09.いつも二人で

「お嬢ちゃん。…お嬢ちゃん、そろそろ起きてくれないか?」
 聞きなれた声で囁かれ、アンジェリークはしばし夢と現の間をさ迷った後、ゆっくりと翡翠色の瞳を開いた。
「よう。目がさめたか?」
「………オスカー……?」
 そこには、不適な笑みを浮かべた、炎の守護聖オスカーがいた。
 あまりのことにきょとんとした顔になったアンジェリークを見て、オスカーはさも面白げにわらう。そして、いつからいたのだろう、足元に置かれた椅子に寛いだ様子で座った。
「お嬢ちゃんの無防備な寝姿があんまりにも可愛かったんでね。…しばらく見物させてもらった。」
 椅子の背には、いつも彼が身につけている、青いマントがかけられている。人前では滅多に見せないその様子も、ここ、女王の私室に於いては別格らしかった。
 ブランケットを胸元までたくし上げ、ゆっくりと身を起こしたアンジェリークに微笑んで見せる。
「…どうやって、ここに?」
 間だ半分寝ぼけたままの瞳で、アンジェリークはオスカーをみた。
「ロザリアに頼み込んだのさ。…今日一日、君を自由にさせてくれってね。」
 あまり寝起きの良いほうではないアンジェリークは、その言葉が答えになっていないことに気付かずに言った。
「…まあ…。」目をこすりながら首をかしげる。「ロザリアが、良いって言ってくれたの?」
 ここ数日、昼食を食べる暇も無いほど激化していた政務に追いまわされ、睡眠時間も極端に減っていた。そんな中で、ロザリアが一日暇をくれるなど、俄かには信じられなかった。
「そうさ、お嬢ちゃん。だから今日と言う日を丸々全部、俺にくれないか?」
 そう言って立ちあがり、ベッドの端に座る。
 アンジェリークのほっそりした顎を持ち上げて、じっとその瞳を覗き込む。 だが、アンジェリークはなおも心配そうに尋ねた。
「本当に、お仕事いいのかしら…?」
 その言葉に、オスカーは笑う。
「良いに決まってるさ。でなければここまで入ってくる前にロザリアが俺を止めるに決まっているだろう? …さあ、着替えて。飛びきり素敵なお嬢ちゃんを見せてくれないか。」
そしてすばやくキスすると、 からかう様に言った。「それとも俺が脱がせようか? おじょうちゃん。それでもいいんだぜ?」
 途端にアンジェリークの頬に朱が差す。
 アンジェリークは就寝用のノースリーブを着ていたから、それは寝ぼけていたアンジェリークの白い肌に一瞬にして活力を与えたかのようにみえた。 
 オスカーはそれを見て、思わずうめく。
「…本当にそうしても構わないんだが…。今日はどうしてもお嬢ちゃんを連れて行きたい場所があるんだ。…俺は先に行っているから、後で庭のほうへ来てくれ。待ってるからな。」
 そうして、さっと立ちあがり、慌てた様子でマントを羽織って部屋を出ていった。
 残されたアンジェリークは。
 唇に残された感触を少し味わった後でにこりと笑い、嬉しげにベッドを出た。
── こんなの、本当に久しぶり。
 アンジェリークはうきうきした気分で、彼に言われた通り、今までで一番綺麗に見えるようにと、外出用のドレスを見比べた。
── どのドレスが良いのかしら? 「出かける」っていうなら、動きやすいほうが良いのかなぁ? 
 オスカーが出かけると言ったときは、遠乗りである事のほうが多い。しかし、さっきの口ぶりでは、いつもと違う場所に行こうとしているようだった。
 あれでもないこれでもないと考えながら、ちら、と壁の側に置かれた柱時計を見ると、既に時刻は昼に近い。アンジェリークは驚いて窓の外を見た。
 日がかなり高く昇っている。自分が思っていたよりも遅くまで眠っていたのは明かだった。オスカーはもしかしたら、ずっと朝早くから自分が目覚めるのを待っていたのかもしれない。
 アンジェリークは慌てて選んだドレスに腕を通した。
  彼女の選んだ純白のタイトなドレスは、ハイネックの首裏から背中に掛けていくつものホックが付いていて、一人で着るには少々手間取る代物だった。無論、だからこそオスカーがアンジェリークに贈ってくれたのかも知れないが。 
 気付いてみると、オスカーが部屋を出て行ったのは随分前だった様なきがして、アンジェリークは慌ててその金糸のような髪を梳かし、結い上げる暇もなく部屋をとびだした。
 けれど、アンジェリークが中庭についたとき、噴水の前にはごく珍しい事に、夢の守護聖と水の守護聖が隣り合って座っていただけだった。 
 急いで辺りを見回して、どうやらオスカーもまだであったらしいと気付くと、アンジェリークはホッとして、二人に向かって歩き出す。
 その姿に先に気付いたのは、夢の守護聖だった。
「あら〜!? 女王陛下じゃない! 今日はどうしたの〜? こんな時間にさ。」
 その声に、水の守護聖もハープを引く手を止め、こちらを振り向く。
「こんにちは、お二人とも。」
 アンジェリークは落ちつきを取り戻し、二人に笑いかけた。
 水の守護聖は柔らかく頭を下げると、言った。
「お久しぶりですね…というのも変な話ですが、女王試験のほうは一段落したのでしょうか?」
 先日、宇宙に恒星が誕生した事は、すでに誰もが知っていた。
 誕生の瞬間に起きた、聖地を揺るがすような振動が、全てを物語っていたからだ。
 水の守護聖の言葉に、アンジェリークも首を傾げる。
「…それが…。全く暇と言うわけではないのですけど、…いいらしいの。」
「良いらしいって?」
 オリヴィエの言葉に、アンジェリークは続ける。
「ロザリアが、お休みをくれるって。だから私…。」
 そう言って、もう一度辺りを見まわした。
「それほど忙しくないのでしたら、陛下も少し寛いで行かれませんか?」
 その仕種に気付かず、リュミエールは控えめに言った。
 オリヴィエを聴者に、ハープを引いていた所だったのだ。
 ところが、オリヴィエがアンジェリークより先に、ちちち、とリュミエールに指を振って見せた。
「あんたってさ、気が利かないねぇ。今の陛下の態度でわからない? 陛下はね、きっとこれからデートなんだよ。 ま・ち・あ・わ・せ。…でしょ?」
「おや…。」
 オリヴィエの言葉に顔を赤くしたアンジェリークをみて、水の守護聖は微笑む。それでは仕方ないというものだ。
 しかしがっかりした事には変わりなく、そんなリュミエールに、オリヴィエが言った
「そんな顔しないでよ。どの道こんなに日が高くなってきちゃったら、お開きってもんでしょ? お肌が荒れちゃう。」
 そう言われて、リュミエールも納得したように頷く。
「でもさぁ…。」
 言われるがままにハープを片付けようとしているリュミエールを放って、オリヴィエはふとアンジェリークを見て言った。「…それって、どう言う格好な訳?」
 言われて、アンジェリークは改めて自分の姿を見た。
「髪はぐしゃぐしゃだし、お化粧はしてないし…。とても逢瀬に向かうとはおもえないね。」
「…本当だわ…。」
 綺麗になって会いに来いと言われていたのにこの姿では、とてもじゃないが、会うに会えない。
「まだ若くてお肌も綺麗だし、そりゃ地も綺麗だからノーメイクだって全く大丈夫だけど、髪はちょっとね…。」
 そう言って、振り返る。「ねえ、リュミエール。ちょっとここに居てくんないかなぁ?オスカーが来たらさ、アンジェは私の部屋に居るって、そう伝えてよ。」
「ええ。勿論構いませんよ。」
「よし、決まり! 陛下、アタシがその髪、とーっても素敵に結い上げてあげるからさ、ちょこっとだけ執務室にいらっしゃい。そうしたら、オスカー驚くほど綺麗にしてあげるよ?」 
 アンジェリークはその時、少しだけ迷ったが、『オスカーが驚くほど』という魅力的な言葉に、つい参ってしまった。
「じゃあ…ちょっとだけ。」
 そうして、オリヴィエの後に付いて、今さっき降りてきた階段をまた上っていった。

 

「お嬢ちゃんを見なかったか?」
 大分しばらくしてからやってきた、炎の守護聖にそう尋ねられた水の守護聖は、待ちくたびれた様子でこくりと頷いた。
「…存じて居ますよ。陛下はオリヴィエの執務室にいらっしゃいます。」
 待たされた上に挨拶も無しで、多少気が立っていたと言えなくもない。しかもこの守護聖とは、生来気が合わないし、相手もそう思っているのは明かだった。
 だから、なぜアンジェリークがオリヴィエの執務室へ向かったのか、と言う事は言わなかった。…聞かれなかったということもある。
 ついでに、ちょっと嫌味も言ってみた。
「陛下が探しておられましたよ。…随分貴方を待っていたようですが、何処に行っていたのですか?」
「…前庭にいた。馬があったからな。」
 外出のときに馬に乗るのは、広い聖地では当たり前で、アンジェリークもそれをわかっていると思っていたから、あえて「庭」としか言わなかった。それが幾ら待ってもやってこないので、やっと言葉が足りなかった事に気付いたのだ。
 水の守護聖はにっこりと笑った。
「遠乗りですか? それは良いですね。どうぞ楽しんできてください…日が暮れる前に。」
 そう言い残すと、苦虫を噛み潰したような表情になった炎の守護聖を置いて、噴水の前から立ち去って行った。

 

 その頃。
 アンジェリークの明るい金の髪は、オリヴィエの手によって、素晴らしいフォルムに仕上がっていた。
「ま、夜会に行くわけじゃないから、この辺かな? でも、いい感じにできたじゃない?」
「有難うございます、オリヴィエ。」
 鏡を見ながらの感嘆の混じった声に、オリヴィエは満足そうに頷く。
「いいってことよ。…ほんっと、素敵だよ。このまま行かせたくないくらい。」
どこか少しくやしげにそう言って、オリヴィエは笑った。「でも、そう言うわけには行かないね。さあ、12時になる前に行きなさい。もうアンタの…いや、違った。陛下のその姿を見て、オスカーが莫迦面するのが目に見えるようだよ。」
 頷いて、走り出そうとするアンジェリークに、オリヴィエの声がかかる。
「あ、そうだ…ちょっとまって…これ。」
 そう言って、執務机の引出しから、小さな硝子の小壜をとりだした。「この間ちょっと機会があってね…小さな惑星に寄ったんだけど、そこで見つけたんだ。」
 オリヴィエは立ち止まったアンジェリークに追いついて、小壜の蓋を取り、平たい蓋の底をアンジェリークの耳の後ろに付けた。
 ふわり…と、透明な香りが周囲を満たす。オリヴィエはそっと屈んでその香りを確かめた。
「うーん…。ホントはもっと時間のあるときに付けたほうが、身体になじんで良いんだけど…。まあ、仕方がない。さ、これで十分だよ!」
 そうして、オリヴィエは今度こそ走り去って行くアンジェリークの後姿を見送った。

 

 一方、中庭のオスカーは。
 水の守護聖の後姿を見送って、それが見えなくなるのを確認すると、すぐさまその場を走り出ていた。
 もちろん、オリヴィエの執務室を目指して。
 オリヴィエの執務室は、宮殿の1階部分にある。
 一段低く作られている中庭から彼の部屋に行くには、一度階段を上って回廊に出、それから中廊下を通らねばならないが、そのまま回廊を通って行けば、中には入れないまでも側に大きく取ったまどから中を伺うことが出来る。
 もしアンジェリークがオリヴィエの執務室にいるならば、窓から呼べばすむ事だ。とオスカーは思った。夢の守護聖の事、アンジェリークをすぐに離す訳はなく、待っているからと言って出て来させなければ、いつまでたっても二人きりにはなれないに違いない。 
 そう考えると、オスカーはコの字型の回廊につけられた、二つの階段のうち近いほうの一方を上る。そしてまず、本当にアンジェリークの姿があるのか、確認しようと回廊の手すりから身を乗り出して、向かいの執務室を覗き込んだ。
 と、その時オスカーの目に飛び込んだ光景は。
 オリヴィエの手がアンジェリークの頬に伸び、その長身をかがめた、という場面だった。
 もちろん、あまりにも遠すぎて、硝子の蓋などオスカーの目には止まらない。
── あの野郎!!
 オスカーは視線をオリヴィエとアンジェリークに注いだまま、走りだした。
 つまり、前方不注意。その結果…
 ”どんっ”
 中廊下から回廊へと、まさにその瞬間、歩み出てきた人物と、肩をぶつけて転がった。
「…危ないじゃないか!」
 危ない事をしたのは自分だと言うのに、オスカーは思わず怒鳴っていた。
 自分と同じく廊下に転がっている、光の守護聖様に。
「…ほう。」
 豊かな金のウエーブを乱して廊下に座ったままの誇り高き守護聖は、その眼差しを目の前の男に向けた。
「こ…これは、ジュリアス様!!」
 オスカーの顔色がさぁっと変わる。
 慌てて起きあがり、ジュリアスに手を差し伸べた。
「忙しい事だな。…珍しい事もあるものだ。」
 出された手を借り起きあがったジュリアスに睨まれて、直立不動の態勢をとってしまうオスカー。
「も、申し訳ございませんっ。急いでいたもので…」
「何をそんなに…」
慌てているのだ。守護聖たるものいついかなる時も…と言いかけたジュリアスの言葉は、なぜ走っていたのか思い出したオスカーの、短い叫びにかき消された。
「あっ!!…す、済みませんが、本当に急いでいるので、これで、失礼させていただきます!!」
 後が怖いと思いつつ、オスカーは今ジュリアスに構っていられなかった。背中に突き刺さる視線を感じつつ、青いマントを翻し、再び走り出していた。
「…何だと言うのだ…。」
 光の守護聖は、滅多に出ない驚きの表情で、その後姿を見送った。

 

 

 アンジェリークはオリヴィエの執務室を退室すると、中廊下を通って歩き出した。
 ふわりと漂う香りや、綺麗にまとまった髪が気分を浮き立たせる。
 中庭で待っているであろう人の驚きの顔に出会うのが楽しみで仕方がない。
 ところが、アンジェリークが中廊下から回廊へ出て、中庭を見てみると、そこにはオスカーの姿はなかった。
 首を傾げながら階段を降りる。
 向かいの回廊で立ち上がったオスカーとジュリアスには気付かずに。
 噴水の前には、誰もいない。待っている筈のリュミエールの姿も。おかしいとは思いつつ、アンジェリークはすれ違いになってはいけないと、噴水の前に腰掛けて、少しだけ待つことにした。 

 

 

「俺のお嬢ちゃんをどうしたんだ!!」
 突然ノックもせずに乗り込んできた炎の守護聖を、オリヴィエはきょとんとした顔で眺めた。
「何処に隠した! いるんだろう!? 俺のお嬢ちゃん!」
 入ってくるやいなや自分に詰め寄り、あまつさえ執務机の引き出しを開けようとする姿は、とてもいつものオスカーとは思えなかった。 
「ちょっとちょっと…、莫迦ねアンタ。そんなトコに陛下が入ってらっしゃるわけないでしょ!? 止めなよみっともない!」
 そこまで言われて、オスカーは食って掛かった。
「みっともないだと!? みっともないのはお前のほうだ! 人の女に手を出すようなやつだとは思っていなかったぞ!」
「人の女って…下品だねぇ…。それって、陛下の事?」
「当たり前だ! 他に誰がいるんだ!」
「今はそうでしょ。でも前は沢山いたじゃないよ。」
「なんだと〜!?」
 今にも掴みかかりそうなオスカーを、オリヴィエは軽いステップでかわした。
「ちょっとまって。何を根拠にそんな事言ってるのか、大体想像つく。…ほんと、陛下のことになるとアンタってまるでだめになるね〜。こっちに来て窓の外見て御覧よ。…ほら、噴水の前に座ってらっしゃるのは、だあれ?」
 そう言って、窓の側をオスカーに譲る。
 オスカーは我に返って窓の外を見た。
 確かにいる。いつもとは髪型が違うが、あれは明かにアンジェリークに違いなかった。
「陛下はね〜、ここにおしゃれしに来たの。誰のためでもなくアンタのためだよ。わかるでしょ?」
「…す、済まん。」
 アイスブルーの瞳を混乱させたままで、オスカーは頭を下げた。
「ほら、早く行きなって。」
「本当に、済まなかった。…この埋め合わせは、後で必ず!」
「そうぉ? じゃ、期待しちゃおっかな♪」
 その言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、来たときと同じく、疾風のように出ていったオスカーの背中に、オリヴィエはにんまりと微笑んだ。

 

そして。
 中庭のアンジェリークは。
 中庭から出ようとしていた。
 待ち合わせがもしかしたら前庭だったのかもしれないと、そこで初めて思いついたのだった。
── そうだったわ。私ったら何を寝呆けていたのかしら?
 急ぎ足で中庭を出る。
 いつも出かけるときは前庭で待ち合わせていたのに、どうして中庭に来てしまったのだろう。そんな事を考えていたら、2階の窓から様子を見ていたオリヴィエの呼ぶ声にも、気付かなかった。 
 一瞬でも振り返れば、まさに中庭に下りてくるオスカーに気付いたのに。

 

 オスカーは、中庭に走り出て噴水の前にアンジェリークの姿がなく、もぬけの殻だと気付いた瞬間、余りの事に泣きそうになっていた。
「オスカー!! あっちだよ、あっち!」
 上からかかったその声がなかったら、その場に膝をついていたかもしれない。
 指差された方向には、宮殿の中に入るための大きな扉が開いている。
 いや…開いていた。今まさに閉じようとしている。
「今行ったとこだよ! 早く追いかけて!」
 どうなる事かと様子を見ていたオリヴィエの声頷くと、オスカーは無言で走り出した。
 宮殿の中は入り組んでいる。広いから、大きいからと言う問題ではなく、どこか空間がゆがんでいる節があるのだ。故にその全体像は、その歪みに影響されない女王と、その補佐官しか知らないと言われいている。
 しかしその空間のゆがみとて、いつもいつも起こるわけでは勿論ないし、それに掴まっても出る方法をオスカーはわきまえている。だからこそ宮殿の中で行方不明者が出た場合には、年長組が探しに出かける事が多いのだ。
 けれど、オスカーは大分嫌な予感がしていた。
 宮殿に入ったら、その空間につかまってしまうような…。
 そして、 大概の場合、そんな予感と言うのは、外れる事はないのである。
 オスカーは扉を潜った瞬間に、見事に迷宮に迷い込んだ。
 長く果てしなく続く、廊下。
 幾ら宮殿が広いと言っても、中庭から前庭までの間に、ここまで広い空間があるはずはない。
「ここは…どこだ!?」
 守護聖として宮殿に出入りするようになって、早数年。いままではまり込んだ中で最大級の歪みだった。
「…なにも…、こんなときでなくても…。」
 もしこれが、執務に追われて寝る暇もないという状況であったら、オスカーは喜んでここにとどまり、誰かが探しに来るか、自分が出る気になるまでゆっくりと満喫したであろう。
 思わず、壁に身体を寄せた。
「これではまるで誰かが俺達を会わせないようにしているようじゃないか?」
 こう複雑な場所に入ってしまっては、出るのに半日はかかるだろう。出られないよりはマシだが、アンジェリークは確実に…怒るか、泣くか、…自分に愛想を尽かすだろう。
 それだけは、ご免だった。
 それに、今日しかないのだ。
 予定通りだったなら、既にアンジェリークと森へ着いていておかしくはない。そして、アンジェリークに…。
「こんな所で何をしている。」
 突然の声。
 一瞬びくりとした後、オスカーは頭を抱えたまま、気力なく振り返った。声の主がわかっていたからだ。
「これは…クラヴィス様。奇遇ですね…まったく。」
 二人して同じ歪みにはまろうとは。しかし、相手がこの守護聖なら、どんな不可思議な場所で会おうと不思議はないような気がして、オスカーは闇の守護聖に向かって自嘲の笑みをもらした。  
 クラヴィスは無表情なまま、オスカーを眺めた。
「…アンジェリークと会うのではなかったのか?」
「なぜそれを知っているんですか? …ああ、リュミエールから聞いたのか。」
 その読みが当たった証拠に、クラヴィス答えない。「貴方こそ、ここで何をしているんですか? 滅多に執務室を出ない方が。」
 嫌味としていってみたものの、今日ばかりは覇気が足りずに愚痴のようになってしまった。
「…出たいか?」
 掠れたような声で尋ねられ、それがこの空間をさして言われた言葉だと気付くと、オスカーは力なく頷く。
「そりゃあ勿論。…しかし、二人の力を合わせても、2、3時間はかかるでしょうね…。全く、どうなっちまったんだ、ここは!」
 自分で言って怒りが込み上げ、そばの壁を力任せに叩いた。
── 今日しかなかったのに…俺は、アンジェに…。
 そんなオスカーの様子を、無表情に眺めていたクラヴィスだったが
「ついて来い。」
 そう言って、歩き出した。オスカーは戸惑った視線を上げ、去って行く闇の守護聖の背中を一瞬見送ってしまった。
 だが、その背中に何か確信のようなものを感じて、慌てて後に付いて歩き出す。
 そして、もともと余り縁のない二人であるだけに、双方とも初めは無言で歩き続けていたが、ふと、クラヴィスが口を開いた。
「今日は、不思議な事が続く日だ…。」
「……?」
 口に出しているからには、自分に離しかけているのだろうと、オスカーは解釈した。
「今朝、起きたときから空気が違っていた。酷く静謐な雰囲気が漂って、私は何かがあるに違いないと水晶の前に座った。心を落ちつけ、水晶を一撫でした途端、水晶は僅かではあるが、私のすべき事を教えてくれた。…預かり知らぬことであろうが、普段水晶が写し出すのは、物事に対する暗示、そしてそれを解釈するのが我々なのだ。故に…占者自身を映すなど、前代未聞…。」 
 クラヴィスは離しながらもどんどん先へ歩いて行った。
 通常、歪みを抜ける手段とは、まったく違ったやり方だった。まるで、ここを抜ける術を知っているかのようだった。
「世界は目に見えぬ不思議な力によって、纏まっている。その力は時として、やり方が遠回りなのだと私は思う。」
 そこまで言うと、突然クラヴィスは立ち止まってオスカーを振り返った。
「…喋りすぎたようだ…。さあ、行くがよい。」
「行く…だと?」
 オスカーの言葉に頷いて、クラヴィスが視線を送った先には、見覚えのある大きな扉が出現していた。
 気付けば、そこには自分達二人以外の生命の気配がする。
「…もどったのか? こんなに早く…。」
 信じられない思いで闇の守護聖を見詰める。
 闇の守護聖は、ふっ、と僅かに微笑んだ。
「たまには私も人の役に立てという事なのだろうな…。」
 そう言って、きびすを返す。
「待ってくれ…!」
 オスカーは思わずその背中を呼びとめた。
 一瞬、迷ったような様子で、闇の守護聖は振り返る。
 オスカーは、ためらい、それから
「…助かった。…恩に着る。」
 と、心からそう言って、軽く頭を下げたのだった。

 

 

 アンジェリークが前庭に着いた時、案の定、そこには馬丁と一緒にオスカーの愛馬が待っていた。
「オスカーは?」
 アンジェリークは馬丁に尋ねた。
「はいっ、もうすぐいらっしゃるかと存じます。中庭の方へ参られましたので。」
── やっぱり。
 と、アンジェリークは思った。自分が場所を間違っていたので、迎えに行ったのだ。
 そのせいで随分時間を無駄にしてしまったと、今朝のオスカーの嬉しげな様子を思って、済まないような気持ちになった。
「じゃあ、ここで待つわね。」
 アンジェリークがそう言うと、馬丁は頷いて、馬の手綱を持ち替えた。
 その時だった。
「お嬢ちゃん!」
 大きく、声がして。
 アンジェリークは振り返った。
 なぜか息を乱した様子で、オスカーが走ってくる。
「どうしたの? …そんな…。」
 言いかけたその言葉は、最後まで続かなかった。
 走り寄って来たオスカーが、その勢いのままアンジェリークを抱きしめたからだ。
「…会いたかったぜ…お嬢ちゃん。…もう2度と会えないのかと思った…。」
 きつく自分を抱きしめて、心底そう思っているような口ぶりに、アンジェリークは思わず苦笑する。
「会えて良かったわ。…ゴメンナサイ、待たせてしまったのでしょ?」
 オスカーは、ゆっくりと身体を離し、まじまじとアンジェリークを見る。
「いや…待たせたのは俺のほうだ。」
 腕の中に彼女がいるのを確かめ、ここが何処であるか忘れ、口付けようとしたその時。
”ごほん”
 と、馬丁が咳をして、二人は我に返った。
「そ、そうだ。アン…いや、陛下…馬にお乗り下さい。」
 そういって、攫うようにして馬に乗せる。
 そして、二人はやっと、宮殿を出たのだった。

 

 

 元貴族、そして軍人でもあったオスカーの馬術は非常に優れたもので、乗馬に不慣れなアンジェリークを乗せて走っても、それは素晴らしいスピードで、しかも安定していた。
 それでも、二人が聖地のはしにある森の奥へ着いたとき、辺りは夕暮れになりかけていた。
 無言で馬を走らせてきたオスカーは、ある場所に着くと、急いで馬を飛び降りた。
「ここは何処? オスカー?」
 てっきり泉か崖のほうへ行くと思っていたアンジェリークは、オスカーの手を借りて馬から下りながら、そう尋ねた。
「こっちへ来てくれないか、お嬢ちゃん。」
 言われて、そのままオスカーの後に付いていく。
 森は鬱蒼として、まだ日を残す時間なのに、薄暗い。
 それにいつもだったら、アンジェリークと歩くペースを合わせてくれるオスカーなのに、今日ばかりはどんどん先へと行ってしまう。
 なんだか、怖かった。
 遠乗りと言ってもいつもと違って、ゆっくりとした行程ではなかったし、それゆえ、馬に乗っている間も殆ど話をしなかった。さっきは会ったとたんに酷く強く抱きしめられたし、それに…とアンジェリークは結い上げた髪をそっと撫でた。
── 髪にも、香水にも気付いてくれないなんて。
 今日のオスカーはまるで、別人の様だった。
── 別人、なわけないわよね?
「お嬢ちゃん、どうした?」
 思わず歩みを止めたアンジェリークに、すぐ前を歩いていたオスカーが振り帰って尋ねた。「もう少しだ、頑張ってくれ…日が沈む前に…。」
「え?」
 小声で言われた言葉に小首を傾げたアンジェリーク。それを、オスカーは思いきり抱きかかえた。
「え、ええっ?」
 ムード重視の炎の守護聖らしくないその行いに、アンジェリークは目を見張る。
 しかも、オスカーはアンジェリークを抱えたまま、全力疾走し始めた他のだ。
「きゃあっ」
 余りの事に、アンジェリークはオスカーにしがみ付く。
「しっかり掴まっていてくれ…少しの間だ…。…ほら。」
 言われて、アンジェリークはゆっくりと目を開けた。
 目の前に、ぽっかりと開けた空間がある。
 そして、そこに敷き詰められるように咲いた、白い花。
 オスカーはアンジェリークの驚いたような顔を見て頷き、それから花の中央へ進むと、ゆっくりと彼女を降ろした。
「マリニアという花だそうだ。一年に一度しか咲かない。今日だけ…日が沈むまでだ。」
 アンジェリークはなぜオスカーが急いでいたのかを、漸く知った。けれど、いぶかしげな瞳でオスカーを振り返る。
「でも…聖地では…。」
 聖地は常に花で満ち溢れている。季節もなく、実をつける木々は実をつけたまま、一年を過す。
「今は、地上も聖地も同じだろう? お嬢ちゃん、君の力だぞ。」
得心したようなアンジェリークに、笑いかける。「マリニアは、聖地にはどうしても合わない花で、移植しても花がほころぶ事はなかったと、そう伝えられていたそうだ。」 
「けれど…地上なら、咲くのね。」
 アンジェリークはそっと、その場に膝をついた。「小さいけど…とても…綺麗。」
 喜んでいるようだったが、その横顔は、何処か寂しげに見えた。
 地上を離れて、まだ一年。恋しいのだろうか、とオスカーは思う。
 オスカーの居た惑星では、もう誰も知り合いは残っていない。だから郷愁の念に駆られても、どこか避けて通りたいような気分になるのだったが、アンジェリークの居たあの時間からならば、せいぜい五年か六年の時間が経っただけだろう。
「お嬢ちゃん。…いや、アンジェ。」
 オスカーはアンジェリークの隣に膝をついて、彼女の顔を覗き込んだ。
「なあに?」
 まっすぐな瞳で、見返してくる。
 女王にならなかったら、彼女はとっくに家族の元へと帰って行って居たにちがいない。
 僅差で決まった前回の女王試験で、明るくて元気はいいが、ロザリアより要領が良いとはとても言えないアンジェリークが勝つことが出来たのは、オスカーへの想いがあったからだ。   
『あなたの為に、私、女王になりたい。』
 彼女はそう言ってのけたのだから。
「……アンジェリーク…、君に渡すものがある…。これだ。」
  胸元から取り出したのは、小さな小箱。
  それが何かは一目瞭然だった。
  アンジェリークの大きな瞳が、はっとオスカーを見上げる。
「受取ってくれ…どうか。」
 アンジェリークの目の前で、その蓋を開く。
 中には、ほっそりとした銀の指輪が入っていた。小さな石がいくつか、センス良くはめられている。
「結婚して欲しい。…俺と。」
 アンジェリークは息を呑んだ。その翡翠の瞳が、驚きと喜びで潤む。
「今日、言いたかった。…今日は…。」
「…初めて会った日だから?」
 アンジェリークは、小さく囁いた。「覚えていてくれたの…?」
 主星の時間を聖地に当てはめる事が出来るなら、丁度一年前、前女王の前で二人ははじめて出会った。
「…返事をくれないか?」
 息苦しいまでの緊張に、オスカーの手は、震えていた。
 アンジェリークは、その手にそっと手を重ねる。
「…はい…。」
 膝を伸ばして、オスカーの瞳を覗き込む。「私は、ずっと…あなたと…」
「愛している、アンジェ…。」
 唇から全身にその言葉を吹き込もうとするかのように、オスカーの言葉は、アンジェリークの唇の中に消えた。
 たぶんはじめて会った時から、惹かれていた。
 誰が止めたとしても、きっと止まらなかっただろう、この想い。
 唇を合わせながら、アンジェリークの目尻から涙がこぼれ、二人はそのまま白い花の上に崩れた。

 

 

 

 それからしばらくして。すっかり日も暮れたころ、アンジェリークとオスカーは、ゆっくりと進む馬の背に揺られていた。
 連日の激務の上に、しばらく会えずに居たせいもあって、無理をさせてしまったのがいけなかったのか、オスカーの腕の中で、アンジェリークはうとうとと船を漕いでいる。 
 そんなアンジェリークの寝顔を見ながら、オスカーは幸せに浸っていた。
 さっきまでの焦りがすっかり消え、アンジェリークのことについても、目が行き届くようになってきている。
 もうすっかり乱れてしまったが、高く結った髪と、僅かに薫る香り。
── 俺の為に…。
 そう思うと、余計にいとおしい。
 今日味わった苦労が、全て消えて行くかのように思えた。
 そして、今まで抱えてきた、漠然とした不安も。
 女王試験がはじめられると知って、どれだけ悩んだか知れない。
 他の守護聖に聞いても、アンジェリークの力の衰えは感じられないと言っていたが、オスカーは密かに、自分と契りを交わしたことが、今回の女王試験に繋がっているのかもしれないと考えていた。 
 守護聖と女王が結ばれると言う事は、全く前例のないこと。何が起きてもおかしくはなかった。
 それだけに、誰にも言えず、夜も眠れないほどに悩んだ。
 アンジェリークには勿論言えない。それに、会うことさえも出来ずにいた。 
 『ずっと一緒に居たい』とアンジェリークは言った。
 アンジェリークは自分の為に女王になり、今、ふたり一緒にいられる。 
 もし…、本当に女王交代があるのだったとしたら、自分はどうしていただろうかと、そう思う。
 炎の守護聖の座を空席にしたままで。アンジェリークと共に、聖地を後にするのか。
 オスカーは、腕の中の小さな身体に身体を寄せる。
── きっと…。…出来は、しないだろう。
 オスカーの胸に、堅く重い塊が落ちる。
 導く世界が存在する限り、守護聖の力は欠くことなく贈られ続けなければならない。…引いては愛する一人の女性の為に。 
── 俺がどんなにお嬢ちゃんを愛していても…。…一緒に居たいと願っても…。
 自分が職務を投げ出せば、共に地上に降りたアンジェリーク自身に災厄が振りかかるのだ。
 考え出すと、きりがないな。と、オスカーは溜息をついた。
 女王の交代は、えてして守護聖の交代よりサイクルが短い。しかし、自分は既にこれで3代目の女王に仕えた事になる。
 年長組はそれよりさらに長くこの聖地にいるが、交代というものはいつやってくるのかわからないものだ。
 もし、アンジェリークの在位中に自分が守護聖を降りることになったら…。
 自分がいない世界で、アンジェリークだけが生きていく。その事を考えるたびいつも、この腕の中の華奢な身体を、強く抱きしめ、そのまま締め殺してしまいたいような、そんな気分になってしまう。
 そうすれば、別れは来ない。
 しかし、オスカーはそこまで考えて、ふ、と笑みを漏らした。
── 無理だな。
 もしこの手に掛けてアンジェリークを永遠のものとし、世界に終りをもたらしたとしても。
 この翡翠の瞳が閉じて、2度と自分を見る事がなくなる、そんな事に耐えられないのは、誰よりも自分なのだから。
 其処まで考えて、オスカーは先を読むのをやめた。
── 今、ここに居てくれれば良い。 
 今は、「女王である彼女」も含めて、彼女を愛している。
 アンジェリークは守護聖である自分の為に女王になった。そしてオスカーは女王である彼女を守るために、守護聖でありつづけたいと思っている。
── 矛盾している。 堂堂巡りだ。
 アンジェリークの細い指の上で、月明かりに照らされ、銀の指輪が光っている。
 いつまで一緒にいられるのか。そして、いつ別れがやってくるのか。
 オスカーはその日、ぐっすりと眠るアンジェリークのベッドの側に座り、12時を過ぎるまで、その柔らかな寝顔を、飽くことなく眺め続けていたのだった。 

 

 

 
- continue -

 

金アンの性格が掴みきれていない気がします。
では、また。
蒼太

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