古今東西、月下には必ずロマンスがあるものです。
《ルヴァロザの場合。》
こんこん、と小さなノックが扉を叩いた。
女王補佐官ロザリアは、書類に落としていた目を上げた。
いつもの時間。いつもの叩き方。
「…どなた?」
分かっていながらロザリアは声を掛けた。
もう人が訪れるには遅い。宮殿の中もしんと静まり帰っている。
「え〜。私ですよ、ロザリア。」
その声と共に姿を現したのは地の守護聖その人。
ロザリアはやってきたのがやはり彼だったことにほっと肩の力を抜く。
ルヴァは彼の予想通り、まだ執務机に座ったままの彼女の様子を見咎めて言った。
「あ〜。まだお仕事をしてらっしゃったんですね。」
言いながら、彼女の傍まで歩み寄る。
「あなたこそ…。」
ロザリアは僅かに微笑んだ。「…また、本を読みふけっていましたのね? …このままでは書庫で根が生えてしまいますわよ?」
ルヴァは罰が悪そうな顔をした。
「あ〜〜。そうですね。それは困りますね。」
「困ってしまいますわね。」
彼女は笑ってペンを置いた。彼がここへやってきた理由はもうわかっている。
『頑張りすぎないで、ロザリア。…私と一緒に帰りましょう?』
そう言われれば、彼女が断れないことを知っている。書庫にいたのは本当だろうけれど、ならなぜ毎日同じ時間に、同じように誘いに来るのか。
しかし、今日は違った。
ルヴァは、彼女に向かって手を差し出したのだ。
「?」
ロザリアが困惑ぎみの眼差しを向けると、彼はいっそう目を細めて、言った。
「今日はとてもいい月ですよ〜。ちょっとバルコニーに出ませんか?」
執務室の青いカーテンの向こうから、月の光りが漏れ出ていることに彼女は言われて初めて気付いた。
微笑んで、ルヴァの手に手を重ねる。
彼は彼女を、まるでダンスに誘うかのように窓辺へと導いた。
右のカーテンをルヴァが、左のカーテンをロザリアが、軽く押し広げる。
「…まあ…なんて明るいの?」
ロザリアは目を細めた。外は中庭の草木がはっきり見て取れるほどだった。
「ね、凄いでしょう。」
まるでそれが自分の手柄だとでも言うように得意げなルヴァの様子に、彼女は思わず微笑んだ。
複雑に彫り込まれた大理石の手摺の陰が白亜の床に落ちている。
窓を押し開いた途端に流れ込んで来た新鮮な夜の空気が二人の周りを包み、彼らは連れ立ってバルコニーへ出た。
辺りに降り注ぐ青い光りが、ロザリアの髪と身体を覆うレースに跳ねる。
ロザリアは青い月を見上げた。そして月明かりに照らされた彼女の姿にこっそりと見惚れるのはルヴァ。
彼女はそんな彼の視線に気付くと、軽く顎を上げて彼を見た。そして囁く。
「なんだか…苦しい程ですわね…。」
まだ、繋いだままの手。ロザリアはそのまま彼の腕に腕を絡めて寄りかかった。
「えっ?気分が悪いのですか〜? お部屋に戻りますか〜?」
動揺するルヴァに、彼女は一層寄り添った。
「苦しいのはきっと…月のせい。」
「月? …ああ、こんな月灯かりの下ではね〜。わかりますよ〜。」
ホッとした様子を見せるルヴァに、ロザリアは更に言った。
「それから、あなたのせい。…もし私だけがこんな気持ちを抱えているのなら…不公平ですわ…。」
そこまで言われて、ルヴァはやっと彼女の言いたいことに気付く。
そろそろと、そんな彼女の腕に手の平を重ねて、そして困った顔をする。
誰もいない。
何の音もしない。
「私がわがままを言ってはおかしい?」
なにも言わないルヴァに、ロザリアは微かに悪戯げに言った。
ルヴァは、小さく首を振る。
そして、彼女の髪を覆うベールに口付けた。
「いいえ。…嬉しいですよ。とっても。」
それから、もう少し深く屈み込んだ。
重なる唇。
「だって…私も同じ気持ちですからね。さあ、帰りましょう。…我が家へね。」
《オスリモの場合》
男は、壁を伝うしっかりとした蔦を選んで足を掛けると、鮮やかな身のこなしで一気にバルコニーへとその身体を押し上げた。
手には赤い薔薇の花。
それから、手の平に丁度収まる程の長方形の箱。
上りきった彼は一息ついてそれらの品物を眺め、それから小さく微笑んだ。
そして、窓を叩く。
はじめは軽く。それからリズミカルに続けて。
「……?」
困惑ぎみの気配が伝わり、カーテンが小さく開けられた。
驚き顔の少女が現れる。彼女は慌てて窓を開いた。
と共に、男の鼻を彼女の香りがくすぐる。
少女は丸い目を更に丸くして尋ねた。
「オスカー? こんな時間に…どうしたの?」
「会いに来た。」
今夜の月と同じ色の髪を持った少女に、軽く微笑んで見せる。それから手に持った薔薇と小箱を彼女に渡した。
「誕生日おめでとう、お嬢ちゃん。」
そして間髪いれずに彼女の唇を奪う。
「ん…。」
まだ寝ぼけた頭でアンジェリークは考えた。「…私の誕生日は明日よ? オスカー。」
唇を離して、ちょっとムッとした顔を見せた彼女の髪に、指を通しながらオスカーは言った。
「真夜中はもう過ぎてるんだぜ? お嬢ちゃん。」
そして中天から傾いた月を差して見せる。
「まあ。」
アンジェリークはそこで初めて今夜の美しい月に気付き、それから驚いた様子でオスカーを見上げた。
オスカーはからかう様に笑いながら、もう1度彼女へのプレゼントを差し出した。
彼女は今度こそ素直に笑ってそれを受取った。
薔薇の薫りを確かめ、微笑み、彼の唇を求めるように瞼を閉じる。
そして期待通りのくちづけ。
「…そっちの箱も早く開けてくれないかな。」
「何がはいっているの?」
アンジェリークは大きな薔薇の花束を抱えて苦労しながら、絹で包まれた小さな箱を開けた。
「素敵…。」
粒ぞろいの真珠のネックレスが現れる。しかし、惚れ惚れと眺める彼女の目の前から、オスカーがそれをさらった。
「つけて見せてくれ。」
言いながら彼女の首筋に手を回し、小さなホックをすばやく留める様子は、さすがプレイボーイだけはあったな、という手際のよさ。
アンジェリークの淡いピンクの薄手の夜着が、たったそれだけでドレスに見えてくる。
オスカーは月明かりに照らし出された彼女の姿に見惚れ、つと手を出すと、彼女の持った花束から薔薇を一本引きぬいた。
とそれを彼女の胸元に潜り込ませる。棘の無い薔薇はするりと彼女の肌を滑った。
「くすぐったい…。」
眉を下げて笑う彼女に、オスカーは囁く。
「さあ、アンジェ。君はこれからどうする気だ? このままここで愛を語り合うのか…それとも俺を君の寝室へ招待するのか?」
アンジェリークは、彼の肩越しに、月を見上げた。
「そうね…。」
今夜の月は黄金色に輝いて、滅多にないほど美しい。
彼女は微笑んだ。
「このまま外に出て少しお話しましょうよ。…それからお部屋に入りましょう?」
オスカーは一瞬目を丸くしたが、やがて大きく微笑んだ。
「…それは名案だな…。お嬢ちゃん。」
そうして、彼は女王の手を恭しく取って、白亜のバルコニーへ連れ出したのだった。
《エルレイの場合。》
「ねえねえ、これで照準は合ってるの?」
「…見せてください。」
レイチェルとエルンストは何も無い草原のど真ん中に二人して立っていた。
その手元に据え付けられているのは、余り倍率の高くない天体望遠鏡。
月の姿をこうして見たことが無いという彼女のために、エルンストがわざわざ自宅から運んできたものだった。
「ああ…もう少し絞らないと…。…やってごらんなさい。」
そういって、彼は彼女に場所を譲る。
二人の足元にはランプが置かれていたが、もう灯かりは灯っていない。けれど、辺りは月明かりに包まれて、酷く明るかった。
「ん〜。…あ! 見えてきた…っ! エルンスト、見えるよ!」
望遠鏡を覗き込みながら後ろ手に、レイチェルは彼を呼ぶ。
そんな無邪気な仕種に、彼は思わず笑った。
「…何が見えるんですか?」
そこから見える風景を、彼はことごとく知っていたが、あえて尋ねる。
「ん…、…丸い鏡みたい…白黒だよ…全部。」
丸い鏡、はクレーターの事だろうとおもいつつ、エルンストは苦笑した。
「何を言ってるんですか。白黒にきまっているでしょう。」
「それは知ってるけどぉ…。」
レイチェルは顔を上げ、エルンストをじっと上目づかいに見た。「オレンジ色だってイイじゃない。」
今日肉眼で見る月は、昼間の塵に反射する光線の加減のせいなのか、酷く美味しそうな色合いをしていた。
「淋しい色だよ。白と黒なんて。…オレンジじゃなくてもいから、も少し綺麗な色がついてたらいいのにネ。」
「いくらあなたがこの宇宙の女王でも、あなたの都合で色を変えるわけには行かないでしょうね。」
「女王、は余計だよ。」
つん、と顎を逸らして拗ねるレイチェル。
今日は女王でも研究者でもないただの二人と言う約束だったのに。
「済みませんね。」
苦笑しながら答えるエルンスト。
機嫌を悪くしたまま、また望遠鏡に屈み込むレイチェルの後から、そっと覆い被さった。
「…えっ、…ちょっと、なに…?」
慌ててレイチェルが身体を起こそうとする。
しかし、エルンストの力は意外に強く。彼女は彼の片腕に絡め取られた。
耳元で、エルンストが囁く。
「…もう一度覗いて御覧なさい。今度はしっかりと。…そうすれば、見えてくる筈ですよ。」
腕を巡らせるように彼女の顎先を捕まえて、もう一方の手を彼女の手に重ねる。
「や…。」
そんなに傍に寄られたら、心臓が跳ねてどうにかなってしまう。…そんなレイチェルの気持ちを知っているのか、知らないのか。
エルンストはその手を望遠鏡に乗せて、二人で屈み込むようにして彼女に望遠鏡を覗かせた。
「…見えませんか?」
「な、なに…?」
動揺してしまって、何を見ろといわれているのか分からない。
「月ですよ。今夜の。」
「月?」
それならもう充分に見たから離してヨ〜! とレイチェルは思ったが、なぜか動けなかった。
「白黒だけじゃない筈ですよ…。もっとしっかりと見て。」
強い調子で囁かれ、レイチェルはやっと目の前の風景に集中する。
「しっかりと…? ……。 …あ。」
「色はあるでしょう?」
白黒の世界の中に。
澄んだ紫のなにかが点々としている。
「あれ何? エルンスト!」
自分達がどんな状態かも忘れて、レイチェルは思わず振り返った。
すぐ目の前に、彼の顔。
それが、くすりと笑った。
エルンストの唇が、レイチェルの唇を奪う。…それから。
ほうっと頬を朱に染めた彼女に向かってエルンストは言った。
「あれはね…紫水晶ですよ。とても大きな。」
そして彼女の瞳を覗き込んだ。「六角形をした石英の結晶…あなたの瞳と同じ色をした、ね。」
それから、もう1度キス。
力を失った彼女の身体を支える。
「あなたはもう少し勉強する事ですね…、宇宙の事もそれから…。」
後はレイチェルにしか聞こえない。
《ヴィクコレの場合。》
かつん。
窓を微かに叩く音がした。
ベッドに入ってはいたものの、ずっと目を覚ましていたアンジェリークは慌てて起きあがると、白い夜着の上に更に白い大きめなショールを羽織り、急いで窓辺に向かった。
カーテンを開け、ちらりと外に目を走らせる。
明るい月明かりに目立たぬよう、庭の木陰からこちらを見上げる大きな人影。
二個目の小石を投げようとしていたのか、腕を大きく上げた所だった。
アンジェリークはもどかしげに窓を押し上げ、そして窓から身を乗り出した。
「…ヴィクトール様…。」
小さく密やかにその名を呼ぶ。
彼は、彼女の姿を確認すると窓の下まで歩み出てきた。
「アンジェリーク…。大丈夫か?」
彼もその低い声を更に潜めて彼女の名を呼んだ。
アンジェリークは大きく頷くと、窓枠を危なっかしく乗り越える。
「おい…気をつけろよ?」
「大丈夫…です。」
コレット家の緩やかな屋根は、彼女の体重を難なく支えている。
彼女はそのまま屋根の一番低い場所…それでも二メーターよりはあったが…に辿りつき、彼を見降ろした。
ヴィクトールはそれを確認すると、彼女に向かって手を広げた。
「よし! アンジェリーク。 …飛び降りてこい。」
アンジェリークはごくんと唾を飲み込んだ。
こんなに不安定な高い場所に立つのは初めてで、足が震える。
けれど、躊躇ったのはほんの僅かの間。
彼女の白い足裏が屋根を蹴る。
その瞬間、夜着は天使の衣のように靡き、ショールはその翼のように広がった。
ヴィクトールは驚きに身を堅くした。
「きゃっ」
だが、腕の中にしっかりと受けとめたのは天使ではく、ただの…いや、彼が唯一愛して止まない栗色の髪の少女。
抱きとめた状態のまま、抱き合う。
ヴィクトールはその温もりに久しぶりに触れ、改めて彼女といる安堵感を味わった。
それはアンジェリークも同じ。変わらぬ彼の腕の中にうずもれて、そっと目を閉じている。
やがて、ヴィクトールは囁くように言った。
「…いいんだな。」
それは彼の本当に最後の彼女への確認。
アンジェリークが頷く。
「…はい。」
そしてヴィクトールの首筋にしっかりと抱きついた。「お父さんなんて大嫌い…戻って来いって言われても…戻りません。許してもらえるまでは。」
月明かりに照らし出されるのは、悲痛な少女の白い顔。
ヴィクトールは覚悟を決めて彼女の身体を抱き返した。
「…なら俺も、俺達の事が許されるまでは、どんな事があろうとお前を帰したりはしない。そう誓おう。…愛しているからな。お前を。」
「私も…ヴィクトール様。」
改めてお互いの心を確認し、くちづけを交わす。
「行こうか…。」
そしてヴィクトールはアンジェリークの華奢な身体を地面に下ろそうとして…彼女が素足だと言う事に漸く気付いた。
「靴…なくて。取りに行きたかったけど部屋から出してもらえなかったんです…。」
恥かしそうに足を組み合わせるアンジェリークを見て、ヴィクトールは微笑む。
そして、降ろしかけた彼女を、そのまま肩に担ぎ上げた。
「きゃあっ?」
突然のことに、アンジェリークが驚愕の叫びを上げて、慌てて口元を抑えた。
「俺はお前を攫って行くんだからな…。このやり方が一番似合ってるんだろうさ。」
「で、でも私重いから…っ。」
「ははは。お前の体重なんぞ、軽いもんだ。」
事実、彼女は羽のように軽かった。
「ヴィクトール様ったら…。」
彼はアンジェリークの困ったような声に耳も貸さず、そのまま歩き出した。
こっそりと入って来た裏庭を抜けて、月明かりの下を密やかに。
<おわり>
ぬぅ…何気に積極的なエルンストさん…。
2001.06.15.