はじめのいっぽ 1



 

 シグザール王国歴317年9月1日。
「あ、その機材はこっちに……それは、入口のそばに置いてもらえたらいいです」
 『Atrile Elie』 の看板は、お昼近くに 『Atrlie Marie,Elie』に替えられて、今は開け放した工房の扉の外から、行き交う職人通りの人々が、何事かとちらちら中を覗いては立ち去っていく。
 そう、今日からここは、エリーとマリーふたりのアトリエなのだ。
 資金は決して潤沢ではなかったから、まだ基本の機材だけしかそろえることができなかったが、配達人たちが帰っても、今までのがらんとした感じの薄れた工房を見渡し、エリーは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった…なんだかようやく、戻ってきた感じ」
 ロブソン村から帰ってから、工房に戻ってもどこかしっくりしなかったが、まだ梱包したままの機材でも、いつもの位置にもどってきたと思うとほっとして、わくわくもしてくる。
「さて、と。寝坊した分、頑張らなくちゃ!」
 エリーはまだ夏の暑さの残る工房の扉を開けたまま、機材の梱包を解きにかかる。
 今日は色々と忙しくなる予定だ。だからこの仕事は本来なら一人ではなく二人でやっていきたいところなのだが。
「マリーさん、どこまで行っちゃったのかなぁ」
 木箱の釘を苦労して外し、中から天秤を取り出しながら、二週間近く前から姿を見せない同居人の姿を思い浮かべるが、今日が開店だということを覚えているのかいないのか、今朝から一向に姿を見せる気配がない。
 だが、心配するより手を動かし、鍵のついた小箱をあければ、そこからまだピカピカの天秤の重りが出てきて、エリーはそれを窓からの光に掲げた。
「えへへ……新品の機材なんて初めてだなぁ。ずっとお下がりだったし」
 多分それは、マリーの前の生徒からのものも含まれていただろうと思う。その分手になじんで使いやすかったものもあったが、盗られてしまったものはもう戻らない。残念だと思うけれど、新しい機材を使うのはやはり少し嬉しかった。
 新しい…そう、今日が新しい第一歩なのだ。
 いつもと変わらない一日のはずなのに、周りがきらきらと鮮やかに見える気がする。
 どきどきして、体が軽い。
── まず、何から作ろう。やっぱり基本の緑の中和剤からかな。
 4年前にアカデミーに入学したときのことを思い出す。
 魔法の草を調合鍋で煮出して、ただ、丸底フラスコに移すだけ。たったそれだけでできるのが緑の中和剤。
 それでもあのときは、緑の液体を満たしたフラスコが、何もない棚にいくつか並んだだけでなんだか目がうるうるした。
── あ。でも…まず魔法の草を用意しなくちゃ。
 エリーは店用にとマリーと一緒に選んだ財布の中身を思い起こす。確か残りで参考書を数冊買ったらもう僅かしか残らないはず。
 今までは妖精たちがいて当たり前のように在庫があったが、妖精たちをまた迎えに行けるのはだいぶ後になるだろうから、それまでは自分で採取に行かなくては。
「今はまだ依頼を受けていないからいいけど……」
 そのうち、採取にかける時間が惜しくなるに違いない。
 だんだんと自分で外に出る機会はなくなるはずだ。大体、近くの森に最後に行ったのはいつだろう。
── ダグラスとドンケルハイトを採りに行ったっけ。
 ふ、とその人の顔を思い出した瞬間、濾過機のガラスを拭いていた手が止まる。
 自分でもわかるほど、顔が、不意に赤くなる。
 今日、何度目だろう。
 二度寝をして目を覚ました時。シャワーを浴びている間。……朝食を食べながら。
 手がどんな作業をしていても、不意に訪れてくるその瞬間には、昨夜の出来事の名残が鮮明に蘇って、エリーの動きを止めてしまう。
 それからしばらく、何度も同じようなことを思い出して、首をぶるぶると横に振って、息を吐き、そうしてやっと、元の作業に戻る。
 もしかしたら、わくわくして、うきうきして、それからそわそわしてしまっているのは、新しい店を開く一日目だからと言うだけではなくて。
 昨夜の事も、あるのかもしれない……などと頬の赤いまま思いながら、エリーはそっと最後のビーカーを机に置いた。
「さあ、飛翔亭に行って、採取に行こう」
 自分の気持ちをそちらに向けさせるために声に出して、夜には会いに来ると言ったその人の顔を何とか打ち消すと、エリーは新品の採取籠を背負って、鍵をかけずに工房を出た。




 ところが。
「どこへ行く気だ!」
「決まってるだろ、二人を追いかけるんだ!!」
 依頼を見に来たエリーが飛翔亭の戸を開けた途端、聞こえてきたのは男同士の怒鳴り声だった。あまりにも激しいその様子に、それがディオとクーゲルの声だとすぐに気づけずに、エリーは戸口のそばで固まった。
 見れば、二人はカウンター越しに怒鳴りあうどころか、クーゲルがその太い腕に渾身の力を込めて兄であるディオの腕をつかんでいる。ぽかんとした後、止めに入ろうとしたエリーだったが、その腕を横から攫うように引く者がいた。
「エリーちゃん。ちょっとこっちへいらっしゃい」
 ロマージュだった。そのまま飛翔亭の外に引っ張り出されて、明るい夏の日差しの下に出ると、まぶしくてめまいがする。
「……ど、どうしちゃったんですか、二人とも」
 驚きとまぶしさに目をしぱしぱとさせながらロマージュを見上げると、彼女は薄碧の瞳を困ったように揺らめかせ、銀色の髪にさらりと指を通しながら言った。
「……フレアさんが、いなくなったのよ」
「え?」
 不思議そうに小首をかしげたエリーだったが、すぐに誘拐と言う言葉が頭をよぎる。
 フレアと言えば酒場の荒っぽい連中にも人気だが、もしかしたらその中の一人が早まったことでもしでかしたのかもしれない。それとも、ディオやクーゲルの事を知らない流れの冒険者か……。
「大変。ハレッシュさんは? それに、騎士隊を呼ばなくちゃ!」
 慌てて踵を返そうとしたエリーの肩を、ロマージュが捕まえる。
「違うのよエリーちゃん」
首を軽く横に振り、それから、一呼吸おいて言った。「フレアさんはね。駆け落ちしたの。そのハレッシュさんとよ」
 飛翔亭の中から何かガラスが割れるような大きな音がしたけれど、エリーは今聞いた台詞が信じられずにぽかんとしてロマージュを見上げた。
 彼女はちらりと飛翔亭の重い扉を見て呆れたようなため息を一つし、それから視線を戻す。
「去年の武道大会のこと、覚えてるかしら。もちろん、あなたのダグラスが優勝したんだけど」
 あなたの、と言う言葉には頬を染めたものの、エリーはうなずいてその先を待つ。
「あの時ハレッシュさんもマスターと約束していたみたいなのよ。優勝したらフレアさんと一緒になってもいい、って」
「一緒にって…結婚するってことですか?」
 尋ね返してから、はっと気づく。
 そういえば、大会の日、ハレッシュは観に来ていたフレアに合図を送っていたし、前日にはエリーの工房に何かないかと尋ねてきていたっけ。
「それで、優勝できなかったからって……フレアさんと二人で……莫迦ねぇ、そんなのいくらでもどうとでもできるでしょうに」
 腰に手を当て髪を軽く掻きあげる様子は、ロマージュにしては苛立った風だったが、それには気づかずに、エリーは思わず口元に手を当てて考え込む。
「でも、だって……昨日はお祝いのパーティで……」
 卒業祝いをみんなでしてくれたのは、たった昨日のことだ。
 夜中まで飲んで、笑って、別れたのはもうあんなに夜も更けたころだったというのに。
「明け方だったみたいね、二人が出て行ったのは」
 皿が数枚割れたのだろう、さらに大きな音が中から連続して聞こえた。
 ロマージュは眉を寄せると、俯いたエリーの肩に手を置いて、そのままぐるりと後ろを向かせた。
「ロマージュさん?」
 驚くエリーの背をぽんと叩いて、彼女は飛翔亭の扉の取手を握る。
「だんだん大ごとになってきてるみたいだから、ちょっと止めに入ってくるわ。悪いけどエリーちゃんはダグラスを呼んできてくれる?」
「で…でも…」
「ルーウェンがいてくれたらこんな事お願いしないんだけれど。ちょっと…出掛けているから。ね、急いでね」
 視線で市場のほうへと押しやられて、エリーは採取籠を背負ったまま、城へと走り出すことになった。







 今朝のダグラスといえば、毎朝隊長室前の廊下で行われている警備の引き継ぎ式に、遅刻ギリギリで走りこんで来て、黒髪の騎士隊隊長に睨まれた。
 その後、中庭の訓練場へ行き、自分の小隊と共に剣術の訓練と指導。
 あっという間に汗をかいて、井戸水を頭からかぶった後に、昼食。
 そして今は、真夏の日差しに鎧を焼かれながら、じりじりと時間が過ぎるのを待っている。
── あっちぃ…なぁ…。
 夜になれば涼しいザールブルグの街も、今が一番夏の暑い盛りだ。
 額を流れる汗をぬぐって、広場に目を凝らせば、市場の白い布屋根に光が反射してまぶしいくらいに光っている。
 いつもならこのくらいの時間になって想像するのは、任務を終えたらすぐにこの鎧を脱ぎ、城の井戸から汲んだばかりの、肌を切るように冷たい水を全身に浴びる事だ。
 出来ればそのまま乾いた服に着替えて、飛翔亭に駆け込みビールを飲んで喉を潤し、寮に帰って窓を開け放って、冷たい夜風で朝まで熟睡したい。
 だが今日のダグラスは、残念ながら昼の二時間は門番を務め、そのあとは内勤だ。それに、今のところ一度もビールの事を思い出してもいない。
 気づけば視線を広場の一角から続く職人通りのほうへ向けてばかりだ。
 無論、その先にはオレンジの服を着た錬金術師の住まいがある訳で、彼女の工房が今日新しく開店することは知っているから、想像するのは、汗をかきながらも手早く立ち働いている姿と……それから、ふとした拍子にそれに重なるように思い出す昨夜の仕草。
 暑さにではなく頬が熱くなったのを感じ、ダグラスは姿勢を正し、顎先を引いて再び中央広場に目をやった。
 城門警備は何も、城に入る人間を見分けるためだけにいるわけではない。
 城の正面に立つダグラスから見て、すぐ目の前が街の中心にある広場。さらにその先にまっすぐ続く大通りは、遠く陽炎に揺れる大門まで続いている。
 ザールブルグ市街への出入りはすべてその大門から行われていた。
 俗に「門番」と呼ばれるこの場所に立ったら、目の前に見えるすべてに目を凝らすのも、目安箱代わりに市民の言い分を聞いて上に報告するのも、迷子を家に送り届けるのも、小競り合いを止めるのも仕事のうちだ。
 だが9月に入ったというのに異常なほど暑い今日は、太陽が自分の足元にさえ影を落とすものかと輝いている。
 こんな天気では、だれも表に出ようとはせず、広場に人影はない。
「あいつも……開店だからって無理してねぇといいけどな」

ぽつりとつぶやいたところに、とんと肩を叩かれてダグラスは思わず声をあげそうになった。
「ダグラス、交代の時間だよ」
 慌てて振り返ると、淡い金髪にこげ茶の瞳をした男が一人立っていた。
「アレ先輩」
 名を呼ばれた細身の男は、ダグラスの慌て様にほんのりと首をかしげて微笑んだ。
 彼はアレ・キスリング。騎士隊の中では有名な男である。
 なぜ有名かと言われればもちろん、黒髪の隊長に対するその特異な行動が一番の理由なのだが、と同時に王の親衛隊の中で最も腕が立つ事でも名が知れていた。今もすぐ背後に立たれて気配を感じなかったほど。

ただし、ダグラスが知る限り一度も武道大会に出場したことはなく、聖騎士の中でも親衛隊ともなると少し違った扱いを受けることもあり、彼が実際にどれほどの腕前なのかは分からないままなのだが。
「交代だよ。ご苦労様」
 もう一度言われてダグラスは、真上に上った太陽が、少し西に傾いていたことに気づいた。
「あ…あぁ…。了解です」
「暑いからね。早く中に入りなさい。でもぼんやりしちゃダメだよ」
 物柔らかな言い様だったが、きちんと釘をさすあたりは彼らしい。
 ダグラスはありがたく頭を下げ、もう一人の門番と共に城の中に戻った。





「魔物の動きが活発になっている」
 午後の執務室。
 後ろ手を組み、その動向を見守っているダグラス他数名の隊長を前にして、エンデルクは言った。いぶかしげな顔をした面々の前で、彼はいつもよりも少し深く眉間に皺をよせて、壁に掛けられた王国の地図に指先で境界線を引いて見せる。
「宮廷魔術師イェーナーによれば、先日の事件で城外の一部に置いてあった守りの魔方陣が破壊されていたことが分かったそうだ」
 イェーナーは国内の各地に複雑な魔方陣を敷いている。それは国をモンスターから守るためのものでもあり、様々な場所から正確な情報を集めるためのものでもある。
 それを知る者は騎士隊の中でも僅かだった。ダグラスも昨年の武闘大会で優勝した後、小隊を一つ任されるようになってからだから、まだ日が浅い。
 それでも、だからこそ先日エリーを宮廷魔術師にという話が出た時、本当のところ心配に胃が痛くなるような思いをしていた。絶対に無理だとはなから言う気はないが、それでも、エリーの性格であのような裏も表もある仕事が務まるようには思えない。
── それとも、あいつならまた違う形でうまくやっていくのかな……。
 しっかりしているようで、時々どこか抜けている。でも、どんな人間を相手にしてもいつの間にか懐に入り込んでいるような人間、それがエリーだ。
 あのままでもエリーは宮廷魔術師の道を選ぶ事はなかったかもしれないが、マリーがエリーとの工房経営を言い出してくれたことには感謝した……などと、ダグラスはきっと口が裂けてもマリーに言うことはできないだろうが。
「討伐隊の時期も近い。今年はこの件も含めて隊の編成と配置を決める様に。各々気を引き締めて準備にかかってほしい」
それから…とエンデルクは伝える。「今年の入隊試験は、例年より厳しく行う事とする。また、聖騎士のアンスヘルムが今年で引退するが、代わりの聖騎士を一名選抜することになるからそのつもりで」
 その時、ちらりと視線を寄越されたのは、気のせいではなかったとすぐにダグラスは知ることになる。


- continue -


2012.08.18.


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