21.水のテラス

  



「…ということらしいですね…。」
 そう言ってその書類を水の守護聖に手渡したヴィクトールは、無意識のうちにほう、と溜息を付いていた。
 その声に気付いたリュミエールは小首を傾げる。
「どうなさったんですか? ヴィクトール。」
「は?」
 彼は自分が溜息をついた事に気付いていないらしかった。リュミエールはそんなヴィクトールに僅かに微笑んだ。
「溜息を付いてらっしゃいましたよ。」
「え…? そうでしたか?」
ヴィクトールはリュミエールの手元の書類を見て、それから僅かに皮肉げに笑った。「…それは多分、今貴方に手渡した書類が、軍から依頼されていた最後の仕事だったからですよ、リュミエール様。」
 学芸館の執務机と、私邸の書斎に山積みになってたあの書類は、ここ数日ですっかり片付いていた。仕事に没頭する事が、頭を冷やす術…というわけでもないのだが、とにかく例の事を一瞬でも忘れていたかったからだ。
 いままで自分が仕事の手を抜いているなどとは思ったことがなかったが、こうもすっかり片付いてしまうと、今まで何をしていたのかと笑ってしまう。
「それにしては、あまり嬉しそうではありませんね。」
 リュミエールが言った。
 その言葉にどきりとする。
「まあ…。」
 ヴィクトールは言葉を濁した。
 向かい合った二人には、酷く正反対の印象がある。
 立っているだけで周りを惹き付けるような、ヴィクトールの力強い雰囲気。
 対して、ヴィクトールの一挙一動で吹き飛ばされてしまいそうなリュミエール。だが彼の身体を包むオーラは、ヴィクトールの覇気を呑み込んでしまうくらいの強さを持っている。
 リュミエールは小さく笑った。
「何か心配事でもおありですか?」
 ヴィクトールはおどろいて彼を見た。
「な…何を…?」
自分では平静な振りをしているつもりだったが、顔に出でいたのだろうか、と思う。ヴィクトールは居心地悪げな表情になって、それから仕方なさそうに、リュミエールに向かって笑った。「…かないませんね、あなたには。」
 リュミエールは僅かに悪戯そうな目をして
「もしこれからのご予定がおありでなければ、私の私邸にいらっしゃいませんか?」
 と、少し首を傾げて言った。ヴィクトールは驚きの眼差しを向ける。
「え? いや、しかし…。忙しいのではないですか?」
 気遣いを見せるヴィクトールに、リュミエールは微笑んだ。
「いいえ。もう私邸に戻ろうと思っていたところです。今日の仕事は済みましたから。」
 この宇宙の辺境に新しく出現した惑星へ水の力を送る、その為リュミエールは執務官に命じ、かの惑星の地理条件などを調べさせていた。その結果が出てきたのである。
「お茶をご馳走させてください。つい先日とても薫りの良い葉を頂いたばかりなのです。」
 やんわりと、そしてヴィクトールに余計な気遣いをさせないように誘う。そしてそれは上手くいったようだった。
「あ…いや…、…そうですか。」
ヴィクトールは僅かに躊躇いながらも、結局は水の守護聖に言った。「…お邪魔でなければご一緒させていただきます。」
 リュミエールは淡く微笑む。 
「では少し待ってくださいね…。窓を閉めてしまいますから。」
 そう言って席を立つとそのたおやかな手で、中庭に面した大きな窓を閉めた。

「さあ、どうぞ。」
 そう言って通されたテラスには、水の影がそこかしこに映っていた。
「ほう…これは。」
 思わず溜息を付くヴィクトール。まるで水中から水面を見上げているかのような気分になる。揺らめく水の影は一体どこから来ているのか。
 それはテラスの周り一帯に浅い水の回廊があるからだと気付く。そして、水は絶えず流れて心地よい音を立てていた。
 感心した様子のヴィクトールの横顔にリュミエールは満足そうに笑いかけた。
「ではお茶を淹れてきましょう…。お待ちになっていてください。」
 そう言ってリュミエールはその場を立ち去っていく。残されたヴィクトールは水の守護聖が消えて行った方向をちらりと見て息をつき、それからテラスの中央に置かれた白い麻の布椅子に腰掛けた。不安定なその掛けここちに少し驚きながらもやがて落ちつく場所を見つけて一息付く。
 大分慣れて来たとは言え、守護聖たちと個人的に付き合うような事は今までせずに来た。ティムカなどは年少組と連れ立って出かけることがある様子だったが。
 数人居る守護聖たちの中でそれでも親しくしているだろうと言えるのは、地の守護聖ルヴァ位なもので、リュミエールには、女王候補の学習方法についてなど、たまに意見を貰っている事もあったが、それ以上の付き合いではない。
 ヴィクトールは初めてリュミエールに出会った時密かに思っていた。
苦手な雰囲気だな、と。
 守護聖である上に、これほど掴めない気を持った人間。
 今ではもう余りそうは思わないが、それでも今日はなぜ彼の誘いに乗る気になったのか自分の気持ちを計りかねている。
 椅子に腰掛け、僅かに前かがみの姿勢で手を組んで、水の流れを見るとも無しに眺めながらそんな事を考えていると、リュミエールが戻ってきた。
「どうぞ?」
 そう言って置かれたカップの中には、みずみずしいピンク色をした紅茶が淹れられていた。
「珍しい色をしていますね。」
 リュミエールはヴィクトールのはす向かいに斜めに腰掛けながら頷いた。
「ええ。…レモンを入れてみてください、驚きますよ。」
 言われた通り、添えられたレモンを絞ると、紅茶は鮮やかな紅色に変わった。
「ほう…。」
「オリヴィエから頂いたのです。とても綺麗でしょう? 味もいいし…彼らしい贈り物ですね。」
 二人はしばらく黙って紅茶の薫りと味を堪能する。
 やがて、リュミエールが口をひらいた。
「こうして貴方とゆっくり過ごすのは初めてですね、ヴィクトール。」
「そうですね…しかし、今日はなぜ俺を誘ってくださったんですか?」
 今日俺はこの人にものを尋ねてばかりだな、と僅かに苦笑する。
「私は常々、あなたという人に興味を持っていたのですよ。今日はよい機会だと思ったのです。」
 リュミエールはそう言って微笑んだ。
「俺に? …特に面白味みもないと思いますが。」
 ヴィクトールはそう言って笑った。
 リュミエールは僅かに小首を傾げた。水色の髪が肩口でさらりと流れる。
「あなたが公園で子供たちと戯れているところをよくお見かけしますよ、ヴィクトール。」
 言われて、ヴィクトールは僅かに頬を染めた。
「いや…その、あれは…。」
「子供たちもきっと、あなたの優しさを知っているのでしょう。」
「俺は…優しくなどないです。」
 僅かに苦悶の表情を浮かべて、ヴィクトールは言った。庭園で怒鳴りつけてしまったときの、栗色の髪の少女の顔が脳裏を過る。
「そうでしょうか?」
何も知らないリュミエールはやんわりと微笑を浮かべた。「子供というものは、人の本質を敏感に感じ取るものですよ。あなたが思う以上にね。」
 彼がはじめて庭園でヴィクトールを見かけたとき、ヴィクトールはリュミエールが驚いてしまうほど自然な笑みを浮かべていた。これがあの厳つい精神の教官と同一人物なのだろうか、と思ったほどである。
 今、ヴィクトールは何か思い悩む事があるらしい、と感じていた。彼の数日前からの挙動はそう思わせるに足る状態であった。それはここの所、辺境惑星の育成に伴って、彼と会う機会の多かったリュミエールであったから気付いたようなものだが。
「…あの惑星には…。」
 と、リュミエールは言った。
「ああ、ネプラ第3、のことですか?」
 ヴィクトールは頷いた。彼と何を話せば良いのか分からずに居た所に、仕事関係の話題を出されて僅かにホッとした表情を見せる。
「ええ。あの惑星には今夜にでも水と優しさのサクリアが届くでしょう。」
「緩やかに発展しているようですね。」
 今、聖地と宇宙全体の時間の流れが同じであるだけに、そのサクリアの到達もそれほど速く影響の出るものではなくなっていた。以前、ヴィクトールからジュリアスに依頼した『誇り』に関しても、今になってやっと効果が現れつつある。
 そういった報告を軍から受けるたびに、ヴィクトールの守護聖に対する畏敬の念は深まる。
「夢を…見るのですよ。」
 ふと、呟くように水の守護聖が言った。
「夢?」
「ええ。惑星の中に沈んだ水の流れが、滾々と音をたてて動いている夢を。…あれは私が以前の女王試験で送った水の流れなのでしょうか。…どうしてか分かりませんが、あの惑星には…ネプラ第3ですね…呼ばれるような気がしてなりません。」
 ヴィクトールは訳が分からないと言った様子で首を傾げた。
「そう言うものなのですか? …呼ばれる、とは?」
「私たちが惑星に呼ばれる、とは…。」
リュミエールは僅かに俯いた。「…たぶん、その惑星に何かが起こる、と言うことでしょう。良しにつけ悪しにつけ、そう言ったことが稀にあるのです。今は聖地の気が乱れていて…つまり、女王試験の為にサクリアを持った人間が数人居ることで…良く分かりませんが、何かが起こりそうな気配がします。」
 ちらり、とヴィクトールの顔に影が走る。
 良しにつけ…、…悪しにつけ…?
 そんなヴィクトールの表情に気付き、リュミエールは彼を安心させるが如く、にこやかに微笑んだ。
「良いことであるのを祈りましょう。今はまだ、その予兆さえも僅かなものですからね。」
「…そうですか。」
 気遣いを受けた事で、ヴィクトールはすまなげな表情になった。
 リュミエールは気を取り直したように言った。
「ハープでもお聞きになりませんか?」
「ハープ、ですか?」
 元々余り芸術関連の知識はないヴィクトールが、ちょっと戸惑った様子で言った。
 リュミエールは小さく笑う。
「気が、落ちつきますよ。…あなたも私も。」
 そういえば、悩んでいる事を知られていたのだった、とヴィクトールは苦笑する。その内容は水の守護聖の気の及ぶものではなかっただろうが。
 なぜここに呼ばれたのかと思っていたが、それは、彼なりの気使いだったのだろう。
「…では、お言葉に甘えましょう。俺も、少しゆっくりと考えたいことがあったから…。」
 聖地に来たばかりの頃、ヴィクトールは彼が苦手だった。
しかし、ある日気付いた。
 リュミエールが苦手なのではなく、彼の司る「優しさ」に呑まれるのが苦手なのだと。
 幼少の頃を除き、ヴィクトールはその半生を軍という特殊な状況で過ごした。そこでは互いに支え合う事、助け合う事こそあれど、無条件の優しさを送られる事などなかった。
 優しくすること、それは相手を甘やかす事に繋がりかねなかったからだ。
 けれど幾度か彼と話す機会を持つうちに、リュミエールの持つ優しさは、自分の持つ優しさとは違うものなのだとヴィクトールにも分かり始めていた。
 例えその優しさで相手が身を滅ぼす事があろうとも、彼は優しくあり続けるだろう。
 めぐりめぐって相手が最後に癒されるまで。
 それは強さに他ならないと思う。最初から最後まで自分の思う姿を変えずに相手に接する事が出来ると言う事は。
 だからこそ、彼の優しさに身を任せる事も、辛くはない。尚安心さえ出来る。…そう思えるようになっていた。
── この方は、相手を決して拒まない。
 身体と殆ど同じ大きさのハープを取り出して、奏で始める彼を横目に見ながら、ヴィクトールはぼんやりとしていた。
 底のない優しさ。
 そこは居心地良すぎて、抜け出るには大変な場所だとヴィクトールは思う。
 けれど。
 今は、少しだけ休ませて欲しかった。
 心の中でちらつくあの少女の影と、そして僅かなきっかけで思い出してしまった辛い記憶を忘れるために。

 

 
- continue -

 

「男は強くなければ生きられない、優しくなければ生きてゆく資格がない。」
凄い台詞だと思いました。フィリップ・マーロウ。
言わずと知れたハードボイルド小説の主人公ですね。
水の守護聖様の優しさは、一体どこまで深いのか。
彼のヴィクトールに対する考え方は、どうやら闇の守護聖様に対するものと
良く似ている、らしいですが。

 

そんなことを踏まえてこの第21話を。
ちょっと悩みましたが、将来の複線を入れさせてもらいました。

 

では、また
蒼太。


2001.06.03

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