じたのか、自分から席を立ってゼフェルのそばに歩み寄った。
「別に〜。」
 ゼフェルはこっそりと微笑んだ。先刻までしどろもどろでロザリアに告白していたあの人物と、この目の前のルヴァは、同一人物。
「あなたが別にって言う時は、必ず何かがあるんです。…一体どうしたんですか? 話して御覧なさい。」
 雨が窓を打つ、静かな日。
「ルヴァ。ずっと気になってたんだけど、この天球儀…どこの星系なんだ?」
 突然尋ねられて、ルヴァは少し驚いた顔をしたが、それも一瞬で次にはゼフェルがその天球儀に興味を示した事に嬉しそうな顔をして微笑んだ。
「それですか?…それは、この宇宙が誕生する前に存在したと言う、伝説の宇宙のものですよ。」
「伝説の…宇宙…か。」
 カラカララ…と、天球儀が回る。
「そうです。私たちの想像もつかないほど昔…私たちの宇宙は生まれました。それがどんな情況から発生したものかは今ではもう、詩人達の詠んだ歌や古い民謡にしか残っていません。だから本当の事はわかりませんが、きっと今の女王試験のように、僅かな間でも1つの宇宙に女王が2人居る情況が、つくられたのでしょうね。」
 ゼフェルがその言葉に顔を上げてルヴァを見上げた。
「あのさ、新しい宇宙ってのは、俺達がひょいひょい行ってもイイもんなのかな。」
「はい?」
 ルヴァは、ゼフェルの質問がどうしてそう飛んでしまうのか、その理由がわからなくて、思わず尋ね返した。
 ゼフェルはじれったそうに言葉を足した。
「だから、今はこっちとあっちと、王立研究院から次元回廊で繋がってるだろ? …あれってさ、本当にあっちの宇宙がしっかり出来あがったら、閉じちまうのか?」
「ああ、そういう意味ですか。」
ルヴァは、納得した様子で答えた。「そうですねぇ…難しい問題だとは思いますが、こちらからの病原菌やら何やらの感染の心配が全く無いとか、あちらの宇宙がある程度安定してからだとか、そんな条件が満たされればある程度は可能でしょうね。」
「…そっか。」
 ゼフェルはそこで初めて笑みを漏らした。
 その微笑に、ルヴァがポンと手を打った。
「分かりましたよゼフェル!」
そして、僅かに顔を険しくして見せた。「いくらあちらの宇宙が魅力的でも、あなたはやっぱりこちらの宇宙の守護聖なのですから、外界に行くように気楽には行ったり来たりしちゃいけません! それは分かってるでしょう?」
 そんなルヴァの前で、ゼフェルはひらひらと手を振った。
「あ〜あ、分かってるよ。…ったく面倒な事ばっかりだぜ、守護聖なんてのは。」
「本当に分かってるんでしょうね〜? まさか…まさかとは思いますが、あちらの宇宙にしかない鉱物や資源を、王立研究院を通さず持ってくるなんて、そんな大それた事は考えてないでしょうね?」
 心配そうに言うルヴァに、ゼフェルはふいと背を向けて歩き出した。
 もう、知りたいことは知ったから。
「おや、もう帰ってしまうんですか〜? お茶でも飲んで行きませんか〜?」
 それに気付いたルヴァが、ころりと態度を変えて彼を引きとめようとする。だが、ゼフェルは扉の前でくるりと振りかえってちらっと微笑んだ。
「説教されながら茶飲むなんてご免だぜ。」
 そして、呆気に取られたルヴァを置き去りに、廊下へ出る。
 ── なんだ、簡単な事じゃねーか。
 自分の執務室へ走り出した彼のその頬に、大きな微笑みが乗る。
 ゼフェルにとって。
 外界に出る事は、大した禁忌ではない。そしてそれはたとえ新宇宙に対しても同じ。
 彼はもう随分前に気付いていた。アンジェリークと自分の中に流れる時間が違うと言う事に。そして、新宇宙とこちらの宇宙の時間の流れは、彼女が女王になりさえすれば、いくらでも変えられるものだという事に。
 …そして、彼女が女王にならなければ、また自分だけがゆっくりとした流れの中に取り残されるという、事にも。

 

 

 ヴィクトールは、疲れた身体を引きずって歩いていた。疲れているのは、昨日までの訓練のせいと、そして軍との連絡待ちで眠っていないから。
 雨が、ただでさえ重い左官服の肩をぐっしょりと濡らし、圧し掛かってくるようだ。
 だが、いつもは全く感じないこの重みを今はこんなにも実感するのは、あんな場面を見てしまったから。
 青い傘の向こうには、白い頬を俯かせて歩く、茶色の髪の華奢な少女。雨の帳の向こうでかすんで見えるその小さな微笑。
 そして、その隣を歩くのは、銀色の髪の青年。
 彼は年若く、そのまっすぐな瞳には、自分がいつも抱えているような迷いなど欠片も見えない。
 女王候補寮へ彼女を送り届けて、彼は振りかえってその空を振り仰いでいた。
 その姿にも、その眼差しにも、彼の想いが滲み出るかのようで。こうして年を重ねた自分は、知りたくもない彼の気持ちを知ってしまう。
 いや、きっとそれは自分の年令のせいだけではなく。
 同じ女性に……ただ、それだけのせいかもしれない。
 歩きづづける自分の、濡れた髪から雨が零れ落ちて、額を走る傷の上を伝う。
 2人を見たとき、学芸館へ急いでいた筈の自分の足が止まった。
 その場を立ち去ろうとしたのに、足は動かなかった。
 自分に問い掛けてみる。
── もし彼が、ものの数分で候補寮から出てこなかったとしたら、自分はあの場所から動けたか?
 自分が答える。
── 否。あのまま雨に打たれてあの場所に立ち尽くしていただろう。
 身体が冷えきって、そして我に帰るまで。
 この傷が出来た時、二度と誰かを愛したりはしないと心に決めた。
 自分だけが幸せにはなれないと。
 けれど、こうなってみて初めて分かる。
── 俺は、お前を求めていたんだな。
 冷えた空気に、吐き出した吐息が白くなる。
 そう、聖地の気温は酷く下がって、まるで雨は氷の粒が降ってくるかの様に変わっていた。
 ゼフェルが候補寮から出てきた時、あんなにもほっとしたのは。
 俺の我侭だ。
 俺の…勝手な独占欲だ。
── 分かっている。分かってしまった。
 こうして、声が届かない場所へ行かれてしまってから、こんな風に気付く。
── お前の無垢さと、お前の笑顔が、何時の間にか俺の救いになっていた。
 過去に負った傷が、お前に会う度に癒えて行くことを俺は感じていた。
 お前が何も知らないからこそ、そのお前の微笑みが、俺を救いかけていた。
 だが、もう声は届かない。
 どんなに叫んでも、きっとこの雨音にかき消されて、二度と彼女を振り向かせる事は無い。
 銀の髪の青年が、雨の中降り返って俺を見た。そのまっすぐな赤い瞳。
 目標に向かって、一生懸命に努力する彼女の横顔。
── 俺は、本当は知っていたんだ。
 彼女が自分とは別世界の人間だと言うことを。…一人の普通の少女ではなく、女王候補と言うかけがえの無い人間である事を。
 だから、自分でかけた誓いを引き合いに出してまで、彼女に惹かれる自分を騙して、いい訳した。
 だが大の大人が、自分一人の意思だけでは、あの小さな少女に惹かれて行く自分を押さえきれなかった。
「…そうだな。」
 ヴィクトールは、小さく呟いた。
 気付けば、もう学芸館の前。
 振り仰ぐその暗い茶色の煉瓦の建物。
「ここが、俺の居場所。」
 女王から仰せつかった役目は、ここで『精神の教官』としての任務を全うする事、それに他ならない。
 強まってきた雨が閉じた瞼に降り注ぐ。
「アンジェリーク…俺はお前を………。」

 

 アンジェリークは、学習道具が雨に濡れないように、いつものようにテキストホルダーではなく、ビニール地の可愛らしいバックにそれらを詰めて左手に持ち、そして右手に持った水の滴るオレンジ色の傘を気にしながら、精神の執務室の前に立っていた。
 暗赤褐色の縁取りのされたその分厚い扉の向こうからは、相変わらず物音1つしなかった。
 アンジェリークは扉を叩く前にそれに気付いて深い溜息を1つついた。
── やっぱり、戻ってらっしゃってないのね。
 これで、その姿を見なくなってから4日目。
 立ち尽くしたアンジェリークの夏用の制服は湿気を吸って少し重く、そして何より肌寒かった。
 アンジェリークは、ふるる、と震えて身体に腕を回した。
── こんな、気持ち。
 ヴィクトールがいなかったこの数日、凄く不安だった。
 それが、頼る場所がいきなり消えてしまった、そんな不安感だったのだと今は分かる。
 こんな気持ちが、もし自分が女王になって、そして彼と永遠に別れる事になったら、ずっとずっと続く。
 たった4日で。
 何も手につかなくなるほどに、なってしまうのに。
 これから一体どうしたらいいんだろう。
── こんなにも…。
 自分が彼を必要としているなんて、知らずにいた。
 彼は、何時の間にか自分の中でそれほどに大きな存在になっていた。
 交わした言葉はそんなに多くない。
 その身体に触れたことも、数えるほどしかない。
 でも、私にとってもうこんなにも必要な人。

 

 会いたかった。
 彼は教官で、自分は女王候補。
 ずっと側にはいる訳にはいかないと知ってしまった今になっては、会えば、泣いてしまうかもしれないのに。
 会いたくて。
 会いたくて。
 仕方が無かった。

 

 その時、扉の向こうからアンジェリークの耳に微かな…本当に微かな音が聞こえた。
── もしかして、いらっしゃる?
 アンジェリークは顔を上げた。
 そして半ば以上諦めの気持ちでそっと、そのドアノブを回す。
 しかし予想に反して、ドアノブは苦もなく回り、この数日閉じたままだった重い扉は音もなく開かれた。
「ヴィクト…」
 おそるおそる顔だけで執務室の中を覗きこみ、はっと息を呑んだ。
 執務室の中は適度に暖かく、そしてその奥でヴィクトールが、椅子に腰掛けて眠っていた。
 アンジェリークは驚いて扉を閉めた。…中に入ってから。
 ヴィクトールはきっと眠ってしまうつもりなどなかったのだろう。机の上に、水滴がついたままの書類ファイルと、濡れた髪を拭ったのであろうタオルが出しっぱなしになっている。
── どうしよう。
 アンジェリークはその場に立ちすくんだ。
 黙って入ってくるつもりなどなかった。まさか彼が帰ってきているなどとは思わなくて…。
 けれど、アンジェリークはその目の端に、床に落ちた彼の上着を見つけていた。
 いつも自分が座るその机に置いたのだろうが、重みで落ちたのだ。そして自分の耳にその音が届いた。
 アンジェリークは音を立てないようにそっと、手に持ったオレンジの傘を壁に立て掛けて机のそばに歩み寄った。
 軽い彼の寝息が聞こえてくる。よほど深い眠りに落ちているのだろうか。
 アンジェリークは手に持ったバックを机に置いて彼の上着を取り上げた。ずっしりと重いその感触が、彼が今日随分雨に濡れたことを示している。
 そのごわついた布地。
 思えば、図書館で倒れた時も、その次に会った時も、その次も。
 それが彼だと気づいたのは、この布地の感触のせい。
 アンジェリークは濡れるのも構わずにその上着を抱きしめた。
 見なれた彼の顔が、そして見られずに居た彼の顔が、今はこんなに無防備に目の前にある。
 額から右目にかかった深い傷。
 今の医療技術なら、そんな傷など簡単に消せるということは、アンジェリークでなくても分かる。
 でも、彼はそうしない。
 心に負った痛みと共に、消さずに取って置いているのだろうと、月明かりの下で彼がぽつりぽつりと語ったあの話を聞いた時、そう思った。
 その痛みが。
 忘れては成らないものなのだと、今なら分かる。
 図書館で見た彼の視線があんまりにもうつろだったから。
── あなたがあんな目をする、どんな事があの星で起きたのでしょうか?
── あなたがこの傷を残す、どんな理由があの星にあるのでしょうか?
 そして、私が。
 その心の傷を一緒に負っていければ、いいのに…。
 私を助けてくれたあなたの為に。
 あなたの苦しみを半分にして、その心を軽くして上げられることができたら。私は他に何もいらないのに。
── こんな考えは矛盾してる…それは分かっているけれど…。
 だって、あなたが私を助けてくれたのは私が女王候補だからであって、私が勝手にそう思っているだけで。
 あなたに私の助けなんかいらないと、そう言われてしまえばそれで終り。
── ああ、だけど…。
 何時の間にか私はあなたがこんなにも好きです。

 濡れた赤銅色の髪。
 椅子に深く腰掛けて腕を組んだ、大きな体躯。
 軽く吐息を漏らす、引き締まった唇。
 そして、固く閉じられた瞳。

 アンジェリークは、小さく息を呑み込んだ。
 雨が、窓を強く叩く。
 しかし、彼女の耳に今、その音は届いていない。
 彼女に分かるのは、自分の胸の高鳴りだけ。
 雨に濡れた上着を抱きしめたまま、アンジェリークはそっと眠っている彼に1歩近付いた。
 それでもヴィクトールが起きる気配は、無い。
 そして、もう1歩。
 これから自分がやろうとしている事に、アンジェリークは気が遠くなりそうだった。
 そっと、背を屈める。
 いつも見上げてばかりいた精悍な顔付きが、すぐ側に。
 思ったよりずっと長い睫毛。
 吐息が感じられるほどに、近く。
 高鳴る心臓は、もう鼓動を数えることさえも困難。
 だから、息を止めて。
 アンジェリークは、ゆっくりと目を閉じて、あと数cmの距離を縮め様とした。

 が、その時。
カタンッ!
 部屋の隅で音がした。
 アンジェリークはハッとして目を開けた。
 ヴィクトールの眉がぴくりと動く。
── 傘が…。
 彼が起きそうな気配と、そして自分の置いた傘が倒れたことでアンジェリークはパニックに陥ってしまう。
「う…。」
 ヴィクトールは未だ目を開けない。そしてその咽喉からは小さな声が漏れる。
── どう、どうしようっ。
 黙って部屋に入った上に、こんな風に側にいた事を何故かと問われたら、どう答えていいか分からない。
 だが、アンジェリークはその時気付いた。
 彼が、腕を組んだその指先を、強く強く握り締めている事に。
 そして、その表情から先程の穏やかさがすっかり消えて、眉が顰められ、その眉間に深い皺が刻まれている事に。
「…ヴィクトール…様?」
「う…、あ…。」
「ヴィクトール様? どうなさったんですか?」
 アンジェリークは、今の自分の情況も忘れて、ヴィクトールに声を掛けた。
 何か、夢を見ているのだろうか。
 うなされている。
 苦しげな声がその咽喉から漏れて、その瞼がぴくりぴくりと動いている。
「ヴィクトール様、大丈夫ですか? …苦しいんですか? 目を…目を覚ましてください!」
 アンジェリークは思わずその白い手を差し伸べて、彼の腕に触れた。
 だがその瞬間だった。
 彼の凛々しい眉が一層強く顰められたと思ったその後で。
 アンジェリークはあっと言う間もなく、彼女はその太い腕に引寄せられ、そして彼の胸の中に抱きしめられていた。

 
 

 
 


 
- continue -

 

…佳境!!
でもまだまだ続きます!
お付き合いくださいませm(__)m
そして蒼太は。
このお話の中で、雨を降らせるのは
たった一度だけにしようと心に決めています。
では、また!
蒼太

2001.10.19.

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