CAT'S 〜 南の空き地 編 1 〜


 

私が思い出せる限りの、一番初めの記憶。
 それは、冷たい雨と、凍える私の身体を抱きしめてくれたあの猫の暖かい胸。
 今も変わらず彼は傍に居てくださるけれど。
 私はもう少ししたら、初めての恋の季節を迎える。
 たぶん、あの猫以外の猫と…。


<1>

「アンジェリーク!」
 大きな良く通る声が、アンジェリーク猫を呼んで、彼女は空き地の片隅で弄っていたアリの行列から顔を上げて振り返った。
「なんですか? ヴィクトール様。」
 空き地の奥に置かれた昔ながらの三個積みの土管の上に、右目に大きな傷を持った赤褐色の猫が座ってこちらを見ている。
 その隣には、郊外からわざわざやってきた青い猫…セイランという名前だと、アンジェリーク猫は聞かされている。何度か話しもしたこともある。
 そして、その周りをとり囲む更に数匹の猫達は、どこか緊張した様子でアンジェリーク猫を振り返った。金・赤・薄青・緑・バター色と、とりどりに集まったこの数匹の猫達は、この縄張りを代表する猫達である。
 彼らはここ最近なにやら頻繁に会っては、アンジェリーク猫をこうして遠くにやり、難しそうな顔をして話し合ってばかりいた。
 今日は特に重大な話であったらしく、アンジェリーク猫は随分長い事、こうして呼ばれるのを待っていたのだ。
── 良かった。お話終わったのね。
アンジェリーク猫は少しふらつきながら彼に走り寄った。アンジェリーク猫の片方の髭は、生まれつきなのかそれとも誰かに切られたのかチョッピリ短い。そのせいで身体全体のバランスが悪く、方向感覚も鈍く、そして、高い所からも上手く降りられない。
 だから、土管の上に上ろうとするアンジェリーク猫を制し、ヴィクトール猫は身軽に土管を飛び降りた。
 アンジェリーク猫は、ヴィクトール猫の元にこういった猫達が集まってくるのを誇りに思うと同時に、少しだけ嫌がっていた。
 なぜなら、その間ヴィクトール猫から離れていなければならないし、普段は穏やかな表情をしているヴィクトール猫が、険しい顔をするのを見るたびに、えもいわれぬ不安が湧き起こるからだ。
 けれど、アンジェリーク猫は我慢して、それをヴィクトール猫には決して言わない事にしていた。もうそろそろ子猫ではなくなるのだし、ヴィクトール猫は自分だけのものではないと、最近はよく分かるようになっていたから。
 しかし、今日のヴィクトール猫は、いつものように彼女に笑いかける事はせずに、堅い表情のままアンジェリーク猫に言った。
「俺はちょっと出かけてくる。…空き地から出るなよ。」
 ヴィクトール猫がそうわざわざ釘を刺すのは、この茶色い可愛らしい子猫が相当な方向音痴だからだ。
 彼が居なければ、縄張りから出て行ってしまうのがざらであるし、なにより…。
 そんな彼女が迷い猫になり、そして記憶を失って雨の中、倒れていたのを助けたのもヴィクトール猫だった。
「分かりました。…気を付けて行って来てくださいね。」
 アンジェリーク猫は内心の落胆を隠して、ヴィクトール猫に笑いかけた。ヴィクトール猫はそんなアンジェリーク猫にうっとりするほど優しい瞳を向け、身体を寄せる。
「俺は大丈夫だ…。真夜中までには戻れると思う…待っていろよ。」
それから鋭い瞳を周りの数匹に向けた。
「油断はするなよ。」
 金毛のジュリアス猫が言い、そしてヴィクトール猫の隣でその言葉に耳を尖らせたアンジェリーク猫を見て、僅かに困ったような顔をした。
 ヴィクトール猫はそれには気付かずただ頷いて、今度はセイラン猫を見た。
「さあ行こう。」
 セイラン猫は無言で頷き、皆の視線を背中に受けたまま、ヴィクトール猫の後ろについて空き地を出た。
 そして、彼の背中に向かって小さく笑う。
「相変わらずな過保護ぶりだね。…そんなに甘やかすと成長しないよ。」
 彼の言葉にヴィクトール猫はちょっぴり苦い顔をした。ヴィクトール猫は自分が拾った、ほかの猫より少しだけ鈍いこのアンジェリーク猫が可愛くて仕方がなかったのだ。その甘やかしっぷりは、普段『まとめ役』として厳しい顔を見せるヴィクトール猫を知る他の猫達にとっては脅威でさえあった。
 ヴィクトール猫は、空き地のフェンスの向こうで仲間と共に自分達を見送っている茶色い子猫をちらりと見ると、セイラン猫に言った。
「余計な事は言ってくれるな。…お前にアンジェリークが欲しいという気があるなら、な。」
 ヴィクトール猫は今、自他共に認めるアンジェリーク猫の保護者である。
 そして、ヴィクトール猫の許可なくしては、アンジェリーク猫に手を出すことなど以ての外であった。
「はいはい…。僕だってアンジェリーク猫のあの可愛らしさには、朝露を口に含む時みたいな魅力を感じているんだから。…なにせ彼女は触れるのも惜しいほど素敵で…きっと甘い…。」
 こんなことばかり言っているから、セイラン猫はよく『芸術猫のセイラン』と呼ばれる。
 セイラン猫のいつもの口ぶりに、ヴィクトール猫は歩きながら降り返った。
「お前の言いまわしは、俺にはよくわからんよ。どうしてアンジェリークが朝露なんだ?」
 これから努めなければいけない重大な任務を前に、二匹は気分をほぐそうと軽口を叩き合う。
「まったく…これだから野良は困るよ。1度僕のように芸術家に飼われてみるがいいさ。」
「悪いが遠慮こうむる。…その芸術家の家を飛び出してきたのはおまえにいわれてもその気にならんしな。」
 可笑しげに、ヴィクトール猫が言う。セイラン猫は耳を軽く動かした。
「そうさ。僕は気ままに生きるよ。…苗字を捨て、旅に出る…。わるいけど、君のアンジェリークを連れてね。」
「それも、今のごたごたが片付いてからだ。…悪いな。」
 ヴィクトール猫はセイラン猫の最後の言葉は聞かなかった事にして、足を止めた。
 アンジェリーク猫は知らないが、現在、ヴィクトール猫のまとめるA町の南の空き地を中心とした縄張りは、隣接するK町を最近統括したという、新しい勢力に狙われていた。
「…ここかい?」
 セイラン猫の声が緊張する。ヴィクトール猫は前を向いたまま頷いた。
「そうだ、ここからは隣町。つまり例の相手の縄張りだ。…どうだ?ここでお前は帰ってもいいんだぞ。」
 セイラン猫は、一応確認をするヴィクトール猫に向かって小さく鼻を鳴らした。
「はん。僕がここで引き下がるとでも思ってるのかい? …こんな面白いこと、次にいつ起きるかわからないっていうのに。」
 セイラン猫はわくわくした様子を隠しきれずに、それでも流石に声を潜めて電柱の影に寄り添った。なかなか様になっている。
 ヴィクトール猫は、彼のそんな姿に苦笑する。
「なら…行こう。だが、あくまでも目的は相手との交渉だからな。」
 隣町の猫がヴィクトール猫達の縄張りを狙っているという噂がたって、1週間程が過ぎた。
 ヴィクトール猫を初めとする南の空き地の猫達は、元々争いを好まない。最近では、縄張り争いの明確な敵意を向けられる前に、話し合いの席を設け、その話し合いが受け入れられなかった時にのみ、後日、立会い猫が見守る中で代表者同士で決着をつけようになっていた。
 そしてヴィクトール猫はここ数年、南の空き地の代表としてそれらの闘いにことごとく勝ち、縄張りを守り抜いてきていた。おのずとヴィクトール猫の強さは広まり、最近では南の縄張りを奪おうとする者など皆無であったのだが。
 しかし、ヴィクトール達が今向かっているK町の新しく巨大な勢力は、参謀であるジュリアス猫からの再三の呼びかけに応じず、そのまとめ役…金と緑の瞳を持ったレヴィアスという猫は、ヴィクトール猫と同じ程の強さを持っているらしかった。
 危険と分かっている交渉役に、生半可な者を送るわけにはいかない。
 ヴィクトール猫達は話し合い、その結果こうしてヴィクトール猫本人と、セイラン猫がこうしてやってきたのだが…。
「血の気の多い奴らには向かない仕事だよね…。」
セイラン猫はくすりと笑って、残してきたメンバーを思い返した。「ま、見ててよ。上手くやってあげるからさ。」
「とにかく、初めは相手の懐に飛び込むことだ。…行こう。」
 ヴィクトール猫は、改めてその表情を引き締めた。


 一方、空き地に残ったアンジェリーク猫は、ジュリアス猫達が去って行く後姿を見送ってから、またアリの行列を眺めに、空き地の隅に戻った。
 アリは、さっきと同じ調子で土を運び出している。新しい巣を作っている最中なのだろう。日がすっかり暮れれば、あとは巣に戻って眠りにつく。
 それを見ながら、アンジェリーク猫は考え込んだ。
 もしかしたらこんな情況に不慣れなのか…つまりは、無くした記憶の中でアンジェリークが家猫であったのか…彼女には身の回りがあわただしいその原因がよく分からなかった。
 分かっているのは、どうやらこれがとても良くない状態で、その真相を知らないのは、もしかすると縄張り中でアンジェリーク猫だけかもしれない、と言う事だけだった。
── どうしてヴィクトール様は、私にはなにも言って下さらないのかしら。
 アンジェリーク猫は、少し悲しくそう考えた。
 まだ子猫だと思われているのは明かである。
 セイラン猫と共に歩み去っていった後姿を思い浮かべてみる。
 大きな赤銅色の身体のいたる所についた傷跡とあの落ちつきは、今まで彼が生きてきた数年間の重みを感じさせ、一方頭の中以外には傷1つ無い自分の身体は余りにも不釣合いな気がした。
── 私が本当に大人になるまで、あともう2.3日くらい…。
 アンジェリーク猫は、最近自分の身体に起り始めた変化に気づいていた。丸々とした体のラインは少しシャープに。そしてどちらかというと短かった、白い靴下を履いた四足は長くしなやかに伸び始めている。
「大人になったら…。」
 ヴィクトール様は私に教えてくれるかしら。今何が起きているのか。
「けど…。」
 同時に、アンジェリーク猫はその季節がやってくる事を酷く恐れていた。
 実は、先ほどのセイラン猫を含め、アンジェリーク猫にはヴィクトール猫の認めた婚約者が数匹いた。
 優しい水色の猫、傘屋の半野良リュミエール猫。
 情報屋のチャーリー猫。言わずと知れたたこ焼き屋の猫。
 いずれも、この辺りでは有名な、中堅の猫たちだった。
── でも私が好きなのは。大好きなのは…。
 ヴィクトール猫。
 あの冷たい雨の日に、私を助けてくれた、あの猫。
 泥だらけで、小さくて惨めだった私を拾って、自分が泥まみれになるのも構わずに、暖めてくれたあの猫。
 記憶の定かでない私を、そのまま受けとめてくれたあの猫。
 けれどヴィクトール猫は、アンジェリーク猫が彼に対して持つような気持ちは、感じていない様子だった。
 だから、アンジェリーク猫はこのまま彼以外の猫と恋の季節を迎え、子供を産み、彼から離れて一人立ちしなければならない。
 アンジェリーク猫は、前足で軽く地面を引っかいた。
── 出会った時に、私がもっと大人の猫だったら。
 ヴィクトール様は、もしかしたら私をお嫁さんに選んでくれたかもしれない。
 恋の季節、私の呼ぶ声が届くほど傍に、いてくれたかもしれない。 
 けれど彼は大人で。恋の季節など何度も経験していて。…きっと、通う相手ももう決めている。私以外の誰かに。
 アンジェリーク猫は、何時の間にか摩り替わった問題に、ほぅと息をついた。
 と、そのときだった。
「何を溜息などついておるのじゃ?」
 低く響く、しかし女性の声が上から聞こえて、アンジェリーク猫は顔を上げた。
「あ、アンジェリークおば様。」
 アンジェリーク猫がそういうと、塀の上から彼女を見下ろしていた金茶赤の猫は、すとんと彼女の前に降り立った。
「久しいの、元気だったか?」
 この古めかしい言葉を操る女性は、ヴィクトール猫の異母姉弟であるアンジェリーク猫である。記憶を失い倒れていたアンジェリーク猫に自分の名前をつけた猫だ。彼女も今はヴィクトール猫と同じく生粋の野良であるが、しかしその喋り口調や物腰から、昔はさぞかし良い家の飼い猫であったのだろうと、「女王」というアダナが付けられている。
「元気です。このところ体調もいいし…。」
 そう答えたアンジェリーク猫に、女王は悪戯気な目を向けた。
「そうかの? では何故そんなに冴えない顔をしておるのじゃ。」
「ヴィクトール様はまたどこかに行ってしまったし、…他にも色々…今度の恋の季節の事とか…。」
 アンジェリーク猫はそこまで言うと、黙り込んでしまった。
「そうよのぅ…。」
 そんな彼女を見て、女王は小さく溜息をついた。
 女王も、今回の縄張り争いに付いてはよく知っていた。今日彼らがどこへ向かったのかも。
 しかし、それについてアンジェリーク猫に伝える事は、ヴィクトール猫から厳重に口止めされていた。
『アンジェリークに余計な心配はかけたくないんだ。』
 まとめ役であるヴィクトール猫は、縄張りの代表として戦う事が多い。けれど、それをアンジェリーク猫に知られたくないと思っているらしかった。
『あいつは、俺がなにをしているかなんて知ったらきっと不安がるだろうから…。』
 少し困ったような顔をして言ったヴィクトール猫の言葉に、女王は言った。
『それで、お主が良いと思うなら黙っていても良いが…。もしお主がある日突然帰らないなどという事になったら…どうするのじゃ?』
 その問いに、ヴィクトール猫はやけにきっぱりと答えた。
『俺は、必ず戻るから大丈夫だ。アンジェリークを一匹だけにはしない。…絶対に。』
 だが、ヴィクトール猫が急にアンジェリーク猫の婚約者を決め始めたのは、その会話の後だった。
 女王も伊達に長く生きているわけではない。アンジェリーク猫の気持ちなど一目で見破っていたし、そしてアンジェリーク猫がいまだ気付いていないヴィクトール猫の本心も知っていた。
「のう、アンジェリーク…。」
女王は、俯くアンジェリーク猫の顔を覗き込むように屈んで、軽くその額に口付けた。「我々は誇り高き猫族の雌。そなたがその気にさえなれば、どんな殿方でさえ参らせることができるのであるぞ?」
「でも…。」
アンジェリーク猫は途方にくれた顔を上げた。「ヴィクトール様は私の事なんてなんとも思っていないから…。私…自信ないです…。」
 女王は、そんな彼女を呆れたように見る。
「そういうものかの…? 私など、そなたのように若かった頃には、ほれあの闇色の…げふん!」
「どうしたんですか?」
「いや、何でもないのじゃ。忘れることじゃな。」
女王は、慌てた様に腰を上げた。「そろそろ夕餉の時間じゃ。邪魔したの。また、暇を見てくる。」
「はい! 有難うございます。」
 アンジェリーク猫は耳をちょっぴり動かして、また塀に飛びあがった彼女の後姿を見送った。

── まずいな。思ったよりだいぶ組織化されている。
 ヴィクトール猫は全力で街角をカーブしながら、心の中で舌打った。
 縄張りを越えたヴィクトール猫とセイラン猫の姿は既に何者かに発見され、報告されていたようだった。彼らの集会場であるという噂の、K町の縄張りの奥へと入り込んだニ匹を、突然何匹かの猫達が取り囲んだのだった。
 そして今、二匹は彼らに追いたてられるように走っていた。
 けれど、彼らは決して二匹に追いつこうとはせず、どこかへ誘導しようとしているらしい。
 この手管といい、情報伝達の速さといい、噂のレヴィアスという猫は大した猫物のようだった。
── 突破しよう…!
 ヴィクトール猫は一瞬でそう判断した。
 このまま不利な場所に追い込まれるよりは、追ってくる彼らの中央を突破して縄張りに戻った方がいい。
 しかし…問題は、彼の隣を走るセイラン猫が、彼よりも数段素早いけれど持久力が無いということだった。だが悩んでいる暇は無い。
「セイラン!」
 ヴィクトール猫は低く叫んだ。
 セイラン猫の瞳がヴィクトール猫を見る。
「いいか、次の角を曲がったら振り返れ…俺が奴らを倒す。 縄張りに戻るぞ!」
 セイラン猫の瞳に、戸惑いが浮かんだ。けれど次の瞬間には、その口元に不敵な笑みが乗った。
「そう…ご苦労様。じゃ、ラフな仕事は君に任せて、僕は安全に走らせてもらうことにするよ…。」
 息を切らせながら答えるセイラン猫にもヴィクトール猫より自分のほうが素早いと言う事が分かっていた。
 そして、もし彼に何かが起きた場合には、彼を置いてでも自分は縄張りまで走り切らなければならないという事も。
 住宅街の街灯が、無言で走る猫達の背中を浮かび上がらせる。
 ブロック塀が、追う猫達の視界をさえぎった。
 次の瞬間、ヴィクトール猫は振り返り、セイラン猫は一足飛びに塀に飛びあがる。
 角を曲がってきた追っ手達が、突然現れたヴィクトール猫に驚いて足を竦ませる。
「こい!」
 ヴィクトール猫は腹の底から声を張り上げた。
 セイラン猫は姿を隠し走り去るが、追手は気付かない。そこにヴィクトール猫が襲いかかる。
 数瞬の後には、ヴィクトール猫の鋭い牙と爪が、その辺り一体を混乱に落とし入れていた。
 ヴィクトール猫の周りに、数知れぬほどの猫達が群がる。だがヴィクトール猫は、腿に、胴に噛みつかれながらも、それでも南の空き地を目指す。
 そして彼の気迫に押されて、絶対多数の追手達が彼の前に道を明け渡した、その時。
 彼の後頭部を鈍い痛みが襲った。
── くそ…。
 ヴィクトール猫は、薄れ行く意識の中で、自分を見降ろす金と緑の瞳を持った猫を見た気がした。

「我が居ないと、たった一匹の猫を捕らえる事も出来ないのか。」
 冷たく響く声に、集まった猫達はしんと静まり返った。
 ここは、K町の北の郊外。建設途中のビルの現場。その一角に積まれた剥き出しの赤い鉄骨の上に、冷えた空気を纏ったまま、銀猫が座っている。
 集まった猫達の前には、横たわったヴィクトール猫の姿。
「…申し訳ございません、レヴィアス様。」
 ウエーブのかかった金毛の猫が、耳を後に倒して答えた。
「ねえ、怒らないで? …だって、その猫凄く強かったんだよ。道を開けなきゃ、僕達かみ殺されていたよ。」
 砂色の小さな猫が、おろおろしながら金毛の猫の前に立つ。金毛の猫はそんな子猫のお節介に、僅かに迷惑そうな表情をしたが、それでも何も言わなかった。
「ふ…。まあ、いい。」
皮肉な笑いが銀猫の咽喉から漏れた。「ともあれ、当初からの目的は果たされたのだからな。」
 レヴィアスと呼ばれた銀猫は、ヴィクトール猫に向かって顎をしゃくった。
 それを受けて、数匹の猫が彼の身体を引きずってどこかへ運んで行く。
「お許しくださるのですか?」
 金毛の猫が、倒した耳を立ち上げた。
 しかし、レヴィアス猫は、そんな金猫を冷たく睨み据えた。
 金猫は慌てて再び耳を伏せる。
 月が雲間から覗く。
 金と緑。ヘネクロミアの瞳が月明かりに照らされて、鈍く光った。
「今はもう夜明けが近い。明日の晩から交渉に入れ。先に縄張り荒しをしたのはこいつ等だ。そして…隣の縄張り共々に、我々は『あれ』を手に入れる。」


 真夜中はとうに過ぎ、アンジェリーク猫は集まってきた仲間達の間に座って、共にヴィクトール猫とセイラン猫の帰りを待ちわびていた。
 空を見上げると、夜明けの蒼い光が町を染め始めている。起き出した人間達の生活の音が風に乗って聞こえてくる。
 アンジェリーク猫は空き地のフェンスの向こうへ目を向けた。しかし、ヴィクトール猫が帰ってくる気配は無い。
「…遅いな。」
 オスカー猫が呟くように言った。
 これはもう、何かが起きたとしか考えられなかった。
「町外れまで偵察に行った者達からの連絡はまだか。」
 時間が経つにつれて徐々に高まってゆく仲間たちの緊張に、アンジェリーク猫の小さな胸は不安におし包まれていった。
『真夜中までには帰ってくるから。』
 ヴィクトール猫は確かにそう言ったはず。…けれど。
 周りの猫達の会話から察するに、ヴィクトール猫は隣町のどこかへ向かったらしい。
 そこで、何が起きたのか。アンジェリーク猫が乏しい知識の中から想像を巡らせていたその時だった。
「セイランだ!」
 ランディ猫の声がして、皆はよろめきながら歩いてくるセイラン猫に気付いた。
 ランディ猫が素早く走り寄り、そして彼を支える。彼は全身に無数の細かい傷を負っていた。
「大丈夫か!」
 空き地に入ったとたんに倒れ伏したセイラン猫を、皆が取り囲む。
「…大丈夫に見えるんなら、君達の目は節穴だよ…。」
 息絶え絶えになりながら、それでもそんな口が利けるなら、命に別状は無い。…特に良い状態で無いのは確かだが。
「ヴィクトールは?」
 オスカー猫が彼に尋ねた。セイラン猫は倒れたまま答える。
「ヴィクトールとは…北の住宅街で別れた。あいつらは、僕らが縄張りに入ってしばらくすると、僕らをどこかへ導くように追ってきたんだ。ヴィクトールは掴まったか…逃げ切ったか…それとも…。」
 アンジェリーク猫は猫垣の後で小さく息を呑んだ。
 しかし、セイラン猫からより多くの情報を引き出そうとしている面々は、アンジェリーク猫の存在など忘れかけていた。
 アンジェリーク猫は、そろりそろりと後ずさった。
『空き地から出るな。』
 彼の言葉が頭を過る。しかし…。
 彼女はとうとう皆の視線を盗んで空き地のフェンスの破れ目を抜け、外に這い出して行ってしまった。
 短い髭に惑わされ、ふらふらとふらつきながら。


 

 ヴィクトール猫は身体の痛みに目を覚ました。薄暗い狭い場所。
 彼は目を細め、辺りを見まわす。
 その壁はコンクリートで塗られており、今倒れていた場所は狭いが、奥はなかなかに広い。頭上に開く小さな穴からは、夜明けの光と匂いが降りてきていた。
 ヴィクトール猫は、ほの白い外の明かりを見上げた。穴の入り口までは相当に高くどこにも足場が無い。が、昨夜の戦闘で出来た傷を除けは、気を失った状態で上から落とされたにしては軽い怪我であった。
── アンジェリーク…。
 帰ると約束した時間はとうに過ぎている。ヴィクトール猫は、残してきた茶色の子猫に思いを馳せた。今ごろどんなに心配しているだろう。餌はちゃんと食べられているだろうか。
 あの髭のせいで、一匹では何もできないアンジェリーク猫。ヴィクトール猫は彼女を心底愛していた。…もっとも、それは永遠に伝えることの無い彼の気持ちではあったが。
 だが、今は彼女の為にもまずここから出る事が先だった。
 ヴィクトール猫は頭を巡らせた。鼻先に、穴の奥から吹いてきくる風を感じる。ひょっとしたら出口はあちらにあるのかもしれない。
 と、立ちあがった彼の後ろ足に、鈍い痛みが走った。
 見ると、赤褐色の毛に覆われた左の腿が手酷く裂かれ、肉色が見えている。
── くそ…。
 痺れた後ろ足を噛む。
 感覚が薄い。折れているわけでは無いようだったが。
 ヴィクトール猫は上を見上げた。精神を集中して外の様子を伺うと、そこには何匹かの猫の気配がする。
── 今は、警戒が厳しい。一匹で抜けるにはダメージも大きいな。
 ヴィクトール猫は息を整え、冷静さを取り戻すと再び腰を下ろした。
── 様子を見よう。元々そのつもりで来たんだ。俺を今すぐどうしようという気も無いらしいし…。
 残してきた仲間達の事は気になった。だが、セイラン猫が辿りついていれば状況も少しは伝わるはずだ。この様子だと、もしかしたら自分は交渉のネタに使われるのかも知れない。だが、たとえ自分の命が引き換えにされても、仲間たちには彼に構うなと伝えてある。
 ただ、いざと言うときにどう言う行動にでるか、それだけは決めておかねばならない、とヴィクトール猫は思った。

 

 

 その頃。アンジェリーク猫は僅かに残るヴィクトール猫とセイラン猫の匂いを辿って、どうにか歩いていた。
 空腹を抱えて。
── ご飯を食べてくれば良かったわ…。
 普通に歩いていてもふらつく性質なのに、空腹と相まって気が散ってしまう。
 彼女はヴィクトール猫とセイラン猫が残した匂いの後を追って、まっすぐヴィクトール猫の元へと向かっていたが、なにせヴィクトール猫達が追われながら辿った道は複雑で、アンジェリーク猫はついに、彼らの匂いを失った。
── お腹…減ったな…。
 意識が朦朧としてくる。そして元々丈夫ではない彼女は、歩きながら意識を失い、その場に倒れ込んだ。

 

 

「ん…ん…」
 アンジェリーク猫は、薄らと目を開けた。湿った空気が鼻先に感じられる。
── ここは、どこ?
 薄暗い辺りを見まわすと、低い天井があり、足元は固くしまった湿った土。そしてそこに縦長格子の影が差し込んでくる。
 夜があけ、何時の間にか巡ってきた朝。アンジェリーク猫は時間を無駄にしてしまった自分に気付いて、今度こそ本当に目を覚ました。
「起きたのか?」
 アンジェリーク猫は、その声にびくりと身体を震わせて起き上がった。
 暗闇の中に、銀毛の猫がいる。そして彼はアンジェリーク猫に向かって、驚いたようなこまったような視線を送っていた。
 その瞳は見なれない金と緑。
「あ…あなたは…。」
 アンジェリーク猫は、突然現れた見知らぬ猫と、自分の置かれた情況に怯えた。けれど。
「久しぶり…だな。エリス。」
 その銀の猫は明かに怯える彼女に向かって、ぎこちなくではあるが、酷く優しい目をして笑いかけた。
「エ…リス…?」
 聞きなれない名前に困惑しながら、アンジェリーク猫はじりじりと下がった。
 だが近付いてくる銀毛の猫から危険な匂いはしない。その笑顔も酷く親しげで、憎めないものだった。
 下がるアンジェリーク猫に、その猫は目を丸くして、少し憤慨したように言った。
「どうして逃げるんだ。俺だよ、アリオスだ。…あんまり格好よくなっちまってわからねえか?」
「アリオス…?」
 その名を呼んだ瞬間、彼はえもいわれぬ瞳を彼女に向けた。が、それは一瞬の事。すぐに同じ調子で彼女を見た。
「…嘘だよ。ふざけただけだ。」
軽く髭を震わせる。そしてアンジェリーク猫に向かって真剣な眼差しを投げた。「…エリス。お前今までどこに行ってたんだ。」
「どこって…。」
 アンジェリーク猫は言いよどむ。どうやらこのアリオスと名乗った銀猫は、アンジェリークと誰かを間違っているようだった。だが。
「まあ、こうして戻って来てくれたなら、そんな事はどうだっていい…か。」
 自分の事を知らない名前で、しかし親しげに呼ぶこの猫。アンジェリーク猫の胸に、ある不安が沸きあがる。
「エリスって…誰の事ですか? …私はアンジェリーク…。エリスなんて…知らない…。」
「…え?」
アリオス猫はきょとんとした顔を見せた。そして苦笑する。「おいおい…。何もそんな嘘をつかなくたって良いだろ、エリス。意地の悪いことをしないでくれ…あのときの事は、俺が悪かったんだ…。」
「あのとき…?」
 アンジェリーク猫は耳を倒した。それは、もしかして…。
「お前が居なくなったあの日…。あの雨の日、俺はお前にひどいことを言った…。飼い猫のお前と、野良の俺とじゃ身分が違う、だから恋の季節が来ても、お前のもとには通えないって…。…あの日からお前は姿を消した。俺の前から…。」
 雨の日。
 私の記憶。
── 私…は…。
「エリス…なの?」
「何を言ってるんだ。」
 アリオスというその猫は、アンジェリーク猫に更に寄り添った。アンジェリーク猫は、呆然と呟いた。
「私…記憶が無いんです…。」
「何だと?」
アリオス猫はアンジェリーク猫の顔を覗き込んだ。「嘘だろう? …冗談だろ?俺をからかってるんだろ?」
「…私…。」
 アンジェリーク猫は震えながら彼を見上げた。彼の左右違う色の瞳が、自分を見ている。
「…本当、なのか…。」
 アンジェリーク猫は、こくんと頷いた。
 アリオス猫は、そんな彼女の身体に寄りかかる様にくっついた。
「…でも、お前はエリスだ…。俺の…エリスだよ。その毛並み…その瞳…絶対だ…。」
そして、言った。「…本当に分からないのか?」
「あ…。」
アンジェリーク猫の頭が痛む。
「エリス…。」
 愛おしそうにその名を呼んで寄り添ってくるアリオスという猫に、アンジェリーク猫はどこか懐かしい匂いを感じた。
 けれど。
 アンジェリーク猫は、思わず大きな声で叫んでいた。
「…分からない…。分からないの私! …貴方は誰? どうして私、思い出せないの?」
 アリオス猫は、突然大きな声を上げて不安を宿した瞳を彼に向けたアンジェリーク猫に驚いて、一歩下がった。
 どうやら、彼女が本当に記憶をなくしているのだと知る。 
「…悪かった。」
耳を後に下げて、小さく呟く。「そう…だな。お前が記憶を失っているなら…エリスだと決まったわけじゃない。…悪かったな。」
 アンジェリーク猫は、どうやら納得してくれたらしい彼に向かって、小さく言った。
「そんなに似ているの? その、エリスと言う猫に。」
「…ああ。そっくりだ。」
 アリオス猫は酷く悲しげな瞳をアンジェリーク猫に向けた。
 だが、アンジェリーク猫は彼に何かをしてあげることは出来ない。まだ彼女を見詰め続けるアリオスから目を逸らして、そして言った。
「…助けてくださって有難う。だけど私、もう行かなくちゃ…なんのお礼も出来なくて、ごめんなさい。」
「もういくのか?」
アンジェリーク猫の言葉に、アリオス猫は弾かれたように立ちあがった。「もう少し居ろよ。…その…。まだ帰したくないんだ。」
 その率直な言葉に、アンジェリーク猫は目を潤ませ髭を震わせた。
「ご、ごめんなさい…駄目。だって、私ここにはヴィクトール様を探しに来たんだもの。」
「ヴィクトール様?」
 アリオス猫がいぶかしげに尋ねた。
「私の…」
 アンジェリーク猫は、そこでハタと気づいた。なんと言えばいいのだろう。自分と、ヴィクトール猫の関係を。しかし、結局はこう言うしかなかった。
「…私を拾ってくださった方なの…。記憶を無くして、雨の中で倒れていた私を助けて、今まで育ててくれて…。」
 そこまで聞くと、アリオス猫は合点がいったというように立ち上がった。
「よし! ならそこで待ってろ。…俺がさがしてやるよ、そのヴィクトールってやつはな。」
「えっ…だけど…。」
「任せとけって。俺ははぐれ猫だが…情報収集ならお手のものだ。お前が世話になったなら、俺の恩猫でもあるし…。」
 そう言って出て行こうとするアリオス猫を、アンジェリーク猫は思わず呼びとめた。
「まって! …危ないかもしれないの。ヴィクトール様は誰かに追いかけられて、危険な目にあっているという話だから…どこに行ってしまたのかも分からないし…。アリオス、あなたはヴィクトール様の匂いを知らないでしょう?」
 アリオス猫はそれを聞いてしばらく考え込んでいたが、やがて僅かに髭を振るわせ、彼女の元に戻った。
 そして、彼女の匂いを嗅ぎ始めた。
「や…。な、なに?」
 アンジェリーク猫は驚いて身を引いたが、アリオス猫は彼女の匂いを嗅ぐのを止めない。
「…この匂いか、ヴィクトールって奴の匂いは。」
 そう言われて、アンジェリーク猫はやっとその行動の訳に気付き、大人しくなった。
 アリオス猫が皮肉げに笑う。
「お前…。すっかり隣町の猫の匂いになっちまったな…。ここから動かないほうがいいぜ? 噛みつかれても仕方が無いくらいの匂いだ。」
 アリオスはアンジェリーク猫をすっかりエリスとして扱いはじめている。
「そ、そうなの…?」
 アンジェリーク猫は初めて自分がどんなに危ない橋を渡ってきたかを知った。倒れたアンジェリーク猫をここまで連れてきたのがアリオス猫でなかったら、かみ殺されても仕方なかったのだと思うと、身震いが走った。
「そう言えば…ここはどこ?アリオス。」
 アンジェリークはそこで初めて、自分がおかれた状況に疑問を抱く。
「おいおい…今更なんだってんだ…ここはおれとお前が初めて会った…。って、分かるわけないよな…鎮守の森の神社の床下だよ。」
「鎮守の森…?」
 聞きなれない名前だが、ここがK町だということだけは確かだった。
「そういうことに、なるかな。お前…倒れてたんだぜ。ここの前で。だから俺はてっきり…」
アリオス猫はしかしそこで言いよどみ、それから何かを思いついたようだった。「おい、…そのヴィクトール猫って奴が見つかって、無事だと分かればお前はそれで安心できるんだろう?」
 アンジェリーク猫は勿論頷いた。
「じゃあ、その後はここに居ろよ。」
 アリオス猫は、いきなり言った。
「えっ?」
「もしお前がどうしてもあっちの奴らが恋しいって言うなら、しばらくだけでもいい。俺の傍に居てくれないか。そうすれば…もしかしたら記憶が戻るかも知れない。お前が俺のエリスだという記憶が。」 
アリオス猫は、アンジェリーク猫を驚かさないようにゆっくりと、もう1度彼女に寄り添い、そして彼女の顔を覗き込んだ。
「な、居てくれるよな?」
 アリオス猫の2色の瞳が、アンジェリーク猫を覗き込む。
 アンジェリーク猫の頭の中で、色々な考えた渦巻いた。
 私の知らない私の過去。…彼は、それを知っている…? 私は誰? …私は…この猫が好きだったの…?
 知りたかった。
 もうすぐ恋の季節がやってくる。ヴィクトール猫はあの3匹の候補者から相手を選んで、アンジェリーク猫を渡してしまうのだろう。そして、自分はどこか他の猫の所へ行ってしまうだろう。…そして私は、そんな彼を見ながら、好きではあるが愛しているとは言いがたい、あのうちの誰かと、恋をしなければならない。
 それならば…それよりも。もしこの猫が、自分が1度でも愛したことのある猫ならば…。
 そんな思いで、アンジェリーク猫の小さな胸は一杯になった。
「…少し、だけなら…。」
「本当か!?」
 アリオス猫は、思わず尻尾を立てて、彼女に寄りかかった。
「きゃあっ。」
「おっと…悪いな。…けど、嬉しいぜ…。お前がこうしてそばに居てくれるなら…俺はそのためならなんだってする。」 
そしてアリオス猫は、言いにくそうにアンジェリーク猫の耳もとで囁いた。「エリス…って、呼んでもいいか? …もし、お前が別猫でも…しばらくの間だけ…ここに居てくれる間だけでいいから…。」
 アンジェリーク猫は、しばし悩んだが…。
 やがて頷いた。
 アリオス猫が破顔する。
「有難う…。じゃあ、行って来る…待っててくれ、エリス。」

 

 

「では、意見のある方は尻尾を上げてから発言してくださいね〜。」
 ルヴァ猫が土管の2段目に立って、空き地に集まった全ての猫に、そう言った。
 今、集会は半ばに差しかかっている。縄張りの存続の危機を知らされ、みなの顔は緊張の色に包まれていた。
「問題は、ヴィクトールの怪我がどれほどか分からないと言うことだな。」
 尻尾を上げながら言ったのはジュリアス猫。
 セイラン猫が戻ってきた日の晩、K町の猫から正式な決闘の申し込みがあった。
 その猫が伝えたのは、決闘の日時だけではない。ヴィクトール猫が怪我を負っていはするものの、無事であるという知らせとそして…。
 何時の間にか空き地から姿を消していたアンジェリーク猫までもが、彼らの手中にあるという、衝撃の知らせであった。
「決闘…ともなると、代表としてふさわしいのはほかに…。」
オスカー猫が辺りを見まわす。「…俺、オリヴィエ、チャーリーと…」
「私ですね。」
 リュミエール猫が、そう言った。
 皆の驚きの視線が集まる。
「…おいおい、お前…行くつもりなのか。」
 オスカー猫が、今の今まで何も発言しなかったリュミエール猫を驚きの眼差しで降り返った。
「一応私もアンジェリークの婚約者なのですが…。」
 にっこり、と微笑む。
「やめとけ、怪我するぞ。」
「これでも私、力があるほうなのですよ。」
 リュミエール猫は、そう言ってオスカー猫に歩み寄った。そして…。
 がぶり。
「なっ、何するんだ…っ」
 オスカー猫の首筋に、リュミエール猫の牙が食い込む。そしてその次の瞬間。
「う、うわぁぁぁ!」
 オスカー猫はほぼ1メートル、投げ飛ばされていた。
「ね、大丈夫そうでしょう。」
 一回転して四足で着地したオスカー猫に、リュミエール猫は微笑みかけた。
「…な、何て事するんだ…。」
 公衆の面前で投げ飛ばされるという不面目な目に遭ったオスカー猫が、この瞬間からリュミエール猫を嫌いになったのは、致し方ないことである。
「悪いけど僕は行かないからね。」
と、そんな二人を無視して言ったのはセイラン猫。
「おいおい…。いいのか?アンジェリークにきらわれるぞ。」
 気を取りなおしたオスカー猫が、彼をからかって言った。そんな場合ではないのだが。
「ま、元々僕は婚約云々に興味はなかったし…この恋に勝ち目もないしね。」
 ちらり、と主人の居ない土管の最上段に目を走らせる。
「馬鹿者。…これは色恋騒ぎではない。」
ジュリアス猫が厳しい声を飛ばした。「縄張りのかかった、重大な勝負なのだぞ。」
「アンジェリークが本当に敵に囚われているか…だれにも分からんし、な。」
 空き地の隅から、低く響く声。闇色のクラヴィス猫だ。
「クラヴィス!」
 ジュリアス猫はそんな彼を叱咤する。不安材料は少ないほうがいい。…目を逸らすだけではいけないが。
「とにかく、今上げた者たちが、明日の晩指定の場所へ行く事になるな。多数対多数なら、それで良し。一匹の勝負であれば…オスカー。お前が代表になるように。」
「はっ!」
 オスカー猫が耳を伏せた。
 その脇で、エルンスト猫が呟くように言った。
「そして、相手の目的がこの縄張りだけではなかったことを忘れてはなりません。彼らは『落ち星』を渡す事を望んでいる。」
 その場が妙に静まった。
 あの「落ち星」騒動がこんな形で現れるとは誰も思っていなかった。
「『願いが叶う落ち星』がこちらにあるかぎり、決闘など意味はないと思っているのか、それとも何かかなえたい事があるのか。…ルヴァが言うには本物の『落ち星』とは死者をも蘇らせる事の出来る代物であるらしいですから…。」
「死んだ猫も、生きかえるの?」
 小さな子猫の高い声が、空き地の隅から聞こえた。マルセル猫だ。
「凄いね。」
 隣の兄弟猫、ティムカがそれに答える。
「何でも叶えてくれるんだって。じゃぼく、お腹一杯お刺身が食べたいな。」
「ええと…じゃあ僕は…ええと…。」
 アンジェリーク女王と、ディアがそんな2匹の首もとを咥えて、空き地を出て行く。
「とにかく、やな。」
 チャーリー猫が、尻尾を上げながら、言った。
「『落ち星』が相手にとってかなり重要だって事だけは、確かや。上手くすれば切り札になるかも知らんな。」
「あ〜。では、私はロザリアの元へ行って…済みませんがあの落ち星を返していただきましょう。」
 ルヴァ猫が言う。
「済まぬな。」
 落ち星と彼らの噂を聞き知っていたジュリアス猫が、ルヴァ猫に対して耳を倒した。
「いえいえ、それはロザリアに〜。では、明日の晩に備えて、そろそろ解散致しましょうかねぇ。」
「そうだな。」
 そして、ジュリアス猫は空を見上げた。
 満月に限りなく近い月が、南の空き地を明るく照らしだす。
── 明日の晩。…我々は見守るしかないのだな…。
 夜が明ければ、決闘の日であった。

 

 穴の中のどんよりと湿った空気の中で、びくり。と、ヴィクトール猫は目を覚ました。
 横たわったまま、頭上を見上げると、そこには星屑をちりばめた空。ここに来て2度目の夜が巡ってきたらしい。
 穴の外は静かだ。数匹の足音を除けば。
 星を見て、エルンスト猫の話を思い返す限りでは、明け方が近い。
 だが、南の空き地に居れば涼しく快適なはずのこの時間でも、こんな場所にいては、暑いばかりだった。
── いや…。
 ヴィクトール猫は気付いた。暑いのは、ここの空気ではない。自分自身だ。
 どうやら傷口から良くない物が入り込んだらしい。身体が常ならず重く、頭がくらくらする。
 何か考えなければならないことがあったはずだが、今はもうなにも出来なかった。
 ふと、ヴィクトール猫は頭の傍にネズミの死骸が置かれている事を知った。
 だれかが来ていたか、それともあの穴から落とされて来たのか。
── 飢え死にさせる気だけは無いらしいな。
 ヴィクトール猫は頭だけを巡らせて、ネズミを食べ始めた。食欲は無かったが…。
── 生きなければいけない。…そして、約束通り戻らなければ…あいつの所へ…。

 

「ヴィクトール様は見つかった?」
 この神社の床下に来てから、丸1日が経った。朝が再び巡ってきて、こうしてアリオス猫が帰ってきたのだ。
 昨日の夕方、1度外から帰ってきたアリオス猫だったが、アンジェリーク猫の前にすずめを一匹置いただけで、また出てゆき、そして今まで眠りもせずにヴィクトール猫を探しつづけてくれていた。
「いや…まだだ。」 
「そう…。忙しくさせてご免ね、有難う。」
 しかし、アンジェリーク猫は落胆を隠しきれなかった。アリオス猫が彼女に向かって頷く。
「いいさ。…今日会った奴らは何も知らなかった。…明日の晩、また別の猫達に聞いて見るから…。」
 アリオス猫はそう言うと、アンジェリーク猫の隣に横たわった。
 そしてたちまちうつらうつらとし始める。
 アンジェリーク猫は、そんなアリオス猫を横目にみながら、彼が持ってきたさかなの干物を、一口含んでごくりと飲み込むと、残りをアリオス猫へと押しやった。
「おい、たったそれだけしか食べないのか? 倒れても知らないぞ。」
 アリオス猫がその気配に目を開ける。
 アリオス猫が鎮守の森の前で彼女を見つけたとき、アンジェリーク猫のお腹はグウグウ鳴っていた、と後で彼は言った。
「だって…ヴィクトール様は何も食べていないかもしれないもの…。それに、アリオス。あなただって殆ど食べてないわ。」
「俺はいいんだよ。…お前、食べろ。」
そう言って、アリオス猫はもう1度干物を押し返す。「お前が食わなきゃ、俺も食わないぞ。エリス。」
「う…うん…。」
 エリス、と何度も呼ばれるうちに、アンジェリーク猫はだんだんと自分がそう呼ばれることに慣れてきていた。どこか、懐かしい気さえして来ている。
「少し落ちつけよ。K町だって結構広いんだぜ?…だから、お前はここに居てくれ。もうしばらくの辛抱だから…な?」
 優しく言われ、アンジェリーク猫は頷いた。
 アリオス猫は、とにかく彼女がこの場所にいることだけは、隣の縄張り近くまで行って、どの猫にかは分からないが伝えてくれたものらしい。
「じゃあ…もう少しだけ食べるから…。アリオス、あなたもちゃんと食べるのよ?」
 アンジェリーク猫が、まるで母猫のようにそう言うと、アリオス猫は苦笑しながら頷いた。
「ああ…。分かったよ、エリス。
そして大きなあくび。「…でも今は…。寝る…から。」

 

 

 工事現場の片隅で、数匹の猫達が思い思いの場所に居をかまえ、目を閉じている。
 その中で、置き去りにされた一輪車の下を寝床に選んだ砂色の小さな猫が、隣で眠っている自分より少し上の年頃である銀色の猫に声をかけた。
「ねえ、ショナ。」 
「なに?」
 つぶっていた瞳を面倒そうに開けて、ショナと呼ばれた銀猫が答えた。
「いよいよ明日だね…。レヴィアス様、勝つかなあ?」
「勝つよ。」
 工事現場の鉄骨に、月明かりが反射して2匹の瞳を輝かせる。
「ふ〜ん…。」
 砂色の猫は、しばらく黙り込んだ。そして
「ねえ、ショナ。」
 また眠り始めた銀猫を揺り起こす。
「なんだよ。」
 銀猫は迷惑そうに顔を上げた。
「なんでレヴィアス様は、隣の縄張りが欲しいの?」
「…そんなの決まってるじゃないか。レヴィアス様の父上が、そうしていたからだよ。」
「どうして同じ事しなくちゃならないの?」
「どうしてって…知らないよ。皆そうしなきゃならないって思ってる、それだけさ。」
「ふーん。」
砂色の猫は、まだなんとなく納得がいかない様子だった。
「ねえ、ショナ。」
「なんだよ、うるさいな! 明日は僕らも戦わなきゃならないかもしれない。相手は数匹だろうけど、それでも僕らが手を抜いたら、レヴィアス様の恥を晒す事になるんだぞ。」
「じゃあ最後にするよ…。」
 砂色の猫は、囁くようにいった。
「ねえ、レヴィアス様は大丈夫だよね…死んじゃったりはしないよね…。…ね、……アリオスみたいに…。」
 ショナと呼ばれた銀猫は、その言葉にはっと息を呑んだ。
 大声を上げた自分を諌めて、隣の子猫に言ってやる。
「大丈夫だよ…。それに、死んでも…これからは『落ち星』さえあれば、生きかえれるから…もう、寝ろ。」
 答えはない。
 ショナは溜息をつき、そしてまた目を閉じた。

 

 

「アリオス…。ねえ、アリオス…大丈夫?」
 アンジェリークの高い声に、アリオス猫は目を覚ました。
「…っ! …な、なんだ?エリス……。」
その呼吸は酷く上がっている。アンジェリーク猫は心配そうにアリオス猫を見詰めた。
「アリオス…どうしたの、うなされていたわ。」
「エリス…。」
アリオス猫は、彼を覗き込むアンジェリーク猫の心配げな眼差しとその姿を見つけると、しばらく呆然としたように彼女を眺める。
「アリオス…?」
 アンジェリーク猫は、彼のそんな不思議な瞳に困惑したように首を傾げた。
 しかし、アリオスはそれではっと我に返ったようだった。一瞬だけ彼女から瞳をそらすと、軽く耳を動かして笑った。
「…何でもない。…エリス、今は…昼か?」
「そうよ。…まだお日様も高いし、人間もたくさんいるわ。」
 神社の境内で遊ぶ子供の声がする。
「そっか…。」
「アリオス、どんな夢をみていたの?」
 アンジェリーク猫は、アリオス猫の尋常でない苦しみ方に、思わず彼を揺り起こしたのだった。
「ああ…。」
 アリオス猫は、今見た夢を思い出そうとした。…なにか、とても苦しくて、辛い夢。
「分からねえな…。もう忘れちまった。なんか、やりきれねえ感じだけ残ってるけど…。ま、いいさ。」
そういって、彼はアンジェリーク猫に寄り添った。「もう少し寝ていよう。…まだ夜には間があるからな。」
 アンジェリーク猫は、まだ納得行かない様子で、しかしそれでも言われたとおりに彼の隣に腰を下ろした。こうすれば早く匂いが移るし、何より安心できるんだ、とアリオス猫は言った。
 隣で早速目を閉じるアリオス猫を見下ろしながら、アンジェリーク猫は尻尾で1つ、やるせなさそうに地面を叩いた。
 アリオス猫は恐れているようだった。アンジェリーク猫が何処かへ行ってしまうことを。
 記憶が戻れば、帰りたいなどと言わなくなるから。と彼女に言い聞かせ、そして自分に言い聞かせている。
 ヴィクトール猫は、どうしているだろうか。
 アンジェリーク猫に分かっているのは。
 彼女が、もう明日中にも恋の季節を迎えてしまうという、ただそのことだけだった。

<続く>


 

初アリオス…。。
ああ〜!ものを投げないでください〜m(__)m

2001.07.??.


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