翌日、徐々に人の気配が立ち、朝の準備が始まっていく時間に、ダグラスは身支度を整えて庭に出た。
空はまだ薄明るいだけで、空気は冷たい。
この時間が好きだ。
ここがエリーの故郷だと思うと不思議な気がしたが、いつもの通り一つ伸びをして、軽く体をほぐした後、腰のベルトに差した剣を引き抜いたその時。
「早いね」
後ろから声をかけられ、束を手にしたまま振り返ると、そこにはアウレールが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。……剣の稽古かな?」
「そうです」
一日剣をふるわないと、それだけで勘が鈍る。
ダグラスは剣を鞘に納めるとアウレールに歩み寄り、何か手伝うことがあるかと尋ねた。どのみち連れてきた馬の世話もしてやらなければいけない。
「そうだね…じゃあ、君の稽古が終ったら。朝食の後にでも少し手伝ってもらおうかな。羊囲いの一部が壊れてね。男手があるといいと思ってたんだ」
そしてずいぶん日が高くなったころ、エリーが寝ぼけ眼で顔を洗いに庭にやってきた。
いつものオレンジの服でもなく、もちろん昨夜の寝巻でもなく、この辺りの衣装なのだろうか、昨日エリーネが着ていたような、胸元に刺繍の入った、くるぶしまでの丈の長い薄黄色のワンピースを着て、エプロンをつけている。
見慣れない服装に戸惑っていると、エリーはアウレールと二言、三言話してからこっちへやってきた。
「おはよ、ダグラス」
その頃には稽古も終えて馬の世話をしていたダグラスは、馬の鼻面を掻いていた手を止めて振り返った。
「遅いぞ、ねぼすけ」
「んー。ベッドが気持ちよくて」
ぽやんとした顔で目元をこする。
昨日からの疲れも興奮もあったのだろう。
それでも馬に手を伸ばし、同じように鼻面を掻いて、おはよ、と馬にも挨拶する。
「ダグラス、おとうさんの手伝いするの?」
「ああ。飯食ったらな」
返事をしながら使った水桶を持って外に出ると、エリーは丈の長さに慣れないのか、スカートの裾をやや蹴り上げる様にして歩き、ダグラスの後をくっついてきた。
その様子にいつものエリーを見て、思わず笑みが漏れる。
「じゃあ、午後は? 何か予定がある?」
「お前以外の予定が入るわけないだろ」
ダグラスとしては、勝手の分からぬこの土地で、別の予定が入るはずもない、と言いたかったのだが、エリーは少しもじもじとして、えへへと笑った。
「じゃあ、お父さんの用事が終ったら採取に付き合ってくれる? 私もお母さんの手伝いしてるから」
この辺りにモンスターはいないと聞いている。だが、ダグラスは頷いて、小川から水を汲み、汚れた桶をざっと洗いながら尋ねた。
「どこに行きたいんだ?」
「すぐ近くだよ。向こうの森とか川とか。昨日の向日葵畑とか…あとは羊の毛とか、ヤギのミルクとチーズなんかも使えるかなって思ってんだ。……そうだ、今のうちにお母さんに言っておかなくちゃ」
言葉が終るか終らぬかの内に、エリーは踵を返して母屋のほうへと走って行ってしまった。その後ろ姿があまりにもいつも通りで、思わず苦笑する。
「あんまり慌てるなよ!」
「うんー!」
そばでヤギ小屋を片づけていたアウレールも、ダグラスと同じように自分の娘が走っていく姿に目を細めていたが、ダグラスと目が合うと、照れたように彼に笑いかけた。
「じゃあ、柵の材料から運ぼうか」
朝食の後、借り物の半そでのシャツを着たダグラスとアウレールは、庭の一角に立つ納屋の裏側にいた。
そこにはすでに、切られて杭の形にした、一本一本かなり頑丈な木材が積み上げられている。かなりの重量があったが、ダグラスがそれを難なく持ち上げるのを見ると、アウレールがわずかに感心したような声を漏らした。
が、アウレールはといえば、それを二本束ねて持ちあげて、ダグラスの目を見張らせた。
「あっちのは?」
一度抱えた荷を手車に積み上げながら、ふと納屋の西側に目をやったダグラスは、同じような木材が積まれていることに気づいて尋ねた。だが、それが囲い用の木ではないとすぐに気付く。多分、建築用の資材なのだ。
するとアウレールは一瞬口をつぐみ、何かを考えているそぶりを見せた。
「……いや、あれはね、新しい羊小屋を建てようかと思ってたんだ。しばらく前に増えた羊が、もうだいぶ大きくなってきたからね」
言われてみれば、エリーの話した故郷の話の中に、そんなこともあった気がする。
「そっちも手伝いますか?」
ダグラスが尋ねると、アウレールはおかしげに笑って首を横に振った。
「そこまでやらせたら、後でエリーに叱られるからね」
エリーの家の羊たちが放牧される村はずれの羊囲いは、一部の木が根元から腐っており、数本が倒れたところに引き倒される格好で更に数本が根元からぐらつくようになっていた。
ダグラスとアウレールは、手分けして杭同士を固定している頑丈な板を一度外し、杭を抜いていった。あっという間に額から汗がしたたりおちてきたが、二人とも黙々と作業を続ける。
居心地は悪くなかった。
ダグラスにとって、野営や市民の手伝いでやり慣れたことでもあったし、なにより、言葉少なくとも、アウレールという人が、うまくダグラスを指導してくれたおかげもある。
ただ、板を外すのには二人とも案外手間取って、不要な柵を取り終えた時には、太陽が真上に上っていた。そこへ。
「おとうさーん、ダグラス~!」
声に振り返ると、エプロン姿のエリーがバスケットを持って駆けてきて、大きく手を振っている。
「どうやら、お昼だね」
アウレールが汗をぬぐい、ダグラスを見る。「おかげでだいぶはかどったよ。ありがとう」
「いや……」
ダグラスはちらりとやりかけの仕事に目をやった。
二人の元にエリーがやってくる。暑さに少し頬を染めて。
「お疲れ様。サンドイッチつくってきたよ」
羊囲いの西側には、昨日見かけた小川が流れていて、川べりに立った木がちょうど良い日陰を作っていた。ダグラスたちはそこに腰を下ろして、エリーの持ってきたバスケットを開く。
「お、うまそうだな!」
固めに焼いた茶色のパンの間に、色鮮やかな夏の野菜とチーズがたっぷりはさまれている。さっそくがぶつくダグラスと、それを手に感心した様子のアウレール。
「お前が作ったのかい?」
「うん。上手になったでしょ…って、サンドイッチじゃどうだかわからないよね。今夜は私が作るから、楽しみにしててね」
嬉しそうに笑って、そのままダグラスの隣に腰をおろし、一緒にぱくつきはじめたのをみて、アウレールは不思議そうに尋ねた。
「お母さんはどうしたんだい?」
「お昼は私がやっておくからって言ったら、レーゲンおばさんのお家へ遊びに出かけたよ」
アウレールは納得したようにうなづき、後は、穏やかな、エリーのおしゃべりを聞く。
家で手に入る材料は大体そろったらしい。
「錬金術っていうのは、そんなものも使うのか」
父親の不思議そうな様子に、エリーは少し考えてからいった。
「全部使えるかどうかわからないけど…お母さんの作るチーズももらうことにしたの。おいしいんだもん。あっちに帰ったらチーズケーキ作るんだ」
「相変わらずだね……それに、その籠は?」
言われてエリーは、背中にしょってきた大きめの篭に目をやり、それからダグラスを見て申し訳なさそうな顔をして言った。
「午後、採取に行こうと思ってたんだけど…でも、ごめんねダグラス。さっきハンナが誘いに来てくれたの。彼女のお家に行ってきていいかな」
ハンナの家ということは、あのハフナーという青年の家でもある。
ダグラスがかすかに眉を寄せたのに気付いたか、エリーは続けて言った。
「あのね、ハンナの花嫁衣装を縫う手伝いしてくるの。この辺じゃ、花嫁さんの衣装は、村の女の子たちが集まって作るんだ。なるべくたくさんの人に縫ってもらえたら、幸せになるって言われてるんだよ」
「縫う? お前がか? 大丈夫かよ」
思わず言うと、エリーが唇を尖らせる。
「私だってお裁縫できるんだから。ダグラス程うまくできないかもしれないけど」
「お前の所からほどけるかもしれないから、頑丈に縫っといたほうがいいな」
「じゃあ、ダグラスがお手伝いに行ったら? 私がお父さんを手伝うから」
つい、いつもの調子で軽口を言い合い。
笑いをこらえるような気配にはっとして振り返ると、アウレールが肩を揺らしていた。
「いや…仲がいいのはいいことだね」
ダグラスはバツが悪くて、エリーは恥ずかしさに頬を染める。
自然にエリーが行くことを了承した形にもなって、ダグラスはエリーにうなづいた。
「俺はかまわねぇよ。仕事がまだ残ってるしな」
ちらりと柵に目をやって言う。
それを聞くとアウレールが、君も行っておいでと言ったが、ハンナとエリーのにぎやかな会話に付き合うよりは、こちらを仕上げるほうがいいといって断った。
エリーはほっとしたように言った。
「よかった。ハンナのお父さんは炭焼き職人だっていったかな? すごく質のいい炭を作るんだよ。だから分けてもらえたらいいなって。浄化炭みたいに使えるかもしれないし」
錬金術の話になると、ダグラスはもとよりアウレールは尚わからなかったが、エリーが嬉しそうなのを見て、なるほどと頷いている。
「じゃあ、わたし行くね!」
お尻に付いた草を払って、籠を持ち立ち上がる。「バスケットは後で持って帰ってきてね」
「ちょっと待て、エリー」
慌てた様子のエリーを、ダグラスも立ち上がって数歩追いかけた。
「なあに?」
「気を付けて行けよ、それから…」
後ろのアウレールを気にして、小声で言い足す。「あいつにゃ近寄るなよ」
エリーはそんなダグラスを不思議そうに見上げて小首をかしげた。
「あいつって?」
「だから…あいつだよ。ハフナーだったか?」
エリーは、ああ、とようやくわかったような顔をして、笑って顔の前で手を振った。
「ダグラスったら考えすぎだよ。…じゃ、行ってきます!」
元気よく歩いていくエリーの後ろ姿を見送って、ダグラスはひとつため息をつき、アウレールのもとへ戻って行った。
- continue -
2012.5.01.
蒼太