08.学芸館

<SIDE V>

 その日、ヴィクトールはいつものように、執務室のがっしりとした机の前に腰掛け、王立派遣軍から依頼された書類を取りまとめていた。
 書類は星間航空便で送られてくるが、その量は当初ヴィクトールが予想していた量を遥かに超えている。試験が始まったら、ヴィクトールに送る書類も自重する、とは一体誰の言葉だったのか、今となってはわからない。ともすれば机の上に山ずみになってしまうその書類の多さに、実の所、いまだ学芸官が開かない事でずいぶん助かっていた。
 ヴィクトールにとっても王立派遣軍にとっても、今回の話は唐突だった。ヴィクトール自身、やりかけの仕事を途中で放り出すような格好になってしまうことや、周りでとやかくいう出世希望の上官達の言葉が嫌であったこと、それから、過去のちょっとした引っ掛かりがあって、この申し出を幾度か断ったものの、結局女王陛下の勅命とあっては、他の何を置いても引きうけざるを得なかった。  
 しかし、もちろん彼はどうしても嫌だということをするような人間ではないし、一度引きうけたものをいい加減にするような人間でもなかった。
 更に、ヴィクトール自身、この仕事と聖地に興味を抱き始めていたと言う事もある。
 とにかくその日も二つの仕事に挟まれて、いつものように書類を片付けていたヴィクトールの元に、彼の執務官が1通の手紙を携えて入って来た。
 王立派遣軍から送られてくる書類便とは明らかに違う、軽やかな金の装飾。そしてそれに添えられた純白の羽。
 それが女王自らしたためたものであるのは一目で明かだった。
 ヴィクトールは執務官を下がらせると、神鳥の羽を模ったペーパーナイフでその手紙を開いた。
 中には、インクの香りも真新しい、透かしの入ったカードが一枚。
『  恒星が誕生いたしました。
     学芸館を開きます。    』
「………。」
 ヴィクトールはカードを持ったまましばらく思い悩んでいたが、やがて顔を上げると、机から明褐色の背表紙で覆われた一冊の厚い本を引き出した。
 既に幾度も読み返したらしく、柔らかく折りグセがついている。
 そして、深い溜息を一つ。
 ヴィクトールはまだ年若い二人の候補に対して、どのような授業を行って行けば良いのか、大分頭を悩ませていたのだった。
 仕事の合間を見て、資料を探しに訪ねる地の守護聖や、それから、よく彼の相談に乗ってくれる水の守護聖の所へ足を運んだりしたし、他の教官達とも話し合う事もあった。
 前回の試験の様子に付いて、もしくは今回の育成状況について。
 自分が何を女王候補たちに教えなければならないのかを、はっきりと知っておきたかった。
 が、口を開けば鋭い言葉が出るだけの某教官などは、
「物事と言うのは、蓋をあけて見なければわからないものさ。」
 と、まったくその通りの台詞で、ヴィクトールの悩みを一笑に伏しただけだった。
 けれど生真面目なヴィクトールはそれから更に悩んだ末、学習方法を決定した。結局軍での教育と同じ方針を採ること、と。多少勝手が違うかもしれないが、全く違うと言う事もないだろう。
── でなければ一介の軍人である自分がここに呼ばれる理由はない。
 そして、立ちあがる。
── とにかく、1度宮殿に行ってみなければ。
 行けば、これまでの経過も自分で調べていたときよりもはっきりするであろうし、それはきっとこれからの学習に役立つだろう。
 ヴィクトールは執務室を出て、宮殿に向かった。

 

 「女王陛下は、謁見中です。次の謁見も決まっています。…そうですね、夕刻近くなれば、お会いになれると思いますが。」
 そう言われて、ヴィクトールは少しだけ困った顔をした。
 女王からのカードを見せて、この控え室に通されたものの、ここまでの経緯を見れば、これからいつまで待たされるかわかったものではないし、おいてきたままの仕事も気になる。
── 大人しく学芸館にいたほうがよかったかな?
 事実、他の二人の教官はそうしているだろう。そう考えて、ヴィクトールは執事にその旨を伝え、立ち去ろうとしたが…。
「ヴィクトール様? どうなさいました?」
 そう声を掛けられ、振り返った。
 蒼い髪に、物事を見透かそうとするかのような緑の瞳。その肩から下ろされた同色のリボンが、彼の身分を現している。
「エルンスト…。」
 ヴィクトールは少なからず驚いた。彼を研究院以外で見かけるのは珍しいことだったからだ。
「お帰りになるようですが…。なにかご用があったのでは?」
「いや…。」
 あったが、待てないので帰ることにした、と言いかけて、ヴィクトールはふと気付く。「それは、もういいんだが…。今謁見室にいたのは、あなたなのか?」
 聞かれて、エルンストは頷いた。
「そうです。あなたも聞き及んでいらっしゃると思いますが、昨夜、宇宙で一つ目の恒星が誕生いたしました。それまでの経緯とこれからの予測を、届けに来たのですよ。」 
「ほう。」
 ヴィクトールは思わずにやりと笑った。
 なにも、女王に会う必要は無かったのだ。ここに十分全てを知っている人間がいるではないか。
「もしよかったら、その経緯と予測とやらを、俺にも聞かせてくれないか? 実は、女王陛下にそれを聞こうと思ったんだが、とても待っていられなくてな。帰ろうかと思っていたところだったんだ。」
「構いませんよ。」
 エルンストは、控え室の中を見まわした。「…ああ、あのテーブルを借りましょう。資料が多いですからね。」
「持つか?」
「いえ、お構いなく。」
 二人は控え室の隅においてある、ティーブレイク用のテーブルに腰掛けた。
「まず…、育成の内訳ですが…。これは、レイチェルが4。アンジェリークが3でした。最後の瞬間まで、どちらになるか分からないほどの僅差だったのでが、メルの占いによりますと、レイチェルは現在光の守護聖ジュリアス様との親密度が高く、それが力の差となって出てきた、と思われています。」
「なるほど。」
 確かに気が合うといえば合う二人なのかもしれないな、と薄ら思う。
「レイチェルには褒美として、ハートが一つ贈られることになっています。」
「そういうシステムになってたのか。」
 少し驚いた顔をしたヴィクトールに、エルンストは頷いた。
「これからの育成に、大きく関わってくるでしょうね。何事もスタートと言うのは大切ですから。…こちらをご覧になってください。」
 そう言って、A3サイズの用紙を取り出す。「これは、現在女王候補と女王陛下に定期的に送っている資料です。」
 『育成物の状況』とかかれている。
「そして、こちらが明日からあなた方教官にも送られることになる、新しい資料です。」
「ああ。」
 頷いて受取ったものを見比べると、『安定度』という項目が増えていた。「なるほど、こうなっているのか。」
「ええ。研究院の観察中、安定度が上がった場合、リアルタイムでその情報を各自のヴィジコンへ送ります。…安定度についてだけですが。」
「? その他の情報は…この、望み、とかいうやつは候補には送られないのか?」
 首を傾げたヴィクトールに、眼鏡の縁を上げながら、エルンストは苦笑いした。
「土の曜日に育成物の観察を怠った場合、その情報は得られない。そう言うことになっています。…これも試験の一つですね。」
「意地の悪いことを考えつくな。教えてやったほうが惑星もどんどんできるだろうに。」
 半ば呆れたような声で言うヴィクトールに、エルンストは珍しく微笑んだ。
「女王陛下は、時期女王にも自分と同じ目を見せたいらしいですよ。」
 ヴィクトールは年若い女王の姿を思い出し、苦笑する。
「なるほどな。結構時間がかかる試験になりそうな予感がするよ。」
「それも良い刺激になるんでしょうね。ここは静かな場所ですから。」
 そう言ったエルンストの顔を、ヴィクトールはついまじまじと見詰めてしまった。
「…なにか?」
 顔を上げて不審げに見るエルンストに、首を振る。
「いや…その…。あなたが研究以外のことを考えるとは、思っていなかった…。済まん、そんな訳はないのにな。ただ…ここにいる人間はどうも感情に乏しいような気がしていて…。」
「ああ…。」
エルンストは頷いた。「それは間違いではありませんよ。私は研究以外には興味がありませんからね。けれど、守護聖方が感情に乏しいかというと、それは大きな間違いだということに、すぐに気づくことになるでしょう。彼らは…外界から隔離されているせいか、『我を隠す』という事を全くしませんから。…まあそれが、守護聖らしい所といえばそうですね。」
「その通りだな…。」
 エルンストの観察力に、思わず納得してしまうヴィクトールだった。
「さて…他にはなにか知りたいことがございますか?」
「いや、もう思いつかないよ。…時間を取らせて済まなかった。ありがとう。」
「お役に立てましたね。もし、分からないことがあれば、これからは研究院のほうへいらっしゃって下さい。私は大抵夜中過ぎまであそこにいます。」
 資料をまとめながら、エルンストは立ちあがった。「では、私はこれで失礼します。」
 そして、エルンストは足早に控え室を出ていった。
 ヴィクトールはそのすばやさに僅かに呆気に取られつつ、謁見取り消しの手続きを済ませて、控え室を出た。
「まったく…。複雑なものだな。」
 資質と安定。育成を進めるには力を送らねばならず、かつ安定を高めなければならない。
── レイチェルが勝ったといったか…。
 確かに、世間の噂では金の髪の候補が有利、というのが常道だったが、ヴィクトールは栗色の髪の候補にも、期待を掛けていたのだ。 
 慌てて、自分の上に転んだあの女王候補に。なぜか最近、学芸館の周りをうろうろしているのをよく見かける、あの候補に。
 うっかり者で、落ち着きが無くて、自信なさげで…。しかし、あの日言葉を交わしたとき、ヴィクトールはアンジェリークに僅かながらも女王候補としての資質を見出したと思ったのだが…。
── これからは、物理的にレイチェルのほうが有利になるということだ。
 ハートというハンデがあるのだから、これまでの噂より、それは確かだった。
── とにかく、これからは学習が始まるんだから…覚悟を決めないとな。
 そして、ヴィクトールは明日から『蓋を開けられる』女王試験に思いを馳せ、深くもう一度溜息を付いたのだった。

 

 

 

 

<SIDE A>


act.1

 

 今、机の上には数冊の本と家族の写真と、一緒に、パステルオレンジの表紙につつまれた日記帳が立て掛けられている。
 アンジェリークは外から部屋に帰りつくと、いつものように上着を壁に掛け、窓際に置かれた机の前に座り、その真新しい日記帳を引き出した。
 その隣にインクと羽ペンを用意して、彼女はその表紙を繰ると、細く白い指先を顎先に当て、しばし思いに耽る。
 今日あった出来事は、とてものことではないが、1ページに納められそうに無い。それでも彼女はペンを走らせはじめた。
『○○日目 木の曜日。虚無の空間…。それは、新しい宇宙でした。宇宙の誕生…恒星。まだ信じられない気がします。』
 今日、アンジェリーク達は謁見室に呼び出され、王立研究院のエルンストによって、『恒星』が誕生した事を伝えられた。
 自分達が今まで育成してきたものが新しい宇宙だと知ったときの驚きは、並大抵のものではなかった。『別次元』というものが存在する、と言うことすら、地上では信じられていなかった為である。
 昨夜夢の中で見た光景が、恒星誕生の瞬間だったのだと、改めて気付いた。そしてその後女王補佐官の口から聞かされたのが、これからの試験が、この新しい宇宙に、どちらの候補がより多くの惑星を作る事が出来るかで、勝者が決まるという事だった。
 試験の目的が明確になった以上、それにむけて努力する事が望ましい。
 そのために必要なハートが、恒星誕生に多く関わった候補に贈られる知ったのも、このときだ。女王からハートを贈られた瞬間、レイチェルの身体からは、今まで以上の『力』が感じられるようになった。アンジェリークはそれを間近で見ることにより、そんな『力』を自由に送ることの出来る、女王と言う存在の凄さを、改めて感じたのだった。
『私も、頑張ったつもりだったけど…。レイチェルのほうが、もっと頑張っていたのね。』
 ふう…、と小さな溜息が漏れる。
 レイチェルは確かに、王立研究院始まって以来の天才といわれるだけの者であった。
 こまめに研究院に通い、自分の行った行動とその結果をデータで見比べ、確実に球体…つまり恒星の育成を進めていった。
 一方、アンジェリークはそんなこととは露知らず、アルフォンシアの望むとおり、毎日少しずつ力を送っていた。
 土の曜日に研究院を尋ねるたびに、アルフォンシアが悲しそうな顔をするのを見て、アンジェリークもどうして良いのか判らず、ただ、アルフォンシアを慰めるために、何時間そこにいることさえあった。
『初めからこんな調子で、本当に私大丈夫なのかしら? 明日から、学芸館も開くというし、そうしたら、今までよりもっと、大変になるのに…。』
 ヴィクトールに出会ったのは、レイチェルと二人、謁見室から出てすぐの場所であった。
 アンジェリークは正直な所、酷く驚いていた。
 図書館で倒れ、ヴィクトールに助けられたあの日以来、アンジェリークはその礼を言おうと彼を探していた。
 学芸館は開いていなかったので、尋ねることも出来ず、一日の育成を済ませた後には公園に行ってみたりもしたが、あの木陰にも、またそのほかの場所にも彼の姿は見えず、途方にくれいていたのだ。
 もちろんヴィクトールが教官としてだけではなく、王立派遣軍の仕事に追いまわされ、執務室から出る時間さえ惜しいほどになってしまっている、などということを、アンジェリークが知るはずも無く、遠回りして学芸館の精神の執務室を見上げても、堅く閉ざされたままの窓が彼女をためらわせるだけだった。 
 謁見室の大扉の影から、突然現れたヴィクトールに驚いて声も出せずにいると、彼は二人を興味深そうに見て、言った。
「球体の育成が終わったそうだな。俺も今そのことを聞いてきたところだ。」
 どちらが勝ったのかも、きっと聞き知っているのだろうが、ヴィクトールはそれには振れずに、二人に聞いた。「お前達は、資質の学習が、宇宙の安定にかかわるということが、どう言うことか、もう聞いてきたか?」 
 そう言われて、レイチェルとアンジェリークは頷く。安定が高まれば、その分宇宙に維持できる惑星の数も多くなる。そう聞いていた。
「そうか。明日からはいよいよ学芸館が開く。俺も教官としての仕事がいよいよ始まるわけだ。二人とも、大変だろうが頑張れよ。」
 そしてヴィクトールは、口端を上げて笑った。
 そしてその笑顔に、アンジェリークが何故かどきどきしている間に、彼はさっさと行ってしまった。
 お礼の件についてはもう後の祭り。
『明日は、ヴィクトール様の学習室に行ってみよう…。』
 アンジェリークはそう書いて、ペンを置いた。

 

 

act.2

 

 そして、アンジェリークは一人、学習のための筆記用具を小脇に携えて、どきどきしながら学芸館の入り口に立っていた。
 昨日の夜は、どう言う訳かよく寝られなかった。また新しい事が始まることについての不安なのか、それとも…。
 レイチェルを誘おうと思っていたが、彼女はもう既にどこかへ出かけた後だった。人に聞いた話では、どうやら守護聖の内の誰かが彼女を迎えに来ていたようだから、育成が終わるのを待って、付き合ってもらう訳にも行かない。
 以前から幾度も見上げていたせいで、すっかり場所を覚えてしまったその窓は、こんなに良い天気だというのに、閉まったままだ。 
── もしかしたら、いらっしゃらないのかも。
 しかし、彼女はそれでもおそるおそる、学芸館の煉瓦の階段を上っていった。目的地はもう決まっている。
 いかめしい、学校のような外観のその2階建ての煉瓦作りの建物の中は、今時古風な木の廊下に、深い緑の毛足の短い絨毯が引かれ、大きな窓がいくつもあって、日の光が多く入るようにしつらえてある。何か事務室などがあるらしい一階廊下の、そんな風景をしばらく眺め、アンジェリークは正面の階段を昇り2階へ向かった。コの字に曲がった階段を上って、一番左の部屋がヴィクトールの居る、精神の学習室だ。
 暗褐色の分厚い木のドアに、やはり暗めの赤で縁を取った木枠がはめられている。
 アンジェリークはその扉の前で、もう1度ゆっくりと深呼吸した。
 それから、胸の鼓動を抑えつつ、その扉を叩く。
「…ヴィクトールさま…?」
 アンジェリークは小さくその名を呼んだ。
 そっと叩いたつもりだったのに、音が自分で思っていたより大きくて、アンジェリークはビクリとする。
「……入れ。」
 僅かな間の後に ドアの向こうから短い返事が聞こえた。 
 その一瞬と、ヴィクトールの低い声が、アンジェリークをひるませる。
── 怒ってらっしゃるんじゃないかしら?
 アンジェリークはずっと思っていた。2度も助けてもらって、もう既に何日も経っているのに、ろくなお礼も言えずにいるうえ、あの日のことについて、ヴィクトールがどう思っているのかもわからなかった。
 先日ジュリアスに叱られてから、女王試験の厳しさを更に深く思い知ったアンジェリークであったので、自分が倒れた事で、どんなに周りの人々に迷惑をかけてしまったのか、とそう思うたび、辛い気持ちになっていたのだ。
 彼女は、『叱られる』事にあまり慣れていなかった。両親ともに穏やかな性格の人であったし、アンジェリーク自身もおっとりゆるやかに育ってきたから。
── …でも。
 昨日会った時には、なにも言われなかった。それどころか、笑いかけてくれた。
 アンジェリークは、深く息を吸い込んだ。 
──  とにかく落ちついて…入ったらまず、お礼を…お礼を言わなきゃ…。
 だが、その瞬間、何度も呪文のように繰り返し覚えてきた筈のお礼の言葉が、頭の中からすっぽりと抜けている事に気付く。何故か頬が赤らんでいるような気がして、アンジェリークはぎゅっと目をつぶった。
「聞こえなかったのか?」
 少し声のトーンを上げて、ヴィクトールの声がドアのすぐ向こうでした。
「………っ!」
 慌てたアンジェリークは意を決し、ドアノブに手をかけ、思いきり飛び込もうというような気持ちで、大きくその扉を開いた。
 だが。次の瞬間、彼女が飛び込んだのは、精神の学習室ではなく、ドアの向こうの精神の教官の腕の中だった。
「きゃ。」
 そのごわついた服地の感触が、またしても同じ事を繰り返したのだと、一瞬でアンジェリークに教えた。
 どうしたらいいのか分からなくて、頭が混乱してしまう。
── わたしったらっ…。
 完全に体重がヴィクトールのほうへかかり、それに両手を何処に付いていいのかも分からなくて、まごまごしていると、上から声が降って来た。
「…体当たりでもするのか?」
 というような事を聞かれたような気がして、慌てて目を上げると、苦笑したヴィクトールの瞳があった。
 肩に手を添えられて、軽々と押し起こされた。
「ち、ちがいますっ! 体当たりなんて…。」
 言ってはみたものの、そのつもりがなかったとも言えないので、語尾が小さくなってしまう。
 そんな自分の姿に、ヴィクトールは呆れてしまったらしい。
「まあいい、入れ。」
 笑いもせずにそう言うと、アンジェリークを学習室の中へ通してくれた。
「…はい。」
 自分の失態に呆れながら、初めて入ったその部屋は、昼前のどこか静謐な空気が漂っていた。
 アンジェリークはすぐさまその雰囲気に気を取られた。
 赤い布地に金の神鳥が縫い取られた幕が、窓辺にかかっている。
 あっさりとした木枠の本棚に、ギッシリと詰まった本は、どれもアンジェリークには馴染のない、難しそうな本だった。
 整えられた執務机に、飾り気のないペンと、何かの書類。
── お仕事なさってたのかしら…?
 机に置かれたインク壷の中身が、ひどく減っていることに気づき、ぼんやりとそんな事を考えていたアンジェリークの後ろから、突然声がかかった。
「アンジェリーク…。」
 低い、良く響く声がすぐ頭の上から。
「は、はいっ。」
 アンジェリークは我に返って飛びのいた。
「この部屋に入ったら、もう学習が始まっていると思え。」
 ヴィクトールは言葉少なにそう言うと、どぎまぎしているアンジェリークに、ちょっとした注意を与えてから、自分はさっと書きかけの書類の乗った執務机に腰を下ろした。
 とても、軍人らしい機敏さであった。
「ご…ごめんなさいっ。」
 慌てて謝りながらも、アンジェリークはどこかぼんやりとヴィクトールの行動を目で追ってしまう。
 特に、怒っているような様子は無い。
 隙の無い態度ではあったが、それはアンジェリークを突き放すようなものではなく、むしろ自然だった。
 初めてこんな明るい場所で、彼を見た。
 大きく窓を取った室内で、掻き上げただけであろう赤銅色の髪が光に透けて金赤茶になり、がっしりとした体躯と、その琥珀色の瞳が重なって、どこか草原を駆ける肉食獣を思わせる。
 ヴィクトールは、静かに、しかし今までアンジェリークの傍に居た、どんな人間とも違う強い力と雰囲気を身に纏って、そこに居た。
 そしてまた、アンジェリークが公園で出会った、あの時のヴィクトールでもなかった。
「どうした…?」
 その瞳が、不思議そうに自分を見た。
「い、いいえっ!」
 アンジェリークはハッと我に返った。
 見とれていたなどと、言えるわけがない。
 またもしかしたら赤くなってしまっているのではないかと、アンジェリークは顔を失礼で無い程度に顔を逸らして、急いで席についた。
 そして、置かれていた明褐色の革表紙に包まれたテキストを広げる。
── ダメだわ。どうしちゃったのかしら、私?
 ヴィクトールに会うたび、どうしてか失敗ばかりしてしまう自分に呆れる。きっと、相手もそう思っているに違いないと、こっそり目を上げる。
 しかし、そこには右手で額を押さえ、何やら目をつぶっているヴィクトールの姿があった。
── ? …どうなさったのかしら?
 アンジェリークは、先程注意されたばかりだと言うのに、やはり落ちつき無くなってしまっていた。
「あの…ヴィクトール、様?」
 小さく、呼んでみる。
「………。」
 呼ばれて、顔を上げたヴィクトールは、何故かまぶしげに目を細め、しかし、何処か悲しそうに自分を見た。
── ヴィクトール、様?
 アンジェリークがその表情にはっとする間もなく、
「いや…なんでもない。」
 ヴィクトールはそう言って、その視線を緩めた。
── あ…。
 アンジェリークはヴィクトールのその、一瞬の笑顔に心をほころばせた。
「済まんな。学習をはじめよう。」
 次の瞬間には、また教官としての堅い表情に戻ってしまったが、その瞬間のヴィクトールは確かに公園で出会ったときのヴィクトールだった。
「はい…っ」
 アンジェリークは、気持ちを新たに真新しいテキストに向き直った。

 

 

 

<SIDE V>


 

act 2.

 

 執務机の隣にしつらえられた二人掛けの長テーブルに向かい、、その長いまつげを伏せ一生懸命参考書を読んでいるのが、アンジェリーク。
 ヴィクトールは、口の中でその名前を繰り返した。
 現女王と同じ名前だが、姓はちがう。アンジェリーク・コレット。
 まさか、初日から自分の執務室にくるとは思わなかった。
 来た早々騒ぎを起こしたが、今はそのかけらも見せず、静かに勉強を進めている。
── 分からんもんだな。
 黙っていれば、本当に人形の様で、とても女王候補とは思えない。
 大きなブルーグリーンの瞳、栗色の髪。今は光に透けて、金に近く見える。
── 目をそらしているかと思えば、まっすぐ見詰めて目をはなさないし…
 自分に怯えているのかと思えば、次の瞬間にはとびきりの笑顔を向けてくる。
── 17歳ってのは、こんなだったか?

 

 

先ほど、 こんこん、と小さな音が部屋の中に響いて、ヴィクトールは顔を上げた。
 昨日知らせを受けてからすぐ、片を付けられるものは片付けたものの、机の上にはまだ幾枚かの書類が残されている。
 執務机にとなり合わせた二人掛けの学習用の斜テーブルには、ヴィクトールのものと同じ、明褐色の表紙のついた、真新しい教科書が2冊用意されていた。 
 そして、この遠慮がちなドアの叩き方が誰のものかはもう分かっている。
 声を掛けて来るのを待っていると、囁くように小さな声がその向こうから聞こえた。
「…ヴィクトールさま…?」
 厚い扉を前に、栗色の髪の少女は、少し困ったような瞳でヴィクトールの答えを待っているのだろう。
「…入れ。」
 一瞬口篭もったあと、何処か軍の癖が抜けきない低い命令口調で、ヴィクトールは答えた。
 が、聞こえていないのか、躊躇しているのか、扉が開く気配はない。
 焦れて、立ち上がる。
 彼の歩幅で歩けば、執務机から扉まで、立ち上がる動作も含めて約十歩。
 五秒もかからないうちに、たどり着く。
「聞こえなかったのか?」
 言いながら、金色のドアノブを大きくひいた。
「きゃ…。」
 途端、ぱふ。と音を立てて、少女が胸元に転げ込んできた。
 いきなりの事に驚いて一瞬目を見開きはしたものの、ヴィクトールはすぐさま現状を把握し、慌てて態勢を立て直そうとする少女を見降ろし、溜息を付いた。
「…ドアに体当たりでもするつもりでいたのか?」
 呆れた声に、少女が朱に染まった顔を上げた。
「違います。そんな…体当たりなんて。」
 栗色の髪をふるふると振っているが、その様子が不自然で、ヴィクトールは思わず苦笑した。
「初日からこれでは、ダメだぞ。もっと胸を張って堂々としろ。…わかったか、アンジェリーク。」
「は、はいっ。」
 その言葉にアンジェリークがすぐさま背を伸ばすのを見て、真面目にこくりと頷く。
「とにかく、入れ。…良く来たな。」
 実の所、先程彼女を窓から見た限りでは、本当に自分の執務室にやってくるとは思っていなかったので、それは本心からの言葉だった。
 一歩ひいて、アンジェリークを部屋に通す。
 だが、アンジェリークはすぐに奥の学習机に向かおうとはせず、辺りを見まわしていた。
「…アンジェリーク。」
 そんな姿に、こっそりと溜息をつく。
 さっきも、この少女は学芸館の入り口で立ち止まっているばかりで、入ってこようとしなかったのだ。学芸館が開く前もよくそんな風に、この辺りをうろうろしていたので、ヴィクトールは、またアンジェリークがどこかに行くのかと思っていた。
「は、 はいっ」
 アンジェリークは驚いたように降り返る。ヴィクトールはその背中に付いて、低い声で言った。
「この部屋に入ったら、もう学習が始まっていると思え。あまり落ちきのない態度を取らないように。」
 何せ、自分は女王候補たちの「精神」を鍛えるためにここにいるのである。
「さあ、そこに座れ。学習を始めるぞ。」
 そう言ってヴィクトールはアンジェリークを促し、自分はその隣の執務机に腰を下ろした。が、当の本人は何故か立ったまま、きょとんとした瞳で自分を見ている。
「…どうした?」
 不審に思って、ヴィクトールは尋ねる。
 栗色の髪の女王候補は、何処かぽやんとした表情で、じっと自分の顔を見詰めていた。
 同じ女性でも軍に入ろうとするものと、一般の女性では格段の差があるようだな。と、ヴィクトールはぼんやりと思った。
 計画どうりに学習が進まないのではないかと、少しだけ不安になる。しかもそれが、年端も行かない少女では、やはりどう扱っていいものか、戸惑う。
「どうしたんだ…?」
 出来る限り優しく尋ねたつもりが、アンジェリークの身体がビクリと跳ねた。
「いいえっ」
 驚きに、丸い瞳が更に大きくなった。
 動物の子供のようなその表情に、ますますどう接したらいいのか分からなくなるヴィクトール。
 ギクシャクとしたアンジェリークの様子と、それから、ちらりと自分をみたその視線に、ふと、思い至る。
── ああ、これか?
 白い執務用の手袋をはめた手が、無意識に右目に伸びた。
── 気付いて居なかったのか。
 あの日の公園は薄暗かった。謁見室でもまじまじと顔を見合わせる事がなかったし、学芸館に来た時は、会わなかった。
 慣れた筈の反応なのに、どう言う訳か落胆の溜息が漏れた。
 指先が、深く走った傷に触れる。
 既に知っていると思っていた分、反動が帰ってきたのか。
 ヴィクトールはその落胆を、そう解釈することにした。
 消そうと思えば簡単に消せる傷だ。周囲からも何度もそれを薦められてきた。しかし、ヴィクトールはそれを頑なに拒んできた。
 この傷を見るたび、思い出すのだ。
『危ないっ!!』
 声が、して。
 その瞬間、右目に熱い衝撃が走った。
 床に突き刺さった鉄片が、自分の右の目を掠って行ったのだと知ったのは、そのすぐ後。
 そして…。その熱せられた鉄片は…。

 

「あの…ヴィクトールさま?」
 遠慮がちな声で、はっとした。
 可愛らしい、少女の声。
 何時の間にか物思いに耽っていた自分に気付く。
 これが、現実。
 太陽の光が大きく開いた窓からたっぷりと降り注ぐ、聖地。
 部屋の中を満たした明るい日差しが、アンジェリークの栗色の髪を更にしなやかに見せる。
 雨も、風も、柔らかく大地を打って、決して痛める事はない。
 主星で生まれたこの少女は、その恩恵を深く受けて育った。
── 幸せな事だ。
 その幸せは、自分が望んだ姿であり、自分が守って行こうとしたものだ。
 小首を傾げてどうしたのかと尋ねるその瞳には、先程の驚きのようなものは無くなっていた。
「いや…なんでもない。」
 不安にさせてしまったらしい少女に、少しだけ微笑んで見せる。
「学習をはじめよう。」
 ヴィクトールはそう言って、 明褐色のテキストを開いた。

 

そしてまだ、少女は初めの1ページを繰ったところだ。
 女王試験も、学習も、まだ始まったばかり。
── どうなるかな。
 ヴィクトールはアンジェリークが気付かないのをよいことに、その横顔をまじまじと見つめて、小さく笑った。
 今は未だ、女王候補としての自覚も、そんなにはないのだろう。ただ、言われるままに一生懸命努力しているだけだ。
 早く目的を見出させてやりたいものだ、とヴィクトールは思う。
 そうすれば、この女王候補は多分、伸びるだろう。
── いかんな、最初からこんなに贔屓目に見ては。
 ヴィクトールは自らの考えに苦笑した。
 そうして、自分もまた、目の前の仕事を片付けるために、机に向かったのだった。

 

 
- continue -

 

少しだけ、恋の予感…?
…でもない? もどかしいですねぇ…。
次回は、オスカーと金アンジェのお話です。
蒼太
UP  2001.4.24
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