20.質問デート

  

 クラヴィスの執務室の扉に額をぶつけた次の日。
 アンジェリークは額に大きなガーゼを貼りつけたなんとも情けない姿で美の守護聖オリヴィエの執務室の扉を叩いた。
 その時点で、クラヴィスの重い口からは噂のうの字も流れていなかったし、ランディという人は、人間が怪我をするのは当たり前──たとえそれが女性であっても──という人であったため、オリヴィエはなんの情報も無しにアンジェリークのそんな姿を目の当たりにすることになり、そしてその次の瞬間、彼の紅を塗った唇は、ぽかんと開かれた。
「アンタ…、それ…。」
 そう言って、アンジェリークの額を指差す。
 アンジェリークの今朝の努力にも関わらず、その栗色の前髪はガーゼのあまりの大きさに跳ねてとんでもない方向をむいている。そしてなんだか雑に止められたテープは昨日のまま。それはレイチェルがアンジェリークの額の様子を確認した後、その薬とガーゼはしばらく外さないほうが良かろうと目を背けながら言ったからである。
 アンジェリークは勿論、育成に行けばこれが何かを尋ねられるであろうと覚悟していたので、昨日の自分の失態を、恥かしそうに俯きながらもきちんとオリヴィエに説明し、そして改めて育成を頼もうと彼を見上げた。
 だが夢の守護聖はアンジェリークの言葉など耳に入ってはいなかった。無言で彼女に歩みより、そして有無を言わせず大きなガーゼを外すと、その不可思議な薬をコットンで拭い去る。
 そして彼女の額の見るも無残な痣を確認した途端、息も上手く継げないほどに身体を震わせ始め、同じく震える指で唖然としているアンジェリークの額に触れ、すっとんきょうな声で叫んだ。
「な…何だいこれはっ! ああぁぁぁ…こんなに腫れちゃって…折角のつるつる美肌が台無しだよ! ちゃんと冷やしたかい? 跡が残ったらどうするのさ、どうしてこすぐに私の所に来なかったんだい!」 
 突然の夢の守護聖の剣幕に、アンジェリークは目を丸くする。
「あ…あの…。」
「言い訳は無しだよ! しかもこんな…ガーゼをテープでペタリで済ましてるなんて…」
そして、ふるふると震える手でとうとう拳を握り締めた。「……許せない!!」
「ご、ごめんなさい。」
オリヴィエの剣幕に、アンジェリークは思わずぺこりと頭を下げてしまう。どこがいけなかったのだろう、彼がこんなに怒るなんて。「こんな風にしちゃいけなかっ…」
 言いかけたアンジェリークの言葉を、オリヴィエが遮る。
「美しくないんだよっ!! 怪我を隠すのもセンス! センスが必要なんだ、分かるかいアンジェリーク?」
「………。」
 今度は、アンジェリークがぽかんと口を開く番だった。
 そして、そんなアンジェリークに追い討ちをかけるかのように、オリヴィエは彼女の目の前で鼻をうごめかした。
「…しかも、なんだい? この匂いは…。」
「に、匂いますかっ?」
 アンジェリークは思わず一歩身を引いた。
── やっぱり、気のせいじゃなかったんだわ!
 ランディの爽やかな笑顔と、朝の食卓でのシェフの微妙な顔つきが脳裏を過ったが、時既に遅し。
「薬の匂いだね。…なんの薬なのさ? お肌には半端なものを使っちゃいけなんだ。…かぶれたりしたら困るからね。」
「あの…これはランディ様がリュミエール様に頂いたものだって仰っていました。とても良く効く薬だからって…。だからきっと大丈…。」
「ランディぃぃ〜?」
アンジェリークの言葉はもう1度遮られた。「分かったよ。アンタのコレはあの子の仕業なんだね。ならあの子は一旦お仕置きだ! 初めっから美意識の教えなおしだよッ! ねえアンタもそう思うだろう、アンジェリーク。」
「えっ…あ、あの…。」
 それは確かにそうなのだが、ランディは手当てをしてくれたのであって、お仕置きをされるいわれは無いはず…。
「そ・う・お・も・う・だ・ろ? アンジェリーク。」
「………はぃ…。」
 アンジェリークは勢いに押されてついうっかり頷いてしまった。
「ん、分かってくれればいいのさ。」
アンジェリークが頷いた途端に、オリヴィエはすっきりとした表情になって笑った。「じゃ、そういうことだから、初めよっか。」
「え?」
 オリヴィエはにっこりと笑い、そして当然の如く、アンジェリークには 何を? と彼に問う隙は与えられなかった。
 そして、数十分後。
「うん、アンタにはやっぱりその色が一番似合うね☆ …でも制服とちょっとデザインが合わないねぇ…。なら今度はこっちを…」
 そこには、オリヴィエに言われるがまま、執務机の上に置かれた色とりどりの帽子を片っ端から被ったり、果てはウィッグをつけるアンジェリークの姿があった。
 どこからそれが出てきたのかというと、執務室の奥の部屋なのだが…その部屋はどうやら女王候補どころか女王でさえも、守護聖の許可無しには入れぬものであるらしい。そして何だかんだと言いながら、その部屋に出たり入ったりして更に小物を運び出してくるオリヴィエは、彼女を心配しているという割にはなんだか酷く楽しげだ。
 アンジェリークは、困ったようなくすぐったいような気分になる。年の離れた姉妹がいるならこんな感じなのだろうか。しかし、時折触れるその指はしっかりと男性のものであったので、全くそうとも思えなかったが。
 そして、最後にオリヴィエはある1つの帽子を取り上げ、アンジェリークの頭に被せて
「いっや〜〜んっ☆  これ、これでいこっか。ね、アンジェリークっ? と〜〜っても似合うよ! この私が保証しちゃう☆」
と叫んだ。
「え…で、でも…。」
 アンジェリークは鏡に映った自分の姿とそして彼を交互に見て、まさか冗談だろうときょとんとする。しかし、オリヴィエは勿論それが冗談などとは思っておらず、1人悦に入ってはしゃいでいる。
「これ以上アンタに似合うのはもう無いよ。」
 きっぱりとそう言いきって、最後に彼が選んだのは、兎の長耳付きの白いモヘアの帽子だった。
 制服が可愛らしいのと相まって、確かに半端な普通の帽子を被るよりはずっと良い。だが…アンジェリークはおろおろと彼を見上げた。
「でも…オリヴィエ様…。」
 アンジェリークが何か言おうと…それは明らかに反対の意思を込めて…している事に気付き、オリヴィエの瞳が細められる。
「この私のセンスに、何か…?」
 オリヴィエが低く言い。アンジェリークは…もう何も言えなくなった。
「…なんでもありません…。とっても素敵です。」
 とたんに彼は破顔する。
「ん、ならいいのさ☆ すっごく可愛いよっ! あ〜皆の反応が楽しみだねぇ。聞かれたらちゃーんとこの私のコーディネートだって言うんだよ。」
「は、はい…。」
 アンジェリークはある守護聖の顔を思い浮かべつつ、少々引き攣った笑顔を浮かべた。
 しかし、オリヴィエは勿論気付かずに、机の上の帽子たちを片付けながら言った。
「さ、ファッションショーもこれくらいにしておこうか。アンジェリークは何と言っても女王候補なんだから。」
 そして、リュミエールの薬ならば大丈夫であろうという推察(ただし元がルヴァの怪しい薬だとは知られぬまま。)のもとに、アンジェリークの額にはもう1度ランディのもとから取り寄せられたあの膏薬がぬられ、予定通り育成をすませ…。
 アンジェリークはそのうさ耳帽子を絶対に取るなと念を押されつつ、オリヴィエの執務室を後にした。
 そして、彼女が午後の育成に向かったその先は。
 ── 光の守護聖ジュリアスの執務室……。

 数日後、聖地には幾つもの噂が飛びかった。
 うさ耳帽子の美少女の噂。
 彼女が通りすぎたあとに風に乗って漂う不思議な香りの噂。
 最後に、風の守護聖がランディが夢の守護聖オリヴィエの手によって、なにか筆舌尽しがたい目に会わされたと言う噂。
 そしてアンジェリークはオリヴィエと一緒にジュリアスに叱られながら、こっそりと心の中で彼に謝ったのであった。

 それからまた更に数日が過ぎた。
 アンジェリークの額の傷は、あの不思議な塗り薬が効いたものかどうかもううっすらと残るのみ。あとは時間がそれをすっかり消してしまうだろう事に間違いはない。
 今日は日の日曜日。アンジェリークの手にはピンクのバスケットが下げられており、その顔は僅かに紅潮していつにない輝きを纏っている。
 それは、これから会える筈の彼を思うから。
 そして、彼女は軽やかに学芸館の階段を昇り、赤銅色の縁取りを施された扉をノックした。
「こんにちは、ヴィクトールさま。 …いらっしゃいますか?」
 躊躇いがちにそっと掛けられた声に、僅かな時間を置いて中から返事が帰って来た。
「…アンジェリークか?」
 その低くよく響く声に、アンジェリークの胸が思いもかけず大きく高鳴る。
「あの…失礼します。」
 そんな自分が不思議に思えた。彼に恋をしていると気付く前には、同じ嬉しさでもこんなに溢れるほどではなかったのに。
 それから、少しだけ恥かしいような、そんな気持ち。
「おう…よく来たな。」
ヴィクトールは窓辺に立っていたが、彼女が扉を開けると振り返り、少し疲れたような声で言った。「どうした…?」
 そして学習机と執務机の間を通り、アンジェリークの傍まで歩いてくる。
 彼は、今日アンジェリークが尋ねてきた事に驚いていた。ここの所全くと言って良いほど彼女の顔を見て居なかったからだ。
 それがかえって有難かったこの数週間。彼はそのあいだずっと、あの日の事について考えていた。アンジェリークを置いて学芸館に帰って来てしまった、あの日の事を。

あの日。ヴィクトールはまるで夢遊病者の様にふらふらと、やっとの思いで学芸館に辿りついた。
 執務室の扉を無意識に開け、そし執務机の前にどかりと腰を下ろす。
 机の前にはヴィジコン。電源を入れたままの青い画面が彼の目にちらついて、ふと顔を上げた。
 二人の女王候補の顔が、安定度・育成情況と共に映っている。
 気の強そうな金色の髪の少女と、……たった今まで自分と一緒に居た栗色の髪の少女。
 女王候補寮からここまで戻ってくる間に日が暮れた。
 自分は余程ゆっくりと歩いてきたものらしいと気付いて、なぜか笑いが漏れる。
 執務室の中に夕暮れがゆっくりと忍び込んで来る中、ヴィクトールは深い溜息を付いてヴィジコンの電源を落とした。
 薄暗闇があたりを包む。
 ヴィクトールは椅子に深く腰掛けなおして琥珀色の瞳を閉じた。
 今、つい先刻。別れたばかりの栗色の髪の少女の顔が瞼の裏に浮かぶ。ヴィジコンに映った自信なさげな硬い笑顔ではなく、生身の彼女の、穏やかでそして強い微笑み。
── あいつのあんな顔ははじめて見た。
 そしてそれを前に、ふと胸に思い浮かんだ気持ち。
 今も胸に残るその気持ちは、今までヴィクトールが彼女へ対して感じていた「どうにも危なっかしくて目が離せない、だが期待できる女王候補」というものとは違っていた。
 それはずっとずっと昔、何も心に負うものが無かった頃、味わった事がある気持ち。
 ヴィクトールは手袋をはめた左手で赤銅色の前髪を掻き上げた。
 そのまま、額に手を置く。
「参った……。」
 彼女の笑顔が頭から離れない。冷静になろうとすればするほど、鮮やかに胸に蘇る。
── たったあれだけのことで、俺は……?
 冗談に紛らわせてしまいたいと、半ば本気で思った。
 だが、冗談にするには自分は動揺しすぎているようだった。
 ヴィクトールは目を閉じたまま思いを巡らせた。
 …考えろ、そして冷静になれ。
 俺が、ここに呼ばれたのは何の為だ?
── 1人の教官として女王候補を指導するためだ…。
 それが軍から…女王陛下から俺に与えられた任務。他の誰でもなく俺に任された仕事。
 そして、アンジェリークが俺をああして部屋に呼んだのは何の為だ?
── ……教官である俺に礼を言うためだ。
 その瞬間、ふっと胸の内が落ちついた。
 ヴィクトールは琥珀の瞳を開けながら、額から手を離した。
 薄暗い中、無意識に部屋の中に視線を走らせた。
 いつも、栗色の髪の少女が座っている机。
 躊躇いがちのノックと共に開けられる扉。
 はにかむ笑顔。
 ノートを取る細い指先。俯いた華奢な首筋…。
 そう、自分は元々自分よりも弱い者、そして健気な者を守ろうとする気質がある。それは自分でも分かっている。
 だから、この気持ちは…そういったものなのだ。メルや…ティムカに向けるものと同じだ。
 この気持ちが…たとえそうでなくても、何者であったとしても…そう決めよう。
 ヴィクトールは頷いて立ち上がった。
 その琥珀色の瞳には元の鋭さが戻っていた。しかし、それはどこか普段よりも切ないような輝きを纏っていたが。

そして、アンジェリークは今再び目の前にいる。
 そんなヴィクトールの内心など、初めての恋に浮かれたアンジェリークには分かる筈も無かった。少し渋い顔をしているヴィクトールに気付かずに、アンジェリークは手に持ったピンクのバスケットから、今朝庭園の商人から手に入れたものを取り出してヴィクトールに差し出す。
「あの…これ、プレゼントです。…受取って頂けますか?」
 それは豆の缶詰。それも奇しくも軍に配給されていた缶詰そのものだった。ヴィクトールは一瞬で我に返り、物思いに耽ってしまった事も忘れて、缶詰をアンジェリークの手から受取ると、まじまじと見つめた。
「…いや、懐かしいな。これは…この絵といい重みといい…。知ってたのか、アンジェリーク? これが俺が前に話した…豆のスープの味の決め手だと。」
 それが商人の計算ずくの品揃えだと知らないアンジェリークは思わず破顔する。
「いいえ…。でもヴィクトール様がお好きだって仰っていたから。」
「有難う。大切にしよう。」
 そう言って笑ったヴィクトールの顔を見た瞬間、アンジェリークの小さな胸の鼓動は、殆ど止まりそうに大きく打った。
 こんな自分が信じられない。もう彼の顔を直視できないほどだ。
 アンジェリークは思わず俯いて頬を染め、そしてまたちらっと視線を上げた。
 目が合う。
 また俯く。
「?」
 ヴィクトールにはアンジェリークがなぜそんな態度なのか全く分からずに、不思議に思いながらも受取った豆の缶詰を執務机の上に一旦置いて尋ねた。
「さて…それで、今日はどんな用件なんだ?」
 意識したつもりはないが、少しだけ事務的な口調になってしまう。だがアンジェリークは全く気付かない。いつもの如く勇気をだしてこう言った。
「あの…よろしければ庭園へゆきませんか?」
「庭園か…。」
 その言葉の後を、アンジェリークはどきどきしながら待つ。この間までは、同じように答えを待つときも、これほど胸を高鳴らせることはなかったのに。
「そう…だな。天気も良いしちょっと散歩でもしてみるか。」
 そう、今日はあの日の決心を試すいい機会なのかもしれない。そう思ってヴィクトールはアンジェリークの申し出を受けた。
 途端に、アンジェリークは花がほころぶように微笑んだ。
「嬉しい…。」
 ヴィクトールはそんなアンジェリークに小さく頷いて、
「なら、済まんがちょっと待っていてくれ。」
そう言ってぱっと彼女に背を向ける。
 そして執務机の上に広げられたままの書類を手早く纏めて片付けはじめた。常ならば日の曜日はここに居ても執務は避け、読書などをして過ごしているのであったが、このところレイチェルもなぜかさっぱり自分を誘いに来なくなったことと、アンジェリークが来る事を考えていなかったせいで、本当ならば私室で片付けるつもりであった軍の書類に目を通していたのだ。
 アンジェリークはそんなヴィクトールの後姿をそっと目を上げてしばらくその仕種を追っていたが、なんだかそのうちに頬が熱くなって来たような気がして、多分朱に染まってしまっているであろう頬を、彼が後ろを向いている内に元に戻さなければと、辺りをきょろきょろと見まわした。
 そしてふと、彼の後ろの棚に先日アンジェリークが贈ったライオンの置き物が置かれている事に気付く。
── 飾っていて下さったのね。
 ふわり、と胸が温かくなる。
 この数週間、アンジェリークは今までに増して育成に没頭していた。額の大きなガーゼは夢の守護聖のお陰で上手く隠されていたとは言うものの、あの匂いだけはどうにもならず、アンジェリークはどうしてもその姿でヴィクトールに「だけ」は会いたくなかったのである。
 学芸館に来るのは週に一度きり。目的地は感性か品性の執務室。そしてヴィクトールの姿が廊下の端にちらりとでも見えると、アンジェリークは大急ぎで身を隠したものだった。
 そのお陰と言ってはなんだが、今アンジェリークは育成物の情況だけで言うならばレイチェルと充分に張り合えるれっきとした女王候補であり、守護聖たちの覚えもよくなってきた。
 しかも、こうして訪れるのは久しぶりだというのに、精神の執務室の雰囲気は数週間前となんら変わる所はなく、そして部屋の主もまた変わりなく自分を迎えてくれた…ようにアンジェリークには見えた。
 そう…その広い背中も、温かい笑顔も何も変わらない。そう思ってアンジェリークは思わず小さく微笑んだ。
 一方ヴィクトールは書類を机の引き出しに纏め入れ、そしてふと思い立って本棚の引き出しから小さな鍵を取り出した。
 そして執務机のその段に迷いながらも鍵を掛ける。この聖地でそんな必要は無いのかもしれなかったが、今日の書類はそのまま放っておくにはいささか重要であったのだ。
 そしてヴィクトールはなんの気無しに振り返って、微笑んでいる少女の表情に気付いて、どきりとする。
── なんて顔するんだ…。
 ヴィクトールは、決めた筈の自分の心がぐらつくのを感じて、アンジェリークに気付かれない程度に頭を軽く振る。そして
「…待たせたな。行こうか。」
 一瞬彼女のその笑顔に気を惹かれたことを振り払うようにやや鋭くそう言って、アンジェリークの先に立ち執務室を出た。

 そして二人は先日と同じように、学芸館を出ると庭園へ向かって歩き始めた。
 今日は余り暑い日ではない。むしろ秋口の主星を思わせるような好天だった。
 大股で歩いてゆくヴィクトールの後ろに、アンジェリークは小走りでついて行く。だがヴィクトールは先日とは違い少し息を上げるアンジェリークには気付かない。
 片手をポケットに入れ、振り返りもせずにどんどん先へ行ってしまう。
 アンジェリークはそんな彼の様子が少しおかしい事に漸く気付いた。
── どうなさったのかしら?
 その広い背中にどうしてか拒絶されているような気がしてアンジェリークは薄らと不安を感じた。
 だが、庭園に辿りついてその明るさに包まれると、アンジェリークは胸の中に一瞬芽生えたその気持ちのことなど、その場の雰囲気につられるように忘れて、先程ヴィクトールの執務室を訪れた時と同じ様に心を浮き立たせ、流石に歩みを緩めた彼の隣に並び、歩き出した。
 今日はとても良い天気で庭園の中にも人影が多い。
 ヴィクトールは庭園の入り口で一旦立ち止まると彼女を振り帰った。
「今日は質問か? それとも話をするか?」
「質問でお願いします。」
 アンジェリークは言った。ヴィクトールは頷いて、噴水の前を左に折れる。
 庭園の中にはいつかのように屋台が出て、そして日の曜日であるせいか、普段より大人の姿が多くみられるような気がした。
 そんな中、ヴィクトールとアンジェリークは黙って歩く。
── ヴィクトール様と私…他の方たちから見たら、どう思われているのかしら。
 アンジェリークは、どういうわけかレイチェルに比べて顔の知られていない女王候補だ。
 あまり自分から人に話し掛けることがないせいなのか、それとも存在が地味なのかもしれない。
 そして、ヴィクトールも一般には彼がどんな役割をもって聖地にいるのかが余り知られていないらしかった。…彼自身を知る人は多かったが。
 こっそりとその横顔を見上げてみる。
 だが、ヴィクトールはアンジェリークのそんな気持ちになど、勿論これっぽっちも気付いていなかった。ふと立ち止まると、アンジェリークを見下ろして、
「さて…こんな気持ちの良い日だが…それでもお前は女王候補だからな、アンジェリーク。時間を無駄に使うわけには行かん。」
 そう言って、道を僅かに逸れた。
 そこは先日も立ち寄った花畑だった。女王のサクリアによって、今日も花々は美しく咲き誇っている。アンジェリークは思わず駆け出したいような気分に駆られたが、ふと見上げたヴィクトールの視線の厳しさに気付き、先程の不安を、一瞬にして思い出した。
 だがヴィクトールはそんなアンジェリークの視線から、僅かに視線を逸らしてしまい、彼女の微妙な表情の変化に気付かなかった。
「アンジェリーク、では質問しよう。…お前のライバルであるレイチェルの作った惑星は、宇宙に幾つあるんだ?」
「え…?」
 自分をじっと見降ろすヴィクトールの琥珀色の瞳に、僅かの間ではあったが見入っていたアンジェリークは、予期せぬ質問を受けて途端に落ちつきをなくした。
「えっと……。レイチェルの、惑星…?」
 元々、勝ち負けの世界には興味がないアンジェリーク。ライバルの惑星の数よりも、自分がどれだけ育成を進められたかと言う事しか考えた事がなかった。目を伏せて、その細い指先を顎先に当てて、考え込む。
 そんな彼女の頭の上から、ヴィクトールの低い声がした。
「なんだ、答えられないのか?」
 アンジェリークはおどろいて目を上げる。
「お前は自分の事しか見ていないのか? そんなに心の狭い女王など、どの宇宙でも必要とはせんぞ!」
 余りのことに、アンジェリークは動けなくなってしまった。
 ヴィクトールのこんなに怒る姿など、1度も見たことがなかった。その大きな声も、琥珀色の瞳も、怒りを孕んでいてとてもいつもの彼とはおもえなかった。
 そう、たしかにヴィクトールはいつものヴィクトールではなかった。
 自分で決めたことを忠実に守ろうとするばかりに…そして自分の心を否定しようとするが為に…普段の彼にはあるはずの冷静さを欠いていた。
「あ、あの…。」
 怯えた風に、僅かに身体を退けた女王候補を見て、ヴィクトールは胸の奥に小さな痛みを感じた。
 何も、ここまで言う事は無かったんじゃないのか? こんな小さな事で…必要としない、などと…。
 その言葉がどれだけこの栗色の髪の少女を傷つけるのか、ヴィクトールは心底知っていた。その為に泣く姿を見ているというのに…。
── 俺は、莫迦か?
 目にいっぱい涙を溜める少女の顔を見ていられなくなって、ヴィクトールは視線を逸らした。
 すまん、という言葉が口を突いて出そうになる。しかし、それをぐっと堪えた。
 それは教官が、質問の答えを誤った女王候補に掛ける言葉じゃない。
「…俺は、もう帰るとしよう。じゃあ、な…。」
 そうして、彼女に背を向ける。
 自分で思うよりも大きな声を出してしまったのだろう、周りの視線が痛かった。
 俺は、大した教官じゃないな…。
 あんな風に声を荒げてしまうとは。たしかに女王候補には必要な知識だが。
 ヴィクトールは、庭園から…いや、自分の心を乱す、年下のか弱い少女から逃げるようにその場を立ち去った。


 残されたアンジェリークは、しばらくその場所で呆然と立ち尽くしてた。
 そして、ゆっくりと今起きた出来事を反芻し、やっと自分が大きな失敗をしたことに気付いた。
「…嫌われ、ちゃった?」
 その恐ろしい考えが、心に浮かぶ。
── ヴィクトール様に…? 私、嫌われてしまった?
 好きだと気付いたばかりなのに、どうしてこんな失敗をしでかしてしまったのだろう。
 浮かれていた自分が悪いのだ、とそう思う。
 質問デートに付いてはレイチェルから散々聞かされていたのに。
 そう気付いた瞬間に、今まで驚きのためだけに浮かんでいた涙が、悲しみの涙に変わった。
── 私、なんて莫迦なんだろう? どうしてちゃんと調べておかなかったんだろう。
 レイチェルの事など聞かれるとは思ってもみなかった。ヴィクトールに心が狭いといわれるのも無理はない。
 アンジェリークは深い深いため息付いた。
 そして、零れ落ちそうになる涙を堪えながら、一人女王候補寮へ戻って行ったのだった。





 

 
- continue -

 

え〜書きなおしました。みなさまには大変ご迷惑を…m(__)m
納得がいかなかったのはヴィクトール様の気持ちであり、
そしてアンジェリークの態度だったのかも。
前の文を読んだ方には、シビアになったと思われるでしょう。
初めて読まれる方には、いらんあとがきですみません(T_T)。
今回、ヴィクトール様は鈍い上に頑固な男になりました…
 
では、次回。
水の守護聖様とヴィクトール様というちょっと奇抜な組み合わせを
お楽しみください。
蒼太

2001.06.03


書き直し2001.08.30

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