チョコレート(小)


DEAR.ELNST

暗くて長い廊下の突き当たりに、その教室はある。
 王立だと言うのに、研究院の中はあまり綺麗な方ではなかった。勿論ごみが落ちているとかゴキブ○が出てくるとか、そういう汚さではないけれど、頭のよい学生が集まるクラスになればなるほど、どういうわけか自分の身の回りには気を使わなくなるようで、机の上に載せた書類の山を片付けなかったり、本当なら昼時のぽかぽかした日の光が差し込んでくるはずの窓も、研究の為だとか言って、黒いカーテンで締め切ってしまったりする。
「…こんなトコにずっと居たら、身体にカビが生えちゃうよね」
 と、誰にとも無し呟いたレイチェルは、制服のポケットに両手を突っ込んだまま、奥の教室に向って歩きながら、そっと片手をミニスカートのポケットに忍ばせた。
 指先に触れるのは、手の中にすっぽり隠れてしまう、小さな包み。
『宇宙生成学研究室 T』
 そう書かれた扉の前で足を止め、中を覗こうとしたレイチェルだったが、ガラス張りの扉の窓は、思い切り背伸びをしても覗くことが出来なかった。
 レイチェルは先ほどからずっと、人探しをしていた。
 目当ての人は、食堂にでもいるかと思えば、居らず。
 もう食べ終えて、図書館にでも行ったのかと探しに行っても、やっぱり居なくて。
 じゃあきっと、いつもみたいに、食事の時間を忘れてしまったんだろう。……なんて、ここまで足を伸ばしてきたところなのだ。
 レイチェルはまだ一応、一般教育過程を履修している研究院生だから、危険な薬品や物質を扱う事も多い研究棟には、本当なら余り来てはいけないのだが、『彼』も彼以外の生徒も先生も、レイチェルがまだ11歳の少女であるとはいえ、頭の良い、やっていいことと悪い事の判別のつく子供である事から、彼女の出入りを黙認していた部分もあり、休み時間や放課後になら、訪れても煩くは言われないのであった。
 そんな訳で、普段は何の気負いも無く扉を開いていたレイチェルであったが、今日はなぜか慎重に、耳を扉に付け澄ましている。
 すると中から、具体的な内容は聞き取れないものの、数人の声が聞こえてきた。
「あ〜あ…」
 やっぱり、思うようには行かないものだ。2人きりになれるなんて、思って居たのは甘かった。
 レイチェルは耳を離して思案するように辺りを見回した。薄暗い廊下には、生成学研究室の生徒たちの個別ロッカーが並んでいる。
 彼女は、思いついたようにそちらに歩み寄った。
 学生番号の後に並ぶ人名を、目だけで素早く追いかけていく。A…B…C………E 『ELNST』
 他に同じ名前の人はいない。
 レイチェルはきょろきょろと、辺りに人が居ない事を確認し、ロッカーのノブを捻った。…だが、彼女が予想していた通り、ロッカーにはしっかりと鍵がかけられており、僅かの隙間も無かった。
 少し悔しそうに、それから酷くガッカリした様子で、彼女はもう一度研究室の扉を見た。
── 今日は、ヴァレンタインディ。
 一年に一度のチャンス。女の子が勇気を出せるスペシャルディ。
 お小遣いがあんまり無くて、そんな『女の子』した事はどうも自分には似合わないような気がして、ポケットの中のチョコレートは、どこにでも売ってる、小さな小さなチョコレート。一口で食べ終わってしまう、ミルク味。
 握り締めていると、そのまま蕩けてしまいそう。
 と、いつの間にか俯いてしまっていたレイチェルの目の前で、どやどやとした騒ぎと共に、突然扉が開いたのはその時だった。
 常の宇宙生成研究室には、いかにも似合わない、良く言えば普通の…ちょっと悪く言うなら、派手な…あまりこの辺りの区画では見かけない女子生徒たちが、4人ほど固まりになって出てきた。
 彼女たちは、廊下に居たレイチェルのことなど目に入らない様子で、教室の中に居る『誰か』に向って手を振り笑顔を見せていた。
 心臓が、ドキリと跳ねる。 
 何だか少しいやな予感と、嫌なキモチに、レイチェルは去っていく彼女たちの後姿を見送る。すれ違いざまに「大人の女性」みたいな香りを嗅いで、むっつりとした顔のまま、開いた扉を潜った。
 そこで帰ってしまいたかったけれど、中に居た生徒の一人と目が合って、おいでおいでをされてしまったから。
「どうした? 今日はふくれっつらだな」
 皆からロキシーと呼ばれている金髪の彼は、レイチェルの不機嫌の原因を察している様子で、彼女に笑いかけた後ちらりと脇に目をやった。
 視線の先には、レイチェルに負けず劣らず不機嫌そうな顔をした青い髪の青年が座っていた。
「そんな顔してると美人が台無しだぞ」
 レイチェルをからかいながらも、ロキシーは彼女の為に、席を作ってくれる。
 空いた椅子に分厚い本を数冊載せて、テーブルの上に用意した珈琲カップに手が届くように。
 レイチェルは殆ど条件反射でその椅子によじ登りながら、ロキシーに向って……本当はもう一人の青い髪の青年に尋ねたかったのだけれど…聞いた。
「今の人たちって、ダレ?」
 ちょっとつんけんした聞き方になってしまったかもしれない。でも11歳のレイチェルは、それでも感情を抑えていたつもりだ。
「惑星文化研究科の子たちだよ。以前、彼女たちに惑星生成のデータを貸し出した事があってね」
そして、カップを持ったまま指をたて、机の上を指差した。「アレはその時のお礼だそうだ」
 その割りに、俺には一つも呉れないんだけど…おかしいね。 とロキシーは笑って、書類だけが山積みになっている自分の机に戻りながら、レイチェルの金髪の頭をぐりぐりと撫でた。
「彼女たちの心遣いはありがたいですが、お陰で食事の時間がなくなりました」
漸く、青い髪の青年が口を利いた。「…もう少し訪問の時間帯というものを考えて欲しいものです」
 その言葉に、ロキシーが肩を竦める。
「何言ってんだ。この果報者が」
 そしてレイチェルは、カップを両手で包むように持ちながら、湯気の向こうにぼんやりと彼を顔を見つめていた。
 ロキシーが彼に言った。
「来月にはちゃんとお返しするんだぞ。…大体貰ったものの3倍返しって話だけどな」
 貰う量が多いと辛いね、とからかうように笑っている。
「? …この場合物品での返礼の必要はあるのでしょうか。彼女たちは元々資料の礼に…繰り返していたらいつまで経っても終わりませんよ」
 その言葉に、レイチェルもロキシーも目を丸くして、お互い顔を見合わせた。
── もしかして、もしかすると、エルンストってば今日が何の日か気付いて無いのかなぁ。
 だとしたら、自分が思っていたよりもずっと、この青い髪の青年は人が変わっている。
 席を立って、研究室共同棚に置かれた珈琲メーカーの隣に、頂いた『チョコレート』の包みを仕舞い込む彼の後姿は、しらばっくれている様子も無かった。
「ところでレイチェル、今日は何の御用ですか?」
 このエルンストという青年は、用事もなしに数十メートルの廊下を歩いてどこかへ出かけるなどと言う事は、考え付かないらしかった。
 いつもの質問に、レイチェルは答えた。
「食後の散歩だよ」
それから、向かいの席に着いた青年に言った。「アナタも散歩くらいしないと、身体にカビが生えちゃうよ」
「ありえませんね」
 二人の会話に、後ろの席に座ったロキシーが笑いを堪えているのが分る。
「ロキシーもだよ。最近お腹が出てきたって言ってたデショ」
「そういう理由ならば、納得できますが」
 思わぬとばっちりに、彼は何も聞こえないフリをする事にしたようだ。
 レイチェルは改めて、向かいの青年に声を掛けた。
「エルンスト、お昼食なかったの?」
「食べられなかった、と言ってください」
 珈琲で空腹を誤魔化そうとでも言うのだろうか、彼は書類を脇に寄せて一気にそれを煽った。
「さっきのお菓子食べたらいいのに」
「研究室に頂いたものですから、皆が揃った折に開けるというものです」
 角ばったその答えに、ロキシーがぽつりと口を挟んだ。
「そんなことしたらお前、イヤミだぞ……」
 だが、幸い(?)それはエルンストの耳に届かなかったようで。
 レイチェルはまじまじと彼の顔を見つめ、それからさりげなくポケットに手を突っ込んだ。
 指先に、「それ」が触れる。
 少しだけ迷って。
「これ、あげる」
 小さな掌の上に載せて、机越しに身を乗り出し、エルンストの前に差し出した。
「これはあなたのおやつでしょう」
 それが何かを確認すると、ちょっと驚いた顔で眼鏡を擦り上げ、エルンストは言った。
 彼はどこまでもレイチェルを子供として見ているようだ。
「でもお腹減ってるんでしょ。食べなよ」
 無論、エルンストがそれと気付かずとも、レイチェルにとってその小さなチョコレートには別の意味が込められている。
「受け取ってやれよ」
ロキシーが言った。「折角呉れるって言うんだから」
 そして、振り返ったレイチェルに、こっそりぱちんとウインクして見せた。
「………なら、ありがたく頂戴します」
 長い指が、レイチェルの掌からチョコをつまみあげ、ゆっくりと包みを開く。
 どこにでもある、ミルクチョコレート。
 ちゃんと、それが彼の口の中に消えるまで、レイチェルは身じろぎもせずに見守っていた。
 見つめられていたエルンストの方はと言えば、内心居心地がやや悪そうではあったけれども、
 ちらりと目をやった時に見たレイチェルの満足そうな顔を見て、何かを言いかけた口を閉じた。
「ご馳走様でした」
 一言言うと、レイチェルはにっこりと笑って、黙ったまま椅子を降りた。
 自分で珈琲カップを流しまで持っていって、片付ける。
 きちんと拭いて棚に戻した所で、午後の授業の予鈴が鳴った。
「また来るね」
 そう言って、外から戻ってきた他の研究生たちと入れ違いに、金髪の少女はするりと研究室を出て行った。
「……まるで猫みたいな子だな」
あっという間に出て行った背中を見送り、ぽそりと呟いたのはロキシー。「気まぐれに来て、いつの間にか当たり前みたいに居る」
「…そうですね」
 エルンストは脇にのけた書類を、改めて机に広げた。今、口の中では珈琲の苦味と、甘いチョコレートの味が交じり合っている。
 
 
 …なんとなく、なんとなく。
 それは、あの少女自身を思わせるような味で。

 

 ふとそれに思い至ったエルンストは、眼鏡を中指で押し上げ、軽く頭を振って改めて机に向った。
── そんな事を考えている場合では無いというのに。
 やがて彼は、レイチェルの事もチョコレートのことも忘れて、書きかけの書類に目を通し始める。これは、彼が長い時間をかけて書いてきた、とある惑星の生成についての論文である。発表の日までは後僅かだった。
 空腹に変わりはないが、それでも、レイチェルの差し出した小さなチョコレートは、彼の優秀な頭脳を動かすに十分役立った様子だった。

 研究室には常と同じく、静かな時間が流れ始め……そして……この時彼が仕上げた論文が秀作として注目を集め、彼が聖地に赴く事に決まったのは、それからほんの数ヶ月後の事である。

<おわり>




     

    2001.06.??.


    inserted by FC2 system