調合机の上には作ったばかりの栄養剤と、シャリオミルク、それから緑の中和剤が置かれている。エリーと相性の良い青と緑のアイテムは、品質も効力も最高値になっている。
『なんとなくだけど、調合する前からでき上げる感じが分かる時があるよね』
マリーはそういうけれど、エリーは勘で調合するのが苦手だ。
少量ずつ配合を変えて、パターンごとにナンバーをつけ、ノートに書きとめる。それを繰り返して一番いいと思ったものをレシピとして残す。
また、たとえば栄養剤に使う蒸留水が更にいいものになった時は、最初から配合を考え直す。
初めてマリーと一緒に調合をしたとき、真面目だねぇ、と驚かれた。
── でも、こういうやり方しかできないもんね。
根を詰め過ぎて倒れていたのは学生の頃。眠る間も惜しかった。今も時々寝食を忘れてしまうことはあるが、少しずつマリーにも妖精にも頼ることができるようになってきた。
「ん、こんな感じかな」
ビーカーにできた、肌色、という表現が一番よさそうな、とろりとした液体は、上記の三つを調合したものだ。甘い香りがお菓子の様で、シャリオミルク よりずっとこってりとしたのど越し。
液体に付けた指先をぺろりと舐める。
「うーん。好みが分かれそうではあるけど」
完成したレシピを清書し、それから『ゲネズンミルク』とアイテム名を付けて、エリーはノートを閉じた。
顔を上げ、カーテンを引いた窓に寄る。
掌で布をからげると、すっかり濃くなった夜の気配だけが窓の外に落ちていた。
「…………」
すでにアルテナ教会の真夜中の鐘は鳴って、ずいぶん経つ。
── ダグラス、来ないなあ……。
カーテンを下ろし、エリーは足元で眠っている妖精たちを起こさないように、竈に薪を足した。
今までダグラスは遠征から帰れば、夜は遅くなっても必ずエリーの工房に顔をだしたけれど、はっきり約束をしているわけではない。
今日もてっきりお腹を空かせてやってくるのだと思っていたエリーのキッチンには、食事の支度がしてあったけれど、一口も口をつけないまま冷え切ってし まっている。
そういえば自分の体も随分冷えているなと思う。まだ春の始まりの季節だし、お腹に何もいれずにいたのもいけなかった。
「ん、よし。お風呂入っちゃおう」
いつまでも工房の扉を叩くあの音を、期待して待っていても仕方ない。
シャワーから流れ出る熱いお湯が肌に心地良く、エリーは喉を上げて目を閉じる。
頬にあたる湯の流れが首筋を通って体に流れる。
── 怪我したりは、してないんだろうけど……。
もしダグラスが、大けがをしたりすれば自分の所に真っ先に連絡が来るはずだ。
というのも、ダグラスの家族はカリエルにいたし、市井で一番親しいのはエリーだと誰もが知っているから。
── 忙しいのかな。
ほんの少し前までは、こんなことはなかった。
今夜会えないなら昼間の凱旋を見に行けは良かった。
そうふと思った瞬間に、昼間のあの言葉が不意に耳によみがえった。
『身分違いなのよ』
『聖騎士なんてやめとけよ──忘れられるのがオチだぜ』
身分。
ダグラスと自分の間に身分なんてあるんだろうか。
聖騎士なんて。
なんで、ロルフはあんなことを言ったんだろう。
こんな真夜中のせいなのか、その言葉は何度もエリーの頭の中で木霊して、エリーは濡れた頭をぷるぷると横に振った。
体はすっかり暖まったけれど、流れるシャワーを止めることは、いつまでたってもできなかった。
翌日。
頬にあたるまぶしい光と、聞きなれた朝の職人通りの賑やかさでエリーは目を覚ました。
なぜこんなに眠いのだろう、と考えながらすぐ起きられなくて、ベッドの中でごろごろしているうちに思い出したのは、ダグラスが結局やってこなかったこと。食事は手つかずでキッチンに置いてあること。
「…………」
うっすらと目をあけて、小窓の外の空を見上げる。
五月の空は薄青く、白い雲がかすれて漂っている。
「ダグラスの……莫迦」
ぽつり、と仰向けのままつぶやいたら、お腹がくぅと鳴った。
と、そこに、五月祭を知らせる花火の音がし、エリーはぱちっと目を開いた。
「お祭りだ」
独り言に応えてくれる人はいなかったけれど、腕を付いて身を起こし、子供の様にベッドの上に立って高い小窓から外を覗けば、もう9時近いのだろう、花飾りを胸や頭に付けた子供たちが広場に駆けていくのが見えた。
エリーは慌てて着替えて階下に降りる。工房では妖精たちが昨日からの仕事にすでに取り掛かっており、調合釜の火もしっかり熾されていた。
「ごめんねみんな。寝坊しちゃった…すぐご飯にするから」
そう言ってエプロンをつけようとしていたところだった。
ドンドンドン!
重い扉を叩く音。
エリーはそれが誰の叩き方なのかすぐに気付いて振り返る。
どうぞ、と言う前に扉が開かれて。
「よう」
短い挨拶と共に突然顔をだした人。
「……ダグラス……」
寝ぼけても居たけれど、それ以上に驚いてしまってぼんやりとその顔を見返す。
4か月ぶりに会ったその人は、私服の黒いハイネックのせいか少し痩せて、わずかの間に精悍さを増したように見えた。
まじまじと自分を見る視線に気づいているのかいないのか、閉じられた扉の前で、腕を組んで笑っているその仕草はいつも見慣れたもので。
「元気そうじゃねぇか」
そのさっぱりとした物言いに、エリーはなぜかきゅっと胸が締め付けられた気がして、エプロンを持った手を無意識に胸元に上げた。
ダグラスはそんなエリーの反応に気づかずに、ひょいとエリーに近づいてくる。
「おい、どうした?」
不意に伸びてきた手が、エリーの顔を上げさせようと頬に伸びる。
無骨な指先が、ほんの僅か触れて。
思わずびくりと体を震わせてしまう。それをどうとったのか、ダグラスは眉を寄せてエリーの顔を覗き込んできた。
「熱でもあんのか? …いや、ああ……」
蒼い瞳が自分を見降ろしてくる。しかし、不意に笑ってエリーの頭に手をやると、がしがしっとかき回した。「今起きたばっかりか、寝ぼすけ」
「ちが…」
きっと寝癖が付いたままだったのだろう頭を両手でかばいながら、違う、と言いかけて、口をもごもごとさせ俯いた。「……うん、昨夜夜更かししたから」
答えると、ダグラスはすこし考えた後で、言った。
「また無理してるんじゃねえだろうな?」
「し、してないよ!」
「本当か?」
エリーがその疑うような物言いに頬を膨らませると、ダグラスが軽く屈み込むようにして顔を覗き込んできた。
「? なんか怒ってんのか?」
「別に!」
上ずった大声になってしまって、エリーは自分でもびっくりして口を噤む。
同じように驚いた顔のダグラスの蒼い瞳が目の前にあって。
「そうか? ……なら、いいけどよ」
ダグラスは腑に落ちないという顔をした後、自分の耳に軽く触れると。
ふいに腰を屈め顔を近づけてきた。
「あ…、きゃあっ」
とっさに二人の間に差し込まれたのは、エプロンを掴んだままのエリーの手で。
「っ…! な、なんだよ」
それにキスをしてしまったダグラスが、驚いたように目を開ける。
いつの間にかもう片方の手はエリーの腰にのびて捕まえようとしていたが、エリーは体をひねるようにその腕から逃げ出そうとする。
「だ、だって!」
── なんだか、久しぶりすぎて。
「なんで逃げるんだよ」
「逃げてない」
「嘘つけ」
ダグラスの長い手がエリーを掴まえようと伸びてきて、簡単に壁際に追い込む。「なんか怪しいぞ」
両脇に手を置かれ、蒼い瞳がじっとこちらを窺ってくる。エリーは咄嗟に人差し指を一本立てて突き出した。
「だって……そう! まずは『ただいま』でしょ!?」
そう言うと、ダグラスは大きく丸く目を見開くと、次に赤味がかった黒髪に手を入れて、あー、と低く唸った。
「『ただいま』は? ダグラス?」
今だとばかりに腰に手を当て、眉を上げるエリーの顔を見て、ダグラスはしばらくもごもごと口を動かしていたが、やがて観念したように、言った。
「……ただいま」
言ってから、きっとひどく照れくさかったのだろう、エリーをちらりと横目で見たダグラスを見て、とくん、とエリーの胸が震える。急に体がむずむずして、ダグラスがここにいることが嬉しくなって、顔を見上げた。
「うん。……お帰りなさい」
「……お前は?」
ダグラスはそんなエリーの頭をぽん、と一つ撫で聞き返す。
今度は、素直に答えられた。
「ただいま、ダグラス」
すると、強引にではなくそっと引き寄せられて包み込まれて、囁かれる。
「おう、……お帰り」
その言葉に、エリーは今度こそダグラスの胸に頬を押し付けて、ぎゅうっと腰に手を回す。討伐の後の休暇なのだろう、鎧の無いその体は暖かくて、自分の体が少し冷えていた分心地よい。
顔は見えないけれどダグラスも笑っているのが分かった。
「ダグラス……」
わずかに体を離して、顔を上げて背伸びする。
自然に身をかがめてきたダグラスと、こつんと額を合わせた。
「ダグラスは、私がいなくて寂しかった?」
いたずらのつもりで聞いてみたら、莫迦野郎、と答えが返ってきた。
そのまま、鼻先を軽くこすり合わせると、唇を重ねる。
お腹の底からふわふわと心地よさが湧き上がってきて、目を閉じ何度もキスをして、頬を寄せ合って、ようやく体を離した。
「えへへ……」
それでもまだ腕は絡めたまま、照れくささに笑って見せると、ダグラスがエリーの頬を軽く撫でて言った。
「朝飯まだなら、祭り、一緒に行くか? もう少しすりゃ屋台も出始めるだろ」
エリーはぱっと顔を上げる。
「ほんと? うん!」
嬉しさに大きくうなづいてから、ふと、思ったことを口にしてみた。「えっと……ねぇ、それってデート?」
「はぁっ?」
するとダグラスは言葉を無くして、耳元まで赤く染め、口をぱくぱくとさせ。「っ…別にそういうんじゃねぇ、ただ、俺も帰ってきたばっかで腹へって……」
「そ、そっか! そうだよねっ」
ダグラスの動揺ぶりにつられて、エリーもしどろもどろになる。
急に頬が熱くなって、掌で抑えた。
「大体、いつも飯食いに行ったりしてるだろ…なんでまた急に……」
ダグラスはまだ何か言っていたが、エリーはぶるぶると首を振って、話を遮る。
「私もお祭り行きたかったから! あ、でも……疲れてるんじゃないの? 大丈夫?」
気がついて尋ねると、ダグラスはそっぽを向いたまま答えた。
「莫迦、一晩起きてたくらいでバテたりしねぇよ」
「一晩?」
不思議そうなエリーに、最後まで手強かったモンスターや、それ以上に手強かった書類仕事の件は伏せて、ダグラスは言う。
「ああ。俺の隊だけ帰城が随分遅くなっちまったんだ。戻った時にはもう真夜中過ぎてたな」
その言葉を聞いて、エリーはなぜだかほっとする。が、すぐに気づいてダグラスを見上げた。
「寝てないの?」
「まあな」
責めるような口調に、居心地悪げに頬を掻く。
エリーは、そんなダグラスを見上げると、うん、と一つ頷いてキッチンへと向かう。
「おい? エリー?」
「妖精さんたちの朝ごはんもまだなの!」
キッチンから、戸惑った様子のダグラスに向かって言いつつ、手早く夕べの食事をパンに挟んで、紙袋に入れる。
「はい、これ」
目の前に差し出されたそれを、困惑顔で受け取ろうとしないのを見て、エリーはさらに念を押すように言った。
「寮に戻ってちゃんと食べて、それから、ちゃんと寝て!」
徹夜のまま祭りに行くなんてダメ、と無理やりダグラスを工房の扉へと向かわせる。
「けど、お前……」
背中を押され、しかし紙袋の中身が気になるような様子のダグラスに、エリーは
「お祭りは夜まであるんだよ?」
ぴしり、と言ってそれから。「待ってるから……起きたら迎えに来てくれる? 楽しみにしてるね、ダグラス」
そこまで言われてはじめて、ダグラスは一つため息をつき、頷いた。
「……わかった。なら、昼過ぎにまた来る」
そうして朝食の礼を一つ言うと、エリーの頭をなでて出て行ったのだが。
すぐまた扉が開いた。
「エリー」
姿を半分扉の陰に隠すような格好で顔をだしたダグラスを、エリーはきょとんと見る。
ダグラスはそれ以上工房に入らず、すこし口ごもった後に言った。
「さっきのあれ、それでいいから」
「? ……何のこと?」
ダグラスは、あー、と低く唸って言葉を足した。
「さっきのだ。その……出掛けるやつのことだ。……一緒に、祭りに」
回りくどい言い方を察することができたのは、鈍いエリーにしてはよくできたほうだった。
「もしかして、デートで、いいってこと?」
びっくりした顔で聞き返すと、ダグラスはぎこちなく一瞬頷き、さっと姿を消してしまった。
残されたエリーはといえば。
しばらくぽかん、とした後、じわじわと沸いてきた気恥ずかしさを知って、転げまわりたくなるような感覚を味わった。
- continue -
蒼太