いちばんの贈りもの

  

 年が明け、3日も立てば、街の静けさがゆっくりと日常に戻り始める。
 いつもの店が開き、誰もがいつもの時間に家を出て、いつもの場所へ出かけるようになる。
 休み慣れしてしまった体を起こして、肌を刺すような冬の寒さに、肩を竦めて。
 でも、これから始まる一年に、どこかワクワクしたような顔をしながら、皆が街を歩き始める。
 王立派遣軍将軍、ヴィクトールはそんな中、いつもの年よりもずっと長めの休暇を過ごしていた。


 しゅんしゅんしゅん……。
 今時めずらしい、真鍮で出来た薪ストーブの上に、白い湯気を吐くオレンジ色のケトルが乗せられている。
 ヴィクトールはその傍に置かれたソファに深く腰を下ろしゆっくりと新聞を眺めていた。タートルネックのセーターを着、足を組んで寛いでいる姿は将軍としての職務についている時のような張り詰めた雰囲気は無い。新聞にも幸い、これといった事件は載っておらず、ヴィクトールは年明けのゆったりとした気持ちを損ねることなく全てを読み終える事ができた。
 今日は、長い休暇の最後の日だ。
 新聞を畳み、ソファを立ってキッチンへ向かうと、先ほどから薫っていた珈琲が丁度カップに二杯分、落ちている。封を切ったばかりの新しい豆は期待通りの深みと香りをしていて、ヴィクトールを喜ばせた。 淹れたての珈琲をさっきまでのカップに一杯、それから、棚にあった少し小さめのカップに一杯、注いで両手に持ち、二階へと階段を上がって行く。
 静かな朝だ。
 半分開かれたままのドアを肩で押すように、突き当たりの部屋に入る。
 まだカーテンが引かれ、薄暗いままの部屋には、中央が盛り上がったベッドが一つ。
 迷わずベッドの脇まで歩いて行ったヴィクトールは、ブランケットの中、まだ夢の中にいるアンジェリークの寝顔を見て、軽い苦笑を漏らした。
「おい……。朝だぞ」
 ひと回りも年の違う、まだあどけない頬をした、妻。
 声を掛けると、微かに身じろいでそれからゆっくり目を開けた。
 透けるような蒼碧の大きな瞳。ヴィクトールの姿をぼんやりと見つめて、それからはっとしたような、恥ずかしそうな揺らめきを見せて、まばたいた。
「おはよう……ございます。ヴィクトール様」
 二人はまだ、結婚したばかり。
 3日前、新婚旅行から戻ったばかりで、郊外に持ったこの家で目を覚ます事さえ、まだ数えるほどしかない。
 そしてアンジェリークはまだまだ敬語で喋る癖が抜けそうに無い。ヴィクトールの手から珈琲を受け取ると、両手に持ったカップに視線を落として頬を染めた。
 軽く頬に触れると、ためらうような仕草で、顔をあげる。
『なんだか、まだ信じられないような気がして』
式を挙げた次の日の朝、アンジェリークが言った言葉を思い出す。『夢みたいで。でも、本当にわたし、ヴィクトール様と……』
 確かあの時は最後まで聞かなかった。先に唇をふさいでしまったから。……今と同じように。
 カップを持たない、空いている方の手が、肩を探ってつかんでくる。
 その指の細さや、ブランケット越しに伝わる感触が、休日の朝を暖かくしてくれる。
 やがて唇を離すと、アンジェリークはとろけるような溜息をついた。
 どうしても手に入れたくて、奪った少女。
 はっきりと自分の気持ちに気付いた後はもう、立場も、年も、関係なかった。
「目が覚めたか?」
 からかうような調子で尋ねると、帰ってきたのは、このままどうにかしてやりたくなってしまいそうな拗ねたような、恥ずかしがるような、そんな表情だった。
 ヴィクトールはもう一度彼女に口付けたくなるような衝動を抑えて、言った。
「……起きられるか?」
 すると、アンジェリークは小さく頷く。
 正味5日間の新婚旅行は、ヴィクトールのふるさとへの旅も兼ねていた。
 距離にするなら、大した事は無い。スモルニィの修学旅行で行く星よりもずっと近いくらいだ。だが、アンジェリークにとっては大変なものだったろう。
 その半分を実家で過ごしてくれた事は嬉しかったが、本当はもっと二人きりで居たかったのではないだろうか。
 少々強引にもぎ取った長期休暇も大晦日から始まって、とうとう今日が最後。明日からはこうゆっくりもしていられなくなる。
「無理はしなくていいからな」
 とは言ったものの、無理をさせてしまったのは他ならぬ自分であるから、なんとも困ったものだ。


 こんなにゆっくりと過ごしたのはいつ以来だったろうかと、着替え中のアンジェリークを部屋に残し、階下へ下りてきたヴィクトールは考えた。考えたが、思い出せなかった。
 やがてアンジェリークも降りてきて、キッチンに立つ。
 珈琲の香りに混じって、朝食の香りが漂ってくる。
── ああ、これが日常になっていくんだな……。
 食卓に着き、その背中を眺めながら、思った。
 アンジェリークが、手を伸ばせばすぐ届くほどに傍に、目を上げれば微笑み合えるほどに近い場所に、これからはずっと居る。
 明日からは確かに、これほどゆったりとした時間を過ごす事は出来なくなる。任務によっては彼女を置いて一月以上家を空ける事も、彼女を死ぬほど心配させるような出来事も……出来れば避けたいが……起こり得る。
 だがそれでも傍に居て欲しい。
 真冬の寒さの中で感じる、陽だまりの暖かさ、穏やかさ。それが彼女の強さ。
 その強さに癒された。
「ヴィクトール様?」
 名前を呼ばれて、はっと意識を取り戻すと、アンジェリークが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「どうなされたんですか? ぼんやりなさって」
「あ、いや……」
 なんでもない。ただお前の事を考えていたんだ、なんて照れてしまうような気障な台詞を何気なく言える程、器用じゃない。想像してみただけで照れてしまったヴィクトールの前にはいつの間にか朝食のプレートが並んで、アンジェリークから二杯目の珈琲が差し出されていた。
 慌ててカップを受け取ったヴィクトールの動揺は、幸いアンジェリークには見破られていなかったようだ。彼女はただ軽く小首をかしげて、こう言った。
「珈琲、開けてくださったんですね」
 そうこれはアンジェリークからのプレゼント。今日は1月9日。昨日がヴィクトールの誕生日だった。
 受け取ったアンジェリークからの贈り物は、この珈琲豆だけではなく盛り沢山だった。手編みのセーターと揃いの手袋、あまり甘くないケーキ、それからとても甘い夜。
 だがその一つ一つが嬉しかったのは質や量ではなく、どれもアンジェリークが一生懸命考えて、心を込めて選んだり作ったりしてくれたものだったからだ。
「ああ。美味い豆だなこれは」
 ヴィクトールが頷くと、アンジェリークは嬉しそうに微笑んだ。
 珈琲の湯気と温かな室内。 
「来年も頼もうか」
 何気なく言った言葉に、アンジェリークはくすくすと笑った。
「ヴィクトール様ったら、もう来年の話ですか?」
「……おかしかったか?」
 そうだな、間の抜けた言い方だったな、と頬を掻く。
 だがアンジェリークの答えはやっぱり微笑みだけだった。
 昨夜、貰ったプレゼントの中で一番嬉しかったのはどれだったか、アンジェリークは知っているだろうか、とヴィクトールは思った。


『お誕生日おめでとうございます、ヴィクトール様』
その一言と、食卓の向こうにある笑顔。


 これから幾度も共に過ごすだろう特別な一日の中で、たとえどんなに高価なものを貰うようになっても、何も無い時があっても、それさえあればいいと思う。
「……冷めないうちに頂くとするか」
「ええ、そうしましょう」
 アンジェリークが向かいの席に腰を下ろす。
── いや……。
 ふと、考えた。
 笑顔は毎日見られる。
 一番だと思っているプレゼントが、毎日もらえるというわけだ。
 なるほど、と思った瞬間に、自分の頬に乗っていた微笑みが苦笑に変わった。
 アンジェリークが不審そうな顔をする。
「いや、なんでもない」
 まるで子供だが、それが一番嬉しいという事に気付いた。
 黙って頷いて、また食事を始める。

 これが日常になっていくのは、とても幸せな事だと思った。


<終わり>




 

アンジェリーク、初恋。
ヴィク様と違って、彼女はまだ恋愛の苦しさを知りません。
こういった形式を取ってしまった以上、恋の瞬間は1度だけですからね。
そして、某HPで影響され、いきなり書きたくなった闇様。彼のヴィク様に対する感情の持ち方はとても好きです。
では、次回!
蒼太

2001.06.30

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