IF 〜もしもシンデレラ〜



 

 遠い昔、とある王国の西の端近くに、ひとりの男がおりました。
 彼はたくましく俊敏で、武人として申し分なく、また、決して多くはなく広くもなかったけれど、王から任された民と領地を治める為の情熱と賢さを 備え持った立派な領主でありました。
 彼が父からこの地を継いだのは、27の歳。間には小さな戦も大きな戦もありました。ですが彼はその傍ら、安全な市を開き、食料を蓄え、祭りの日 には旅芸人の一座を呼ぶ事も忘れませんでした。
 小さな村の寄り集まりのようなこの西の領地では、いつもと変わらぬ平和が続くこと、それが何より一番大切なこと。
 民は自分達を収める領主に満足しておりました。
 ですが、そんなこんなをしているうちに、早五年。
 当然のように、頃合の年になった彼の縁談についての声が高まるようになりました。王都から遠いこの小さな小さな土地では、領主であるヴィクトー ルの一族も民も、さほど距離のある暮らしはしていません。民や臣下達は、自分たちが見守ってきた、あるいは自分と一緒に育ってきた男が、自分達の 為に個人である自分を忘れかけているのは、やはりよい事ではないのではなかろうか、とも思っていたのです。
 それを聞いたヴィクトールはしかし、そんな彼らの言葉には、あまり真剣に耳を傾けようとはしませんでした。
「俺はまだ父から領地を継いだばかりで、妻を娶るような時間もなければその気もない」
 赤銅色の髪を掻き揚げ、時には照れたような顔をして、時には気の利いた冗談でも聞いたかのようにちょっと笑ってかわしてしまいます。
 そんな彼の態度に特に頭を悩ませたのは、傍におつきの臣下たちでした。ヴィクトールの幸せも見届けてこそ、心底の安心が得られるはず、と彼らは そう考えていたからです。ですから、口をすっぱくして妻を娶る必要性をヴィクトールに話して聞かせましたが、彼はのらりくらり。そこで彼らは、 ヴィクトールには内緒で彼の妻候補を探し、彼に薦めるために何か案を考えようではないか、と頭を突き合わせ、何事か相談を始めました。


さて。それでは少し場所を変えてみましょう。

 ヴィクトールのささやかな居城の、庭の隅に作られた石造りの厩に、一人の少女がおりました。
 馬達の体温でむっと熱せられた空気の中で、一生懸命に立ち働くその少女は、ヴィクトールのまた従姉妹にあたる娘です。父はヴィクトールと家系を 同じくする貴族でしたが、今は所領も持たず、ヴィクトールに厄介になる形で、城の片隅の小さな部屋に間借りして暮らしております。
 彼女の名前はアンジェリーク。どうやらヴィクトールに対して並ならぬ恩を感じているようで、生まれにも関わらず、一日中城のどこかしらでくるく ると良く働いている姿を見かけます。
 ある日などには、ヴィクトールが狩の獲物を抱えて台所を覗き込んだ拍子に、顔は真っ黒、服は灰で真っ白けになって出て来た事もありました。煤で 詰まった煙突の掃除をしていたのが原因のようですが、ヴィクトールはその姿に腹を抱えて笑ってしまいました。彼女はさすがに小腹を立てたようでし たが、その時の事をからかって『シンデレラ』などと名を呼んでも、今はもう、笑って振り返るのでした。
 今、彼女が一心に背を梳いているのは、彼女の父が大事にしている牝馬で、彼女や彼女の母とそっくりの、つややかな栗毛をしておりました。ですか ら、この馬は彼らの唯一の財産であると同時に、早くに亡くなった母親を思い出す、一つの宝でもありました。
 きつい仕事にも関わらず、少女の細い喉からは軽い歌声が漏れ、馬の耳がぴぴぴと動きます。長い尻尾も心地よさげに振られ、鼻からは満足そうなた め息がいくつか。
「気持よかった?」
 最後に馬の耳裏を、細い指先で掻くと、アンジェリークはにっこりと微笑みました。ぼろ布で作ったエプロンのポケットから、台所からこっそり貰っ て来た角砂糖をひとつ手に取り差し出します。馬は思わぬご馳走に鼻息を荒くし、小さな手のひらからあっという間にそれを舐め取りました。
 厩には八頭の馬とロバが二頭。馬は少女の前に立つものも含めどれも高価ではありませんが、気性が優しく、ロバは働き者でした。
 足元にはまだ、整えていない藁の束がいくつも転がっています。さあ、こちらの仕事にも取り掛かろう、少女がそのつもりで壁に立て掛けたさす股を 手に取った、その時でした。
「おいおい。まさか全て自分で片付けようっていうんじゃないだろうな」
 声が聞こえました。驚きに顔を上げると、厩の入り口に赤銅色の髪を汗に濡らした男が一人、立っておりました。脇にはすばらしい駿馬を従え、狭い くらいの入り口をくぐって入ってくるところでした。
「ヴィクトール様」
 アンジェリーク慌てた様子では額に浮かんだ汗を腕でぬぐい、乱れた髪を整えて、エプロンの端をつまみ上げ、軽く膝を折りました。
 ヴィクトールは彼女の礼に対して軽くうなづくと、手早く馬を繋いで鞍をはずします。
「おかりなさい」
 少女は嬉しげに微笑んで、領地の見回りから戻ってきた彼の元に駆け寄りました。その微笑み一つで、彼女がヴィクトールの事を好ましく思っている 事が良く分かります。
 ヴィクトールは堂々たる体躯を持ち、彫りの深い顔立ちと日に焼けた肌をして、その上、ひとつ厳しい視線を送られたら大の男も震え上がるような獅 子の目を持っていましたから、本当の所、彼が本当はどんなに気さくな性質で、その上財産もある館の主であっても、近寄る女性は殆どおりませんでし た。そんな中、小さなころから彼の傍で育ったアンジェリークは、彼を恐れない貴重な存在です。
 特に、先の戦……思い出したくも無いあの戦を終えてすぐの頃には、彼のほうでも、彼女の他に誰も寄せ付けない雰囲気さえありましたので、今でも 城の女性たちは、ヴィクトールへの言伝てを、アンジェリークに頼む事が多いのです。
 ですが、アンジェリーク自身はそんな事とは一つも知らない事でしょう。
「何かお手伝いしましょうか?」
 小首をかしげて手を差し出され、ヴィクトールは長い傷の走った右の目と、昔通りの左の目を、僅かにきらめかせ、差し出された細い腕に黙って鞍を 預けました。
 ですが勿論、たっぷり油を塗りこんで、磨き上げた皮の鞍など、とても少女の手に負える重さではありません。その重みが全部腕に掛からないうち に、彼女はよろりとよろけてしまいました。
 ヴィクトールは、その様子にくっくと笑いを漏らし、鞍を少女の手から取り返して軽々壁に掛け上げます。
「お前には無理だろう。父上はどうした?」
「父は、ちょっと」
 青がかった緑の瞳を少し翳らせたアンジェリークの様子に、ヴィクトールは眉根を寄せました。
「お体の調子は、やはりまだ良くならないか」
 先の戦は、アンジェリークの父にも深い傷を負わせておりました。腿を深くえぐられ、杖なしでは歩く事もままならなくなってしまったのです。最近 では、その傷が痛むらしく、表に出歩く事も稀になり始めておりました。
 アンジェリークがこうして馬の手入れをしていたのも、何か、外出のきっかけを掴めればと、そう考えてのことだったのです。
「……済まないな」
 アンジェリークは首を強く横に振って、ヴィクトールを見上げました。
 ヴィクトールの言葉に、見舞いにゆけなくて、という意味と、それから、父親の負った怪我に対しての詫びの意味も感じとったからです。
 この土地は、王国の西の果てにあります。戦になれば最前線になる土地でしたし、冬は寒く、作物も多くは取れない過酷な土地でもありました。
 アンジェリークも戦は好みません。辛い目に合う人々を見るのはもう沢山です。
 でも、海の向こうの見知らぬ国のものになるよりは、今の王に忠誠を誓い、守ってもらう事が何より良い方法なのです。
「もうそろそろ、夏が近いですね」
アンジェリークは、ヴィクトールを見上げました。「暖かくなってきました。冬の間に撒いた麦も青く育ってきましたし、水もぬるんできました。すこ し外の空気を吸えば、父も、きっと元気になります」
 その言葉を聞いて、ヴィクトールは心の中にほっと暖かいものを感じました。
 彼女の声に偽りはなく、彼女の笑顔はやわらかいのにとても強い。
 だから、ヴィクトールも元気付けられ、強く穏やかになれるのです。
「ああ。そうだろうな。無理はしないようにと伝えてくれ」
 ヴィクトールも、この少女を憎からず思っておりました。
 そして、少し笑って先ほど彼女が手に取ろうとしていたさす股を手に取り、汚れた藁を集めだしました。
「ヴィクトール様っ」
 今度こそ驚いた調子で、アンジェリークは叫びました。いくら何でも領主様にそこまでやらせるわけには行きません。ところが、ヴィクトールはとい えば、アンジェリークの声など聞こえなかったかのように、慣れた手つきで働き始めてしまったのです。
「俺にだってこれくらいの事はできるぞ」
 ヴィクトールがとりわけ親しいのは、城付きの働き手でした。彼らが城壁のすぐ外に住んでいるのもその一因でありましょうが、やはり、代々受け継 がれてきた領主一族の気さくな性質がそうさせたのでしょう。
 ヴィクトールは小さな頃から、そこここで営まれている色々な仕事に興味を持っていました。いつの間にか潜り込んできては、自分にもやらせてくれ とねだるヴィクトールに、領民達は始め驚き、やがて呆れつつも、何でも教えてくれるようになりました。
 先代はそんなヴィクトールの事も領民の事も黙って彼を見守っておりましたが、ヴィクトールは今になって、それが大分「特別な計らい」だったのだ と気づき、感謝しています。
「でも……」
 おろおろして、自分の後ろから離れないアンジェリークに、ヴィクトールは言いました。
「自分だって世が世なら、貴族令嬢だろう。なんだかんだと気にしているのは、この辺り全部の中でお前くらいだぞ。大して偉くも無い男にそんなに気 を使うな」
言って、一気に藁を掻き出し新しい藁を切り崩します。「汗をかくって事は気分のいいものだしな……そうだ、お前は馬の汗をぬぐってやってくれ」
 早駆けの後で、まだ息を切らせている馬の事をほったらかしにしていた事を思い出し、ヴィクトールはアンジェリークに言いました。馬の体躯から は、熱さが湯気になって上っています。
 アンジェリークは、また背を向けたヴィクトールの後ろで、一瞬ためらった後、馬に向き直り、その体を冷やさぬ様毛布を背にかけ、ブラシを取って 短い毛並みをこすりはじめました。
 しばらくは、二人とも黙ったままでした。厩には先ほどアンジェリークが一人で居たときのように、馬の吐息やらブラシの音がし、それから藁を集め 寄せ、入り口に運んだりする音だけが響きます。
 しかし、やがてヴィクトールが、その沈黙に耐えかねたように、アンジェリークに声をかけました。
「おい、怒っているのか?」
 すると、少し間をおいて答えが返ってきます。
「怒っていません」
 けれど、少女の声にはやはり含みがあって、ヴィクトールは片付け終わった藁を踏み分け、彼女の方に歩み寄りました。
「お前は生真面目すぎるんだ。もう少し肩の力を抜けないか?」
「そんな事はありません。私はともかく、ヴィクトール様はやっぱりこのお城の主なんですから」
「最近は、お前、会う度にそれを言うんだな」
 言いながら、ヴィクトールはアンジェリークがまだ小さかった頃の事を思い出していました。
── あの頃は無邪気でかわいらしかったんだがな。
 彼がまだ青年だった頃、城に戻るたび、馬を下りる間もなく駆け寄ってきて抱きついてきて、遊んで欲しいとねだって……。
 それが、どうしてこんなにそっけなくなってしまったのか。と、彼はそう思わずには居られませんでした。
「だって……」
 反論しかけたアンジェリークの言葉を、ヴィクトールは手で制します。
「分かった。気をつけよう。……だが、まだ俺をここから追い出さないでくれないか。実は今、ちょっと中には戻りたくないんだ。最近皆がなんだか俺 に黙ってこそこそとやっていてな」
 それを聞いたアンジェリークの顔色が少し、心配げに変わりました。
「皆さんが?」
「ああ。まぁ、大体の見当はついているんだ。どうせ俺の……」
 言いかけて、ヴィクトールは言葉を止めました。憂鬱な気分になってしまったのです。
 彼は本当に、まだ妻を娶る気になれずに居ました。確かに、その必要があるという事はわかっているのですが、彼は彼なりに、結婚というものに多少 の夢や希望も持っていましたから、自分でその気になれない上に、押し付けられるなんていうことは尚ごめんだったのです。
「何か悩み事がおありなんですか?」
 ヴィクトールの表情を見て取ったのか、アンジェリークが尋ねてきましたが、ヴィクトールはこんな事彼女に言うべき問題ではないと、軽く首を横に 振り、それからふと気付いたように彼女を見ました。
「そういえばお前、幾つになった?」
 すぐには何を聞かれたのかわからなかったのか、アンジェリークは黙ります。彼女はヴィクトールより確か14年下です。
「17歳に、なりました」
「そうか。もうそんなになったんだな」
「なぜそんな事を聞くんですか?」
「いや、別に。ただ…まぁ、子供だとばかり思っていたが、お前も嫁に行っておかしくない年なんだと思っただけだ」
 言葉を口にした瞬間に、ヴィクトールはしまったと思いました。いくら親しいとはいえ、男性から女性に言う台詞ではなかったからです。その証拠 に、アンジェリークは真っ赤になって、ヴィクトールに背を向けてしまいました。
 それが余計に、ヴィクトールをまごつかせ、彼らはその後結局一言も言葉を交わさないまま、お互いの仕事を黙々と終えたのでありました。


その晩……。仄かに灯るベッドサイドのランプの灯を、アンジェリークは夢うつつの表情で見つめておりました。
 思い出される、昼間の一場面。突然の事で驚いてしまったけれど、なんて長い事言葉を交わした事だろう。なんて、久しぶりに。
 ヴィクトールは忙しい人間でしたから、やはり出会える機会はとても少なかったのです。
 彼女の心の奥底の、彼を慕う気持ちが、まるでランプの明かりと同調したかのように、ゆらゆら揺らいで、部屋の中に行きわたりました。
 そう、彼女は彼をただ慕っていた訳ではなく、ほんのりと特別な想いも一緒に抱いておりました。ですから小さい頃ならいざしらず、自分がこの気持 ちに気付く前ならいざ知らず、今日のような日は彼の傍に近寄るだけで、居ても立っても居られなくなり、きびすを返して逃げ出してしまいたくなるの です。
 こんな気持ちになったのは、ある事がきっかけでした。
 それは、先の戦で右目に深い傷を負ったヴィクトールの世話を任された時のこと。
 戦は、かつて大規模な戦になりました。人も沢山死にました。
 ですから、体の傷よりも、心に負った傷がもっともっと深くて、ヴィクトールは自分を責めて、責めて。
 でも、彼には責務がありました。城主としての、領主としての。だから彼は全て一切引き受けて、しゃにむに働きました。彼には立ち止まる事は許さ れていなかったのです。いつでも、彼の後には沢山の人々がついて来ていたのですから。
 その頃、まだ幼いと言ってもいい年だったアンジェリークに出来たのは、ただ黙ってヴィクトールの包帯を巻きなおしたり、負傷した片腕に代わって 手紙をしたためたりという、些細な事だけでしたがその代わり、ヴィクトールの傍に誰よりも長く居る事になりました。
 そして彼が密かに苦しむ様子、夜の夢にうなされるような所を見て初めて、いつも頼りになるヴィクトール、疲れを見せないヴィクトールが、本当は どんな人間だったのかを知ったような気がしたのです。
 気の優しいアンジェリークは、彼をどうにかして慰めてあげたいとそう思いました。でも、その必要はありませんでした。彼はそんな苦しみの中から も立ち上がり、自分から前に進み始めたのです。あんなにも深い傷を負ったにも関わらず、ヴィクトールは全て抱えて生きていく事を決めたのです。
 彼が前に進んでいく、その姿を見て小さなアンジェリークは、きっと、この人ならば皆を幸せにしてくれる。そう思いました。
 それが全ての始まりだったのです。ただ彼女の気持ちは、今はまだ竈の中で厚い灰に守られた小さな種火のようなものでした。仄かな明かりは彼女の 内気な気性や、歳の割りには初心な事、それに土地柄も手伝って、そう一息には燃え上がるものではなかったのです。
 なにより彼女は、こんな風に異性を想うことさえ、気恥ずかしいような気がしていました。もしヴィクトールに知れでもしたら、目の前から駆け去る どころではなかったでしょう。
 と、ベッドの脇に腰掛けていたアンジェリークは、ランプの明かりからそっと視線を外し、昼間の強情な自分を思い出して、溜息をつきました。
── あんな風に怒りたかった訳ではないのに……。
 薄らとながらも恋心を感じてはいましたが、アンジェリークにとってのヴィクトールはまだまだ、主人のようなものでした。領主という肩書きもあっ たし、多少の手伝いが出来るとはいえ、やはり衣食住に困らないのは彼のおかげだったのですから。
 ですが、そのような悩み事はあったものの。
 久しぶりに交わしたいくつかの言葉は、彼女の心の熾き火を、少し掻き起こしたようです。
 アンジェリークは小さな種火の明るさ、くすぐったい暖かさをこっそり楽しんでみた後で、もう一度分厚い灰で覆い隠し、床について深い眠りに落ち たのでありました。


 それから幾らも経たない、ある日の事。
 ヴィクトールは視察と狩を兼ねて、東の森に僅かな供を連れて出かけました。川を渡り、野を渡り、もう少し行けばヴィクトールの土地ではなくな る、という所まで来た頃には、手土産に十分な獲物と、情報を集めることができていました。
 今年の作物の出来は良好であること。夏の雨が心配されていること。それから……帰り道、霧が厚くかかりそうだと言う事。
 案の定。ヴィクトールと一行は一人霧に巻かれ、夜露に濡れる形で一晩を過ごす事になってしまい、漸く帰りの小道を見つけ、城が見える場所まで 戻ってきたのは、次の日の朝も早い時間でありました。
 灰色の城の塔には、遠く薄くけぶる朝靄が掛かっていました。集落を取り囲む防壁の外にはジプシーたちのテントがひっそりと並んでいます。城門に は兵が詰めて、早起きの農民達がほんのちらほら出入りしているのもわかりました。
 ヴィクトール頭を上げ空を見上げました。このまま戻っても中途半端な時間です。朝食をとるには早く、眠るにはもう遅すぎました。それに何より、 湿った朝の空気が肺に心地よく、もう暫く外で馬を走らせたい、とそう考えました。
 疲れた様子の侍従を先に返し、ヴィクトールは城の手前の分かれ道で馬の首を回し、右へと道を逸れました。先には、小さな林とその中に湧く清らか な泉があるはずです。
── 懐かしい道だな。
 昔はよく狩りの途中に立ち寄ったものですが、自分が領地を継いでからは、久しく足を向けていませんでした。秋に落ちた木々の葉は今ふっかりとし た土に変わって、馬の蹄をやわらかく包みます。ヴィクトールは本当に音も無く、泉に向かってゆきました。
 そして、朝靄の向こうにちらと見えた栗色の影。ヴィクトールはまず、影は鹿だと思いました。足元にたゆたう泉の水が揺らめくのを見て、水を飲み にやってきたのだろうと考えました。
 しかし、驚かさぬよう馬を降り、静かに近づき木の葉の影からのぞいたその正体は、なんとアンジェリークだったのです。人の少ない時間を見て、髪 を洗いに来ていたのでしょう。仄かに暖かい霧の中、首を傾け泉の傍に膝をついています。身に纏うのはゆるい頭衣を胸下で結んだ薄布だけ。
 気付いた瞬間、息が止まりました。
 アンジェリークが髪をぬぐうたび、水滴が鏡のような泉の面に落ち、波紋をつくります。
 アンジェリークが腕を上げるたび、細く白く、そしてまろやかな体の線が露になります。
 ヴィクトールは、彼女がぱっと人目を引くような可愛らしい顔立ちをしているという事を知っていました。小さい頃からずっと傍に居たのですから。 けれど、彼女がこうも伸びやかに美しく育っていた事は、知りませんでした。
 手をぬぐい終わった彼女は身をかがめ、足先まで覆い隠したスカートをつまんで持ち上げます。草を踏むすんなりした素足が、見えました。
 今度こそ、いけない。
 ヴィクトールは思いました。この地方では、女性が男性に足を見せることそれはつまり、その男性にすべてを許した証でもあるからです。ある意味、 裸身を見てしまうよりもまずい事をしたと思い、あわてて目をそらし、そして、そっと馬を後ろに下がらせ、彼女に気付かれぬようにその場を後にしま した。



それから、1週間後。
 ヴィクトールは本格的な旅に出る事となりました。
 王宮で、国王の誕生パーティが執り行われる事となったのです。
 ヴィクトールは、たとえどんなに小さくても、王領の領主でしたから、そんな催しには出席しなければなりません。
 そして、彼が旅に出てまた一週間が経ち、城には彼からの無事到着の知らせが届きました。
 いくら平和な世とはいえ、王都までの道は長く、時に危険も伴います。アンジェリークは他の者に混じってその報を聞き、こっそり安堵の息を漏らし て喜びました。
 ところが、その日の仕事を終え、アンジェリークが家に戻ると、彼女宛に旅先のヴィクトールから、美しい布地に包まれた一つの箱が届いていたので す。
 箱の中には、ガラスでできた靴が一足、収められていました。
 女性が、男性から靴を贈られる。
 それは、プロポーズをされたも同じ事です。アンジェリークは心底驚いて、それから父親はもっと驚いて彼女を問い詰めました。なぜヴィクトールが 彼女に靴を贈るのか。
 しかし、アンジェリークにその訳が分かろうはずがありません。靴には何の手紙も添えられていなかったし、運んできた彼の従者も、何も言伝を預 かっては居なかったからです。
 結局。
 アンジェリークはこの贈り物を、ただの贈り物なのだと考えることにしました。
「だって、ほら見てお父さん。この靴はガラスですもの。履いたら壊れてしまうし……私の足よりちょっと大きいわ」
試しに合わせてみましたが、やはり踵が少し空いていました。「それに、お薬も一緒に」
 そちらにはきちんと処方箋が添えられていました。足の悪い父親への、ヴィクトールの気遣いに違いありません。父親はそれを見て納得したように言 いました。
「あの方の事だ。ただ美しかったから、お前に送ってくれたのかもしれないな。覚えているかね、お前が小さかった頃、あの方はほかの誰よりお前を可 愛がって……」
 アンジェリークは相槌を打ちながらも、どこか上の空でガラスの靴を眺めておりました。
 窓からの光があたると、不思議な色に輝き、レースをかたどったのか華奢な細工がふんだんに取り入れられたデザイン。都ではこんなに美しいものが 作られているのです。
── これが本物の靴だったら。私の足にぴったりだったなら、どんなにか……。
 考えかけて彼女は、はっと我に返り小さく首を振りました。きっとそんなはずは無いに違いないと。
 でもその考えは、今まで小さかった彼女の心の火に、新鮮な空気を送り込んだようなものでした。アンジェリークは自分の考えにうろたえて、頬を赤 らめ父親から目を逸らしました。
「窓辺に飾っておこうか」
 アンジェリークの様子には気付かずに、父親が靴を手に窓辺に歩いていきます。
 日のあたる場所へ置かれたガラスの靴はとてもとても美しくて、アンジェリークはふと、寂しい気持ちになったのでした。
 では、ヴィクトールが彼女に靴を贈った真意とは、一体どんなものだったのでしょう。



都に出ていた彼が当のガラスの靴を手に入れたのは、ほんの偶然の事でした。

 東へ向かえば向かうほど、人は増え、集落の規模は大きくなっていきます。ヴィクトールの領地のように、流れてきた商人が馬車から荷を降ろすので はなく、きちんとした小売のテントが並んで、欲しいときに欲しい品物が手に入るのです。
 そして王都では勿論、他のどんな土地よりも、活気に溢れた市が開かれておりました。
 今、どんなものがどの程度の価格で取引されているのか、馬を引きつつ見回っていたヴィクトールは、立ち並ぶ店々中からもののついでと、アンジェ リークの父親のための薬を手に入れました。それからもう宿に戻ろうと、きびすを返しかけたその時です。ふと目に留まったものがありました。
「あの靴は、売り物なのか?」
 それが、ガラスでできた靴でした。
 店主の前にかがみこむように、ヴィクトールは膝を付きました。
「それは魔法の靴ですよ、お客さん」
 ですが、ヴィクトールは店主の話を聞いていませんでした。
── ちょうどこの位のサイズだったように思う。いや、もう少し、華奢だったかもしれない。
 ヴィクトールの脳裏には、泉で見たあの妖精のようなアンジェリークの姿がありました。
 朝靄に溶けてしまいそうな、夢のような存在として。
 あれから、泉での事を思い起こすたびに、彼の心はアンジェリークで一杯になりました。元々心憎からず思っていた少女ではありましたが、彼の中で 彼女は、5歳、10歳、そして15歳と、いつも歳の離れた子供のままでした。
 ですから、あの日の彼女を見た時心に感じた衝撃が、余計に頭から離れなかったのです。
 可憐に縁取られた足周りの細工、細いヒールに小さな踵。
 今、目の前にあるガラスの靴は、自分が……自分のような武骨者が触れたら、一瞬で壊れてしまいそうな儚さを持っていました。
 だからこそ、アンジェリークに似合いだと、そう考えたのです。
 割れないよう、おがくずの中に埋められ、包装されていくガラスの靴は、あのほっそりとした足にきっと似合うに違いありません。
 その時、ヴィクトールの中には、たとえば彼がアンジェリークの父親に薬を買い求めた時と同じ気持ちしかありませんでした。そこは、アンジェリー クの父親が想像したその通りでした。
 ですが、彼は靴を送るよう従者を送り出し、一息置いてからその意味に気付いたのです。
 ヴィクトールは、祭典の真っ最中であったにもかかわらず、「あ。」と一言つぶやいてしまいました。その声が思ったよりも大きかったのか、並ぶ諸 侯の不思議そうな顔がずらりと彼の方を振り返り、彼は白い手袋をした手で口元を押さえ、わざとらしくひとつ、咳をしました。
 なんてこった、と思いました。
 自分とアンジェリークの間には、なんの約束もありません。
 折りしも、結婚がどうの、恋煩いがどうのと騒がれている最中なのに、贈ったものが、飾り物とはいえ靴だなんて、周りに誤解を与えんと言わんばか りで、アンジェリークだって困るでしょう。
 ヴィクトールは今すぐ従者を追いかけて、ガラスの靴を取り戻したい気持ちに駆られました。ですが今は式典の最中で、パーティはあと3日続きます からそれは無理な相談です。彼は悩みました。時には渋い顔をして、時には小さく唸って考え込みました。
 そして、三日後。
 彼は大変遅ればせながらあることに気付き。それから彼は、もう少しだけ悩みました。
 今度は少し頬を染めて。
 そして、とある決意をし、大急ぎで帰路についたのでした。
── アンジェリークは俺が贈ったあの靴を、一体どう思ったんだろう……。
 今度は前とは違う物思いに耽りながら。


 その頃、アンジェリークの窓辺に飾られたガラスの靴は、たいそうな噂の的となっておりました。あのヴィクトールが女性に物を贈ったなんていうこ とは、いまだかつて一度もありませんでしたから。
 ヴィクトールの臣下達が大喜びしたのは言うまでもありません。
 アンジェリークが相手なら申し分は無いでしょう。台所につまみ食いに行くとき、暇をつぶしに厩を訪れるとき、出会えば彼女はいつでも礼儀正し く、暖かく迎えてくれました。仕立ての上手さにも定評がありましたし、糸つむぎも丁寧で素早い。
 それに彼らは、彼女が密かにヴィクトールを想っている事を知っていました。気付かれていたのだとアンジェリークが知ったら、顔から火が出るほど に恥ずかしがった事でしょうけれども、17歳の少女は、自分が思うよりもずっと正直な瞳で、それも長い事、ヴィクトールを見つめていたのです。
 そんな訳で、アンジェリークはヴィクトールからガラスの靴を贈られた翌日には、完全に先走りをした従者達に連れ去られてしまいました。
 用意されていたのは、これまでよりも数段豪華な部屋や、重ねられた美しい布地。
 アンジェリークと父親は、途方に暮れた顔を見合わせました。
 何度も『ヴィクトールとの約束』の事実は無い、と言ったにも関わらず、受け入れてもらえないのです。
「どうしたらいいのかしら……。今夜にもヴィクトール様は戻ってらっしゃるのに」
 行きと同じように、帰りもヴィクトールは無事の知らせを先に城へと送って寄越してありました。
 誤解に胸を痛める娘を前に、父親は割りと暢気です。
「なぁにヴィクトール様が戻れば、きっと皆に説明をしてくれるだろう」
 確かに、アンジェリークはよくできた娘です。器量もよく、笑顔は愛らしく、もちろん気立ても良く皆から愛されておりました。
 でもそんな娘の父親である彼にも、娘が城主の妻になるとは思えなかったのです。彼の妻は平民でしたから。
「でも、ヴィクトール様をお迎えする為の舞踏会を開くって、みなさんが仰っているんです」
 アンジェリークが気づらわしそうに頭を振ると、栗色の髪が揺れました。
「招待されたなら、出てきたらいいじゃあないか。母親のドレスがそう、確かにあった」
娘が何を考えているのか、何を不安に思っているのか、分かった上で父親は答えました。誤解をしているのは周りの方だし、正式な招待に胸を張って行 くのは勿論悪い事ではない。「古い形のドレスだが、とても良い仕立てなんだ」
 部屋の隅に積まれた贈リ物のことは、はなから数の内ではありません。
 うつむいた娘に、もう一言。
「お前はまだ、一度も舞踏会に出た事がないし、田舎でこんな機会は滅多に無い事だ……一曲だけでも踊ってきたらどうだろうか」
 それはいい考えだ。と彼は自分の言葉に頷きました。一曲の間だけならば、周りの噂に振り回される事もないだろうし、遅れて行けば、その頃には ヴィクトールがすっかり誤解を解いていてくれるかもしれない。
 そう伝えると、アンジェリークの顔が少しだけ和らぎ、でも、やっぱり少し悲しげに微笑みました。
「はい……。一曲だけなら」
「そうしなさい。もう、こんな機会はないかもしれないからね」
 父親の言葉が、やけに胸に響きました。



 夕日もすっかり落ちて、大分経った頃。ヴィクトール達が長い旅を終えて戻ってきました。体は埃にまみれ、馬も従者も、息を切らせ肩で呼吸をし ています。彼らは…いいえ、ヴィクトールはそれほど急いで戻ってきたのです。
 そして、城の様子がいつもとすっかり違う事に、遠目にもすぐさま気付きました。なにせ城壁にはありったけの蝋燭をだしたのかと思うほどに、明か りが灯され、驚きながら前庭に進めば、幾つものランプが庭に小道まで作られており、張り渡された紐には色とりどりのリボンが結ばれていたのですか ら。
「おい、これは一体……」
 不可解極まりないという顔をして、取るものもとりあえず階段を上ります。城を任せた臣下の一人に話を聞こうとしての事でした。ですが、どうした んだ? と尋ねる前に、彼は汚れた旅衣を剥ぎ取られ、何日かぶりの風呂に押し込まれてしまったのです。
 確かに。彼は帰ったその足で、アンジェリークの元へ行くつもりで気負っていましたから、疲れを少しばかり取ったり、泥や汗を落としておく、とい うのは、エチケット上大変良いことだったとは思います。ですが、ヴィクトールも城主として領主として、報告されていない事実の確認をしなければな りません。
「何かの祭りだったか?」
 収穫祭でもなく、夏至でもない。色々と頭をめぐらせてみたけれど思いつかない。思い悩んだ末に、ヴィクトールはとうとう痺れを切らせ、カーテン の向こうに控えた一人に声をかけました。しかし。帰ってきたのは彼をもっと驚かせる言葉だったのです。すなわち。
「いいえ。あなたの妻選びのダンスパーティですよ」
 いつまで経っても妻を娶らないヴィクトールに、城の誰もがやきもきしていた事は、冒頭に書きました。彼らはそれでも、ヴィクトールがその気にな るまでと辛抱強く待って、待って、待ち続けて、そして結局は強硬手段に出たのです。
「……なんだって?」
 我が耳を疑ったヴィクトールが問い直しても、答えは同じでした。
「安心してください。無理にどなたかを選んで下さいと言ったって、あなたは聞かないでしょう。好ましいと思う方が居れば、ただその手を取って踊っ てくだされば、それだけだっていいんですよ」
 ですが相手は、加えて少し悪戯気に微笑みました。
「そうそう、そういえば。……ガラスの靴とは、あの方にぴったりの贈り物でございましたね。私どもは全く感心してしまいました」
 そうか、と思いました。都に出る少し前から、確かにヴィクトールはちょっとぼんやりしていたようです。彼も鈍くはありませんから、自分の周りで 何かの算段がされている事くらいは知っていたのですけれど、悪気がなさそうだからと放っておいて、結局こんな風に手遅れになってしまったようで す。
「さあ、皆さん既に広間でお待ちなんですよ」
 従者はヴィクトールが濡れた髪をかき上げるより早くタオルを構え立ち、にっと笑って言いました。



 いつも静かな石造りの広間はすっかり様変わりして、積もった埃は払われ、銀の燭台は磨き上げられ、北の壁には大時計がかけられておりました。 仰ぎ見る天井は四隅が丸く、石は美しい幾何学模様に計算されて組まれています。
 吊るし降ろされたカンテラの明かりのなか、腰をぐっとすぼめた木綿のドレスを着た女性達、甲冑を脱ぎ、寛いだ頭衣に着替えた男性達が寄り添って 言葉を交わしては微笑んでいます。
 パーティはもう始まって大分経ち、既に時刻は真夜中を過ぎようとしています。楽師たちが奏でる音楽も、リズムに乗った軽やかなものから、落ち着 いた夢見心地の一曲に変えられておりました。
 そんな中、ヴィクトールもいつもより少しは上等なマントを肩にかけ、いつもよりは上等な服を着て中央奥の椅子に座り、終始皆の様子を眺めていま した。
── 皆、楽しげにしているな。
 この城にこうして活気が戻るのは、先の戦が終わってから初めての事でした。そして、誰も何も口にはしていませんでしたが、待ち望まれていた事 だったのでしょう。皆の笑顔を見ながら、華やかな事には少し不器用なこの領主は、そう考えました。
 ただ、見渡す中にあの栗色の髪の少女の姿はありません。
 侍従の台詞から思うに、招待状は送られているはずです。なのに来ていないという事は。
── 迷惑だと思われたか……。
 宴が妻選びのために催されたという事は、客の間にそれとなく知れ渡っているようでした。それが証拠に、幾人かの若い女性が、幾度かダンスの誘い にやってきましたから。
 ですがヴィクトールは、自分のように無骨で不器用なダンスしか踊れない人間を誘おうなんて、幾らなんでもからかい過ぎだ。と、今まで通りの言葉 で彼女達の誘いを断ってしまいました。まさかその内の数人が、本気で彼と踊れるならと思っていたなどとは、知りもしなかったでしょう。
 椅子の手すりに肘を付き顎を乗せ、ヴィクトールは華やかな風景を前に物思いに耽ります。
 ガラスの靴のこと、靴を送った相手のこと。
 噂はアンジェリークの元にもきっと届いているに違いありません。
 だからこそ、来ないに違いありません。
 ヴィクトールはまた一つ、深い溜息をついて、琥珀の瞳を翳らせました。
 そんな彼の様子に、アンジェリークやヴィクトールを良く知る人はこう思いました。
 ただ、ここに来て二人踊れば、それでいいだけのはずですのに。と。
 人々の囁きが次第に大きくなり、不思議そうな顔が幾度も入り口を振り返り始めた頃。
 ヴィクトールは広間の向こうに広がったざわめきに顔を上げました。すると入り口付近の人々が、一人また一人と後に下がり、また一人。
 人垣は二つに割れて、その向こうに、アンジェリークが立っていました。
 一曲だけはと思いつつ、やって来かねてこんなにも遅い時間になってしまったのです
 アンジェリークは人々に向け小さく膝を折り、それからすっと背を伸ばしました。
 白地に花を散らしたレースを肩から掛け、栗色の髪を結い上げた今宵の姿は、見る人々に、少女から大人へ羽化するひとときの美しさを感じさせまし た。アンジェリークは緊張している様子でしたが、それでも生来の優しい雰囲気や、どれだけ忙しそうに立ち働いていても損なわれない気品は、いつも の通りでした。
 伏せていた睫を上げてアンジェリークは奥に居るヴィクトールをまっすぐに見ました。「本日は、お招きいただき光栄に存じます」
アンジェリークはしずしずとヴィクトールの前までやってきて、深く一礼すると彼を見上げました「折角招いてくださったのに、こんなに遅くなってし まって、申し訳ありません」
「いや……」
 ヴィクトールは短く頷いただけで、装いを改めたアンジェリークを穴が開くほど見つめました。目の前に立つ少女は見目も形も確かに彼が知る彼女で あったのですが、それでもまさかこんなにも瑞々しい美しさであったとは思いもせず、見とれてしまったのです。それに、今の彼女はあの時泉でみつけ たアンジェリークでもなく、いつも一生懸命動き回っているアンジェリークとも言えず、ヴィクトールは、また新しい彼女に出会ってしまったような気 がして、ヴィクトールはどうしていいか分からなくなってしまいました。
 アンジェリークの方はといえば、見つめられて白い頬に朱が上り、すっと視線が足元に落ちました。足には、あのガラスの靴が履かれて居ます。
 ドレスは、アンジェリークの母の形見です。髪飾りの花は、日が暮れる前に急いで採りにゆきました。けれど、彼女は上等の靴を持っていなかったの です。
 迷いました。どんなに着飾っても、裸足では舞踏会に行く事は出来ません。スカートの丈はたっぷりありましたが、もしもいつもの革靴を履いて行 き、誰かにそれを見られてしまったら、招いてくれたヴィクトールに恥を掻かせてしまうでしょう。
 ガラスの靴は、履いている間に割れてしまえばアンジェリークの肌は裂くでしょうし、悪くすれば二度と歩けなくさせてしまうかもしれません。
 でも、アンジェリークは父親にも黙ってそっとその靴に足を納めました。踊りたいのはたった一曲だけ、ほんの少しだけの時間でいいのです。
 二人はなんともいえない間をおいて、向き合い立っておりました。どちらからとも動きがたく、どちらからとも語りがけがたく。
 アンジェリークはこういった場自体初めてでしたし、上品な申し込みの方法を教えてくれる母親も居ませんでしたから、この後どうしていいのか分か りませんでした。その上彼女は、ヴィクトールがダンスを苦手としているのを知っています。本当はさほど悪くも無いのですけれど、彼がそう思い込ん でいるのです。
 ヴィクトールはほとほと弱っていました。急いで城へ戻ってきたその訳は、アンジェリークに会って伝えたい大切な一言があったからに相違ないので すけれど、帰路に思い描いた想像の中で、アンジェリークはこじんまりとして心地よい部屋で父親と寛いでいましたし、尋ねていった自分をいつものよ うに笑顔で出迎えてくれるはずでした。決して、こんな風に出会う筈ではなかったのです。
 でも。ヴィクトールはその時、自分以上に困った顔をしているアンジェリークに気付きました。それからこれが彼女にとって初めてのダンスパーティ なのだという事も、思い出しました。
 ちらと視線を走らせて探して見ましたけれど、彼女の足の悪い父親はどうやら来ていません。彼女は一人なのです。一人ですけれど、こうして来てく れたのです。
 一呼吸。それからヴィクトールは気持ちを固め、彼女に向かって差し伸べました。
「俺でよければ踊るか? あ、いや……」
言った後で、彼はダンスの作法を思い出し、慌てて言い換え礼をただしました。「その……俺と踊って貰えるだろうか。アンジェリーク」
 誓って言いますが、この時のヴィクトールは、このダンスが彼の妻選びの意味も持っている事を忘れておりました。そしてアンジェリークも勿論そん な事とは知りませんでした。
 大きな掌に、差し伸べられる小さな手。
「……はい」
 大分背丈の違う二人が、両手を重ね合った瞬間、音楽が始まりました。
 最初の一歩を、いつもなら踏み出しかねてしまうヴィクトールですのに、今夜は不思議な程すんなりと体が動き出していました。
 どうなる事かと彼らを見守っていた人々は、踊りだした二人を見てほうぅと溜息をつき、それから自分のパートナーと目を見交わし、次々と音楽に加 わりはじめました。ダンスの輪に輪が重なって、広間は緩やかな暖かさに満ちました。
 アンジェリークはそんな彼のリードに身を任せながら、夢を見ているようでした。
 ステップを踏むたびに、周りの風景がぼやけて巡ります。
 ヴィクトールはそんな彼女をただ見つめ、小さく微笑みました。
 紅潮した頬は初めてのダンスを楽しんでいるせいか、と思い、潤んだ瞳を軽い興奮のせいかと思いました。それからそんな余裕のある自分に驚きまし た。いつもなら、次のステップのことや、相手の足を踏むか踏まないか、そんな事で頭がいっぱいになってしまうのに。
 アンジェリークの羽のように軽い体を腕の中に感じているだけで、彼もダンスを楽しめるような気がしてきたのです。
 だから、今感じているこの幸せな気持ちをただ。
── 俺は、お前に伝えたい。



 ……ヴァイオリンの最後の一弦がきゅぅんと鳴って、奏でられていた音楽が止み、アンジェリークの白いドレスの裾がやんわりと足にからみつき、 ほどけました。
 ヴィクトールはアンジェリークを見下ろし、アンジェリークはヴィクトールを見上げ、音の余韻が消えるまで、二人はお互いの瞳をじっと見つめ合 い、目を逸らしませんでした。
 折りしも、大時計は真夜中を知らせる間際。
「アンジェリーク」
ヴィクトールは低く良く通る声で彼女の名を呼び、幸せの余韻に浸ったまま、自分でも不思議なほど素直に、こう言いました。「どうか、俺の妻になっ てくれないか?」
 途端に、夢見るような表情だったアンジェリークの青碧の瞳が大きく見開かれました。
 ヴィクトールも彼女の反応を見てはっと我に返りました。どうやら周りの客には聞こえていなかったようでしたが、幾ら何でもここで本人に直接言う のは礼に反する振る舞いでした。慌てて彼女の手を離し。
「すまん。驚かせてしまったな。だが俺は……」
 言葉を継ごうと一歩近づきましたが。アンジェリークの心臓はもう余りに驚きすぎて言う事をきかなくなってしまいました。
「わ…わたし……」
── ヴィクトール様は今なんて言ったんだろう。聞き違えたのではないかしら。
 でも、アンジェリークは知っていました。ヴィクトールが冗談や嘘を言うような人間ではないという事を。
 12時の鐘が鳴り始めます。一つ、二つ、三つ。
「どうした?」
 アンジェリークの動揺に気付き、ヴィクトールはもう一歩彼女の方へ。
「そんな……」
 四つ、五つ、六つ。
 アンジェリークはずっと、思ってきました。ヴィクトールの隣には、いつか相応しい女性がやってきて、彼を支え、この土地を強くしていってくれる のだと。
「アンジェリーク?」
 七つ、八つ、九つ。
「……だって、わたし」
 何の力も無い、何の後ろ盾も無い。城のこまごまとした用事を片付けることができたって、土地を治めるなんの役にも立ちはしない。
 10回目の鐘が鳴った時、アンジェリークはもう何も言えなくなって、踵を返しておりました。
「アンジェリーク!!」
 突然駆け出した彼女を、ヴィクトールは一瞬呆然と見送ってしまいましたが、細い後姿が広間の扉をくぐり、前庭につながる長い階段を駆け下り始め る前にもう、彼女を追いかけ走り出していました。
 11回目の鐘が鳴りました。
 もうその差は5段もありません。
 そして12回目の鐘が鳴る、直前に。
 彼に追い付かれまいと急ぎに急いだアンジェリークの足から、ガラスの靴が片方すっぽり抜けました。元々足に合わない大きさだったのですから無理 もないことです。
「きゃ……っ」
 バランスを失って、傾く目の前の景色。
「っつ……っ!!」
 一瞬の後、足は宙に浮いておりました。
 
 ………   …かしゃん。

 長く響いた12回目の鐘の音が終わると同時に、ガラスの靴は階段の下まで落ちて、砕けて散りました。
 呆然とした様子でそれを見送ったヴィクトール。
 そして、彼の腕の中、抱えあげられ宙ぶらりんになったアンジェリーク。もう片方の靴も脱げて、こちらは二、三段下に転がっていました。
「危ないじゃないか!」
 怒鳴られ、アンジェリークは身をすくめました。そうなのです、ヴィクトールは怒らせると怖いのです。
「ご…ごめんなさ……」
「落ちていたらああなっていたんだぞ!」
 首の骨を折っていたかもしれない、とガラスの靴のかけらを指差し、ヴィクトールは言いました。彼女の腰を捕らえられたのは、本当に紙一重で、あ と少し遅かったらと思うと、肝が冷えます。
 一方アンジェリークの方は、ヴィクトールを怒らせてしまったことと、ガラスの靴が割れてしまった事がごっちゃになって、身を竦ませるばかり。
 ですが。
「……良かった」
 ヴィクトールが、ぎゅっと自分を抱きしめてきたのです。
 心底ほっとしたような、溜息も聞こえました。
「助けられて、良かった」
 耳元で囁かれた言葉は。他のどんな言葉よりも、自分を想っていてくれる様な気がして。
 アンジェリークは彼の肩に顔を埋めて、そっと目を閉じました。閉じて、やはり言おうと心に決めました。
 大きすぎる靴を履いたら、転んでしまうのは当たり前なのだという事を。
「……やっぱり、あの靴が似合うのは、私じゃあないんです」
「なんだって?」
「私じゃ、だめです、ヴィクトール様。あんな、素敵な靴は」
 彼女が一体何の事を言っているのか、ヴィクトールにはさっぱり分かりませんでした。
「私、靴を贈っていただけて、とても嬉しかった……。でも、ヴィクトール様のお相手は、私ではなくて、きっと、もっと素敵な方の方がいいに決まっ ているんです」
 それを聞いたヴィクトールは、一瞬体をこわばらせ、それから彼女の体をそっと石段の上に下ろし座らせました。
「……アンジェリーク」
 そして、自分もその傍に膝を付き、彼女の目を覗き込みました。
 大広間から差し込んでくる仄かな明かりに、青緑の瞳が、涙を湛えて潤みます。
 ヴィクトールは小さく頬を掻くと、思い切ったように言いました。
「その……。今お前が言った言葉には…俺としては聞き捨てならない部分があったんだが」
 何度も言いたいことではなかったから、アンジェリークは目を伏せました。
「ですから……、ヴィクトール様には他に相応しい方がいらっしゃるはずですと……」
「いや、そうじゃない。そこじゃあないんだ、俺がもう一度聞きたいのは」
 アンジェリークの唇の前に掌をかざして、口篭ります。
── こいつは、参った……。
 今、自分は確かにアンジェリークの本心を聞いたような気がするが、彼女自身は気付いていないらしい。
「お前、俺からの靴を受け取って、どう感じたと、今言ったんだ?」
「それはとても嬉し…… …!」
 アンジェリークの頬がぽうっと赤く染まりました。
 それが、とても可愛らしいとヴィクトールは感じました。
「アンジェリーク……お前、男が女に靴を贈る意味を、勿論知っているよな?」
「あ……」
 ヴィクトールの指先が、アンジェリークの額に掛かった前髪をそっと分けます。
「なあ、アンジェリーク。話してやろうか。俺がお前の事をどう思っているか」
 それは、旅から戻ったらすぐにでも彼女に伝えに行こうと、心に決めていたことでした。
 そして彼は始めました。ガラスの靴を買い求めたあの日のことを。
 泉で見た彼女があまりにも繊細で、まるで妖精のように見えたから、きっと似合うだろうと思ったこと、それから、靴を贈る意味に気付いた事、それ から、王のパーティに参列しながら、アンジェリークの顔を思い浮かべた事……。
「俺が思い浮かべたお前は、あの日みたいに灰だらけのエプロンをして、煤を頬にくっつけて、それから両手にガラスの靴を持ってたよ。俺を叱る時み たいな、あの困ったような怒ったような顔をして、素足のままで立っていた」
 その時、ヴィクトールは、胸の奥がツンと痛んだのを感じました。
 呼吸が苦しくなったようにも思いました。
 それは、泉でアンジェリークを見てからずっと心に抱えていた不思議な気持ち、彼をぼんやりとさせていた言いようの無い気持ちと一緒に、突然彼の 中で大きく膨れ上がりました。
 美しい娘、もしくは気立ての良い娘、双方兼ね備えた娘、そんな娘は探せばきっといます。
 アンジェリークはしかし、ガラスの靴を履きこなす妖精ではなく、ヴィクトールのことを良く考えてくれる、彼にとってとても身近な、働き者の女性 なのです。
 ヴィクトールは立ったまま、彼女と交わした言葉、触れた温かみ、彼女の瞳をじっくり思い描きました。すると、心のどこかにふっと火がともり、そ の熱さが徐々に全身に回ってきたのです。
 そして気付きました。
 アンジェリークこそ、彼にとって他の誰にも代えがたい、そして得がたい存在だという事に。
 彼は夢うつつの状態から、弾かれたように目を覚まし、琥珀の瞳は元の輝きを取り戻し、背はしゃんと立ち上がったのです。
「だから、お前でいい……いや、お前がいいんだ、俺は」
 思っていた事をすべて伝えて、ヴィクトールは立ち上がり、転がっていたもう片方のガラスの靴を拾い上げました。「もう一度聞こう、アンジェリー ク。俺の妻になってくれるか?」
 差し出されたガラスの靴は、今度こそ本当の、求愛の品でありました。
 アンジェリークは、ヴィクトールの話す言葉を一言ひとことじっと聞いておりました。そして彼が自分をどう思っていてくれたのか、残さず知る事が できました。ですから、ゆっくりとではありましたが、手を伸ばし。
「はい……ヴィクトール様」
 差し出された靴を受け取って、小さく頷きました。
「そうか……」
 ヴィクトールは思わずもう一度彼女を抱きしめました。靴を片方抱えたままのアンジェリークは、やっぱりちょっと吃驚したように体を強張らせてか ら、そっと体の力を抜いて、彼の肩に頬を寄せました。
 ヴィクトールは、口端をちょっとあげて、微笑みました。
 14年下のこの少女が、見た目に似合わず真面目で頑固だという事は知っていました。
 でも、とても素直だという事も知っていました。
 だから、あんなにもはっきりとした告白を聞いた上で、彼女を手放そうなどとは、露ほども思わなかったのです。
「さあ、もう一曲踊ってくれないか」
 ヴィクトールはアンジェリークに手を差し出しました。先ほどと同じように。
「でも、靴が……」
 受け取ったガラスの靴を抱きしめ、アンジェリークはいいました。
「そんなものは履かなくてもいい。どうせ外からは見えやしないんだし」
 そして彼女をあっという間に抱き上げて、彼ら二人を興味津々に待つ人々の方へ、階段を上り始めました。


「お前は靴が無くても踊れるだろうが、俺はお前じゃないと上手く踊れないんだからな」




                          <終わり>







〜 数年後 おまけ 〜


 いつもと同じ、穏やかな日が終わった夜。
 ふとヴィクトールは戯れ心を起こして、飾ってあったあのガラスの靴をアンジェリークに履かせてみることにしました。
 すると、靴は彼が思っていたよりもだいぶ大きかったのです。踵に彼の指が一本か二本、それ位はいってしまいそうなほどでした。
 ヴィクトールは苦笑を浮かべて妻を見ました。
「よくこれでダンスを踊れたな」
 しかもあんなに軽やかに。と、ヴィクトールは思いました。
「私もそう思います。でも、ダンスの最中はまるで魔法が掛かったみたいに、足にぴったりだったような気がして……そんなわけがないですよね」
「ははは…そんなはずは……」
── ん…? 今何か思い出しかけたような気がしたが……。
「もうそろそろ、寝ましょうか」
 部屋の明かりが落とされ、ヴィクトールの考え事は中断されました。
 今思い出しても、なるほどと思うだけでしたでしょうし、ね。


 

久しぶりの! 本当に久しぶりのヴィクコレでございます。しかも正統派。
長らくお待たせいたしました。ヴィクコレのカミサマがやってきたようでございます。

ペローの童話集とか、さよなら「いい子」の魔法 とか、色々混じって、勿論シンデレラが
ベースな訳ですが、ゆるくも無い靴は脱げないだろうという思い付きから始まった話です。
はじめ、アンジェリークの身分は厩番の娘だったりもしましたね。

兎も角、書けてよかったですハイ。


では、また!

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