バレンタイン・デイ
去年はなんでもなかった一日が
今年は特別になる
エリーは珍しく、朝からキッチンに立ち続け、今日はまだ一度も工房へ入っていない。
妖精さんたちに悪いかな? とも思いつつ、出来る作業は任せきりにして、扉にも「ENDE」の看板を掛けてある。
「えっと……、これは、もうちょっと…かな?」
卵を卵黄と卵白に分けて、卵黄を溶いたところに、先に溶かしておいたチョコを混ぜる。卵白はしっかり泡立てて、粉と一緒にしたチョコレート色の生地に混ぜ込む。
型に入れたら、しっかり予熱した竈に入れて、待つ。
ふわ…と鼻をくすぐるチョコの香りに、いつもだったらチーズケーキが一番と思っているエリーも、その匂いにはとろけそうになる。
── でも、私が食べたら酔っちゃうかな。
香りのいい、しかし度数の強い琥珀色のお酒を、だいぶ混ぜ込んだ。
「これでダグラスも食べてくれるといいな」
朝から竈に火を入れるのは、なかなか大変だったけれど、元々料理好きなエリーにとっては
そんなに難しいこともなかった。
『明日、楽しみにしてるぜ』
ダグラスの台詞を思い出し、エリーは頬を緩ませる。
去年の今日は、まだ恋人同士ではなかった自分たち。
アイゼルと騒ぎながらも、結局二人とも相手にチョコを渡せなかった。
今年は、初めて恋人同士のバレンタインを迎える。
段々と一緒にいる時間が長くなっているここ最近。
エリーは依頼と卒業制作に。
ダグラスは騎士隊で。
それぞれ時間をとられているはずなのに、以前より共有する時間が長いのは、ダグラスが勤めの帰りに必ず工房に顔を出すようになったせいだ。依頼を終えたエリーが、夜になってダグラスの部屋を訪れたこともあるけれど、夜道が危ないから来るなと言われてしまった。
夜勤や、難しい任務がある時には先に伝えてくれる。
それだけで、会える時間はこんなに作り出せるものなんだ、とエリーは驚いた。
食事をして帰ることもあるし。食事に連れ出してくれることもある。
顔だけ見て帰ることもある。
── でも、ダグラスはすごいなぁ…
何を凄いと思うのかといえば、昼の顔と、夜の顔が全く違うということだ。
『よおエリー、ネジ回し4つ頼む』
ひょいと依頼に来て、さっさと帰るのが昼。
聖騎士としての職務をきちんとこなしている。
飛翔亭でたまに会っても、二言、三言声を交わすだけですぐにいなくなる。
『エリー…』
低くかすれた声で、自分の名前を呼ぶのが夜。
それがどんな時かを思い出して、エリーは軽く自分の両頬を叩いた。
「う~…さあ、依頼に取り掛からなくちゃ!」
もう、ケーキは焼けた。
今日訪ねてくるのは夜のダグラスだ。
工房は開けないけれど、それまでに自分も頑張ろうと、エリーは工房に出て、壁に貼った依頼メモを眺めた。
そして夜も更けた頃。
ダグラスは、ドアをやや乱暴にノックした。
「はーい、開いてます」
奥からの声にドアノブを引くと、何の抵抗もなく開いてしまう。
「開けっ放しにすんなって言ってんのに」
何度言っても止めねえな、と思いながら、工房に入ると、暖炉には火が入って、室内は程よく暖まっていた。
後ろ手に扉を閉めて鍵を掛ける。
妖精たちが、いらっしゃーい、とくるくる踊りながら出てきた。
「いち、にい、さん…おー、今日は五匹か。結構いるな」
「匹、じゃなくて人、って数えてよ!」
エリーが奥から顔だけ出した。いい香りが漂ってきて鼻と腹が鳴る。
マントを外して、工房の椅子に掛けた。
「何か手伝うか?」
袖をまくりながら訊ねると、エリーは首を振ってキッチンに姿を消す。
「今日のダグラスはお客さんだから、座って待ってて!」
エリーの工房のキッチンは広くない。
普通の住居と違って、店舗を兼ねているからだ。
食卓を置くスペースもないから、工房に持ち出して食べるか、二階へ運んで食べるかのどちらかしかないが、エリーに言わせれば、調合の様子を見ていられるし、妖精もいるから工房で食べるほうが寂しくない、のだそうだ。
「いつも客じゃねぇか」
思わず笑って、キッチンと工房の境目の柱に腕を突き、中を覗き込む。
狭いキッチンテーブルに、色好く盛られたサラダに、バケットとチーズとワインが並んでいる。
「お。これお前の作ったワインか? どこに隠してたんだよ」
ラベルを見るや手を伸ばすと、エリーがめっ、という顔をしてそれを取り上げた。
「また先に飲んじゃう気? この間のなんか、私、一口も飲まないうちになくなっちゃったんだから」
「二本あると思ってたんだよ」
「そんなこと一言も言ってなかったのに…はい、これ運んで?」
「客じゃなかったのかよ」
バランスをとって、用意されていた皿を一度に運ぶ。
すると妖精たちが作業机の傍に集まってきて、今日はなんだろうね、イイ匂いがしてたね、などと話し合いながら、どこからか大きな布を引っ張り出してきて、床に広げた。
あとは同じく、手分けしてキッチンから食事を運びだしては並べている。
はじめ見たときは何事かと思ったが、どうやらその上に座って、ピクニック状態で食事をするのがここでの彼らの生活らしい。
「はーい、これで全部です」
最後にエリーが、ベルグラドいもの入ったクリームスープを運んできて、工房の椅子に腰掛けた。
「美味そうだな」
思わず涎がでそうな…と言うと大げさに聞こえるかもしれないが、エリーの作る食事は、正直飛翔亭のフレアの作るものより美味いと思う。
だからありつける時には是非ありついておきたいと思うが、残念ながら長い調合に入ると、全く食べられなくなる、ややレアアイテムだ。
ダグラスは、彼の腹の虫に気づいてエリーが笑うのを見て、口端を上げる。
「食うか」
「頂きまーす」
エリーの一言に、妖精たちも、いただきまーすと声を揃えて、にぎやかな食事が始まった。
なんか、こ洒落たレストランとかじゃなくてよかったのか?
え? 別にそんなのいいよ。みんながいるし。工房のほうが落ち着くよ。
ダグラスは今日なにしてたの?
城門警備と、小隊の訓練だな。
お前は何してた?
ケーキを焼いてから、依頼を片付けてたよ。
あー、そうか、今日はチョコケーキか。
あ。もう、なんで先に言っちゃったんだろ。
驚かせるつもりだったのに、と笑うエリーの顔を、暖炉の明かりが照らしている。
可愛いと思うのはこんな時だ。
同僚にはレストランにでも連れて行けと言われたけれど、そんな場所じゃなくてよかったと思う。ゆっくり話せるし、顔も眺められる。
正直、毎年訳の分からない女共が大挙してやってくるバレンタインなんて、なくなってしまえと思っていたけれど、エリーの手料理が食べられるなら悪くない。
食べ終えた皿を片付けて、あとはワインと、デザート。
例のものを後ろ手に隠すようにして、エリーがキッチンから出てきた。
「じゃん! これ、自信作です!」
丸いチョコケーキには、白い粉砂糖がかかっている。そしてほのかな酒の香り。
「あんまり甘くないと思うんだけど。気に入ってもらえるといいな」
ナイフを取って切り分けられたケーキは、照れくさそうな仕草で皿に移された。
じっと見つめられると照れくさい。
茶色い塊を、口の中に含んで飲下すまでその視線は離れない。
「………どうだった?」
「美味い」
いつもそれしか言えないが、言ったあとにはエリーの笑顔がついてくる。
「お前、錬金術士じゃなくて、酒屋かケーキ屋のほうが向いてるんじゃねぇか?」
からかって笑うと、エリーはわざと唇を尖らせて言った。
「やだ。お酒はあんまり飲めないし、ケーキ屋さんは、作っても自分で食べられないじゃない……やっぱり私は、ザールブルグで錬金術のお店を開くよ」
その言い方に、ダグラスは思わず苦笑する。
口中には、少し苦くて、甘い味。
「お前も、味見してみろよ」
「うん」
ケーキに気をとられ、警戒心ゼロのエリーの腕を取って引き寄せる。
倒れこんできた身体をしっかり抱きとめ。
横抱きに抱き寄せて、口付ける。
「……甘いか?」
アーモンド色の目が、きょとんと丸く自分を見上げてくる。
可愛くて、同じ色をしたやわらかい髪に唇をうずめて抱きしめる。
「……甘い。…来年は、もうちょっと、苦くするよ……」
腕の中からくぐもった声。
前はあっという間に逃げていたくせに、最近はおとなしい。
今、顔を見られたら、自分はきっと緩んだ顔をしているだろう、とダグラスは思う。
去年の今頃は。
エリーとこうなるとは思っても見なかった。
「来年だけか?」
笑って訊ねると、エリーは小さくなって、顔をぎゅっと肩口に埋めてくる。聞き取れないほどの声で、ずっと…と答えた。
「……ならいい」
すり…と肩口に頬を摺り寄せてくる。犬の子みたいだ。
ぬくもりを味わっていると、やけに視線を感じた。
下を見る。
「……っと…」
いつもなら、こうしているとどこかに避難する妖精たちが、じっと二人を見上げている。
いや。
正確にはテーブルの上のケーキを。
エリーに気づかれぬように、手を振って追い払おうとしたが動こうとしない。
そのうち、エリーが気づいてしまった。
「あっ、ああ…ええと! みんなにも分けなくちゃね!」
色々と堪能する前に、腕からするりと逃げられてしまった。
わーい、ケーキだケーキだ! と喜んで飛びつく妖精たちの真ん中で、嬉しそうに笑っているエリーを見て、ダグラスは。
ケーキじゃなくて。
お前を早く食わせろよ、と、思う。
<END>
2012.3.4.
もうちょっと色々からめるつもりが、シンプルに王道に。
そろそろ世間はホワイトデーです。
エリアトにバレンタイン………うん、あるよ!