ダグラスとエンデルクが揃って職人通りのエリーの工房にやってきたとき、扉には鍵がかけられており、中には人の気配がなかった。
「……ここにもおられないか」
期待していたのだろうその声が、慣れた人間にしか分からない程度に沈むのを聞きながら、ダグラスはもう一度広場のほうに目をやった。日が沈みかけて涼しくなってきたせいか人がだいぶ増えてきて、夜店の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
王が姿をくらました時、一番好んでうろついて…もとい、視察して回っているのがこの広場の市だ。顔の割れている上区の店などには決して行かず、時には飛翔亭にまで顔を出しているらしい。
だが今日はそのどこにも王の姿はなかった。
「次は劇場通りとアルテナ教会だ」
いつもより時間とられているにもかかわらず、エンデルクは動揺を表に出さず、ダグラスに指示を寄越し、ダグラスはその後ろについていきながら、ちらりとだけ工房を振り返った。
── まだ、近くの森から戻らないのか?
そろそろ日が暮れる。もしまだ森にいるならば、大門が閉まる前に戻れるかどうかぎりぎりの時刻だ。
そう考えて軽く眉を寄せた時だった。
ふいに目の端にオレンジ色の服の端が見えた気がして、ダグラスはそちらに目を向けた。
「エリー!」
職人通りの端を歩いていくのは、間違いなくエリーだ。思わず声をかけたダグラスの視線を追い、エンデルクがつぶやく。
「一緒に居るのはワイマール家のご息女だな」
エリーと共に歩いているピンク色のワンピースの少女を見て言う。「あの様子だと、やはりここにはいらっしゃらなかった様だな。ダグラス、行くぞ」
ダグラスの声に気づかず、エリーはアイゼルと二人並んで、楽しげに何か話しながら、通りの一つの店に入っていくのが見えた。
── なんだ。ちゃんと戻ってたのか。
気が抜けて、それから頭を軽く掻く。
── 心配、しすぎだ。
その分、ほっとしたと同時に、そわそわと落ち着かないこの感情はなんなのだろう。
── 考えすぎ、ってことか。
エリーの事を。
昨夜の事のせいなのか、いつもよりも構いたくなっている自分に気づく。
エリーは、自分の事は自分で出来る。
それに自分は職務中だ。なのに。
気づけばエリーの事を考えていて、大門では、その声に呼ばれた気さえした。
夜になりさえすれば当たり前のように会えるのに、今、追いかけて行って話したい気がしている。声をかけて、目を合わせて、触れて……
「ダグラス!」
鋭く自分を呼ぶ声に、はっと顔を上げた。
駆け出したエンデルクの行く先を見れば、確かにいつものお忍び服を身にまとった白い影が、人ごみの中に逃げていく姿が。
もちろんダグラスは、エンデルクの後について、走り出した。
「あれ……誰か、呼んだかな」
「空耳でしょう?」
隣を歩いているアイゼルに言われ、エリーは辺りを見回すのをやめて、頷いた。
「それにしても偶然ね。あなたも合鍵を作りたかったなんて」
ブレドルフ王をお茶一杯で何とか追い返したエリーは、今度は工房のカギをしっかりと閉めて外に出たが、出るか出ないかと言ううちに後ろから声をかけられた。
もちろん声の主はアイゼル。
「うん。だってマリーさんの分の鍵がなくちゃね。これからは二人の工房なんだし」
僅かの距離を並んで歩きながら、そのはずなんだけど、と、帰らないその人を思ってため息をつく。
「反対はしないけれど、あの人と一緒に暮らすのは大変そうね」
そのため息を聞いて、アイゼルは言ったが、エリーがそれに返事をする前に鍵屋の戸を見て立ち止まり、振り返る。「あなた、先に入りなさいな」
どうやら、年季の入った扉に抵抗を覚えたらしい。
それでも、今のアイゼルは4年前のアイゼルよりずっと柔軟さを増している。あのころのアイゼルはといえば、エリーの工房を訪れるためでさえ、埃臭いといって職人通りに来るのを嫌がっていた。
「ごめんください」
そんなアイゼルを背中に庇うようにして、先に入った薄暗い店の奥では、体格のいい男が一人、こちら背を向けて作業しているところだった。
「あの、合鍵をお願いしたいんですが」
振り返った男は無言のままでカウンターにやってきた。背中に隠れるアイゼルの気配がかすかに感じられたが、エリーは笑顔のままでポシェットから工房のカギをとりだし、それを男に見せる。「この鍵を、もう一つお願いします。おいくらになりますか?」
「……この鍵なら、銀5枚だな」
「ならそれで」
話しているうちに、エリーの背中に身を隠すようにしていたアイゼルが、そっと姿を現して、今度は蒼碧の瞳を丸く開き、二人のやり取りを聞いていた。
そしてアイゼルも同じく合鍵を頼んで外に出たのだが、アイゼルはすぐに怪訝そうな顔をしてエリーに尋ねてきた。
「エリー、ちょっと聞きたいのだけど」
「なぁに?」
エリーが小首を傾げて答えると、彼女は背後に気を使っているのか声を潜めて言った。
「あなた、市場で買い物をするときは必ず値切るのに、なぜ今の店ではそうしなかったの?」
「なぜって……」
必ず、と言われてエリーは頬を掻きながらも、困ったように顎先に指を当て、少し上に視線を上げる。「ああいうのは、値切るものじゃないからだよ」
「どうして? どこでそうわかるの?」
「安いからかなぁ」
言いながら工房に向かって歩き出すと、アイゼルは納得いかないという様子で一緒に歩きながら、さらに尋ねてきた。
「この間あなたが市場で買っていた野菜よりずっと高かったわ」
「でも、あのお店の商品の中では安いものだよ。野菜は一度にたくさん買ったり、ちょっと痛んでるとか熟しすぎてるとか……お店の人も値切られて当たり前って思ってるものだし、鍵屋さんでももっと高いものをお願いするときは、少しだけ値切らせてもらうけど」
そこまでいうと、アイゼルは黙り込み、エリーが工房でお茶に誘っても首を横に振った。
「もう遅いから、工房に戻るわ」
そう言うが早いか、図ったかのように教会の鐘が夜が来たことを告げる音を町中に響かせた。これで街の大門は閉じ、より出入りの難しい大門わきの警備小屋からしか街には出入りができなくなる。
「今度は私の工房にいらっしゃいよ」
そういって上区のほうへと帰っていくアイゼルの後ろ姿を見送ってから、エリーは工房に入った。
「さて…と」
── 今日はもうこれでおしまい。ああ、なんだか忙しかったなぁ。
それでもダグラスが来る前に、中和剤の準備位はできるだろうか。そう考えて、扉を閉めようとしたその時。
「おーい!」
遠くから聞こえるその声の主は、夕焼け近くなった空を背負って、こちらに大きく手を振っていた。
勤務時間内に王をみつけて王宮に戻ることができたのは、奇跡だったと思う。
夜を告げる教会の鐘が鳴ると、ダグラスは、時間通りに王宮から下がり、騎士隊の控室に戻って鎧の手入れをした後、さっぱりとした格好になってエリーの工房に向かっていた。
昼の暑さは嘘のように引けて、道端の木々も元気を取り戻したかのように見える。
ダグラスは、この時間が好きだった。
昼から夜に変わる時間。
汗を掻いて一仕事終えた男たちが、めいめいに自分のひいきの酒場に向かう。
もしくは自分の家へ。
子供たちは姿を消して、時折家々の中からはしゃぐ声がする。
「おい、エリー。いるか?」
工房の戸を叩くのと声をかけるのと、勝手に開けようと手が動くのはいつも同時。
だが、その手に重い抵抗を感じて、ダグラスはドアフックを何度かガタガタと動かし、不審げに一歩後ろへ下がった。
「あん?」
ドアには鍵がかかり、見上げた二階の小窓には明かりがない。もちろん一階の工房のカーテンも閉められている。
「あいつ…まだ帰ってないのかよ」
アイゼルと出かけたままなのか、それとも別の用事か。「随分忙しそうだな……」
ダグラスは、少しためらった後で工房の壁に背中を預けて腕組みをし、石畳を照らすランプの下にたたずんだ。
今までにも何度かこうしてエリーを待ったことがある。
真っ暗な中、泥だらけで戻ったエリーを見つけて叱ったこともあるし、何か依頼品を届けた後なのか、ご機嫌な様子で戻ってきたエリーに駆け寄られたことも。
「…………」
だがしばらく待って、ダグラスは軽く唇を尖らせ、起き上がった。
いつもなら待っていられるのに、なぜか今日は気がせいていて。
それに自分で気づくと、照れくささを顔に出さないよう気を付けながら、ダグラスは飛翔亭へと足を向けた。
「……なんだ、これ」
ダグラスは、エリーの姿を探してぐるりと見回した店内の暗さに思わずつぶやいた。テーブルに掛けた客はちらほらといるものの、店内に活気がない。
カウンターには5のつく日でもないのにロマージュが肘をついて座っていて、クーゲルはともかくディオまでがむっつりとした顔で、暇そうにグラスを拭いていた。
「よぉ。どうしたんだよ不景気そうだな」
一つ席を開けてロマージュのそばに腰かけると、ディオに声をかけるが、いつものように『ビールかワインか?』と聞いてくることもなく、黙ったままだ。
「エリーちゃんならたった今帰ったところよ」
隣のロマージュがダグラスに行った。
「なんだあいつ、やっぱりここに来てたのか。飯食ってたか?」
だとすれば、エリーの所で食事にありつけないのが決まっているから自分もここで何か食べていかなければならない。
だが、注文より前に、ロマージュが言った。
「エリーちゃんから何も聞いてないの?」
「あん?」
聞き返そうとするダグラスの目の前に、注文前のビールがジョッキでどんと置かれた。
泡だらけのそのビールは、しゅわしゅわと音を立ててカウンターにあふれる。
「…っ、おい、なんだよこれ、ディオ!」
「ほっときなさい。フレアさんがいなくなって荒れてるのよ」
「ああ、フレアさんがね……って、なんだって?」
口にしかけたビールを置いて、ダグラスはロマージュを見、ロマージュは肘をついたまま、ディオを見る。
「そうよね。かけおちしちゃったのよね~、フレアさんは」
言われた途端に、ディオの拭いていたグラスがびしりと音を立てて割れた。
ダグラスはそれを横目に、思わず声を潜めてロマージュに顔を寄せた。
「おい、どういう意味だよ」
「言葉通りよ。今朝書置きを残してハレッシュさんと出て行ったの。ディオさんはそれからずっと奥の部屋に籠って拗ねていたから、私たち、心配していたんだけど……」
なぜか白けた顔をして、ロマージュは蛇のお酒に口をつけ、ほう、とひとつため息をついた。
「少し前にエリーちゃんとマリーさんが一緒にお店に来たの。夕飯を食べにね。でもフレアさんがいないからいつものような食事が出なかったでしょう? それで、採取から戻ったばかりらしくてお腹を空かせいたマリーさんが騒ぎ出してね。挙句、奥に閉じこもっていたディオさんと喧嘩になって、それで」
ちら、と店内を見渡して、声を潜めることもなく、言った。
「フレアさんのいなくなった訳が知れ渡って、店中こんな調子よ。……でもまぁ、何を言っても出てこようとしなかったマスターが、たった一日で戻ってきたのはよかったのかもしれないわね」
聞けば、ディオは一方的にマリーにやり込められたようだが、ダグラスは、店内の通夜のような様子の訳を知ってため息をつき、最初から半分に減っていたビールを一息に飲みほした。
うまいともまずいともいえない味に眉をしかめ、よくよくディオを見てみれば、薄暗さに気づかなかったが、だいぶ派手な傷までこしらえている。
「……ま、案外そのうち戻ってくるんじゃないか?」
「それはどうかしらね?」
気楽そうな言葉にロマージュは軽く肩をすくめてみせ、それから、小銭を置いて立ち上がったダグラスに、向かって言った。
「そうそう……エリーちゃんのイヤリング、一緒に探してあげなさいね」
「は?」
不審そうに振り返ったダグラスに、ロマージュは肘をついたまま笑ってひらひらと手を振った。
そのころ。
「はぁ…。疲れたー…」
酔いつぶれたマリーが眠るベッドの端に腰を降ろして、エリーはようやく一息ついていた。
飛翔亭でひと騒ぎ起こした後、エリーはマリーに連れられて別の酒場に移動していた。そこではフレアが作るほどの食事は出てこなかったが、それを肴にマリーは酒を飲み始め、エリーは一足先に工房に戻ろうとして引きとめられた。
『開店祝いのお酒なんだから、ちょっと付き合ってよ』
そういわれてしまうと、なかなか席を立てなくなって、何度もダグラスの顔を思い浮かべながらも、帰れずに。
── こんな時間に、なっちゃったなぁ…・
夜、来るから。とそう言い残してダグラスが出て行ったのが、今朝の事。
── ダグラス、来たのかな……。来たとしてもきっともう帰っちゃったよね。
誰かに伝言を頼めばよかった、とそう思ったのは遅い時間になってからだった。
鍵を開けておいたら、入って待っていてくれただろうか。
── ……合鍵…とか?
そこまで考えて、エリーはなんとなく頬を赤らめた。
ダグラスに工房の鍵を渡すなんて、なんだか変だ。
「アイゼルとは違うんだから」
思わず、声に出してしまう。
アイゼルは、作った合鍵をノルディスに渡すつもりだと言っていた。だがあれは店舗のカギであって、アイゼルの自宅は別の場所にあるのだから、工房に住むエリーとはまた意味が違う。
エリーはそれでも少しの間だけダグラスを待って起きていたが、やがて諦めてシャワーを浴び、 白い半そでのシャツと、パジャマ替わりの半ズボンに着替えて寝支度を整え終えると、マリーの眠るベッドを見下ろして、ため息をついた。
「鍵より先にベッドを買うべきだったかなぁ」
と、マリーがむにゃ…と声を漏らして寝返った。大の字になっていた彼女の隣が少し開く。しばらくはその隙間に寝ることを思って、エリーは眉をトホホと落とす。
── ダグラスと眠った時には、あんなにゆったり眠れたのに。
と、そう考えて……しばらくしてからまた頬に赤みが差したのが自分でもわかった。
当たり前だ。ダグラスは腕を貸してくれたし、隙間もないほどくっついていたのだから。むしろベッドの両端には隙間があったほどで。
── や、やだな。
抱きしめられて包み込まれて眠る感覚を思いだして、一人気恥ずかしくなる。
「も、もう寝なくちゃ……」
誰にともなくつぶやいて、立ち上がったその時だった。
コツン……。
微かに、階下で音がした気がして、エリーははっと動きを止めた。
コツン… コツ…
二度、三度、遠慮がちに聞こえるその音が、泥棒などではなく工房の扉を静かに叩く音だと気づいて、エリーは小窓に歩み寄り、階下を覗き込んだ。
表の石畳には、街灯に照らされてダグラスがこちらを見上げ、立っていた。
- continue -
2012.08.21.
蒼太