緑のとびら   1       Over15.




「はぁ!? 部屋がない?」
 ロブソン村を出たその日の晩。
 エリーとダグラスは来た時と逆の道を辿って南ザールブルグ街道の手前の宿場町に着いた。ここは、大街道に出る前にある小さな宿場町だ。通る人間は本来さほど多くなく、行きには何の苦も無く大部屋を悠々使う形で泊まれたのだが。
「悪いね。どうも大街道の方で何か騒動が起きたらしい。こっちもあおりを食らって皆足止めを食ったんですよ。それで、この宿もどの宿も、人であふれてるって訳で」
 もう少し足を延ばしてザールブルグ方面へ行けば、ここよりもっと大規模な宿場町がある。そこにも泊まれなかった客が、こちらの宿場を思い出して少しばかり戻ってきた、というところだろう。
 確かに外では露店の食べ物屋が臨時に開かれていて、酔客や商人やそれらに連れてこられた小者などが、それぞれ勝手に話してにぎやかに食事をとっている声が聞こえてきていた。
「騒動?」
「ザールブルグの騎士隊が出たとかなんとか。あっちから検問を抜けてきた客によれば、どうやら夕方くらいには一旦収まったらしいけど、こう日が暮れちゃね。誰も出ようとはしないでしょ。ま、こっちとしては商売繁盛でありがたい」
 騎士隊、と聞いてダグラスの眉が寄せられたが、鎧を付けていないダグラスが聖騎士だなどとははむろん宿の主人の知らぬところで。
「一部屋も空いてないのか?」
「あいにく」
 眉を顰めたダグラスが、怒っているように見えたのか、少し体を引き気味に答える。
 ダグラスは後ろを振り返り、入口に待たせたままのエリーを見た。
 足元に採取籠と荷袋をおいて、所在無げに戸口に寄りかかっている。
 宿の主人も、同じようにエリーのほうをちらりと見たが、結局すまなそうに言った。
「今日はどこもおんなじようなもんだと思うけどね。納屋に泊まるやつらも出てるくらいで」
「じゃあ俺たちも納屋でいい」
「……納屋も埋まったばっかりだ」
「よそをあたってみるよ」
 先に言えとダグラスはつぶやいて、踵を返して外に出ようとした。
 早いところ宿を探さなければ、足をかばって動くエリーは疲れきってしまうだろう。
 だが。
「お客さん」
 呼び止める声に、ダグラスは振り返る。
 宿の主人は、少し考えるようなそぶりをしてから、言った。
「出すもの出してくれんなら、心当たりの宿が一軒あるけど…どうする?」



「エリー」
 宿から出てきたダグラスの顔を見た途端、エリーはどうやら不具合があったらしいと気づいた。随分いかめしい顔をしていたからだ。
 戸口から背中を起こして、その顔を覗き込む。
「どうしたの? ダグラス」
「ここには泊まれねぇ。この先の街道でひと騒動あったらしいぞ。騎士隊が出たと言ってた」
 腕を取られ、そのまま馬の背に抱き上げられてしまう。
「ダグラス、行くの? 私なら一人でも大丈夫だよ」
 気になるだろうと尋ねてみると、彼は首を振って言った。
「解決したって話だからな。もし明日までごたついてるようなら行ってみるが…」
 手綱を取って、南北に通る大通りを行く。
 その間にも、左右には宿が点在していたが、どこにも立ち寄る様子がない。足を緩めず路地に入り、一本裏手の細い道へ出た。
 表通りの喧騒が静まって、店々の裏口が並ぶ。そしてその先に一つだけ、ほのかにオレンジ色の明かりがついた店の軒先。いくつかの人影が出入りしているのが見えた。
「エリー」
 ダグラスが馬上のエリーに声をかけた。が、何か言いかけて口を閉じる。
「ダグラス?」
「いや、ま、いいや」
 緑の扉の前には、露わなウエストの下に絹の帯を巻いた女性が数人立っていて、気怠そうに戸口に寄りかかっていたが、馬を引いたダグラスが目の前に立つと、中の一人が顔を上げた。
 黒髪に、赤い唇。彼女はつややかに微笑んだが、すぐにエリーに気づき、赤い唇をゆがませてダグラスを見た。
「何の用?」
「こいつをここに泊めたいんだが」
 短い言葉に短く返すと、巻いた黒髪を胸元まで垂らしたその女性は、周囲の数人も同じく。
「あんた、ここが何の店か知ってんの?」
 からかうような、さげすむような顔でいわれても、ダグラスは表情を崩さずただうなづく。
 女性は値踏みするようにダグラスを眺めてから、ややあって、ついとその肩に腕を伸ばした。そのまま、胸元にしなだれかかりそうなほど近く、体を寄せる。
 そして、ダグラスの肩越しにエリーをちらりと見上げ。
 ダグラスに視線を戻して、尋ねた。
「あんたも泊まるんでしょ?」
「いいや」
 ダグラスの答えを聞くや、彼女は彼の胸を掌で乱暴に突き、興味の失せた顔をして言った。
「帰んな。部屋はないよ」
 腰帯から煙管を抜いて口にくわえると、戸口に寄りかかる別の女性たちの間に戻る。
 このころにはエリーにもうっすらわかってきていた。
 ここは、娼館だ。
 ザールブルグでは街の一角がそのための通りになっているから、普通に暮らしている限り立ち入ったりしない。でも、女性たちはもちろんそこから出歩くし、エリーだって何度も見たことがある。
 あの絹の腰帯と煙管は、彼女たちが目印のように身に着けているもの。
 ダグラスは自分をここに泊めるつもりで来たんだろうか。
 落ち着かなくなってちらちらとダグラスを見るが、 ダグラスはちらりともエリーを振り返らずに言った。
「表通りのバルドからこの店を紹介されたんだが?」
「………」
 黒髪の女性が、煙管の端を微かに噛んで、それからゆっくりと離した。
「入んな」
 顎をしゃくるような動きで促され、ダグラスは一つ頷くと、馬上のエリーを横抱きに抱きおろして、緑の戸をくぐった。



 店は3階建てのようだった。
 一階のフロアはカウンターと数席のテーブル。これだけなら飛翔亭に似ていなくもないのに、そこには飛翔亭ではありえないくらいの、酒と煙草と、それから女性のつけた甘い香りが漂っていた。
 暗い中、エリーを抱えたままのダグラスが、先程の女性に連れられてカウンターへ向かうと、誰ともなく、二人を振り返りだし、やがて一瞬、男も女も口をつぐみ…ややあってからかうような声が上がった。
「おいおい、女付きで入ってきた奴がいるぜ。どうやってコトを運ぶつもりだか」
「俺も混ぜてくれよ! 一人あぶれちまうだろ!?」
 エリーはダグラスの首にしがみつくようにして、顔を伏せていたが、そのほかはエリーの聞きなれない言葉ばかりで、もしかしたら外から来た人間もいるのだろうかと思う。
「アルク、ヤな客が来たよ。バルトの紹介だってさ」
 カウンターの中の男は、椅子に座った客と硬貨のやり取りをしていたが、女性の声を聞いて振り返った。黒髪を短く刈った、頬に長い傷の入った男。身なりは地味だが、妙に明るい雰囲気をまとっている。
「フローダ、客にそんな口聞くなよ」
笑顔だったが、気の許せない雰囲気をまとったその男は、ダグラスとエリー、それからエリーの体を上から下までさっと眺めて、さらに笑顔を見せた。「訳ありそうだな。いくら出す?」
「銀150だな」
 その言葉にエリーはびっくりしてダグラスの顔を見た。
 行きの宿屋で取られたのは二人で銀60だ。もし個室を貸切るにしても、そんなに取られることはあるまい。ところが、カウンターのアルクと呼ばれた男は軽く笑って首を横に振った。
「相場くらい知ってんだろ? しかも今回は特別だ。銀400」
 今度こそエリーは驚いて首を横に振るが、ダグラスは交渉を続ける。
「高すぎる。一人だぞ。銀200」
「350」
「200だ」
「……300」
「250。代わりに馬の世話は自分でする」
 相手の男は鼻を鳴らした。どうやらそれが合意の合図だったらしい。
 フローダと呼ばれたあの黒髪の後について、ダグラスはエリーを抱いたまま、階段を上った。紫煙が立ち上って視界が薄らぐほどの、濃い香り。
 下から二人を追いかけるのも下卑なからかい声で、エリーはダグラスの腕の中でますます小さくなった。
「ここよ」
 開けられたドアをくぐって入ると、薄暗い室内にベッドが一つ。
「あとでカウンターに来て頂戴」
 ダグラスが頷くとフローダは出て行った。
 と、ダグラスは肩の力を抜き、ふ、と息をついた。
 エリーはそこで初めて、彼が随分緊張していたらしいことに気づく。
 不審にも思って彼を見上げると、ダグラスも気付いたようにエリーを見下ろした。
「ま、こんなもんだろ」
 一言言って、エリーを古びたベッドの上に抱き下ろす。
 あまりいいベッドとはいえないそれに座らされると、所在がなくて。
 エリーはおろおろと周りを見回していたが、特に何も話題になるものがなくて、とうとうダグラスに話しかけた。
「えっと……随分慣れてる? …ね」
「ああ?」
 埃臭さと饐えた空気に耐えかねて、ダグラスは建てつけの悪い窓を苦労して開けようとしている。
「えっと……その、相場、とか言ってた」
 笑顔でいられなくなってうつむくと、ダグラスがようやく窓を開けて、近づいてくる気配。
「予算以上になっちまったな」
 ここは俺が出しとくから、と手が伸びてきてエリーの頭をなでた。
「そうじゃなくて」
「なんもねぇよ、気にすんな」
── 気にするな、って何を?
 エリーは顔を上げたが、薄暗くてダグラスの顔がよく見えない。
「カウンター行って、飯買ってくるから待ってろ。…部屋を出るなよ。物騒だからな」
「……うん」
「俺がでたら、絶対しっかり鍵締めろ。俺と確認するまでは絶対開けるなよ」
 ずいぶん強く言いつけると、さっさと出て行ってしまった。
 エリーは立ち上がると、言われたとおりに鍵を締めにドアに向かう。
 足を引きずり、鍵をかける。
 痛みは昨日よりはいくらか収まったが、きっと、これさえなければダグラスは無理してここに宿をとりはしなかっただろうと思うと、我知らず眉が寄った。
 だが、唇を引き結んでベッドに戻った。
「…とりあえず、自分で出来ること、しなくちゃね」
 わざと声を出して自分を叱責すると、エリーはポーチから昨夜母親の作ってくれた薬を出し、ベッドに戻ってブーツを脱ぐ。
 包帯が巻かれた足をベッドに上げて、包帯を解こうとして少し戸惑ったが、ダグラスはもう少し戻らないだろうと判断して、結局スパッツを脱ぎ包帯を解くことにした。
 露わになるのは、期待したほど引いていない足首の腫れ。
 ザールブルグに戻ってアイゼルを尋ねれば、アルテナ軟膏くらいはあるだろうが、それまではダグラスに迷惑をかけなくてはいけない。
「はぁ……」
 エリーはため息をついた。
 足が治るまでロブソン村に残ったほうがよかっただろうか。あるいは、一度神父に預けた薬をもらって治してしまうか。
 と、自分でそれを否定する。ザールブルグに戻れば譲ってもらえる薬でも、ロブソン村ではその機会もない。
 ため息が出た。
 今朝ロブソン村を出た時には、何の心配も不安もなかったのに。
 むしろ二人旅が楽しくて。
 アイゼル達には悪いけれど、二人きりでよかったと思うこともしばしばだったのに。
 ぺとぺとと足首に薬を塗ると、妙なにおいのしていた室内がようやく爽やかなハーブの香りに変わる。エリーは包帯を巻き直しながら、ダグラスが窓を開けておいてくれてよかったと思った。
 ただ、その開け放った窓から。
 聞きなれない声が流れ込んできて、エリーはぼんやりしながら耳をそれに傾けた。
── 鳴き声?
 赤ん坊の、…いや、……女性の?
「………!」
 その意味に気づくと、エリーは思わず体をこわばらせ、かぁ、と顔に血を登らせた。
 だが、固まっているだけでは何も変わらない。
 なんとかそれを止めようと、ベッドから降り、片足で跳ねるようにして移動する。
「あっ、っと…」
 バランスを崩した体を支えるために、窓枠に手をかけた。
 と、目の端に一瞬光が見えて、何気なくその光を目で追った。どうやらちょうど足元あたりに一階の扉があるらしく、そこから人が出てきたようだ。
 下はどうやら中庭のようだった。人影は優雅な動作で厩に向かう。
── あれは…フローダ?
 黒髪の、ここからでもわかるくらいの見事な姿態は見間違えようがない。
 休憩の時間なのだろうかとぼんやり考えているうちに、彼女は厩に近づくと、中に声をかけた。それに答えて出てきた人物。
「あ……」
 ダグラスだった。
 エリーは窓を閉めることも忘れて二人を見守る。
── なんだろう、宿代の事かな。
 何か言われているのだろうかと心配になりながら、言葉を交わす二人を見ていると……。
 フローダの手が、入口でそうしたようにダグラスの肩に…いや、首元に絡んで身を寄せた。
 月は明るい。
 その表情さえ見えそうなほど。
 彼女の赤い唇がダグラスの耳元に触れる。と同時に、なまめかしく大きなスリットの入った足が、ダグラスの腿に掛けられるように寄せられて。
 そのまま二人は、間近に顔を寄せたまま何かをしゃべっている。
 それから、ダグラスが笑った。
 それ以上見ている勇気がなくて、エリーは思い切り強く窓を閉めた。
 心臓がはねている。
 窓枠に寄りかかるようにして、呼吸を落ち着けようと努力する。
 無意識に、ふらふらとベッドに戻る。
 今見たのはなんだったのだろう。
 頭からベッドにもぐりこみたくなって、突っ伏したけれど、何も変わらない。
 ……あれは、きっと彼女から一方的にくっつかれていただけだ。
 きっと。
 そうとしか思えない。
 だってダグラスは、何もしなかった。
── 押し返しも、しなかった…

 悩み、考え込んでいるうちに、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 扉をノックする音がした。

「ダグラス?」
── 帰ってきてくれたんだ。
 思わず窓の外を見て、月の傾きを確認する。
 自分が思っていたよりも時間が過ぎていたけれど、胸の痛みよりもほっとした気持ちが先に立ち、身を起こして扉に向かう。足は痛かったが、今はそれどころではなくて……早く顔が見たかった。
 だから、ろくに確かめもせず、鍵を開け、扉を引いた。
「よぉ、お嬢ちゃん。また会ったな」
 立っていたのはダグラスではなかった。無精ひげを生やしたどことなく薄汚れた中年の男。
 確か、下のカウンターにいて、自分たちより先に硬貨のやりとりをしていたはず。
「誰ですか?」
 思わず身を引いてしまったのが良くなかった。
 男は閉めかけたドアの間に体をはさむようにして部屋に入ってくると、周囲を見渡し、エリーの他に誰もいないことを改めて確認したのだろう。にやりと笑った。
「つれないね。ここはいい宿だぜ? お嬢ちゃん新入りなんだろ? ……ま、そうでなくても明日には売っぱらわれて同じこったろうけどよ」
 自分が失敗したのだとエリーは悟る。確認する前にドアを開けてはいけなかったのに。
 不穏な言葉には酒臭さが混じっていて、その視線は下にいたアルクとやらと同じだった。上から下まで舐るように見られて、ぞくりとする。
「へへ…しかしいい眺めだね。下の女どもとは比べもんにならねぇや」
 その視線が足で止まったのを知って、はっとした。
 スパッツを脱いだままの、腰のあたりまでスリットの入ったオレンジ色の服。
 エリーは焦って足を隠そうとして、バランスを崩した。
「おお、怪我してんのか。どれ、俺がさすってやろう。いい具合にしてやるからな」
 じりじりと近寄ってくる男を目の前に、エリーは足を引きずり窓のそばに逃げる。
── ダグラスは!?
 窓越しに外を見る。
「そんな逃げなくてもいいじゃねぇか。随分かわいいんだな」
 中庭にはもう人影がない。だが、助けを呼ぼうとエリーは身をひねり、固く締まった窓を開けようとする…が、開かない。建てつけがわるいのだ。
 混乱して窓枠をがたがたと言わせるが、それでも開かないのを見て、男が下卑た笑いを漏らす。
「お嬢ちゃん、ツレなら戻ってこねぇぜ。フローダに誘われて落ちなかった奴はいねえんだ。今頃どっかの部屋に連れ込まれてるよ」
「どこのだれが戻ってこねぇって?」
 その低い声に、エリーははっと振り返った。
 男の首に回る腕。
 そして、その首筋に当てられた、剣。
「ダグラス!」
 男は状況に気づくと、ひっと低い悲鳴を漏らして、剣から喉を逸らそうともがく。
「悪いが俺はこいつがいいんでね。さっさと出てってもらおうか。逃げるなら今のうちだぜ?」
 ダグラスはそのまま男の首をひねって、入口のほうへ放り出した。
 泥酔していた男は、一度バランスを崩して床に座りこんだが、鼻先にダグラスの剣の切っ先を突きつけられて、慌てて退散していった。
「……ったく、ろくでもねぇ…」
 廊下を逃げた男の背中を確認してから、ダグラスは廊下に置いたエリーの採取籠と、荷袋を取り、鍵を閉め振り返る。
 や、エリーの足元に気づいて、慌てて目を逸らした。
「ばっ…お前、なんて恰好してんだ!」
 エリーは窓枠に寄りかかるようにして呆然と立っていたのだが、ダグラスの姿をはっきりと認めたとたん、ふにゃりと腰から下の力が抜けた。
「おい、エリー。どっか怪我したのか!?」
夕食をベッドサイドのテーブルに投げるように置くと、エリーに駆け寄る。
「おい?」
「ほっとして……腰が…抜けちゃったみたい……」
 ダグラスは、ほっとした顔をして、それからエリーの腕をつかむと、立ち上がらせた。


- continue -

2312.5.5.

 


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