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30.月光

  

「おい、ちょっと待てよな。」
 アンジェリークとレイチェルはそんな声に振り返った。
「ゼフェル様。」
 声を掛けて来たのが鋼の守護聖と分かって、二人は少し驚く。お茶会からの帰り道。森の中を抜けていこうかと話ながら地の守護聖のテラスを降りたばかりの時だった。
「どうしたんですか?」
 レイチェルが尋ねる。するとゼフェルは少し居心地悪そうな顔をして、そして言った。
「ちょっと…よ、俺アンジェリークに用があるんだけど。…いいか?」
「え?」
 アンジェリークは意外な申し出に目を丸くした。
「ええ〜!? 今からってコト? でも…。」
レイチェルは空を見上げる。そろそろ日が完全に落ちそうだった。
「いーから、来いよアンジェリーク!」
 ゼフェルはそう言うが早いか、あっという間にアンジェリークの腕の中の淡いピンクの花束を奪い取った。
 その上。
 酷く強引に彼女の二の腕を掴んで、引っ張って行こうとしてしまう。
「ちょっとちょっと! ゼフェル様!」
レイチェルは慌てて、ゼフェルとゼフェルのなすがままに連れて行かれそうになるアンジェリークを止めようとした。「ダメだよ!」
 すると、ゼフェルはむっとした顔で振り返った。
「なんでだよ! ちょっと話そうってだけだろ! おめーにゃカンケーねぇ!」
「ひっどーイ! ナニヨ、絶対連れていかせないからネ!」
 アンジェリークのもう片方の腕を取って、レイチェルが引っ張る。
「来いったら!」
 そしてもう片方をゼフェルが。
「いたたた…。」
アンジェリークがその勢いに眉を顰めた。「痛いよ、二人とも…。」
 とたんに、両方がぱっと腕を離す。
「…わりぃ。」
「ごめんね。アンジェリーク。…このわからずやが…。」
「何だとぅ!?」
 またしても額を付き合わせて喧嘩を始めようとする二人の間に、アンジェリークが割ってはいる。
「もう…喧嘩したら、駄目です!」
ちょっと鋭く発せられたその声に二人は我に帰ったようだった。つんとそっぽを向きあう二人の間に立って、アンジェリークはやっと一息つき、ゼフェルに向かって尋ねた。「あの…どんなお話、ですか?」
 しかし、尋ねながらももしかしたら…と思ってはいた。
 というのも、彼に会うのはあの森の湖でのデート…彼女だけを置いて彼が駆け去ってしまった、あの日以来だったから。
「言えねー。コイツがいちゃ。」
 ふん、と鼻を鳴らして、ゼフェルが言う。
「コイツって呼ばないでヨ! …アンジェリーク、帰ろ!」
「あ…。」
手を取られて歩き出しそうになりながら、アンジェリークは後ろを振り返る。
 ゼフェルは、むっつりとしながら…それでもアンジェリークに花束を差し出して寄越した。
「いいよ…もう。」
 諦めたような、もうどうでもいいような、そんな顔をしている。
「レ、レイチェル…。」
アンジェリークは力いっぱい踏みとどまる。「あの…私…。」
「なに? まさかゼフェル様と一緒に行くの?」
 眉を顰めて振り返ったレイチェルに、アンジェリークは曖昧に頷いた。
「私…ちょっと学芸館に行きたいの…だから…途中までゼフェル様と…。」
 なんだか、先刻のヴィクトールの背中が忘れられない。幾ばくかの不安と共に。
「学芸館?」
その言葉を聞いて、レイチェルの表情が少し緩む。…そして、訝しげな顔をしているゼフェルに気付いて、無理矢理に言葉を足した。「ああ! …先刻のコトヴィクトール様に謝りにでもいくの? …なら、ワタシが付いて行ってあげるよ!」
 あくまでも二人きりにはさせないぞ、とレイチェルはどちらかというと『自分とゼフェルとどっちにするの』というたぐいの意地になっているらしい。
 だが、アンジェリークは言った。
「ううぅん…。レイチェルは寮に帰っていて。ね?」
 そうハッキリと言われてしまっては、もうどうすることも出来ない。レイチェルは握っていたアンジェリークの手をしぶしぶ離す。そして言った。
「今日の夕飯は、7時半からだよ。それまでには絶対戻って来てよネ!? …一人だと寂しいんだから。」
「うん、わかった!」
 アンジェリークは躊躇い無く頷く。そして…ゼフェルの歩く後に付いて行く様にして、行ってしまった。
「………。」
 レイチェルは、その後姿を少しだけ不安そうに見詰める。
 別に、ゼフェルが何かをアンジェリークにするとは思っていない。ただアンジェリークは…ゼフェルのあの鋭いところにいつも傷つけられてきたから。
 アンジェリークはレイチェルに、あの日の森の湖でのゼフェルとの会話を教えたわけでも相談したわけでもない。でも毎日同じ食卓で顔を突き合わせていれば、今日の育成は上手く行ったんだな、とか、なんだか駄目だったみたいだなという位のことは分かる。だれとデートに出かけたかも、大抵は話してくれる。
 なぜかあの日のアンジェリークは酷く辛そうだった。元気が無いとか、暗くなっているとかではなくて、『辛そう』だったのだ。
 二人の去った森のほうを眺めながら、レイチェルが佇んで思い悩んでいると。
「どうしたの、レイチェル!」
 高い少年の声がした。
 レイチェルは振り返る。
「メル…くん。…と、…エルンスト…。」
我に返って見た先には、なんだか最近見るたびに一緒にいるような二人連れ。
「あれ、アンジェリークは?」
メルがきょろきょろして、尋ねる。
「ん…フラれちゃったんダ〜。」
レイチェルはふざけて肩を竦めた。
「ふーん…。」
それでもメルは何かを感じ取ったらしい。「ね、今日はこっちから帰るの? じゃあ一緒に行こうよ!」
「え?」
 レイチェルは驚いてメルをみて…そしてその視線をちらりとエルンストに向けた。
「…女性が一人で森を抜けるのは、余り感心できませんから…。」
 彼はいつも通りの冷静な瞳でそう言った。
「じゃ、一緒に帰ろっかな…。」
 レイチェルの頬に、漸くの微笑みが乗る。
 そして、メルを間に挟んで今度は三人の人影が森へ消えて行った。

 

 レイチェルと別れてしばらく、二人は黙って歩いていた。
 夕暮れの風が森の木々を揺らす。まだ葉の陰が見えるほどには明るかったが、それでも隣を歩くゼフェルの横顔は少し見にくくなって来ていた。
 アンジェリークはゼフェルが何度も口を開いては、また押し黙るのを感じて、少し歩調を緩めた。
 彼の歩き方は勢いが良くて、どんどん先にいってしまい、このままではなにも話さない内に学芸館についてしまいそうだったし、それに新しい靴がアンジェリークの踵を少し痛ませ始めていたから。
「…あのよ…。」
と、ゼフェルが漸く口を開いた。花束を持った手に、少しだけ力が入っている。「その…こないだ、おめーを置いて帰っちまって、ゴメン。その…森の湖で。」
 アンジェリークは軽く顔を上げて彼の横顔を見た。彼は頬を軽く掻きながら…その赤い目を伏せていた。
 あの日…その瞳は泣いていた。
 青年、少年、男性…この鋼の守護聖がそのうちのどれに入るのかは分からなかったけれど、アンジェリークは自分の目の前で男の人が涙を浮かべたのを、初めて見た。
「大丈夫です。ちゃんと帰れましたし、気にしていませんから。」
 それは、少しだけ嘘。
「オメーにあんな酷いコト、言っちまったし…。」
── 帰ればイイじゃねーか、試験なんて手を抜けよ!
「オメーが、スゲー頑張ってるって、知ってたのにな。俺…どうしてあんなこと言っちまったのか、な…。」
 やるせないような瞳で、ゼフェルはアンジェリークを見降ろした。
 アンジェリークはそんな彼の瞳に射竦められるように、思わず立ち止まった。
 ゼフェルはアンジェリークの前に向かい合うようにして立ち止まる。
「…なんでだろう。」
 自分でも、良く分からないこの気持ち。
「ゼフェル様…。」
「なあ、アンジェリーク。」
ゼフェルは彼女を見降ろした。「聞きてぇことが、あるんだけどよ…。」
「な…んですか?」
 アンジェリークはどうしてか彼の赤い瞳から目をそらすことが出来なくて、少し立ちすくむ。
「オメェ…本当に外界に戻らなくって、いいのか? …女王に、なりたいと思ってんのか?」
── 帰れなくても、いいのか?
 そう聞かれているも同然だった。
 アンジェリークは俯いて、そして…。
「………はい…。」
 時間をかけて、頷いた。
「…そっか。」
 ゼフェルはその赤い瞳を伏せて、そして何かを考え込んでいる様子だった。
 だが、それも一瞬。
 彼は思いきったように瞳を上げて、アンジェリークを見詰めた。
「じゃあ、俺、オメーのコト応援してやる! だから…だから、オメーさ、…頑張れな。あのクソむかつく金髪女王候補になんか負けんなよ!」
 クソむかつく女王候補…それが誰を指すのかに気付いて、アンジェリークは思わず笑った。
「な、なんで笑うんだよ、応援してやるって言ったのに!」
「だって…。」
アンジェリークはゼフェルの頬が赤く染まっているのにも気付いて、笑いを押さえることが出来ない。「レイチェルのこと…そんな、そんな風に…。」
 くすくすと笑いつづけるアンジェリークのことを、ゼフェルは呆れたように眺め、そして遂には背中を向けて歩き出した。
「笑ってねーでさっさと行こうぜ! 日が暮れちまう。」
「…はい!」
 アンジェリークの淡いピンクの花束をぶんぶん降りまわすようにして、行ってしまおうとするゼフェルに、彼女は小走りで付いていった。

 

 そして。
「ヴィクトール様は今、ヴィジ会議中でして…。」
 二人が学芸館に付き、そしてヴィクトールの私室を尋ねるため、いつもと違う玄関口を尋ねると、ヴィクトール付きの執務官が出てきて、アンジェリークとゼフェルにそう言った。
「…だってよ。どうする?」
 ゼフェルが、アンジェリークを見て言った。
「…ええと…。」
 答えを迷っているうちに、気の短いゼフェルは執務官にもう一度詰め寄る。
「なあ、ちょっとだけでいいから、呼んで来てくれよ。」
 執務官は申し訳なさそうな顔をして、軽く手の平をゼフェルに向ける。
「と、申されましても…普段ならヴィクトール様もそうしてくださるでしょうが…なにぶん会議ですので、ヴィクトール様だけが抜けるわけには…。」
「けっ。…固てぇこと言いやがって…。」
ゼフェルは鼻を鳴らした。
「…あの…待っていてはいけませんか?」
 アンジェリークは小声で尋ねた。
「しかし…いつになるか…。」
 執務官は答える。
「そう…ですか。」
 アンジェリークのがっかりしたような顔に、ゼフェルは思いついて言った。
「謝りたいだけなんだろ? 先刻の事。…なら、後で手紙でも書きゃーイイんじゃねーの? …な、俺達が来たってことだけ伝えてもらってさ。…もう日が暮れるぜ?」
 振り返った館の入り口から見える空は群青に染まりかけている。
 アンジェリークもその空の色を見て、少し迷ったようだった。が、結局はゼフェルの言葉に頷く。
「じゃあ…そうします。」
 だが、その胸の不安は、どうしてか消えない。
 ゼフェルの後に付いて振り返り、振り返り学芸館を出ながら、アンジェリークは考え込んでいた。
「アンジェリーク。」
「はい?」
 ゼフェルに声を掛けられて、アンジェリークははっと顔を上げた。
「送って行くから。…その、こないだ送れなかったし…。」
「えっ。」
アンジェリークは驚いて目を丸くして、首を振る。「いいえ、まだ明るいし…大丈夫です。」
「でも明るいって言ったって…。」
ゼフェルは空を見上げた。東の端には月が昇り始めている。
 アンジェリークは直も首を振った。
「有難うございます…でも、私…少し一人で歩いてみたいんです…ごめさい。」
「そっか…? …それなら…それで仕方ねぇケド…。」
ゼフェルはなんだか釈然としない様子だったが、それでもアンジェリークの花束を、彼女の腕に押し返した。「ホントに、一人で大丈夫か?」
「ええ、明るいところを通って帰ります。心配してくださって有難うございます。」
「うん…。」
ゼフェルはアンジェリークの微笑みに、頷くしかない。「じゃあ…気を付けて帰れよな! …ホントにな!」
「はい。」
 アンジェリークは花束を抱えたまま、ゼフェルが森の中へ駆け去っていくのを見送った。
 そして、一時は言葉通りに女王候補寮へ向かって歩き始めたものの…。
 半分ほどその道のりを来たところで。
 アンジェリークは覚悟を決めたように踵を返し、もう一度学芸館に戻って歩き出した。

 

 ヴィジコンの蒼い画面は薄暗い室内の中でヴィクトールの顔を照らしだす。
 会議が始まってもう3時間近く経った。その間に日はすっかり沈み、書斎の窓からさしていた光はもう無い。
 しかし画面の端に取りつけられた小型カメラが、今映る他の面々のように、相手のヴィジコンにもこの部屋の様子と自分の顔を映し出しているはずだから、暗いほうが注ごうが良いといえば、いい。
「今度の週末までに、一度もどってくれはしないか?」
 老年の男性の顔と声。
「ええ…。」
ヴィクトールは眉を寄せる。「陛下に許可を取ってきましょう。」
 机の上には、緊急送信されてきた幾枚かの書類。いくつかのグラフとそして赤い文字で「NON PUBICITY」という判が押されている。それからヴィクトールの走り書きが沢山。
 まさかこんなことになるとは。
 ヴィクトールはやるせない思いで、尚も続く会話に耳と目を集中させていた。
「…は、決定ということで。それから第15隊がすでにあちらに潜伏しています。」
 高いテナーの鋭利な眼差しの男が言う。
「はは〜ん、あいつらは…ストーカー訓練を積んでいるからな。」
 低く答えるのは、中年の体躯の良い男。黒い髭を生やしている。
「そうか…15隊の人員は何名だ?」
 老年の男性が尋ねる。
「25名です。」
 少年のように高い男性の声が答える。
 そこにヴィクトールが口を挟む。
「25名では足りないでしょう…。相手は…プロだと考えてまず間違い無い。」
 それに対して初老の男性が答える。
「そうだな…しかし…今は妥当な指揮官が居ない状態なのだ。彼らには殆ど個人で動いてもらっている。…ミーシャ、そうだな?」
「ええ。」
 尋ねられた女性が、画面の中で書類から顔を上げた。
 金に近い茶の髪。細い顎とくぼんだ瞳に鋭い緑の目。薄い眉。
 ヴィクトールは、彼女に画面の中から視線で射抜かれたような気がして少し動揺する。
「私が行きたい所だけれど…。昨日から惑星デヴォンで崖崩れが頻発しているの。…手が離せないわ。」
「では、逆に人員を削るべきかもしれません。…俺はすぐにそちらに向かうことは出来ませんから。」
 ヴィクトールは言う。
「……君をそちらに行かせるべきでは無かったのかもしれない。」
 深い、吐息。
「こうなるとは、誰も予測していませんでした。」
 ヴィクトールの冷えた声に、相手は少し気をそぞらされたようだった。声を落ちつけて、答える。
「幸いなことは、まだ誰もアクションを起こしていないということだ。…多分まだ時間に猶予はあるだろう。」
「こんな風に会議を開くようになってもまだ、余裕があるなんて言っているなら大馬鹿ですよ。」
 テナーの声が言う。
 老年の男性が苦笑した。
「分かったよ…まったくいつもながら遠慮の無い言い方を…。」
「なら、今日のところはここまでだな。…解散ということで。」
 黒髭の中年は言い。誰の答えも待たずに画面を切った。
「相変わらず冷たいな、このチームは…」
 老年の男性の言葉も、もう届いていないだろう。
「無駄話は好みませんよ。」
 テナーの男性も、画面から消える。そして、もう一人も無言で。
 後に残ったのは、ミーシャと呼ばれた女性と、老年の男性と、ヴィクトールのみ。
「君らは少しは私に優しくしてくれるか?」
 その言葉に、ヴィクトールの口元が僅かに緩む。
「俺達はいつだってあなたにやさしいですよ、リー将軍。」
「…ですね。」
 ミーシャもその瞳を僅かに微笑ませた。
「このメンバーが集まると…。」
リー将軍は、その首筋に手を置いて椅子に深く掛け直した。「…嫌な気分になるんだろうな…。……私も含めて。」
「吐き気がするときだってありますよ?」
そんな酷いことをミーシャはさらりと言う。「血を飲み込んじゃったときみたい。」
「それを心理的障害っていうのさ。」
 リー将軍は軽く笑って答える。
「じゃあ、俺もこれで…また連絡するよ…サム、ミーシャ。」
 ヴィクトールは声を掛けて、そしてヴィジコンを切った。
 室内に暗さのみが残る。
 静かな、夜。
 月の傾きを見るに、まだ夕食の時間は逃していないようだったが…しかし。
 ヴィクトールは額に手をやって目を閉じた。
 ぱらぱら…ぱら…。
「?」
 その微かな音に、目を開ける。
 もう一度髪に手を通す。
ぱら…ほろほろ…。
 机の上に零れたのは、砂糖の白い粒だった。
「……はは…。」
 ヴィクトールは思わず笑いを漏らした。
 砂糖をかぶったまま会議に出たのは初めてだ。これから女王陛下の所へもいかねばならないし…シャワーを浴びてこないと。
 と、その時だった。
「ヴィクトール様、よろしいでしょうか?」
 回線がきられたことで、会議が終わったのを知ったのだろう。執務官の声がした。
「なんだ?」
 ヴィクトールは振り返って答える。ドアが少し開いた。
「お客様がお見えです。」
「誰だ?」
「女王候補のアンジェリーク様です。」
 言われて、ヴィクトールは目を丸くした。
「アンジェリークが…? どうしてまた…。」
 だが、執務官はただ軽く頭を下げて言った。
「もう随分前からお待ちですので…勝手ながら居間の方へお通し致しましたが…。」
「あ、ああ…ありがとう。すぐに行こう。」
 ヴィクトールは執務官の後に続くように書斎を出た。

 

 アンジェリークは出された紅茶を飲みながら、、ヴィクトールをずっと待っていた。
 通された居間は、宮殿や女王候補達の寮とはちがって、本当に私室らしい雰囲気をしていた。
 読みかけなのだろうか、ソファの前の低いテーブルには、伏せた本が置かれたまま。アンジェリークは覗き込むようにそのタイトルを読んだがそこから内容を連想することは出来なかった。よく知らない単語。
 この部屋には無いが、半分開いた扉から見える隣室には、中庭に面して大きくつけられた窓があって、そこから空が見えた。
 どんどん暗く深くなっていく空を眺めながら、レイチェルの「7時半までにかえってくるのよ!」という言葉が気になって仕方が無い。
 あと、五分。
 アンジェリークは壁際に置かれた柱時計に目をやった。手許には少ししおれはじめたピンクの花束。
 それだけ待って、どうしても駄目だったら、帰ろう。
 そう思ったときだった。
「すまん、待たせたようだな。」
 ヴィクトールの声がして、アンジェリークは弾かれたように振り返った。
「こ、今晩は…。」
 アンジェリークは立ち上がる。
「ん、ああ…こんばんは…。」
こんな挨拶はしたことが無くて、どうもしっくり来ない。ヴィクトールは頬を掻いて答えた。「で…こんな時間にどうしたんだ? もうすっかり日が暮れてしまったぞ。」
「あの、私お茶会でのことを謝ろうと思って…。」
 アンジェリークの見上げる眼差しに、ヴィクトールは訝しげな視線を返し、
「なんだ、そんなことで来たのか?」
と、思わず言ってしまった。そうしたら、アンジェリークは酷く悲しげな顔をして俯いた。
「あ、そ…そうですよね。…こんな時間まで…私余計にご迷惑をかけてしまったみたい…ですね…。」
「あ、いや…そういう事じゃないんだ。」
ヴィクトールは慌てて頭を振った。…途端に、はらはらと零れ落ちる、砂糖の粉。
 アンジェリークは俯いた足元に降ってきたそれに気付いて、思わず顔を上げた。
「…ごめんなさい…。」
 蒼緑の瞳が潤む。そしてただ、その一言だけを心を込めて、言った。
「全く…。」
ヴィクトールは思わず溜息を付いた。「…大丈夫だと言っただろう。俺の事などいつまでも気にする事はない。…な?」
「そんな事…言わないでください。…私は…。」
 アンジェリークは顔を上げ、言葉を続け様としたが…。
「お前の気持ちはよく分かったよ。…ありがとう。」
ヴィクトールは軽く笑って優しくその言葉を遮った。
「そうじゃなくて…。」
 だが、アンジェリークの言葉を、ヴィクトールは一瞬聞いていなかった。
「…しかし、こんなに遅くに一人で帰すわけには行かないな…。悪いが少しだけ待っていて呉れないか。俺もちょっと宮殿に行く用事が出来たんだ。送って行こう。」
 アンジェリークは尚も何かを言おうと口を開けたが。
「……はい。」
 と小さく頷いた。

 

数分後。
 待っていたアンジェリークの元に、ヴィクトールが戻ってきた。
 その手には薄い書類ファイルと、それから…濡れた髪。
「待たせたな。さあ、行こう。」
 扉を半分開けただけで、ヴィクトールはそう言った。
 アンジェリークはその雰囲気に慌てて花束を持ち、立ち上がる。ヴィクトールの雰囲気から察するに、どうやら今急いでいるらしい。
「夜半過ぎには戻ると思うから。」
傍に控えていた執務官にそういって、ヴィクトールはアンジェリークを振り返って。
 その抱えた花束に、目を取られた。
「ああ…そういえば茶会があったんだったっけな…。」
 思えば茶会は途中で抜けてしまったから、ルヴァにも非礼を謝る手紙を出さなければならない。
 たった今まで交わしていたあのヴィジコンでの会話から考えると、どうも現実味がない。…ここでの生活は。
 慣れて来たとは思っていたが、やはり異質な世界なのだと思う。
「俺こそ、謝らなければな。…折角のお前達の為の茶会だったのに。」
 玄関を出ながら、ヴィクトールはアンジェリークに言う。今までその事に思い至らなかったのも、失礼な話だ。
「そんな…いいんです、そんなの…。」
 アンジェリークは小さく首を振った。
「出掛けにも一悶着あってな。…気が利かなくて悪かったんだが…なにも持って行かなかったし。」
「え?」
「他の方々は何かしら差し入れていたんだろう? セイランがそう言っていた。」
 急ぎ足で歩きながら、ヴィクトールは尋ねた。
「そうなんですか?」
 アンジェリークは彼に一生懸命ついていきながら、見上げて尋ねかえす。
「ああ…。」
ヴィクトールはその言葉を思い出し、そして彼女の抱えた花束を見て笑う。「『花なんて似合わないものでも、持ってこないよりマシだったよ。』ってな。」
 そんな彼の軽口に、アンジェリークはくすりと微笑んだ。
 だが。
 アンジェリークの歩みがだんだんと遅くなっていくのに気付いて、ヴィクトールは足を止めて降り返った。
「…どうした?」
 アンジェリークは足を少し引きずっている。 
「あの…。」
「え?」
「靴ずれしちゃったみたいです…。」
アンジェリークはとうとう立ち止まり、踵を確かめようと屈み込んだ。そして顔だけを上げてヴィクトールを見る。「あの…お急ぎですよね。…私、ここまでで良いですから、ヴィクトール様はお先に…。」
 新しい白い靴。
 それから、新しい白いワンピース。
 その時ヴィクトールは漸く気付いた。
── おい、胸が…ちょっと…。
「い、いや…。」
ヴィクトールは慌てて視線を逸らす。悩殺大作戦ここに実現。「そんなに急いでるわけじゃぁないんだ、ただ俺の気持ちが…急いていただけで…。」
言ってから、正にその通りだったと気付く。
 会議のあの緊迫した状態を、今まで持ち越してきていたのだ。
 ここでは…この聖地では、あんなに緊張する必要は無いのに。
 そうして早足になってしまったのも、アンジェリークの靴ずれの原因かも知れない。
「アンジェリーク。」
ヴィクトールは、立ち上がったアンジェリークに言った。「よければ…公園にでも寄って行かないか?」
「え?」
 アンジェリークは驚いたようにヴィクトールを見た。
「その、なんだ…。 俺も少し心を落ちつけたいんだ。…付き合ってくれるか?」
「…はい。喜んで。」
 アンジェリークは、嬉しさに微笑んだ。

 

 庭園は夜の静けさ。
 まだそれほど遅い時間ではなかったが、丁度夕食時であったせいなのか、人気がない。
 ただ、奥のカフェテラス…夜はレストランになるあの店の方から、軽やかな音楽が流れて来ていた。
「…なんだか照れるな。…こんな時間にお前と一緒にいるなんて。」
噴水の前に、アンジェリークとヴィクトールはいつかのように腰をかけた。水に冷やされた涼やかな風が流れてくる。
「足が痛いなら靴を脱いだほうがいいんじゃないか?」
 アンジェリークはそう言われて、こくりと頷き身体を屈めて足首を止めていたベルトを外す。
 その、白い横顔に栗色の髪がさらりとかかる。白いワンピースは常の彼女と、また違った雰囲気を、醸し出し。白い踵が露になる。
 月光が。
 噴水の水に跳ねて。
 アンジェリークの身体を縁取った。

「………。」
 一瞬。呆然としていたように思う。
「…? ヴィクトール様?」
「あ、ああ…。」
 顔を上げて不思議そうな目を自分に向けたアンジェリークに、ヴィクトールは我に返ったように頷いた。そして
「…そうだな。」
 と、なぜか一人納得したように笑う。
「?」
「その…。なかなか綺麗だぞ、アンジェリーク。」
「…っ!」
 その瞬間、アンジェリークの頬が朱に染まる。だが、月光の元、ヴィクトールはそれに気付かなかった。
「言う暇もなかったが…その服もお前に良く似合ってる。」
 真剣な、それでいて優しい琥珀色の瞳が、アンジェリークの蒼緑の視線を捕らえる。
 …捕らえて、離さない。
 濡れたヴィクトールの前髪が、軽く落ちかけていた。
「お前も…一人の女の子だしな…。女王候補である前に。」
「ヴィクトールさま…。」
 その名前を呼ぶのが精一杯だった。
 潤んだような蒼緑の瞳に見詰められ、今度はヴィクトールが心臓を鷲掴みされる。
「あ、その…柄でもないことを言ってしまったな。…どうも調子が狂ってしまっていかん。」
濡れた前髪を掻き上げながら、ヴィクトールは照れたように笑った。「どうだ、このまま裸足で歩いていくか? 幸いここは芝だし、公園の中を抜けて行けば寮にも早く帰れるぞ。」
 慌てて立ち上がるヴィクトール。
「靴だけ、もってやろうか。…花束のほうはちょっと遠慮したいからな。」
 軽く笑って言うヴィクトールに、アンジェリークは頷き、少し躊躇いがちに脱いだ靴を渡した。
「なんだ、…小さな靴だな…。」
 軽く持ち上げ、ヴィクトールは感心したように笑って歩き出す。
 月が明るくて、芝の一本一本の陰さえも分かるほど。
「…いい月夜だな。」
 ヴィクトールが一歩前を歩きながら、空を見上げた。
 丸くなりかけた月が、浮かんでいる。
「四季はないのに…こうして月の満ち欠けがあるなんて、おかしな話だ。」
まるで独り言のように語るヴィクトール。「俺は冬の星座が好きでな。冴え冴えとした空に瞬く星は、何より冬が一番きれいに見えるもんだ。」
 裸足の足の裏に、くすぐったいような草の感触。
 アンジェリークは。
 無意識にその前を進むその人の、服裾を捕まえた。ごわついた執務服の感触は、慣れないようで馴れた肌触り。
「ん? …おいおい…。何だ、怖いのか?」
そのアンジェリークの仕種を、街灯の明かりがさらに減って暗くなったせいだと思い込んだヴィクトールは、立ち止まって軽く笑った。「…そんな所に掴まられちゃ、妙な感じがするよ。」
 アンジェリークは無言で首を振る。
 怖くなんか無い、ということとそれから…離したくない、という意味を込めて。
 しかし、大きな手の平が、アンジェリークの手を押しのける。アンジェリークは諦めてその手を離す。
「怖いなら、少し…俺の話に耳を傾けてくれるか。…少しの間だけ。」
 再び背を向けて歩き出したヴィクトールの声には、辛そうな響きが混じっている…ようにアンジェリークには思えた。
 アンジェリークは小さく頷いた。
「ずっと昔…いや、ほんの五年程前の話だ。」
 そう、前置いてからヴィクトールは話はじめた。

 

…こんな夜には、思い出す1つの想い出が、俺にはある。
いや、決していいものじゃない。思い出すことさえ辛い…そんな想い出なんだ。
人には、嫌な事を忘れようとする防御本能があるという話を、お前は知っているか?
馬鹿な話かも知れないが、俺はその本能をねじ伏せて、わざと…その辛い思いを忘れないようにして生きているんだ。ずっと…あの日から。
あの、5年前の冬に俺は…多くの部下を、そして友人を一度に失った……。
…済まん。驚いたか?
お前には、暗くて嫌な話を聞かせてしまうな…。
だが、今日はちょっと、…思い出が鮮やかで…どうにも誰かに話さなくては居られないような、そんな気分なんだ。
すまんがもう少しだけ付き合ってくれ。
楽になりたければ、忘れてしまえばいいんだってことは、俺にも分かってる。刹那的に生きることを選ぶなら、そのほうがいいんだろう。
けれど…こんな夜にはあいつらの顔が…軍に入ってからずっと寝食を共にし、まるで兄弟のように育ったあいつらの顔が、姿が…こんなにもはっきりと思い出せる。
…あいつらの事を忘れる事なんて、出来ないだろ? それが生き残った者の務めではないだろうか。…そう、思わないかアンジェリーク?
いや…俺は…本当はどうなんだろうな…。
ただ、もしかしたら一人だけ生き残った事に対する罪悪感から身を守るために…もしかしたらそう思う事にしているだけ…なのかもしれないな…。

 

 そこまでヴィクトールが語り終わった所で、二人は東屋の前までやってきた。
 この先は芝が無い。そしてこの裏の小路を抜ければ、もうそこはすぐに女王候補寮だ。
 今この場所からでも、寮の明かりが見える。
 ヴィクトールがアンジェリークの小さな白い靴を、黙って彼女の前に置いた。
 少しだけヒールの付いた、可愛らしいその靴は。
 こんな話を聞かされた後では、精一杯背伸びしても、この手を伸ばしても、今はまだ届かない相手を思わせた。
── 私、ヴィクトール様のこと全然分かっていなかった。
 その右目の傷の訳も気になっていたし。
 「悲劇の英雄」と呼ばれている事も、人伝えに聞いていたのに。
── 私は自分からは何も尋ねなかった。…本当は…怖かったのかもしれない。答えて貰えなかったらって。それに…ヴィクトール様が傷ついてしまったら、どうしたらいいのか、分からなくて。
 アンジェリークはそのほっそりした足を靴に納める。
── でも、ヴィクトール様はこうして私に話してくれた。
 たまたま、やるせなくなったその時に居たのが私だったからだとしても。
 アンジェリークの想いが、また少し形を変える。
 淡いピンクの花束が、少し色を深める。
「なんだか今日は、饒舌になってしまった。すまなかったな。だが、お前に聞いて貰えて嬉しかった。」
ヴィクトールは、彼女を寮の門まで送り届けて、そう言った。「…こんな話を聞かせて、お前に迷惑でなければよかったんだが。」
 アンジェリークは軽くかぶりを振った。
 そして、その蒼緑の瞳に心を込めて、ヴィクトールを見上げる。
 何も、言わなかったけれど。
「じゃあ、俺はこれから宮殿に行くから。…お前もゆっくり休めよ。今日は…ありがとう。」
 そう言って、ヴィクトールはファイルを持ちなおし、背を向けて歩いて行った。





 
- continue -

 

シュガーポットの後にくっつけるには、長すぎたのです。
でも削りたくなかったし。
けれども1つの流れの中にあると…思っていただけると嬉しいです。
いや〜…。
どうでしょう、こんな第30話でしたが。
区切りになったかな? なんて思っておりますが。
では、また次回!
蒼太より。

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