ダグラスのマントを腰に巻くようにして、エリーはベッドに腰掛けている。
そしてダグラスはその隣に。
軽いゲンコツも含めて一通り説教したせいか、エリーは今のところ黙々と食事をしていたが、どうやら反省はしているようだ。
── ったく、一日二日で何度も襲われやがって。
エリーの知っている村や町と、この宿場は違う。
ザールブルグの街は、聖騎士や騎士の本拠地であり、他の国に比べて王の在籍が安定して長かった分、治安はすごぶる良い。
また、今までに旅したカスターニェには漁民の組合があり、ケントニスは自警団が発達していた。スリやコソ泥はいても、あれもまた、治安のよい街だったのだ。
エリーはモンスターの強さや怖さを知っている。だが何より怖いのは人間だと知らない。
ここはエリーには少々刺激が強すぎる寝床だったかもしれない。
そう思いながら、ダグラスは自分も肉汁の滴る屋台のパンにかぶりついた。味はそこそこだが、見た目のボリュームがあって、色味も鮮やかな食べ物。
宿の飯は食べられたものではなさそうだったから、外に出て買ってきたものだ。
がつがつと食べ終えると、さっさとベッドから腰を上げる。
「どこいくの?」
食べかけのパンを置いて、エリーが声を上げた。
ダグラスは荷物の中から薄い敷物を引っ張りだすと、エリーに背を向けたまま言う。
「外。厩で寝る。寝床も作ってきたしな」
馬の世話をしがてら、藁を整えてきてある。
そんなに寒くもない夏の夜だ。少なくともモンスターは出ないし、楽な一夜になりそうだった。だが、行く前にエリーに言わなければいけないことがあった。
「エリー、あのな……」
「ダメ!」
鋭い声に驚いて言葉を止め、振り返ると、エリーはベッドの上に手をついて立ち上がろうとしていた。
「莫迦、そんな立ち方したらまた…」
「行っちゃだめ!」
支えようと近寄ったダグラスの服の裾をつかんで、ダグラスを見上げる。「ここにいて。……お願い」
「…………」
片足を浮かせたエリー。
しがみつくように体を寄せて、自分を見上げてくる。
体温が一度上がった気がして、腕が無意識に上がる。
その細い体を抱きしめようと。
しかし。
ダグラスはエリーの表情に不安を見て取ると、抱きしめかけていた腕の力を抜いて、両脇に垂らした。
自分で思っていたよりも、自分はエリーに厳しすぎたようだ。
エリーが怖がっていたことに気づかず、慰めもしなかった。
「悪かったよ。けど、ちゃんと鍵かければ……一人でいられるだろ?」
ぽんぽんと頭をなでて、座らせようと手を貸すと、エリーはその腕にしがみつくようにして首を大きく横に振った。
「お前な……」
それはずいぶんぐっとくる仕草だったのだが、と同時に幼さを感じて、ダグラスは肩を落とすとエリーの手を腕から外して、改めてエリーを座らせた。
「大体お前、自分で何言ってんのかわかって……」
「いいの」
エリーはベッドに座ったまま、ダグラスをまっすぐに見返した。「いかないで。見えるところにいてほしいの……大丈夫だよ、一緒に部屋に泊まろうよ」
── 何が大丈夫なんだ……
アーモンド色の瞳から目を逸らせずに、ダグラスは思わず心の中でつぶやいた。
狭い寝台に二人。
お互い服はしっかり着込んだまま、ベッドから落ちてしまいそうなくらい端に寄って、横になっている。
── あきれられた、かな……。
30センチは離れているだろうに、エリーはダグラスの体温を後ろに感じて、心の中でため息を一つした。
これが良くないことなのはわかっている。
それを、ダグラスが黙って聞いてくれたのは、ほとんど親心に近い気持ちだったに違いない。エリーをよろしく頼む、と言われたのは、たった今朝の事だったのだから。
しかも、最初は一緒の床には入らないと言い張っていたダグラスを、エリーが無理に引きとめたのだ。
だって床は固そうだったし、埃っぽかったし、それに。
── ……嫌だ! 私…。
中庭の場面を思い出しそうになって、エリーはぎゅっと目を閉じた。
胸の中がむかむかして、どろどろして、そんな気持ちは初めてで、自分に驚く。
考えたくもないのに、栗毛の女性がダグラスの体を抱きしめている場面を、何度も何度も思い返してしまう。
それから、それを避けなかったダグラスの事も。
だからこれは、子供じみた張り合い。
分かっている。
でも、止められなかった。
── どうしてだろう。ロマージュさんやマリーさんだったら、こんな気持ちにならないのに。
ロマージュは、ダグラスの肩にからかうように身を凭せ掛けることがある。マリーは酔えば人の首を固め、あまつさえ押し倒して新しいアイテムを飲ませようとまでする。そんな場面だって、エリーは笑ってみていられた。
なのに今はきゅっと胃が痛むような気がして、エリーはこっそり身じろいだ。
「……寝らんねぇのか?」
ふいに、後ろから声がした。
聞こえていた息は深くて、とても起きているとは思えなかったのに。
「う……うぅん! そんなことないよ!」
そうだと言ったら出て行かれてしまうような気がして、慌てて振り返る。
薄明かりに慣れた目に、服を着たままのダグラスの背中が見えて、どきりとした。
「……そんなことない……」
広い背中。
いつもは、騎士の鎧やマントに守られて、こうしてみる機会は少ない。
自分を守ってくれる背中。
思わず手を伸ばして、触れる。
と、ダグラスが弾かれたように身を起こし、エリーのほうに体を向けた。
「………っ!」
「……ご、ごめんなさい!」
その驚いたような表情に、エリーは思わず謝る。
ダグラスは最初、こわばったように動かなかったが、やがて肘をつき、表情を緩めてエリーのほうに向き直った。
蒼い瞳が、じっとエリーを見る。
いつものような、いたずら気な様子ではなく、ただ、見ているだけだ。
その真剣な表情に耐えきれず…エリーは何とかしなくてはと、口を開く。
「は……はは…。このベッド、ちょっと狭い、よね……工房の私のベッドより狭いや」
お互い寝返りを打ったせいで、今は拳ひとつ分程の隙間しかない。
「ああ…そりゃそうだろ。ホントなら抱き合って寝るためのもんだからな」
肘枕をついたまま、どこか怒ったようなダグラスの声。
叱られたような気になって、視線が自然に落ちる。
喉が渇いていた。
さっき食べた、パンのせいだろうか。
唇を濡らすようにして、一度軽く、噛む。
「……じゃあ、抱き合って寝たら…狭く、ない、ね」
── さっきの女の人みたいに。
両腕をダグラスの肩にかけて、足を絡ませたら。
そうしたら、ダグラスはどうするのだろう。
そう思った、次の瞬間。
エリーの腕は、ダグラスの首元に伸びていた。
そのまま、腕をからませる。
すると、当たり前のように、わずかにあった隙間がなくなる。体が触れ合う。
衝動でしたことなのに。
なぜか足は…恥ずかしくて。
あの女性ほどは、うまくは抱きつけなかった。
「……っ」
耳元で、ダグラスが息を呑んだのがわかった。
エリーは自分の心臓の鼓動が大きすぎて、それがダグラスに伝わってしまうのではないかと、ダグラスの胸元に額を押し付けたまま息を止める。
そして目をギュッと閉じて、待った。
ダグラスが、自分を叱るか、それともいつものように抱きしめてくれるかするのを。
── 拒まないで。
無意識に願う。
後でいくらでも叱られてもいい。
今は、どうしてもこうしていたい。
だが。
その掌がエリーの肩を押した。
一瞬ダグラスの顔が月明かりに見え。
怒ったようなその表情に身をすくめる。
そのまま、ぐいと押しのけられて。
腕がダグラスの首から解けてしまう。
と同時に感じる胸の痛み。
── 私だと、ダメなの?
乾いた喉から、ため息か嗚咽か、何かわからないものがこみあげてきたとき。
ダグラスの暖かな掌が、エリーの目元を覆った。
「…っダグラス……?」
「見んな」
目をふさがれたまま、言われる。「今、俺の顔見たら、殴ってでも寝かせる」
それは。
寝るのではなく。
気絶というのではないだろうか。
ぽかんとしたまま、エリーが口を開けていると。
離れていた体が重なってきて。
エリーはダグラスの体の重みを、自分の上に感じた。それからベッドのスプリングを背中に。
「……っ?」
目を、その掌でふさがれたまま。
唇に触れる、慣れた感触。
もう片方の手が、エリーの頬を包んで逃げられなくなる。
「…あ、……、!」
驚きにあげた声も、吸い取られる。
そこからはいつものついばむようなキスではなくて。
あの時のようなキス。
半年前の。
武闘大会のあとの。深い、口づけ。
「ん…っ…」
びっくりして。急すぎて。苦しくて。
……でも、甘い。
目をふさがれた分だけ、意識がそこだけに集中して。
くらくらする。
やがて、頬に触れていた手が、胸元へ移動してきた。
「あ……! えっ……?」
思わず目で確認しようとしたのに、見えない。見えなくて、感覚だけが冴えわたる。「ダグ…」
更に下へ、わき腹から腰へと体の線を確かめる様に、触れられていく。
キスからも、その手からも逃げようとして身をよじると、下腹部を押さえつける様にのしかかる力が強まって。
混乱したエリーの肩に顔をうずめる様にして、ダグラスが背を丸める。
エリーはどうしてか泣きそうになりながら、ダグラスの、固い赤味がかった髪や、少しかさついた唇が喉元から、鎖骨に降りていくのを感じる。
その手も、唇も体も驚くほど熱くて。
その息が、じんわりと皮膚を濡らす。
そして、体の奥がうずくような……不思議な感覚。
「……っん…!」
それに気づいた時、急に怖くなってエリーはダグラスの下から体を逃がそうと、上にずり上がった。と、エリーの後頭部がベッドヘッドにぶつかって、ごちん、と鈍い音が部屋に響く。
「……っ痛、ったー…」
息苦しさと痛みに、一息に吐いた吐息。
同時に、温かい掌が離れた。
でも。
いつもだったら絶対にからかってくるはずの蒼い瞳が、笑いもせずに目の前にある。
言葉が継げなくなって、目の前が霞んでくらくらする。
「エリー…」
ダグラスがつぶやく。「……食いたくても食えねぇ時に、お前ってやつは…」
そしてぐいと全身をきつく抱きしめてきた。
「え? ……えっ?」
エリーにはその呟きの意味が分からず、身動きのとれぬままにダグラスの固い胸元に顔を押し付ける形になるばかり。
その心臓の音が、早い。
自分のものかと思っていたそれは、ダグラスのものだった。
驚くほどに早く、そして強い。
狭い寝台の中で、ぴったりと全身が触れ合う。薄くてすり切れたようなブランケットの下なのに、じんわりと汗ばむほどに、体が熱い。
── ずっと…
こうして、くっついていたい。
一瞬感じた怖さが、あっという間になくなり、落ち着いていく。
ダグラスの腕の中は、安心できる。
安心できるのに、ドキドキする。
エリーは深い息をついて、潤んだ瞳でダグラスを見ようとした。
だが、自分を抱きかかえるダグラスの顔が見えなくて。
身じろいで体勢を変えようとしていたときだった。
「エリー」
耳元でダグラスが言った。「……お前、さっき窓から中庭見てただろ」
「え……?」
ぼんやりしていて一瞬何のことかわからずに、首をかしげそうになった。
するとダグラスがエリーの手を取って、始めにしたようにもう一度その首に掛けさせた。
「……見てたんだろ?」
その姿勢に覚えがあって。
エリーは息を呑んだ。
そんなエリーの顔を、ようやく体を離したダグラスが覗きこむ。エリーは身を引いてブランケットに隠れようとしたが、ダグラスがそうはさせなかった。腰に回っていた腕で、ぐいと体が引き寄せられ、こんな時なのに、口端にいたずらげな笑みを乗せた。
「えらい勢いで窓閉める音がしてたぜ」
言われた瞬間、真赤になっていたエリーの口がへの字にゆがむ。
── なんでそんなに簡単に言うの?
あんな風に、あのひとと抱き合っていたのに。
でも、その一言が言えなくて、黙りこむ。
多分、眉間には皺が寄って、泣きそうな顔をしていたに違いない。
「なんでもねぇよ」
ダグラスが短く言ってエリーの頬にキスをした。
「え?」
「さっきの女とは何もねぇ」
顔を上げたエリーの顔を覗き込みもう一度口づける。
恥ずかしさと安堵で、顔が熱くなる。
ダグラスは気づいたのだ。
エリーが、嫉妬と対抗心でこんな行為をしたことを。
「なんで……」
先に言ってくれなかったの、と言いかけると
「ついさっき気づいたからな」
そのまま身を起こす。そしてくしゃりと髪を掻くと、エリーを見下ろして仕方なさげに笑った。 「……しょうがねぇ奴」
「……ごめんなさい…」
「ま、俺は嬉しいけどな」
なぜか、そのくすくす笑いさえ小さく潜めて、ダグラスはベッドの端に腰掛けた。
その顔がまともに見られずにブランケットを引き上げようとするが、止められた。
「エリー、お前も起きろ。……ほんとは仮眠させてやりたかったんだが……。そろそろ、客が来るころだ」
それから、少し迷った様子で、付け足した。
「で、ついでと言っちゃなんだが、その服脱いでくれ。全部」
- continue -
2012.05.07.
蒼太