夢のあとさき

 

 「地の守護聖、サクリア消失」の報が聖地を駆け抜けたその日、当の守護聖本人は、そんな騒ぎなどどこ吹く風という調子で、森の湖から流れ出る小川の傍に小さな椅子を置き、釣り糸をたらしていた。
 その報を研究院から真っ先に受け、そして女王や守護聖に伝えたロザリアは、そんな彼の行方を知っていたが、慌てふためく守護聖達にそれを教える気が起きず、そして自分も彼のもとに走る気になれずに、蒼い執務室の机に座って、外の騒ぎに耳を澄ませていた。
 こんな日が来る事は、ずっと前から分かっていた。
 ロザリアも、そしてルヴァも。
 お互いに一緒に居ると決めたその日から。
 ただ、余りにも突然だったから…少しだけ、驚いている。
 彼女らしくなく姿勢を崩して背中を丸め、机に肘を付いて思いを巡らせていたその時、どこかためらいがちのノックの音がして、彼女は慌てて背筋を伸ばし、扉の向こうの誰かに答えた。
「どうぞ。お入りになって。」
「邪魔をする。」
 そう言って入って来たのは、首座の守護聖。
 彼もまた、この突然の交代劇に目を見張ったものの一人だった。故に、今こうしてなんでもない様子を見せるロザリアの心が掴みきれず、尋ねてきたもののどう話しを紡げば良いのか、分からなかった。
 しかし、ロザリアはそんな彼の様子には気付かぬ振りをして、
「どうなさったの?」
 と尋ねた。
 ジュリアスは、僅かに眉を顰めた。この補佐官の気丈さに。
「…事務的な事だ。次期地の守護聖は決まっているのか。補佐官。」
 ロザリアは頷いて立ちあがり、手元の書類を開いて彼の元に歩み寄った。
「彼ですわ。」
 見せられたその写真に映るのは、ルヴァとは似ても似つかぬ、丸い瞳の少年。年はまだ8.9歳だろうか。しかし、ジュリアスはその年令に自分達の事を僅かに思い出す。
「ほう…。早いな。」
 けれどそんな思いはすぐに頭の隅に追いやって、彼女の手際を誉めた。
「ええ。」
 ロザリアはジュリアスの隣に立ち、共にその書類を覗き込んでいたが。
 無言で、僅かに視線を逸らした。
 その小さな仕種をジュリアスが見咎める。
「ルヴァとは、話しをしたのか。」
 彼女と地の守護聖の間柄を知らぬものは居ない。このジュリアスでさえも。口に出してとやかく言うことがなかったのは、二人が職務をおろそかにすることなく、大人としての立場を自らに課していたからだ。
「…ええ。…夕べ。」
 視線を逸らしたまま、ロザリアはその長くほっそりした腕を片肘に絡ませ、答えた。
 どんな会話が交わされたのか、ジュリアスにしても興味深いところではあったが、今それを尋ねると、彼女の張り詰めた雰囲気がプツリと途切れてしまうような気がして、あえて黙っていた。
── 彼女は、この宇宙に必要な存在なのだ。
 首座の守護聖の脳裏に、女王アンジェリークの姿が過る。
 この有能な補佐官なくして、どうして彼女がここまで上手く宇宙を支えてこれただろうか。そしてこれからも…。
 ロザリアは、しかし出来た女性だ。
 と、その青ざめた横顔を見ながら、ジュリアスは考えた。女王候補であった時から、彼女はこの宇宙の大切さを良く知っていた。補佐官と言う立場上、今すぐにその任を降りてルヴァについていくことも可能だが、きっと彼女はそうはしないだろう。
 そして、それをルヴァも許しはしないだろう。
 嬉しい、とは言うかもしれない。
 それから、愛の言葉の1つも囁くかもしれない。
 けれど、ジュリアスの想像は、そこで止まってしまう。
 二人が一緒に聖地の門を潜る場面が、思い浮かばない。
 彼にとって二人は、そんな二人だった。
「そうか…ならば、良い。」
ジュリアスは書類をロザリアに返した。「女王と相談のうえ、すぐにもこの者を聖地に召喚するのだな。教育期間はなるべく長いほうがいい。」
 ゼフェルのようにならなければ良いが。
 ジュリアスは密かに溜息を付く。準備期間が短いこと、年若い事。条件が揃ってしまった。ゼフェルをずっと面倒見てきたルヴァにこうした事が起きた、それもまた皮肉なものだ。
「では…またな。」
 彼らしくもなく、いたわりの表情を見せて帰っていったその後姿を見送って、ロザリアは執務室の大きな窓に身体を預けた。
 遠く、森の湖の光が反射して見える。
 しばらく、ぼんやりとその光を眺めていたロザリアだったが…。
 不意に、堪えきれなくなった涙が、見開いたままの紫の瞳からきめ細かな頬を伝った。
「あ、…あぁ…。」
 ずるり、と体が窓枠を伝って崩れ落ちる。
 白魚のような指が顔を覆い、ドレスを涙が濡らす。
── なぜ? なぜ、今なの?
 もう少し後が良かった。もっと先がよかった。
 今その願いが叶っても、またその時が来れば同じ思いを抱えると知っているのに、そう願わずには居られない。
 
 
昨夜、まだ何も知らないロザリアの元に、ルヴァが忍んできたのは真夜中も過ぎたころ。
 二人で取り決めた秘密のノックの仕方に、ロザリアは目を覚まし、そして窓辺に歩んだ。
 外に立っている彼を見つけて、思わず微笑む。
「あ〜。やっぱり寝てらっしゃいましたね。…起こしてしまって済みませんね〜。」
 窓を開け、バルコニーの星灯かりの下、申し訳なさそうな様子の彼に、ロザリアは首を振った。
 いつも、この瞬間彼女は躊躇う。このままここで話しをするか、それとも部屋に導き入れるものなのか。
 その答えを、どうするかは彼の出方次第。
 見詰め合った後に。
 腕を引かれれば外で星空を眺めるし。
 くちづけと抱擁を貰えば…後はなるがまま。
 しかし、今日はそのどちらでもなかった。
 ルヴァは、彼女を見つめたまま、酷く感慨深げに言ったのだ。
「…やっぱり、貴女には月明かりがとても良く似合いますね。」
 臆面もなくそんな言葉を吐かれ、ロザリアの頬が上気する。こんな寝ぼけたような顔と櫛を入れていない髪を、どうしてそんな風に言えるのか、…詰まりは照れてしまうのだけれど。
「だけどね、ロザリア。…あなたが女王候補だった頃、私達はよく庭園へ出かけましたね。あの時の、太陽の下で笑う貴方の事も、私はとっても好きだったんですよ。」
 気が強くて、お嬢様。そんな彼女が普通の少女の様に屈託なく、しかし気品に溢れた笑みを向けるのが彼だけにだったと、知っているのか、いないのか。ルヴァは尚も言葉を続ける。
「他にも、私のお話しを飽きずに聞いてくれるところとか、それだけではなくて、色々なことに興味を持って質問してくださったり、とても楽しい日々でした。」
 ロザリアは、そんなルヴァの口調に空恐ろしいものを感じて、思わず彼の手を取り、彼を見上げた。
「……何が、ありましたの? …なぜ全てを過去形で言いますの!?」
 不安に押しつぶされそうになって、思わず叫んだロザリアに、ルヴァは、困ったように微笑んだ。
「私のサクリアは、多分今夜中に尽きます、ロザリア…。」
 その言葉を聞いた瞬間、ロザリアの目の前は真っ暗になった。
 倒れかけた彼女を掬うように、ルヴァの腕が攫う。彼の胸に抱きしめられて、ロザリアは僅かに意識を取り戻す。
「どうして…?」
「申し訳ないです、ロザリア。…ずっと一緒に居ると誓ったのに。」
「…なぜ、そんな台詞をおっしゃるの?」
小さく、くぐもった声でロザリアは叫んだ。突然の知らせと、彼の淡々とした態度が結びつかなくて、ただ混乱し、何度も繰り返す。「なぜ…?」
「泣かないで…。貴女が泣くと、私はどうしていいか分からなくなるのです。」
 ロザリアは、なき濡れた顔を上げた。そして、口を開く
「なら、私も…貴方と一緒に地…」
 しかし、言いかけた言葉は地の守護聖の唇の中に消えた。
「ん…っ。」
 深く、そして酷く悲しい口づけ。
「駄目、ですよ…。」
 その後で囁くように、しかし強い口調で、ルヴァが言う。
「貴女はもう、この宇宙に必要不可欠な存在。女王の片羽なのです。」
「…違いますわ。」
 ロザリアは、心のどこかでそれを肯定しようとする自分を抑えつけ、彼にすがりついた。
「私が何故、補佐官としてまで聖地に残る決意をしたとお思いですの!? 確かにあの子は支えるに足る女王ですわ。でも、私はっ…。…ご存知でしょう!!? …私は、女王の片羽ではございません。私は貴方の…。」
「しぃっ!」
 指先を唇に押し当てられて、ロザリアは言葉を失った。
「それは貴方と私の心の中に仕舞っておきましょう。…ね。」
「なぜ、そんな意地悪をおっしゃいますの…?」
 強い視線のまま、ロザリアの瞳が涙に濡れる。
「それはね、ロザリア…。私の好きなロザリアが、女王候補のロザリアであり、女王補佐官のロザリアであるからですよ…。」
「では、貴方は本当の私など、御存じなかったのね! …私が貴方に全てを曝け出した事に、お気づきにならなかったと言う事ですわね!」
「そうではないんです、違います、ロザリア。」
「私だって、こんな真夜中の逢瀬ではなくて、真昼に堂々とお会いできるようなお付き合いがしたかったわ! でも…貴方が好きになった。貴方の為にこうして頑張ってきたのよ! …貴方が私を理解してくださっていると思ったから…貴方のことを理解できたのは私だけだと思ったから!」
「それは、無理な事です。…私達は個々の人間なのですから。」
 バルコニーから姿を消そうとするロザリアの腕を掴んで、ルヴァは思いがけず強い力を見せる。
「そんな一般論!」
ロザリアは吐き捨てるように言った。「そんな言葉が欲しいのではございませんわ!」
 そしてルヴァの腕を振り解く。
「ロザリア…。」
 ぴしゃり。と二人の間で窓が閉じる。後手に。
 それから、ゆっくりと彼女は振り返った。
 窓の向こうで立ち尽くす、愛しい人。
 ロザリアは、白いレースを閉じる間際に、彼の瞳を見る事ができなかった。
 
 今。こうして泣いているのは、あんな態度しか取れなかった自分のせい。
 本当は何を伝えに来たのか、問うこともなく追い返してしまった。
 私に、どうして欲しかったのかを。
「女王補佐官として、聖地に残ってください。」
 たとえそんな辛い言葉でも、きちんと聞いておけば良かった。
 彼がああして、他の誰よりも早く、私に伝えに来てくれたのだから。
── どうしてこんなに急に?
 もう少しだけ時間があれば、自ら道を選ぶことが出来たのに。
── もう、ずっと前から。
 こうなる事は分かっていたのに、どうして目を逸らしていたのか。
 ロザリアは、泣き疲れてぐったりと立ちあがった。
 頬を拭う。
 これから、新しい守護聖を召喚し、そしてその教育期間が終わればルヴァは地上に降りていく。
 昨夜の事を思えば、もう彼が私を尋ねてくる事もない、そう思える。
 もう、こんな風に突然泣くこともない。
 夜は、1人きりなのだから。
 
 
 新しい地の守護聖が聖地にやってきて、そして一月が過ぎた。
 彼は順調にその才能を開花させ、そして聖地にも慣れつつある。
 光の守護聖のいらぬ思惑、とでも言うのか。ルヴァの滞在が同じだけ伸びた事は言うまでもない。
 その間ロザリアとルヴァは言葉を交わすこともなく、視線を交わすこともなく、ただ淡々と時が過ぎていった。
 ロザリアがこんな風に意地を張るとき、必ず先に折れたのはルヴァであった。
 勿論今回も、初めの頃こそルヴァは彼女の視線を捕らえようと努力をしていた。けれど今度ばかりはルヴァに付け入る隙を与えないほどに頑なで、廊下で彼に出会うたび、まるで女王試験がはじまったばかりの頃のような、よそよそしい態度を取られ、ルヴァもまた、心を閉ざすしかなくなっていった。
 ロザリアの胸にはあの夜の出来事が固いしこりとなって残っており、それを許せなかったのだ。
 けれど一方、ロザリアは彼の裳裾に絡み付く新しい地の守護聖を見るたびに、えもいわれぬ嫉妬心に駆られていた。
 形の良い唇を、そのたびに小さく噛む。
 そんな二人の姿を見るたびに、思い知らされるからだ。彼が選んだのは自分ではなく、宇宙であることを。
── いつでも、私はあの人の一番にはなれずにいる。
 そう、あのときも…女王になれないと知った夜も、あの人は攫っては下さらなかった。
 けれど、あの夜が夢の始まり。
 そして、あの晩が夢の終り。
── もう、夢など見ないわ。
 いつものように謁見室に向かいながら、ロザリアは凛と姿勢を伸ばす。
 その二人の様子を不安げに見守る周囲の視線には気付かぬままに。
 
 それから。更に半月が過ぎた。
 聖地の時間もゆっくりと進み、季節ははっきりとないながらも、夏が近付き。
 地の守護聖が生まれたその月に、彼はとうとう地上に降りることになった。
「彼のこれからが光に照らされるように。」
「彼のこれからに、安らぎがあるように。」
「彼のこれからに、勇気が溢れるように。」
 最後の宴の席で守護聖からの言葉が贈られてゆく。
 そして、新しい地の守護聖の番が回ってきた。彼は、幼い高い声で、しかし優しくしてくれた前任者に向かって精一杯の言葉を贈った。
「貴方に、尚一層の知識が贈られますように。」
 ルヴァはそれらの言葉に、穏やかに頷いて、そして立ちあがった。
「え〜。皆さんの、暖かい言葉が、とっても身に染みましたよ〜。そう、こうして私も前任者を送ったものです。同じ立場に立ってみて、初めてこんなに感動を覚えるものだと、分かりました。有難うございます。そして…お世話になりましたね、長い、長い間…。」
そして、隣で彼を見上げている地の守護聖に、視線を贈る。
「…私が居なくなっても、新しいこの地の守護聖が、皆を支えてくれるでしょう。…そして、ゼフェル?」
 彼の逆隣りで俯いたままのゼフェルに、そっと微笑みかける。
「…なんだよ?」
 むっつりと、ゼフェルが顔を上げた。
「正直言って、貴方にはとても手を焼かせられましたよ〜。」
 微笑んだままで、ルヴァははっきりと言ってのけた。
「な、な…。」
「私がどんなに努力しても貴方はなついてくれないし、それどころか聖地を抜け出そうとしたり、大発明だと言っては物を壊してくださったし。」
 その言葉に、守護聖の間から失笑が漏れる。
「だからね、ゼフェル。…こんどは貴方がその役目を担う番ですよ。」
「え…?」
 真面目なその口調に、ゼフェルの目が丸くなる。
 ルヴァはゼフェルと、そして新しい地の守護聖の肩に手を置いた。
「彼は…私のサクリアを継いだ、私の一部です。仲良くしてくださいね。…私を取られたなんて思わずに、ね。」
「なっ! 誰がそんな事…おもって…ねぇ…ぞ、…俺は、別に…。」
 彼の口調が、ルヴァの言葉が真実だと語る。
「では、私からの言葉は以上です。」
 そうして、ルヴァは席につく。
 その間ずっと、ロザリアは無表情に座ったままだった。
 と、ジュリアスが言った。
「では、最後に補佐官殿と、女王陛下からのお言葉を。」
 一瞬、宴の間の全員の視線が、ロザリアに集まった。それは、困惑や同情や興味の混じった視線。
 ロザリアは立ちあがった。
「退位に際して、私から贈れる言葉は…『長い間、お疲れ様でした』と、ありきたりなものになってしまいますけれど…。でも…今の貴方の言葉…残される者の心を、しっかり分かっていらっしゃる、大変素晴らしいお言葉でしたわ。…以上です。」
 しん…と座が静まる。
 言ってしまってからロザリアは、今の自分の一言が、酷く子供じみた嫌らしい台詞だったと、気付いた。
 他の方の事は気にかけるのに、私の事は気にも止めてらっしゃらないのね、とそう言ったも同然だったから。
 ルヴァの、視線を感じる。
 驚いたような、困ったような、あの視線。
「……っ」
 耐えきれなくなって、ロザリアは踵を返した。
「まって、ロザリア! どこへ行くの?」
 女王アンジェリークの澄んだ高い声が響く。しかし、今のロザリアにはいつものように全てを礼に叶ったやり方で進める余裕はもうなかった。
 そのまま、宴の間の扉を押し開き、外へ走り出る。
「…追いかけろ…。」
 低い声が、呆然とした室内に響いた。
「く、クラヴィス?」
 ルヴァは驚いた様子で彼を見た。
 ジュリアスの声がそれに重なる。
「お前はまだ気付かぬのか。彼女の心がまだお前の手の届く場所にあると。」
「ジュリアス…」
 思わず立ちあがりはしたものの、二の足を踏んでいる彼に向かって、矢継ぎ早に声がかかる。
「そうだよ! 早くしてよ! ロザリアがあんな風に泣く所、僕は見たくないよ!」
「そうです、彼女泣いてましたよ!」
「女性を泣かせるのは、男として最大のミスだぜ?」
 おろおろと、周りを見るルヴァ。
「がばっと行きなさい! ほら☆」
「でも優しく、ですよ?」
 そんな彼の背中を、ゼフェルが小さく押した。
「…行けよ、ほら。」
 その手に、次の守護聖の小さな手が重なる。
「行って下さい。…あの美しい人の元に。」
 ルヴァの驚きに見開かれた目が、やがてゆっくりと穏やかに微笑んだ。
「なら、…行きます。皆さん、後悔しませんね?」
「ああ!」
 ゼフェルは即答し、
「…不承不承ながらだがな。」
 ジュリアスは渋い顔をして、頷いた。
「では、彼女を攫わせていただきます…。本当の所、私はずっとそうしたかったのですよ。」
「…いうじゃない。」
 オリヴィエの呆れたような台詞を後に、ルヴァはすでに宴の席を後にしていた。
 
 
── なんて最悪な態度を取ってしまいましたの、私ともあろうものが…。
 ロザリアは庭園の片隅に植えられた、ブルーローズの群れの中に、俯くように立っていた。
 洒落た迷路として作られたこの垣根は、隠れるにはもってこいの場所だった。
 彼を見送るときは、涙など見せないと心にきめていたのに。
 つんと顎を逸らして、(貴方のことなどなんとも思っていない)という態度を取る予定だったのに。
 これでは、台無し。
 有能な補佐官としての仮面も、無残に剥がれ落ちてしまった。明日からは、どんなに口をすっぱくして皆を注意しても、さほどの効果は見られないだろう。
「くす…。」
 涙と笑いが同時に漏れる。
── 仮面を剥がすのはいつもあの人。良くも、悪くも。
 ロザリアは、諦めたように笑い、そして小さく呟いた。
「…なぜ、私はあの人が、こんなにも好きなの?」
「それは、私のことだと思っていいのでしょうか?」
 言葉を継ぐように、重なった心地よいテノール。
 そして、後から抱きしめる腕。
「ル…。」
 名を呼ぶ前に、唇がふさがる。
「ロザリア…。」
 口づけの間をぬって、名を呼ばれる。
「何故…ですの? 何故今になって、追いかけて来たりしますの…?」
 ロザリアは、そんな彼を押し返した。そして涙を押さえ、きつい視線を彼に向けて見せる。
 ルヴァの、困ったような顔が、目の前にある。
「私はもう、心を固めたのです! どんな気持ちでそう決めたか、貴方はお分かりにならないでしょうけど…。わたくし、貴方が居なくなっても、…大丈夫ですわ。もう、慰めになどいらっしゃらないで! もうわたくしの心を惑わすような事をなさらないで!」
「だからあんな事を言ったのですね。」
 ルヴァは、押しのけられるがままに、彼女を離した。
「あんな事って…。なんのことですの?」
「私には貴女の気持ちがわかっていないと、そういう台詞です。」
「私は何も…。ただ、貴方の言い様に感心したまでですわ。」
 詭弁と分かっていながら、ロザリアはそう言った。
 ルヴァは、強く彼女の肩を抑えた。
「い、痛…いですわ…。」
 眉を顰めて、ロザリアは体をよじる。しかし、ルヴァの力は思いのほか強くて、逃れられない。
「あの言葉、あれは。あれは…貴女のほうです。私が、一体どんな思いを抱えて、貴女を見てきたか、ロザリア…貴女はご存知無い…。」
 ロザリアは、はっとルヴァを見上げた。ルヴァは、更に強く力を込め、苦しげに彼女を見ていた。
「何故貴女みたいに綺麗で、有能で、育ちの良い人が、私のようななんのとりえも無い男を好きだと言ってくれたのか。わたしにはさっぱり分からなかった。…あの日、あの女王試験に貴女が負けたあの日に、突然貴女から告白された私が、それを一体どう思ったか、今教えてあげますよ!」
 ロザリアは、声を荒げる彼をはじめて見た。
 驚きに、身がすくむ。彼は低く言った。
「私は…貴女がただ、聖地での生活の締めくくりとして私を思い出にしようとしていると、そう思ったのですよ。」
「それは…。」
それは半分が真実。彼女はせめて想い出だけでもほしかった。ロザリアはそっと俯いた。「…そう、ですわ…。」
 ルヴァは、その答えに小さく頷いた。
「貴女は朝になったら居なくなると、そう思っていました。それでも貴女を抱いたのは…私が貴女を一人締めしていると、僅かな時間でも思いたかったから。」
 その言葉に、ロザリアは悲痛な瞳をルヴァに向けた。
「やっぱり貴方はわたくしの事を、ご存知無かったのね…。」
ロザリアは、小さく囁くように、言った。「攫って欲しかったの。抱いて欲しかっただけではなくて…。」
 ルヴァは、その言葉に頷いた。
「…知っていました。その心も。」
「じゃあ、何故!?」
 彼女の紫の瞳が、きっと彼を見上げる。
「だだ、私に自信が無かったのです。貴女は素晴らしい女性で、私の腕の中に収まっているような人ではなかった。」
「そんな事っ! なぜわかりますの? 捕まえてみなければ逃げ出すかどうかなど、わからないでしょう?」
「貴女は貴族令嬢。そして才ある女性。私は守護聖という立場を失えば、後には何も無い…故郷も、家も、財産も…。そんなただの男です。貴女を幸せに出来るとは到底思えなかった。」
 ロザリアのすんなりした眉が寄せられた。
「なんでそんな事を思いますの? 貴方にはその知識がありますわ。溢れる知識が。」
「それで食べてゆけますか?」
 ルヴァは、冷静に答えた。
 言った瞬間、ロザリアの白い手の平が闇を切った。
 鋭い音と共に、ルヴァの頬を打つ。
 そして彼を打ってしまった手の平の痛みに、もう片方の手の平を寄せながら、ロザリアは言った。
「ゆけますわよ! …それに、もしたとえ貴方が本当に何の財産の無い人間でも…わたくしは貴方の人柄を愛しておりました。私はそれでもついてゆきましたわ!」
 ルヴァは、一瞬痛みに目を閉じたが、ゆっくりとまた彼女へ視線を戻した。
「私が、それを許せなかったのです。そして私は…私は貴女が思うような大人ではないんですよ。」
 激昂するロザリアに、ルヴァはひっそりと答えた。
 落ちついて見えても、知識があっても、蓋を開ければまだ30年足らずしか生きていないただの青年。
 いつしか、彼の腕はロザリアの肩を離れ、項垂れるように降ろされていた。
 ロザリアは、彼の言葉に胸を刺されながらも、彼の言い様を彼女なりに解釈した。
 密やかながらも充実した、穏やかな恋を重ねていると思っていたのは自分だけだったのだと思った。
 彼女のプライドが、彼を信用していたその分だけ、脆く崩れ去る。
 ルヴァは、そんな彼女の内心を知っているのかいないのか、言葉を続けた。
「しかし、貴女はこうして補佐官になり聖地に残った。そして私は…。」
「私が残った事で、惨めな気分を味わってらっしゃったのでしょう?」
 居なくなると思っていたから、抱いた女を毎日見ることになって。
 酷い言葉だと、分かっていながらロザリアには、それを言うのを止められなかった。
 ルヴァは、彼女の言葉に疲れたように目を伏せた。
「ええ…ある意味惨めでしたね。」
 静かな夜。
 薔薇の生垣に風が抜け、ざわめく。
「貴女という人が、私が思った以上に補佐官に向いていて、その任を上手くさばいている所を見れば見るほど…貴女がああして仕事に打ち込んでいる姿を見るたびに…その度にどうしてあのとき貴女を攫っておかなかったのかと、後悔しました…。」
「え…?」
 ロザリアは、一瞬我が耳を疑った。
「貴女はどんどんよい補佐官になっていった。…女王候補の時のように、私が何くれと無く支えなくても、立派にやってのけていった。」
 ルヴァは、小さく溜息を付いた。
「それは、嬉しい事ですよ。…守護聖の一員としては。…けれど…」
彼は、そっと髪に巻いた長いターバンを取り去った。蒼い髪が風に靡く。意外と逞しい首筋が露になる。「こうして…真実の姿を見せる相手として、一緒に過ごす時間が増え、貴女が私にとって愛しくてたまらない存在になればなるほど…どんなにそれを、悔しいと思ったか…。」
「ルヴァ…」
 彼の告白を聞きながら、ロザリアはどうしていいか分からずに立っていた。
── 貴方はそう言うの? 攫いたく無かったと言った舌の根も乾かぬうちに。
 ルヴァの支えが必要で無くなったなど、ロザリアは一寸たりとも思っていなかった。しかし、そう思われていた事がショックだった。だから、それは思い違いだと彼に伝える事ができなかった。
「どんなに苦労しようと、あの晩貴女を攫ってしまえば良かったと、逢瀬を重ねるたび、貴女を…貴女の強さを知るたび思いました。そして、私がサクリアの消失を感じたときにはもう、…ロザリア、貴女はもう、宇宙に必要不可欠な存在になっていました。」
「だから…わたくしを置いてゆこうとしたの…?」
 ロザリアは、声を殺して言った。
 ルヴァは、小さく頷いた。
「ええ…。」
「では…やはり私を置いて行ってしまうのね…。」
 そこで初めて彼女は、追いかけてきた彼に淡い期待を持っていた自分に気付いた。
 ロザリアはルヴァに背を向け、彼女は自らの身体を抱きしめた。
「あなたは宇宙が大事。…結局はそういうこと…。なら、私がこうしている間に…どうか姿を消してくださいな…。」
 頑なな彼女の背中に、ルヴァは手を伸ばしかけ、…そしてまたその手を下ろした。
「私は貴女を傷つけてしまいましたね…。」
 こんな事を言いにきたはずではなかったのに。
 ただ愛していると伝えて、共に生きていこうと、そう言えばよかった。
 けれど、自分の中にも彼女に劣らぬほどの想いがあったこと、それをどうしても知って欲しかった。
 黙っていれば、こうして背を向けられる事も、彼女の理想を崩すことも無かったかもしれないのに。
 ルヴァは、手に持ったターバンをくるくると頭に巻きつけた。その衣擦れの音が、ロザリアの耳にも届く。
── こんな日が来ることは知っていましたわ。貴方が私を愛さなくなる。
 意地を張りすぎて、貴方に酷い事を言ってしまう…どこまでも気の強い私。
── こんな日が来る事は覚悟していました。貴女が私を愛さなくなる。
 勇気が無くて、貴女を逃がしてしまう…不甲斐ない私。
 愛しているのに。
 まだ、こんなにも愛おしいのに。
 ルヴァはそっと彼女に背を向けた。
 そして一歩二歩…、…三歩。
 その間、ロザリアは息を殺していた。
── …もう、駄目なの?
── もう、戻れないのでしょうか?
『…二人、まだ惹かれあっていると知っていても?』
 その瞬間、ブルーローズの香りの中、二人は同時に振り返っていた。
「…………っ。」
 ロザリアの美しい眉が、堪えきれずに歪む。
 そして、ルヴァは。躊躇いがちに…言葉を紡ぎだした。
「もし、貴女が迷惑でないなら…もう1度チャンスを私に下さるなら…。」
そんな彼女に向かって、その腕を広げた。「…貴女を攫って、いいですか?」
 ロザリアは。
 彼との四歩の距離を。
 一瞬で零にした。
「…何故、初めからそう言ってくださらないの…。…莫迦な人…。」
 ルヴァは彼女の髪を覆うベールごと、彼女の身体を抱きしめた。
「済みません…。どうやら私は…人より少しおっとりしているようなのです…。」
 その言葉に、彼女の唇が弧を描く。
「莫迦ね…本当に貴方は…。…私が居ないと駄目な人。」
「そう…ですね。…その通りですね。」
 ルヴァの唇が、微笑む。そして、今までで一番暖かなくちづけを交わす。
「莫迦…。」
「…ええ。」
 すっかり力を抜いた彼女の柔らかい身体を抱きしめながら、ルヴァは言った。
「随分、遠回りをしてしまいましたね…。ええ…本当に。」
 もっと素直になっていればよかった。
「でも…悪い遠回りではございませんでしたわ。…ここでの出来事は。」
 今日、二人はこの聖地を後にする。
「そうですね、…本当にそう思えます…。楽しい時間でした。」
 ルヴァの脳裏を、共に過ごした仲間との生活が過る。そして、彼女と過ごした幾年かも。
 しばらくそうして彼女を抱きしめていたルヴァだったが、やがて、身体を起こし、彼女を見つめた。
「?」
 ロザリアは、まじまじと自分を見詰めるルヴァの視線に照れながら、軽く首を傾げた。
「ロザリア、そのヴェールを取って、髪を下ろしてくださいませんか?」
「え?」
「女王候補のときみたいに。…私と二人で居る時みたいに。」
 促がされ、ロザリアは躊躇いながらも彼の前で薄い月色のベールを取って、その紫青の髪を解いた。
 その姿に満足したように、ルヴァは頷き、そして彼女の額に口付けた。
「じゃあ、行きましょう。」
「…どこにですの?」
 手を引かれ、ロザリアは戸惑ったように尋ねた。ルヴァはそんな彼女を振り返る。
「皆の所にです。…貴女がもう私のものだと、貴女がもう補佐官ではないと伝えなければ。」
 そして、彼女の手の中の、補佐官の冠をブルーローズの垣根に掛け置いた。
 きょとんとした顔の元女王補佐官は。
 その瞳に、候補だった頃のあの澄ました輝きを載せた。
「それは…素敵ですわね! …せいぜいわたくしを自慢なさることですわ。」
 その言いように、ルヴァは困ったような嬉しいような顔をして見せる。
「勿論ですよ。…でも今の貴女を見たら…私が自慢などしなくても、皆はきっと悔しがるに違いありませんけどね〜。」
 髪を降ろした彼女は美しく。
 その頬は桜の色を映して。
 そして何よりもその瞳…ルヴァを見る視線が、彼女を際だたせる。
 
 果たして。
 やきもきして二人を待っていた宴の席の面々は。
 姿を現したロザリアに対し、ルヴァの思った通りの反応をして見せて。
 彼を嬉しがらせたのだった。
 
 
 

そして二人のこの先は…それは、貴女の心の中で。

《END》



いつもお世話になっているぷるりんさま、きしこさまへ。
新サイト立ち上げのお祝いに。
それから、ぷるりん様の素晴らしい創作を強奪したお詫びに…(笑)
蒼太
01.07.01

UP 2001.04.26.

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