CAT'S 〜 南の空き地 編 2 〜


 

いつの間に眠ってしまっていたのだろう。
「起きろよ。」
 笑いを含んだ声が、可笑しそうに耳もとをくすぐったことで漸くアンジェリーク猫は目を覚ました。
 思い悩んでいたせいで、あのあとしばらく眠れなかったのが原因なのか、少し頭が重い。
 それでも、アンジェリーク猫は自分を見下ろしているアリオス猫に微笑んだ。
「あ、…アリオス…。おはよう…。」
「おはよう、エリス。」
 アリオス猫は軽くアンジェリーク猫の額にくちづけて笑った。
「もう夜なの?」
 アンジェリーク猫は、そんな彼の仕種に照れながら、それでも辺りを見まわした。
 しかし、アリオス猫はそんな彼女の様子には気付かずに、尋ねた。
「…腹減ったか?」
 アリオス猫は笑いを含んだまま尋ねた。
「ん…ちょっとだけ…。」
 アンジェリーク猫は恥かしそうに頷いた。あの魚の干物を結局半分以上平らげたのは自分なのに、目を覚ませば結局、こんなにもお腹が減っている。
「ん?」
 アリオス猫は、そんなアンジェリーク猫を珍しそうに眺めた。
「なに? …どうしたの?」
 自分を見詰めるアリオス猫の様子に、アンジェリーク猫は困ったように微笑んだ。
「エリス…お前、ひょっとして…。」
 そう言って近付いてくる。
「な、なあに? …ねえ…。くすぐったいよ…。」
 アンジェリーク猫は、身体を寄せてくるアリオス猫を笑って押しのけた。
「お前、…いい匂いがする…。」
 金と緑の瞳が、酷く真剣にアンジェリーク猫の蒼緑の瞳を覗き込んだ。
「え…」
 アンジェリーク猫は、どきりと髭を震わせた。
「もしかして…。お前、恋の季節に入ったのか?」
 直接的な聞き方に、アンジェリーク猫は思わず耳を伏せる。
「そう、なのか?」
 アリオス猫は、更に彼女との間合いを詰めた。
 アンジェリーク猫には分からなかった。けれどアリオス猫がそう言うのなら、そうなのかもしれない。
「あ…、…きゃ…。…あ、アリオス!?」
 近寄られた彼女は、寝ぼけも手伝ってその場に転げてしまった。
 目を丸くした彼女のそのオーバーな動揺の仕方に、アリオス猫は思わず噴き出した。
「くっ…。…なんだよその顔…襲われるとでも思ったのか。」
 からかわれたと知った彼女は、思わず尻尾で地面を打った。
「アリオス!!」
「冗談だ、冗談。…そんなに怒るなよ。ますますからかいたくなる。」
「莫迦あっ」
 アリオス猫が、そんな彼女に小さく笑った。そして、もう1度真剣に彼女の瞳を覗いた。
「けど…お前が「そういう」状態になったんなら、俺はお前に言わなきゃならないな…。」
 どきん、とアンジェリーク猫の小さな心臓が跳ねた。では、自分は本当に…。
「ア…リオス…。」
 金碧の瞳が、彼女を居抜く。
「俺は、お前にずっとここに居て欲しい。お前のことは俺が守る…だから、俺を選んでくれ。」
「アリオス…。」
 アリオス猫が、眠るときよりも近くに身体を寄せてくる。
 吐息が、心音が、すぐ傍にある。
── 受け入れる、時が来たの?
 アンジェリーク猫は、目を閉じた。アリオス猫のことは、もちろん嫌いではない。それどころか好ましいほどでさえあった。
 その脳裏に、赤銅色のあの猫の姿が過る。
 誰よりも愛おしく、信頼している猫。こうしている間にも、考えるのは彼のこと。
 けれど、今傍に居てくれるのはアリオス猫。彼女を求めていてくれるのは彼。
「…エリス…。」
 その名前にアンジェリーク猫は、びくりと身体を震わせた。
 アリオス猫は、そんな彼女に気付いて、はっと身を堅くした。
 暗闇の中、二匹は見詰め合う。
 そして、アリオス猫が何かを言おうと口を開いたときだった。
「レヴィアス様。おられますか?」
 格子の向こうで声がした。
 アンジェリーク猫は聞きなれぬ声と名前に、思わずアリオス猫を見た。が、振り向いて驚いた。
 アリオス猫がその場に倒れている。目を堅く閉じ、身体が細かく震えつづけている。
「アリオス、大丈夫? どこか痛いの? 苦しいの?」
 アンジェリーク猫は駆け寄った。
「エ…リス…。向こうへ…行け。」
 震える声で、アリオス猫が囁いた。緑の目だけを薄く開けるのがやっとという様子。
「どうしたの、アリオス…大丈夫?」
 アンジェリーク猫は、えもいわれぬ不安に駆られて、彼を舐めた。
「エリス…!早く向こうへ!!」
 怒鳴りつけられて、アンジェリーク猫は一歩だけ下がる。
 そこにまた、知らない声がかかった。
「レヴィアス様…? オスカーという猫とその仲間が到着しました。…ヴィクトールも穴から引きずりだしてあります。」
── ヴィクトール…って…ヴィクトール様の事?
 アンジェリーク猫が、思わずそちらに向かって歩みでた時。
「待て。アンジェリーク…。」
 低く、冷たい声がして、アンジェリークは驚いて降り返った。
「アリオス…?」
 その首筋に。
 彼の鋭い牙が容赦なく突き刺さる。
「痛い…っ …何するの、アリオス!」
 そのまま引きずられるようにして、アンジェリーク猫は二日ぶりに境内の下から外に出た。
 三毛猫が立っている。
 アリオス猫は、そのままアンジェリーク猫をその三毛猫の前に放り出した。
「レヴィアス様…この猫ですか、「落ち星」と引きかえるという猫は。」
「落ち星…?」
 身体の痛みに耐えながら、アンジェリーク猫は身を起こした。
「そうだ。…ちゃんと捕まえて連れて来い。…逃がすなよ。」
「アリオス…!どうして!?」
 赤毛の猫に首筋を噛まれながら、アンジェリーク猫は必死で彼を呼んだ。
 アリオス猫がゆっくりと降り返る。
 その金と碧の瞳は、ただひたすらに冷たかった。
「アリオス…じゃ、…ない?」
 アンジェリーク猫は呆然として呟いた。
 先程までアリオス猫であったはずのその銀の猫は。
 彼女の知らない無感動な瞳で、アンジェリーク猫を射すくめた。
「我は…レヴィアス…。お前の知るアリオスは…死んだ。」
「アリオスが…死んだ…?」
 アンジェリーク猫は、思わず繰り返した。
「エリスと共に、な…。」
 レヴィアスと名乗ったその猫は…一瞬前まではアリオスであったその猫は、そう言って背中を向けた。
 歩み去って行くレヴィアスを、呆然と見送りながら、アンジェリーク猫は身体が震え出すのを押さえられなかった。
── アリオスは…死んだ? エリスも…? …じゃあ、私が今まで一緒に居たのは誰なの? アリオス…それともアリオスのふりをしたレヴィアス…? 
 いつからだったのだろう。初めからなのか。途中からなのか。
 ついさっきまで彼はアリオスそのものであったのに…。
「行くぞ。」
 首筋をかんだ三毛猫に連れられて、アンジェリーク猫はただされるがままに歩き始めた。

 

 

「いつまでまたせるんや〜。」
 チャーリー猫は、すっかり飽きてしまった様子で、その場に座り込んだ。
「やれやれ…。時間を守らないのは最低のルール違反だぜ。」
 オスカー猫は溜息を付く。
 しかし、二匹とも気を抜いた訳では勿論ない。時間が経つとともにどんどん増して行く緊張を、どうにかほぐそうとしているだけだ。
 ここは指定されたK町の工事現場。三日の間に工事が進み、剥き出しになった鉄筋が組まれはじめている。
「…しっ、来るよ!」
 オリヴィエ猫の鋭い声が飛んだ。
「気を引き締めて行きましょうか。」
 緊張した声でリュミエール猫が囁く。
 一塊になった四匹の周りに、ぽつん、ぽつんと一対ずつ、光がともりはじめる。それは、言わずと知れたこの縄張りの猫たちの瞳。
 工事現場のそこここから、彼らの異常に高まった気配が伝わってきた。
「…待たせたな…。」
 赤い鉄骨の上から、若く張りのある雄猫の声が降る。
 オスカー猫は彼を見上げた。
 月を背にして、輝く銀の毛並み。
 闇に光る金と碧の瞳。
「…お前がレヴィアス…か。」
 オスカー猫の低い声が、赤い鉄骨に反射する。
 しかし、レヴィアス猫はオスカー猫の殺気だった様子を鼻で笑った。
「ヴィクトールとアンジェリークはどこだ。…落ち星はここにある。」
 オスカー猫は隣のチャーリー猫に視線を走らせた。
 チャーリー猫は彼の視線を受けて、咥えたビー玉と共に進み出た。そして、それを地面に落とし、声高く言い放った。
「ええか! 目ん玉洗って良く見ぃや…これがアンタはんらの探しとる落ち星や!」
 辺り一帯がどよめく。
 レヴィアス猫の瞳が僅かに笑みを含んだ。
「…それが、落ち星か…。」
 青緑のほんの小さな丸いガラス玉。しかしそこに秘められた力は計り知れない。
 レヴィアス猫は尻尾を高く上げた。
「カーフェイ!」
「はっ!」
 工事現場の片隅から、良く通る雄猫の声が上がった。
 思わずそちらに目をやったオスカー猫たちは、はっと息を呑んだ。
「ヴィクトール!」
 三毛猫に連れられて、そこに現れたのはヴィクトール猫。
 三毛猫は皮肉気な笑いを浮かべながら、オスカー猫達の元へ歩み寄ってきた。
 そして、首筋を噛んで引きずるようにしてきたヴィクトール猫の身体を、その場にどさりと投げ出す。
 オスカー猫は彼の元へ駆け寄った。
「大丈夫か。」
そして、鼻先で触れて驚いたように言った。「…おい、熱があるのか?」
 ヴィクトール猫はそれでも、無理矢理に立ち上がった。
「ああ…少し、な。…だがもう充分に休ませてもらったよ。」
 しかし、彼の身体に常の気迫は感じられない。それどころかその鼻先は乾いて、瞳は鈍く光るのみ。
 そんな二匹を尻目に、レヴィアスはもう1度声を上げた。
「ゲルハルト!」
「はっ!」
 次に声が答えたのは、工事現場の逆の隅。
「…アンジェリーク!」
 オスカー猫の隣で、ヴィクトール猫は驚いて叫んだ。
── なぜ、ここに!?
 積み上げられた赤い鉄骨の上に立った赤猫の足の下に、確かに小さなアンジェリーク猫の身体があった。
 ヴィクトール猫は思わず隣のオスカー猫達を振り返る。
「済まん…目を離した隙に、お前を追って空き地を出て行ってしまったんだ…。」
 オスカーは視線をそらしてそう言った。
「ヴィクトール…様…。」
 アンジェリーク猫が、掠れた苦しげな声で、反対の隅にいるヴィクトール猫を呼ぶ。
 その瞬間、ヴィクトール猫の身体に気迫の炎が宿った。
「お前等…。」
 全身の毛がゆっくりと立ちあがる。
 琥珀の瞳に光が灯る。
 ヴィクトール猫は、ゆっくりとそちらに一歩踏み出した…が。
「待て!…落ち星をこちらへ渡してからだ。」
 そんな彼の後方から声が飛んだ。
「…ちっ。いつの間に…。」
 オリヴィエ猫がちいさく舌打つ。後からやってきた金毛の猫は、アンジェリーク猫を踏みつける赤猫に目配せた。
 赤猫がアンジェリーク猫を踏みつける力を僅かに強める。
「くぅ…。」
 アンジェリーク猫の咽喉から空気が漏れる。
 そして金猫は年若い銀猫を連れ、動くに動けないオスカー達四匹の間に割って入ろうとした。
 一匹ずつ分断されるのを恐れたオスカー猫達は視線を交わし、それ以上離される事のないように、弧を描いて移動する。
── ち、しゃぁないな…。
 チャーリー猫は油断無く彼らと対峙しながら、咥えた落ち星をぽとりと地面に落とし、前足で踏みつけた。
── ほんまはもちっと先が正念場やとおもっとったけど…早まりそうや。
「おっと! それ以上近付いたらアカンで。」
チャーリー猫はちかづいてくる銀の猫を睨みつけ、そして低く屈み込んだ。「俺が何をしようと思てるか、わかるか? …わからんやろなぁ。なんせ、俺も出来るならこんなことしたないんや。」
「何をする気?」
 銀猫が無表情に首を傾げる。
 チャーリー猫はにやりと笑って言った。
「詰まる所はやな…近付いたら、落ち星は…俺の胃袋行きっちゅーことや。」
「そりゃ消化に良くないね…。」
 オリヴィエ猫が呑気なふりをして呟く。
「俺にしかできへんで。なんせ俺は食い倒れの町大阪の出身や。胃袋だけはジョーブにできとる。…ちょっと京都寄りやけどな…。」
 チャーリー猫はそう言うと、もう1度ビー玉を咥え直した。
「おや、そうだったのかい。…しらなかったよ。」
 オリヴィエ猫が囁くように言って、銀猫とチャーリー猫の間に歩を進めた。同じくリュミエール猫が片方を守り、オスカー猫が後方を固める。
 銀猫は困ったように金毛の猫を振り返った。
「…だってさ。どうするの、キーファー。」
 キーファーと呼ばれた金毛の猫は、立ち止まってレヴィアス猫を振り仰いだ。
「どうなさいますか。」
「ふん…。まあいい。それはそのままにしておけ。どのみち今夜中には我々のものになるのだから…。…ヴィクトール!」
 ヴィクトール猫は、その間一時もレヴィアス猫から視線を外しては居なかった。
「なんだ。」
 自然に出てくる咽喉のうなりを抑えつつ、ヴィクトール猫は答えた。
 レヴィアス猫は、小さく笑う。
「これから行う決闘の前に、一応聞いておこう。…このまま我々に縄張りを引き渡す気はないのか?」
「ヴィクトールを代表にするつもりなのか!? 手負いなんだぞ! …俺がでる。そういうつもりで来たからな。」
 オスカー猫は、ヴィクトール猫を見た。
 しかし、ヴィクトール猫は、オスカー猫を視線で制してレヴィアス猫を見上げた。
「どういうつもりだ。」
「勝負は戦う前から決まっている。惨めな姿を晒す前に負けを認め、落ち星とアンジェリークを置いて大人しく帰るがいい。」
「アンジェリークを置いて…?」
 ヴィクトール猫の咽喉から低い笑いが漏れた。
 オスカー猫達は、思わず彼を見る。ヴィクトール猫がこんな風に皮肉な笑いを漏らすところなど見た事が無かったからだ。
「ヴィクトール、落ちつくんだよ。」
 オリヴィエ猫が掠れた声で囁く。しかしヴィクトール猫は言った。
「渡さない、ということぐらいお前には分かっている筈だ。アンジェリークは俺の…この世で一番大事な猫だ。」
 アンジェリーク猫はその言葉を聞き逃さなかった。
 レヴィアス猫は、くっと笑った。
「大事な…そうか。」
 そして、アンジェリーク猫を見る。
「何が可笑しい。」
「大事なもの、大切にしているのもの…そんなものがあるなら、先に自分の手で壊してしまったほうがいい。…自分の手からすり抜けて行く前に。」
「?」
「アンジェリークは我のものだと言うことだ。」
 アンジェリーク猫は、レヴィアス猫の思わせぶりな言いかたに目を見開いた。
「聞いたらアカン! アンジェリークはんがあんな男を受け入れるわけがあらへんやろ? こっちを動揺させる罠や!」
 しかし、ヴィクトール猫は唖然としたようすでアンジェリーク猫を見た。
── ヴィクトール様…。
 赤猫に抑えつけられたアンジェリーク猫は声を出すことが出来ずにもがくだけ。
「アンジェリークと我と…アリオスとエリス…。…これでいい。」
 しかしヴィクトール猫の耳には、そんなレヴィアスの言葉は入っていなかった。
 潤んだ瞳でこちらをみるアンジェリーク猫の仕種には、確かに数日前には無かった魅力で溢れている。
 良く見れば、ほんの子供だったはずの彼女が、いつの間にかこんなにも美しくなっていた。
 ヴィクトール猫とて、レヴィアス猫の言葉など信じてはいない。こちらを必死に見詰めるアンジェリーク猫の瞳が、それは違うと言っていたから。
── 俺は…莫迦だな。
 彼女を愛している自分になど、とっくの昔に気付いていた。けれどこんな風に離れてみるまで、自分にとっての彼女がいかに大切であったのか、分からずに居た。
 ヴィクトール猫はやがてゆっくりと顔を上げ、アンジェリーク猫を見た。
「俺を呼んでくれ、アンジェリーク。」
 低く、しかし確かな声でヴィクトール猫は言った。
── ヴィクトール様?
「お前を愛する一匹の男として、俺を選んでくれ。…虫のいい話だとは分かっている。だが、お前が俺を呼んでくれるなら俺は、おまえを連れてあの空き地へ帰れる。…そんな気がするんだ。」
 アンジェリーク猫は、語り続けるヴィクトール猫を、信じられない思いで見ていた。
「お前を愛してる。」
 ヴィクトール猫はそう言って言葉を切った。
 アンジェリーク猫は、ヴィクトール猫を見詰めた。
 今の一言は確かにヴィクトール猫の口から発せられたものであり、夢ではなかった。
 アンジェリーク猫は、抑えつけられたままゆっくりと頷いた。
 ヴィクトール猫は、その瞳に優しい笑みを乗せた。
「…馬鹿馬鹿しいな…。」
レヴィアス猫はそう呟いて二匹から視線をそらし、そして言った。「…だが分かった。お前達に我の忠告を聞くつもりはないらしいと言う事が。」
 ヴィクトール猫はレヴィアス猫へと向き直る。
「…なら、はじめよう。」
 そう言うか言わないか、銀猫は赤い鉄骨から月を背に、ヴィクトール猫の前に一足飛びに飛び込んできた。


 突如始まった戦い。
「くぅっ!」
 その素早い動き。ヴィクトール猫は一瞬身体を捻ってかわす。
「…やるな。」
 それに驚きもせず、レヴィアス猫は後足で強く地面を蹴り、ヴィクトール猫の咽喉元を狙って再び飛びかかる。
 ヴィクトール猫は足の傷が開いたのを感じたが、それには構わずレヴィアス猫の腹下に入り込み、彼を後へ投げた。
 アリオス猫は半回転して着地する。
── く…。
 ヴィクトール猫の熱のある体は、完全には彼の思うとおりに動いてくれない。
 近隣の縄張りを次々と奪ってきただけあって、レヴィアス猫の闘いぶりは、縄張りの纏め役として連戦を重ねたヴィクトール猫に匹敵するものであった。
「はっ!」
 一閃。
 ヴィクトール猫の牙が、レヴィアス猫の肩を裂く。
── これで五分、か…?
 ヴィクトール猫は冷静に相手を見詰めていた。
 しかし、レヴィアス猫はそんなことでは引き下がらなかった。
 尚も執拗に咽喉元を狙ってくる。一撃必殺の構えだ。 
 ヴィクトール猫が牙をむき出せば、アリオス猫が鋭い爪で足元を狙う。
 アリオス猫は決して力でヴィクトール猫に対抗しようとはせず、華麗な足捌きを見せた。
 だからヴィクトール猫はその金と碧の瞳を捕らえ、次の動きを予測する。
 二匹の周りには何時の間にか大きく猫達の輪が描かれ、その輪から僅かに離れた場所に、チャーリー猫だけが油断なく辺りを見回してあのビー玉を確保している。
 双方の身体の傷が、徐々に増えて行った。
── これでは、埒があかん。このスピードをなんとかせねば。
 ヴィクトール猫は、再び痺れの増してきた足でレヴィアス猫の攻撃をかわしながら、辺りを見まわした。その目に建設中の組まれた鉄骨が映る。
── あそこだ!
 一瞬の隙を付き、ヴィクトール猫はむき出しの階段を一気に駆け上がった。その後をレヴィアス猫が追う。
 二匹はあっという間に骨組みだけのビルの上に昇りきっていた。
 下までの高さは6メートル弱。流石に落ちれば受身を取りきれるか分からない。
「…考えたな。」
 レヴィアス猫はそれでも、あまり気にはとめていない様子で言った。ヴィクトール猫はそれを見て心の中で舌打つ。
── ここでの戦いにも慣れているのか。
 もしかしたら、さっき見せた隙は誘いだったのかもしれない。けれど、もう今は後悔する余裕などなかった。
 二匹は狭い鉄骨の上で対峙した。
 月明かりに、ヴィクトール猫の足の傷が開き、流れ出る血が地面に点々としていくのが見える。

── ヴィクトール様…。
 アンジェリーク猫は、ゲルハルト猫の足の下で辛うじて頭を上げ、とうとう始まってしまった二匹の闘いを息を飲んで見詰めていた。
 彼女がこの世でたった一匹心から愛する猫が、今傷だらけになって戦っている。
 ヴィクトール猫のそんな姿は初めて見た。そして、彼はアリオス猫を確実に殺すつもりでいる。そして、アリオス猫…いや、レヴィアス猫も…。
 アンジェリーク猫は漸く気付いた。
 この勝負は、どちらかの死をもって終わるのだと。
 アンジェリーク猫の胸に小さな恐れが浮かびあがる。
── 駄目。…そんなの駄目…。
 確かに先刻彼女を連れ出したレヴィアス猫は手酷かった。けれど、すでに彼女はアリオスと名乗ったあの猫を知っている。
── なんだか、怖い。…嫌な予感がするの…。
 恋の季節を迎えて鋭くなった彼女の本能が、ちりちりと首筋の毛を逆立たせる。
── 止めて…止めて二人とも…!
 だが、アンジェリーク猫の声にならない叫びは二匹の元に届きはしない。
 鉄骨の上では再び激しい戦いが始まっていた。
「…すげえ…。」
 アンジェリーク猫を抑えつけていたゲルハルト猫は、思わず呟く。今までに何度も、レヴィアス猫が戦う姿を見てきた彼にさえ、今度の闘いには目を見張るばかりだった。
 二匹ともに何箇所もの深手を負っている筈なのに、その勢いは衰えるどころか増すばかりだ。 
 そんな二匹に見蕩れて、ゲルハルト猫の力が緩んだことに、アンジェリーク猫は気付いた。
「ん…んっ!」
 アンジェリーク猫は渾身に力をこめて彼の足の下から抜け出した。
「や、やべぇっ!」
ゲルハルト猫は階段傍に居た黒猫と薄蒼い猫と、そして小さな砂色の猫に向かって叫んだ。「おいっ、カイン、ユージィン、ルノー! …そいつを捕まえてくれっ!!」
 同じく上での闘いに目を奪われていた3匹が振り返る。
「えっ、…ええっ…? つ、捕まえるって…。 ど、どうしたらいいのっ?」
 砂色の小さな猫が慌てたように腰を上げ、その足で他の二匹の尻尾を上手い具合に踏みつけた。
 踏まれた2匹は思わず言葉を無くす。
 そしてアンジェリーク猫はふらつきながらも、その3匹の脇を駆けぬけた。
「ああっ! くそっ!!」
 ゲルハルト猫の叫び声によって、アンジェリーク猫の行動に気付いたのは何もレヴィアス猫の仲間達だけではなかった。
「アンジェリーク! どこへ行くんだ!」
「やめなっ! 行くんじゃないよアンジェリーク!!」
 オスカー猫とオリヴィエ猫の叫びも虚しく、アンジェリーク猫はよろよろと階段を上っていく。
「行きましょう!」
 リュミエール猫が叫んだ。そして、目の前で行く手を塞ぐ猫を片端から投げ飛ばし始めた。
「わかった!」
 オスカー猫とオリヴィエ猫もそれに続く。

しかし、闘いに夢中の上の2匹は、そんな彼女の行動には気付かずにいた。
 激戦の最中。一瞬の静寂が訪れる。
「…そろそろ、決着をつけるべきじゃないか。」
 ヴィクトール猫は息を吐きながら言った。
「そうだな…。」
 向かい合いながら、二匹はお互いを見詰め合った。
 深い琥珀色の瞳と、金と緑の冷たい瞳が交錯する。
「…なぜか、お前とは初めて会った気がしない…な。」
 ヴィクトール猫は静かに囁いた。
「ふん…。」
 レヴィアス猫は、鼻先で笑った。
鋭い牙と鋭い爪が相手の咽喉と鼻先を狙う。
そして…。

 二匹の足が冷たく硬い鉄骨を蹴ったその瞬間。

「…だめぇっ!!」
 二人の間に飛び込んできた茶色い小さな塊があった。
「…っ!!?」
「くうっ!」
 二匹は牙と爪を辛うじて収めた…が。
 三匹の身体は空中で強くぶつかり合い、そして鉄骨の上に落ちる。
 そしてアンジェリーク猫は、鈍い衝撃とともにもんどりうって転がり、鉄骨の上から更に空中に投げ出された。
「アンジェリーク!」
「エリス!!」
 二匹は一瞬にして態勢を立て直し、彼女の後から空に身を投げ出した。
 下で戦っていた面々はその叫び声に、思わず上を見あげた。
 バランスのないアンジェリーク猫はなす術もなく落ちて行き、そんな彼女を空中で、ヴィクトール猫とレヴィアス猫が咥えた。
 そして、一回転…半。
 三匹は縺れるようにして、鈍い音と共に地面に叩きつけられた。

「……冗談はおよしよ…。」
 しんと静まり返った中、オリヴィエ猫が呟いた。
 地面に落ちた三匹はぴくりとも動かない。
「…レ、レヴィアス様〜!!」
 砂色の小さな猫が、まず真っ先に彼らの元へ駆け寄って行ったのをきっかけに、その場の猫は三匹の周りに押し寄せた。
「ヴィクトール!」
「レヴィアスさま!」
「アンジェリーク!!」
 皆思う猫の名を呼ぶ。
 そんな中で、茶色い子猫だけがぴくりと瞼を動かして、皆の呼ぶ声に反応を見せた。
 やがて、その青緑の瞳が開く。
「あ…。あ…私…?」
彼女はゆっくりと辺りを見まわし、そして自分を包む二匹の猫の姿に気付いた。「…ヴィクトール様? …アリオス!?」
 身体を起こし、目を閉じたままの二匹に鼻先を寄せる。
 オスカー猫はそんな三匹から、ゆっくりと…そして苦しげに目を逸らした。
 受身もとらずにあの高さから落ちて、無事な筈がない。同様に、他の猫達も黙ったまま見ていることしか出来なかった。
 アンジェリーク猫はしかし、まだその事に気付かずに、二匹のまわりをぐるぐると回っている。
「『落ち星』を使ってよ!」
砂色の子猫が、悲痛な叫び声を上げた。「生きかえるんでしょ? 目を覚まさせることができるんでしょ?」
「…無理や…。」
 チャーリー猫が搾り出すような声で言った。そして足元に置いた蒼碧のガラス玉を、レヴィアスとヴィクトールの倒れた場所まで転がした。
 アンジェリーク猫がそれを受けとめる。そして砂色の子猫が言った言葉の意味と、倒れた二匹を試す返す見比べた。
「それは落ち星やない。…ただのビー玉や…。」
「そんな…。」
 砂色の子猫は、声を失った。
「それがニセモノだとしたら、今すぐ本物を取りに行くのだ。さもないと、お前達の命はないぞ。」
 闇色の猫が脅すように言ったが、チャーリー猫は力なく答えた。
「…ニセモノも本物もあらへん。はじめっからこっちにあるのはこのビー玉だけやった…。あんさんらが勝手に勘違いしとっただけや。」
「うそ、でしょ?…じゃあレヴィアス様は生き返らないの…?」
 そして呆然と立ち尽くす砂色の子猫を囲んで、辺りは静かになった。
 アンジェリーク猫は、そのまま二匹を見降ろした。

「……なぜこんなことになったのかしら…?」
「アンジェリーク…。」
 しんと静まった工事現場に、アンジェリーク猫の呆然とした声が響いた。
「…私の…せい?」
 自分が割ってはいらなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
 オスカー猫は、彼女の傍に歩み寄った。
「お嬢ちゃんのせいなんかじゃない。」
 だが、それだけしか言えなかった。
「怪我などしていませんか?」
 リュミエール猫は、アンジェリーク猫を落ちつかせようと歩み寄った。
「していません…この通り傷1つありません…二匹が守ってくれたから…。」
 彼をうつろな目で見返し、酷く平坦な調子でアンジェリーク猫は答えた。
「なぜこんな子猫一匹の為に飛び降りたりしたんだ…?」
すぐ傍で、赤毛のゲルハルト猫が呟くように言った。「レヴィアス様は俺に、『この猫が逆らったら殺してもいい』とまで言ったのに。」
「…エリス様の面影を見たのだろう…。」
 金毛のキーファーと呼ばれた猫が、ゲルハルト猫の問いに答えながら歩み出た。
「エリス?」
 聞きなれない名前に、ゲルハルト猫は首を傾げた。
 キーファー猫は、小さく頷いた。
「エリス様は…レヴィアス様が唯一愛した女性…。レヴィアス様を守って車に跳ねられて死んだ。」
 一同は、はっと息を呑んだ。
── そうだったの…。
 アンジェリーク猫は、やっとエリスという存在がどんなものかを知った。そして、やはり自分がエリスでなかったという事も。
「じゃあ…アリオスは?」
アンジェリーク猫はうつろなまま尋ねた。「アリオスは…彼は一体何者だったの…?」
「アリオス…?」
 オスカー猫が怪訝そうに首を傾げた。
「ああ…。」
キーファー猫は深く溜息をついた。「…レヴィアスとアリオスは…同じ一匹だ。1つの身体に収められた二つの自我…。」
「そんな事あるんか…?」
 チャーリー猫が呟いて、隣のオリヴィエ猫を見る。
 それに答えたのはアンジェリーク猫だった。
「私…アリオスに会ったの…。アリオスは優しかったわ。私を傷つけたりしなかった…。」
 あのとき彼女に『逃げろ』と言った彼の声が蘇る。
「アリオスも…エリスを愛していた?」
 アンジェリーク猫はキーファー猫に尋ねた。
「ああ…。というより、エリス様を愛したことで生まれたのがアリオスだったからな…。」
「ちょっとまって! …話が全然見えないよ。」
 オリヴィエ猫が、皆を制するように尻尾を上げた。
「それを語るには、長い時間が必要だな…。」
 キーファー猫はしばし物思いに耽り、そして話し始めた。


…何から話そうか…。そう、レヴィアス様がレヴィアスさまだけであったときのことからがよいだろう。

 レヴィアス様はこの縄張りの前まとめ役であった父上の数匹の子供のうちの一匹としてお生まれになった。
 わたしはレヴィアス様の父上から、レヴィアス様の教育係りとして、そして忠実な側近となるように命ぜられ、レヴィアス様のご幼少から仕えていた。
 レヴィアス様は知識、戦闘、そして統括力において他のご兄弟より数段ぬきんでておられ、次期としての才能を存分に見せていらっしゃった。そしてお父上が無くなられた後にまとめ役となったのは、周囲の予想通り、レヴィアス様であった。…血で血を洗う争いがあったことは…多分分かっているな。

 そして今からおよそ一年前のことだった…。 
 レヴィアス様は鎮守の森の中で、迷い猫になりかけていた茶色い子猫…エリス様に出会った。
 エリス様は生粋の家猫で、野良の生活など爪の先程も知らなかったが、か弱い外見とは裏腹に、自分というものをしっかりと持った素晴らしい猫だった。
 そして、レヴィアス様がエリス様を送り届けたことをきっかけとして二匹は惹かれあうようになった。
 その頃のレヴィアス様は…私の目から見ても生き生きとされていたように思える。
 エリス様がレヴィアス様にもたらした、安らぎ、喜び、それらは縄張り全体にも良い影響を与えたと言ってもよいだろう。
  だが、レヴィアス様にはまとめ役の跡取り猫としての責任と誇りがあった。エリス様と共に過ごすようになってからもその考えは変わらず、このK町をどんどん統括して行き、それを疑問と思うことはなかった。
 しかしエリス様は、レヴィアス様が傷つき、仲間が傷ついてまでで縄張りを広げて行く、ということの虚しさ、意味の無さに耐えられなかったのだ。
 レヴィアス様に会うたびに、エリス様はそのことを繰り返し訴えた。
 そして…。いつしかレヴィアス様はエリス様を避けるようになっていった。
 …心が離れた訳ではない。だがレヴィアス様のそれまでのにはは彼女を愛する自分を、時が経つと共に認められ無くなって行ったのだ。
 けれど、エリス様という存在は…レヴィアス様にとって、かけがえの無い一匹の女性であったのだ…。
 その心が凝り固まり…そして、レヴィアス様の中に、アリオスというもう1つの自我が生まれた。
 アリオスは奔放で飾り気がなく、気ままで優しく、自らの心を偽る必要の無い、自由な猫…レヴィアス様が望むもう一匹の自分だった。
 しかしその時はまだ、一番傍に居たエリス様を除いて、レヴィアス様の中に生まれたアリオスという自我に気付いたものは、居なかった。レヴィアス様ご自身でさえ。
 エリス様は悩んだ。レヴィアス様とアリオスにそれを告げることが出来ずに。エリス様がその事について相談できたのは、ただ一匹の金猫のみ。

 そしてそのまま月日がすぎ。エリス様にお子が出来た。
 アリオスであるレヴィアス様はそれを機に、エリス様を飼い主の元から連れ去る決意をした。二匹だけで遠くへ行こうと言ったのだ。
 エリス様は…頷いた。アリオスとしてのレヴィアス様を愛していたこともあり、そしていつ死ぬか分からないあの生活からレヴィアス様を引き離せるならば、とそうお考えになった。
 アリオスは何も知らないはずだったが、もしかすると心の片隅で、レヴィアス様の存在を嗅ぎ取っていたのかもしれない。自分を縛り付ける、『まとめ役』という重荷…嫌がおうにも縄張りを広げて行かなければいけない、そんな重圧を感じとっていたのかもしれない。
 しかしその頃、自分の記憶が日に何度も飛ぶ事を、レヴィアス様は訝しみはじめていた。
 そしてある一匹の金猫が…その猫は先代の狂信者でもあった…その猫が、レヴィアス様に告げた。
「あなたの中に、もう一匹の貴方が居る。」
 レヴィアス様ははじめ、信じられないといった顔をしていた。金猫はしかし、更に言った。
「エリス様は彼を愛している…彼と逃げるつもりだが…あなたはどうするのか。」
と。
 …もう分かるな。それは私だ。
 そして…。
 アリオスがエリス様と逃げると約束した晩…ちょうど、こんな月の夜の事だった…。レヴィアス様はアリオスとしての自我を、自分の中に押し殺す術を覚え、そして、待ち合わせた場所で…そう、あの鎮守の森で…。エリス様に別れを告げたのだ。
 エリス様は、レヴィアス様とアリオスが互いを知らないと思い込んでおられた。
 その瞬間のエリス様の表情は、えもいわれぬものだった。…というのも、私もその場に居たからな…鎮守の森の木の陰に。
 エリス様は、レヴィアス様の静止を振りきって、道路に飛び出して行った。
 レヴィアス様は、彼女を追った。
 レヴィアス様とて、彼女を…離したくは無かったのだろう。
だが…。
 道路に走り出たレヴィアス様に私は叫んだ。
「どうしてもゆくのか、縄張りをどうするのだ。」
と。レヴィアス様を連れて行かれるわけにはいかなかった。なんとしても!
 レヴィアス様が私を振り返った。その時…私がレヴィアス様だと思い込んでいたその瞳の奥には、アリオスが居た、そんな気もする。
 その時だった。一台の車が猛スピードで走ってきたのは。
 私は動けなかった。あの強い光の中にレヴィアス様の銀の毛並みが光るのを見ていただけだった。
 しかし。
 エリス様は違った。エリス様はレヴィアス様を…突き飛ばし…
 そして。
 レヴィアス様の目の前でひき殺されたのだ…。

 その時、アリオスという自我はエリス様と共に消え去った…とそう、私は解釈していたが…。


「胸が悪くなるね…。」
オリヴィエ猫が呟いた。「結局の所アンタが余計な口だししなけりゃ…こんな事には…。」
 キーファー猫はそれには答えず、僅かに耳を倒して、その場に動かないレヴィアス猫とヴィクトール猫の亡骸を見、そしてその場に佇んでいるアンジェリーク猫を見た。
「ヴィクトールを捕らえた後、我々は本来の住処…鎮守の森へ帰ろうとした。だが、神社の前で倒れ、気を失っていたお前を…アンジェリークといったか…見たとき、レヴィアス様の中に微かに残っていたアリオスが目を覚ました。」
「じゃあ…今お嬢ちゃんを助けたのは、アリオスか…。」
 オスカーが感慨深げに溜息を付いた。
 しかし、 アンジェリーク猫は、徐々に冷たくなっていく二匹の亡骸に寄り添ったままきっぱりとした口調で言った。
「ううぅん。私は違うと思います。…あのときのあの目はレヴィアスだった…。レヴィアスの中にアリオスが居たの…。そして、エリスを呼んでいた。」 
── 私ではなく、エリスを。
 初めて会った時からアンジェリーク猫には分かっていた。アリオス猫が痛いほどにエリスを求めていたことを。…彼女が死んだと認められぬままに。
 …そしてそれがレヴィアスの本心なのだとしたら、それはとても悲しい想いだ。
── 救われたのかしら…彼は。
 アンジェリーク猫は、目を閉じた彼の顔をまじまじと見詰めた。
 レヴィアスはエリスを助けることが出来た。
 今は、あの冷たい雰囲気など少しも感じない。
 それから、アンジェリーク猫はごくゆっくりとうつろな瞳をもう一匹へと向けた。
 倒れたままの大きな身体には、もう命の気配がない。
── ヴィクトール様…。
 アンジェリーク猫は、堅く強ばり始めた赤銅色の猫に頬を寄せた。
 閉じた右目の上を走る傷を何度も舐める。
 いつもなら、くすぐったがって私を叱るのに。アンジェリーク、悪戯ばかりするな、と。
 でも、もう2度とその目は開かない。その声は私を呼ばない。
 アンジェリーク猫はようやくそれに気付いた。
「ヴィクトール様…お願い…目を開けて…。私を見て…もう1度呼んで?」
── あの時私をアンジェリークと呼んでくれたのはあなた。
 南の空き地で別れたときには、こんな風になるなど思ってもみなかった。いつものように「行ってらっしゃい、気を付けて」と言っただけ。
「ヴィクトール様…。」
 叶わない願いだと分かっていながら、アンジェリーク猫は冷たい骸に寄り添った。彼の大きな身体を包む事は出来なかったが、あの雨の日に彼が彼女にしたように、自らの体温を伝えようとする。
 流れ続けていた血が、赤銅色の毛並に凝ってゆき、いよいよ彼がこの世から離れて行く。
 苦しくて苦しくて、心が張り裂けてしまいそう。
 エリス猫を失ったアリオス猫も、こんな気分を味わったのだろうか。
 だが、ヴィクトール猫の目は開かなかった。
 アンジェリーク猫の心の中に、徐々に悲しみ以外の感情が沸きあがり始めた。
 それは、彼女だけではどうにもできないやるせない想い。
 煮えるような滾るような。
「…嫌よ…。」
 もう2度とあの琥珀色の瞳が自分を見ないなど。
 2度とその声が自分の名を呼ぶことが無いなど。
 許せなかった。どうしても。
「…かえして…。」
 小さく、しかし強く、アンジェリーク猫の声が静まりかえって彼女の動向を見守っていた皆の間に響いた。
 アンジェリーク猫が、その栗色の瞳を上げて、一匹一匹の顔を、一巡して見る。
「アンジェリーク…。」
 オスカー猫は、アンジェリーク猫を見詰めた。「…大丈夫か?」
 しかし、アンジェリーク猫はゆっくりと立ちあがり、そして叫んだ。
「……返して! …ヴィクトール様を返してください!」
「お嬢ちゃん…。」
 オスカー猫はアンジェリーク猫の首筋をそっと噛んで落ちつかせようとする。だがアンジェリーク猫は、叫びながら地団駄を踏みつづけていた。
「どうして止めてくれなかったの? 縄張りがそんなに大事なの? …この二匹の命よりも?」
「アンジェリーク、落ちついてや!」
「出来た筈だわ、レヴィアスは本当にこの闘いを望んでいたの? …どうして私になにも教えてくれなかったの?」
 チャーリー猫は、意味の繋がらない事を叫びながら、誰かれ構わず噛みつこうとするアンジェリーク猫の前に立ちふさがった。
「だって! 仕方がなかったんだ!」
 高く響く声がして、皆は一瞬声の主に注目した。
 声の主である小さな砂色の猫は怯んだ様子を見せたが、やがておどおどと話し始めた。
「…仕方なかったよ…。だってエリス様を失ってまで選んだ道だもの…。」
砂色の猫の言葉に、アンジェリーク猫は彼をまじまじと見詰めた。
 砂色の猫はアンジェリーク猫の視線を痛いほどに感じながら、言葉を続ける。
「それに、レヴィアス様は僕にこっそり話してくれたよ。
 『落ち星』でエリス様を生き返らせるつもりだって。
 …そして、僕に言ったんだ。「落ち星」は一匹につき1つしかお願いを聞いてくれない。だから、お前に頼む。アリオスを…自分とは違う一匹の猫として生き返らせてくれ、って…。
僕はアリオスに、川で溺れていたところを助けられたんだ。だから僕はすぐにうんって言った。僕だってもう1度アリオスに会いたかったし…。」
「そんな…。」
アンジェリーク猫の身体から力が抜ける。そしてその咽喉から、絞り出すような声が漏れた。「それが、レヴィアスの望みなの?…そんな…悲しい願いが…?」
 少しずつ、孤独だった魂の仮面が剥がれてゆく。
 その本質は、アリオスというもう1つの自我と変わるものではなかった。
 アンジェリーク猫はゆっくりと踵を返し、横たわったままの二匹を見た。
 自分が心から愛した猫と。
 己以上にエリスと言う女性を愛した猫を。
 二匹を見詰めるアンジェリーク猫の瞳から、一筋の涙が流れた。
 そして。
 その一滴の涙は、アンジェリーク猫の足元に転がった『落ち星』の上に零れ落ちた。
次の瞬間。

 その小さな蒼緑のガラス玉から、光が溢れた。
 同時に巻き起こる、強い風。

「な…なんや!?」
 目がくらむほどの蒼い光と、髭を震わせる突風に、周りに居た猫たちは思わず目を閉じた。


CAT'S
〜 南の空き地 編 5 〜

<終章>
 溢れる出る光。
 耳元を裂くような轟音。
 そんな中、アンジェリーク猫だけがいまだ呆然としたままで、蒼い光の中、目の前のビー玉を見据えていた。
 否。今更これがただのビー玉だと思うものは居まい。
── 何が、起きるの…?
 光が形を成してゆく。
 そして三つの明るい輪になって、倒れた二匹と、アンジェリーク猫を包んだ。
 暖かで柔らかい波動が三匹を包む。
 アンジェリーク猫は自分の身体の中に、その光が浸透して行くのを感じた。
 溢れ出す想い。
── これは、何?
 とても切なく、そして甘い心。
 それはアンジェリーク猫にも覚えのある心であったが、彼女のものではなかった。
 誰かが囁く。若く優しい声が。
「あなたの望みは何?」
── 私の望み…? そんな事、初めから決まって居るのに…。
 アンジェリーク猫は、思い浮かべた。
 ヴィクトール猫の微笑を。
 アリオス猫の匂いを。
 そして、1度も会った事の無い、見知らぬ女性の姿を。

その瞬間、光が弾けた。
渦巻く風が、辺りを攫う。

「きゃあっ…。」
 アンジェリーク猫は思わず目を細めて四足を踏みしめた。しかしビー玉から巻き起った風は、後ろで目を閉じていた仲間達同様彼女を吹き飛ばした。

 そしてその風が収まったとき。
「…あ…。」
 アンジェリーク猫はゆっくりとその蒼緑の目を開けた。
 光が夜空に溶けて行く。
 徐々に薄らと。そして煌きながら。
 そして、その光の向こうには…。
 アンジェリーク猫は思わず目を疑った。
「ヴィ…クトール…さ、ま…?」
「アンジェリーク……。」
 アンジェリーク猫の目の前には、巻きあがった埃の中に唖然とした様子で、しかししっかりと四つの足を踏みしめて立つヴィクトール猫の姿があった。その身体は蒼い光に包まれている。
 アンジェリーク猫の瞳から、更に大粒の涙が零れた。
 しかし、それは喜びの涙。
 彼女はヴィクトール猫に飛びついた。
「ヴィクトール様…っ!!」
 彼の匂い。彼の体温。…夢を見ているようだった。…いや、夢なのかもしれない。
 そしてアンジェリーク猫が彼に触れた途端、ヴィクトール猫を覆っていた淡い光は急速に薄れ、消えて行った。
「本当に…ヴィクトール様、ですよね? …私の間違いじゃないですよね…?」
 アンジェリーク猫はその暖かさを感じていながら、尚信じられずに何度も彼の頬を舐めた。
 一方ヴィクトール猫は、その胸の中の小さな茶色い猫を驚きの眼差しで見詰め、辺りから寄せられる驚きの眼差しを感じ、そして…
「アンジェリーク…俺は死んだんじゃなかったのか…?」
 そうぽつりと呟いた。
 あの鉄骨から落ちた後、薄れ行く意識の中で、ヴィクトール猫ははっきりと自分が助からない事を理解していた。
 そして、ヴィクトールと同時に飛び降りたレヴィアス猫が、アンジェリーク猫を、ヴィクトールと共に守った事も。
「奇跡や…。」
 チャーリー猫の呟きが、耳に飛び込んでくる。
── 奇跡? …一体何が起こったんだ…?
 今の闘いで負った傷は、跡形もなく消え、残っているのは今までに出来た古い傷ばかり。
── 傷が無い。…熱も…?
 ヴィクトールはもう1度、胸の中で泣くアンジェリーク猫に視線を戻した。そしてふと、その足元に転がっているビー玉に気付いた。
 ビー玉はまだ、ごく弱いながらも薄青い光を放ちつづけている。
 ヴィクトール猫は夜空に吸い込まれてゆくその光を目で追って、そして漸くわが身に何が起きたのかを、知った。
── 落ち星…の、力…? …俺は、生き返ったのか。
 それに気付いた瞬間。ヴィクトール猫は、しきりに自分を舐めるアンジェリーク猫をかき寄せた。
 その尻尾で。その前足で。
「俺は、お前を置いていかずに済んだんだ…そうだな?」
「はい…。 ……はい! ヴィクトール様…。」
 アンジェリーク猫は泣きながら答えて、そしてもう1度ヴィクトール猫の胸に顔を埋めた。
「…泣かないでくれ…。お前が泣くと、俺はどうしていいか判らなくなる…。」
 ほろほろと涙を零すアンジェリーク猫に寄り添って、ヴィクトール猫は囁いた。
 だが、その時。
 ヴィクトール猫は尋常でない気配を感じて、身体ごと降り返った。
「………っ!」
 そこに。
 銀毛の猫が、居た。
 彼もまた、淡く光りながら、こちらに背を向けて立っている。
── あいつも、生き返ったってことか!?
 ヴィクトール猫はそれに気付いた瞬間に、アンジェリーク猫を自らの背中に押しやり、身構えた。
 周囲の猫たちも、ヴィクトール猫のその視線に気付き、そちらへ目を向ける。
「アリオス!! …生き返ったんだね!」
 砂色の子猫が叫び、大きく微笑みながら彼に駆け寄った。
「………。」
 だが、ヴィクトール猫とつい先程まであれほど激しい戦いを繰り広げていたレヴィアス猫は、淡蒼い光を徐々に納めながら立ちすくむばかりで、自分に触れた砂色の子猫に気付かない。
 …いや、周囲の事など目に入らぬ風に…彼の前に立つ一匹の茶色い雌猫とに見蕩れていたのだ。
 その猫は。
 アンジェリーク猫よりも少し年上の、滑らかな姿態をもった茶色い猫。四足の先が白く靴下を履いているところまで同じ。
 ヴィクトール猫とそして、彼に寄り添うアンジェリーク猫…それからその場の全員の視線の集まる中、レヴィアス猫は口を開いた。
「エリス…?」
 レヴィアス猫は、呆然とした調子で彼女の事をそう呼んだ。
 そう、確かにその姿は、エリス。
 レヴィアス猫はおぼつかない足取りで彼女に近寄る。その身体からはもう、淡蒼の光が薄れ、消えていた。
「レヴィアス…。」
 エリス猫がレヴィアス猫に投げる眼差しは、喜びのためかそれとも悲しみのためか、潤んでいる。
「エリス…。エリスなのか!?」
 その問いに、彼女は小さく、しかししっかりと頷いた。
「会いたかった…。あなたに…こうして。」
 しかし、その身体は他の3匹と違い輝きつづけて、この世のものではない事を知らせている。
「…エリス…。お前は…死んだはずだ…。」
 レヴィアス猫は呆然としたまま呟いた。
「ええ。…レヴィアス…。」
 エリス猫は小さく頷く。
「いや…死んでなんか居ないよな…お前はずっと俺のそばに居た…。」
 レヴィアス猫の言葉が、少しずつ混乱して行く。
「落ちついて、アリオス…。よく考えて…。もう一匹のあなたと一緒に…。」
 エリス猫の言葉に、レヴィアス=アリオス猫は目を閉じる。ないまぜになった記憶を辿る様に。
 アンジェリーク猫は生き返ったヴィクトール猫の傍にしっかりと寄り添いながら、その光景を見ていた。
 やがて…レヴィアス=アリオス猫はゆっくりと視線を上げた。
「…俺は…。誰なんだろう…な。」
 その口端に皮肉な笑みが乗った。エリス猫に向ける眼差しに不安と怒りが含まれる。
「アリオス…。」
エリス猫が僅かに首をかしげ、そして悲しげに彼に声をかけた。「あなたは…どちらを取りたいの?」
 その問いに、彼は一層彼女を睨みつける。
「どっちだって? …俺にそれを決めろって言うのか!?」
「私なら、あなたの記憶を消せる…あなたを一匹にしてあげられるの。」
エリス猫が、言った。「ずっと貴方を見てきたわ。貴方がレヴィアスとして生きて行くのを私は貴方の傍で見てきた。…私がいなくなってから貴方はどんどん頑なになっていった。相手を殺すことに罪を感じる事もなくなり…、仲間を省みる事も無く…。私が貴方をそうさせてしまったのね、レヴィアス…。」
「我に消えろと言っているのだな、エリス…。」
 声色が変わり、視線が鋭くなる。
「レヴィアス…違うの! …本当の貴方を…貴方が生きてゆくために、貴方に選んで欲しいのよ! …私には、どちらも選べないもの…。」
 悲痛な目をしてエリス猫は叫んだ。
 二匹とも愛していた。レヴィアス猫も、アリオス猫も。
「選んだからと言って、なんになる。」
レヴィアス猫の声が響く。「このまま生きて行って何になる…我自身としても、アリオスとしても…。」
 そして、彼の金緑の瞳がエリス猫をまっすぐに貫いた。
「この、お前のいない世界で!!」
 しん… と辺りは静まり返った。

 アンジェリーク猫はそっと隣のヴィクトール猫の横顔を見上げた。
 あなたの居ない世界で。
 私は、きっと生きてはゆけない。

 ヴィクトール猫はそんな彼女を見降ろした。
 お前のいない世界で生きてゆこうとするなら。
 それは…まるで死んでいるも同然なのだろうな。

「あなた、そう言ってくれるのね…。」
エリス猫の震えるような声が、した。「なら…私と一緒に…。」
 彼女の蒼緑の瞳が、揺れる。
「ああ…。」
 アリオス猫なのか、レヴィアス猫なのか…。
 彼は低く呟くと、淡く光ったままのエリス猫へと歩み寄り、そして言った。

「俺は…。お前と共に、生きる。」
と。

 その瞬間。
 エリス猫を包む光が、高く澄んだ音と共に弾けて四方へと飛び散った。
 辺りを淡く包んでいた彼女の光が消え、空き地には星明りだけが残った。

「あなたは…そう言ってくれると思っていたわ…。」
 一緒に死ぬのではなくて。
 共に生きたい。
 エリス猫の瞳が輝いて、その中に微笑みが乗った。

 漸く触れ合った二人の姿に目を奪われるように立ちすくむ全ての猫たちの中で。
「レヴィアスさまは…もう、いないのですね…。」
 ただキーファー猫だけが、呟くようにそう言った。

 夜明けを告げる鐘の音が、遠い空から響いてくる。
「こんな夜明けを見るのは、久しぶりのような気がする。」
 ヴィクトール猫が、アンジェリーク猫の傍らに寄り添いながら、彼女の耳もとに囁いた。
 蒼い空はどこまでも蒼く、東からオレンジ色に染まってゆく。
 アンジェリーク猫は少し身体をずらして、ヴィクトール猫の胸の中に鼻をうめた。
 今までと同じなのに、今までと違う朝。
「ヴィクトール様…あったかい。」
「そればかりだな。」
 ヴィクトール猫は苦笑して彼女を尻尾で抱き寄せた。
「私ね、ヴィクトール様が暖かい事がこんなに嬉しいことだとは思っていなかったから。」
 アンジェリーク猫は囁いた。
 ヴィクトール猫はそんな彼女を愛おしそうに見詰める。
 夜半過ぎまで縄張りの全ての猫達が話し合っていた南の空き地には、今はこの二匹しか居ない。
 アリオスはエリスを連れて、あの工事現場を去っていった。一匹のはぐれ猫として。
 キーファーが次のまとめ役として、縄張りを治めて行くという。
 アリオスとエリスがどこへ行くのか。
 それは分からない。…けれど。

「もう…ずっと傍にいてくださいね…。」
「ああ…。」

 夜が明けて行く。
 長い、長い夜の終りだった。


<END>


 

 

長くお待たせして済みませんでした〜
漸く終わり、ホッとしています。
コンセプトとしては、
「南の虎と北のオオカミ」
でした。
では、また!
蒼太

2001.07.28.


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