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28.剣術指南

  

その日、ヴィクトールはいつも通りトレーニングへ出かけるため、私室を出た。今日の聖地もまた好天である。
 入り口近くにしつらえられている学芸館の小庭の一角を借りて、ストレッチ。今日の気温は少し高め、自分の体調はいつも通り。そんな事を確認しながら、体をほぐし、そして走り始める。
 最初はゆっくりと、そして徐々にスピードを上げて、一定の速さに落ちつかせる。それからまず学芸館の裏手に回り、図書館の前を走りぬけ、そしてルヴァとゼフェルの館の前を通りすぎた。
 二つの館はどちらもまだしんとしている。一方では恐らく主が本を読みふけるせいで夜が遅く、また一方では朝も昼もあまり関係の無い生活をしているのだろう。たまに夜の散歩に出かける時にはどちらも明かりが遅くまで灯っているのを見る。
 ヴィクトールはそのまま走り続けて、森の中に入った。
 森とは言え、ここは宮殿の奥にある迷いの森ほど深くはなく、木々も照葉樹である。平地であり、明るい日差しが地面を照らすほどに木々の間があって、聖地の人間によって充分に手が入っているのよく分かる。
 森の中には、ヴィクトールの両腕を広げた倍の広さほどの小道が続き、そのまま辿ると二手に分かれる。一方は宮殿や女王候補寮へ向かう道、もう片方は森の湖へ続く道だ。
 ヴィクトールは迷わず後者を選んだ。宮殿へ向かうともなると、やはりこの時間でももう人が多く、走っていると目立つので困るからだ。
 と、ヴィクトールは前方から走ってくる人影に気付いた。白いTシャツにサイドラインの入ったハーフパンツ。ヴィクトールとほぼ同じ服装であったが、その体格はまだ若者特有の細さを見せている。
 こうしてランニングの途中で彼に会うのは初めてではない。それどころか2・3日に一度は確実に会っているはずだ。毎日でないのは今の二股で宮殿のほうへ行くのが彼のコースであるらしいからだ。
 ヴィクトールはその日もいつものように彼に一礼し、そしてそのまますれ違うつもりで彼に近付いた。
 だが、今日は。
「ヴィクトールさん!」
 青年はヴィクトールの顔を見るなり大声で彼の名を呼び、そして立ち止まって片手を上げたのだ。
「?」
ヴィクトールは少なからず驚いてスピードを落とすと、彼の元まで走り寄った。僅かに上がった息を整えながら聞く。「どうしました?」
 何事があったのだろうかと思ったが、しかし彼は
「おはようございます、ヴィクトールさん。」
と、何でもない様子で挨拶すると、少し照れくさそうに笑った。
「お早うございます、ランディ様。」
 言ったもののなんだか妙な気分だった。ここ聖地に来て既に3ヶ月がすぎようとしている。その間、毎日とは言わずともこうしてすれ違っていたのに、挨拶を交わすのはこれが初めてというのは。
 無論、まったく話をしたことが無いわけではない。ヴィクトールは軍からの任務でランディの執務室へ邪魔した事があったし、それにオスカーやマルセルの執務室でもよく見かけることがあったからだ。しかし、やはり特に親しいわけではない。
 それはランディにとっても同じだった。
 毎朝会う度いつかは声をかけてみようと思ってはいたが、反対方向へ走っていることもあり、相手のペースを崩すのもなんだか悪いような気がしてなかなか実行できずにいた。
 だが、今日はヴィクトールに声を掛ける為のれっきとした口実がある。
「呼びとめてしまってすみません。あの…俺女王陛下からヴィクトールさんに言付けを預かっているんです。」
「俺に、言付け?」
 しかも、女王からとは一体何なのだろう。ヴィクトールは一瞬気を引き締める。
 だが、ランディはそんなヴィクトールの心を感じ取ったのか、慌てて顔の前で手を振った。
「重大な事じゃないんです。ただ、今度の週末にお茶会が開かれるので、学芸館の皆さんはどうするのか、俺にその意向を聞いてくるようにって、仰せつかっただけなんです。」
「お茶…会?」
 ヴィクトールは聞き返した。
「前回の女王試験の最中にもあったんですよ。ちょうどこれくらいの時期だったと思います。先代からお話があって、候補に息抜きをさせるようにって。…あれは楽しかったなぁ。アン…いえ、女王陛下も補佐官も、俺達からのドレスを着て、とっても素敵でした。」
「はぁ…。」
 その時の事を嬉しげに話すランディに、困惑した目を向ける。
「でも、その時は協力者の皆さんは出席なさらなかったんです。協力者と言ってもサラとハスパしか居なかったし…。」
 その二人の事は知っている。占いの館のメルのいとことその夫だ。
「だけど今回は教官のみなさんも、エルンストさんもメルもいますし…ご一緒できたらと思っているんです。えっと、これは俺だけの意見じゃなくて、守護聖皆からのお話ですから。」
「そうでしたか…。」
── 女王候補たちの息抜きに、か…。
「では、他の二人に聞いてみましょう。一人は兎も角もう一人はどういった反応をするか分かりませんが。」
 といって、軽く笑う。
 快い返事とその笑顔にランディは少なからずホッとした。こんな顔もする人なのだな、と思う。
「じゃあ、皆の意見がまとまったら、知らせてもらえますか? 今日みたいにこうして会ったときでいいですから。そしたら今度は陛下から正式な招待状が届くと思ってください。」
「分かりました。」
「で、これが一つ目の用件で…。」
 と、ランディは言った。
「一つ目?」
 ヴィクトールは小首をかしげて彼を見降ろした。
 ランディは少し照れたように彼を見上げた。
「その…実は俺、このために今の言付けを受けたんです。いつも会ってるのに俺、ヴィクトールさんとあんまり話しをした事なかったし…。」
「まあ、そうですね。」
 ヴィクトールは相手も同じ事を考えていたのか、と心の中で思った。だが、もう1つの用件が気になる。
 ランディは言った。
「で、こっちはホントに個人的な事なんですが…。もし宜しければ、俺に剣の稽古をつけて貰えませんか、ヴィクトールさん。」
「剣の…稽古?」
 ヴィクトールは驚いて彼を見た。
 はしばみ色の瞳が、まっすぐにヴィクトールを見返してくる。
「いつか頼もうって思ってたんですが機会がなくて、言い出せずにいたんです。」
「ああ、それで。」
 ヴィクトールは先ほどの彼の言葉に納得して頷いた。ランディは言葉を続ける。
「実は俺、ずっとオスカー様に習ってるんですけど…でも、俺は…その、何て言ったらいいのかよく分からないけど…。」
と、迷うように目を伏せ、そして次には、もっと強い視線でヴィクトールを見上げた。「俺、いつかはオスカー様に勝ちたいって思っているんです。いつかはオスカー様を追い越したい!」
 そんなランディに、ヴィクトールは思わず微笑んだ。
 自分にも覚えがある、そんな気持ち。
 軍で毎日扱かれクタクタになりながら、目標とする人物が強ければ強いほど、人間として高潔であればあるほど、追いついて、並んで、そして越えたいと願ったものだ。
 ランディは尚も言う。
「俺、オスカー様の事尊敬してます。いつも嫌がらずに稽古をつけてくれるし、剣だけじゃなくて乗馬なんかも教えてくれる。でもそれだけじゃ…俺いつまでたってもオスカー様と対等になれない気がして。…だから…」
 そこで言葉を切って、ランディはヴィクトールをもう一度見上げた。今度は少し自信無さげに。
 そしてヴィクトールは勿論、そういう目には滅法弱く、それに彼の態度や心意気には、確かに感じるものがあった。だから微笑んで言った。
「俺でよければ。…俺もこっちへ来てから剣の稽古をする相手がいなくて、怠ってしまう事になっていたのです。…その申し出はありがたいですよ。」
「じゃあ…!」
 目を輝かせるランディに、ヴィクトールはちょっとまってと言うように手を上げた。
「しかし、オスカー様に習っているものを、俺が勝手にどうこうするわけには行きません。だから、ランディ様はオスカー様にきちんと話をして来てください。」
「え…。」
 ランディはちょっと怯んだ。こっそり教えてもらう気でいたから。
「でなければ、俺は何も…。」
 言いかけたヴィクトールの言葉を、ランディは遮った。
「分かりました! 俺、これからオスカー様の所へ行って来ますから! …待っててください!」
 そう言ったが早いか、踵を返して走り出す。ヴィクトールは思わずその後を2.3歩追いかけた。
「え…、待っ…。」
が、その後姿はあっという間に木立の中に消える。「…行ってしまった。…待ってろって…ここでか?」
 途方に呉れてあたりを見まわす。
 しかし、オスカーの私邸まで行くには、たとえ風の守護聖の健脚をもってしても相当に時間がかかるであろう。
 ヴィクトールはそう判断を付けると、森の湖へ向かって、改めて走り始めた。

 

 そして。
 ヴィクトールはいつものようにランニングを済ませて学芸館に戻ってきた。
 と、その玄関の階段の上に、人影。思った通りそれは風の守護聖ランディの姿だった。
「あ、ヴィクトールさん。」
 ヴィクトールの気配に気付くと、彼は顔をあげて立ち上がった。その手には大ぶりの剣が2本と細身の中剣が一本抱えられていた。
── 素早い事だな。
 ヴィクトールは計らずも驚いて、彼にむかって手を上げた。
「…待たせましたか?」
 ヴィクトールは言いながら彼の前に立つ。
「いえ、俺も今来たところです。」
「で、許可は貰えた様子ですね。」
 ヴィクトールは彼の手の中をみて軽く笑うとそう言った。ランディは頷いてその大剣をヴィクトールに差し出した。
「借り受けたものなんですが、二本のうちどちらかはヴィクトールさんに合うんじゃないかって。」
「有難いです。」
受けとって、片手づつ持ち、重さを確かめる。「武器の持ち込みは許されていませんでしたから。」
「だと思いました。」
 それから長さを確認し、ヴィクトールは二本の内でもやや長めの、幅の広いほうを選んだ。
「こちらにしましょう。…これはお返しします。」
「ええ。」
 ランディがそれを学芸館の階段脇に置きに行く間に、その剣を軽く構えてみた。
 久しぶりの感触。慣れない剣であるからしっくりとは来なかったが、それでも剣の稽古が出来るとあって、気合が入る。
 抜いた刃は潰してあった。練習用の剣だ。
「これも。」
 短く言われて受取ったのは、鞘を修めるためのベルト。
「有難うございます。」
そして、顔を巡らせ小庭を指差した。「あっちに学芸館の庭があります。そこで稽古しましょう。」
「分かりました。」
「…楽しみです。」
 歩きながらヴィクトールは思わず低く言った。それを聞きつけて、ランディは困ったような顔を上げる。
「俺、自分で言うのもなんですけど…あんまり強くないと思いますよ。」
「あ、いや…。」
ヴィクトールは首を振った。「そういうことじゃないんです。俺はどうも…剣が一番好きなんですが、ここの所全く触れてもいなかったもので。」
「ああ、そうだったんですか。」
そして、小庭に足を踏み入れる。「俺も、楽しみです。俺、実を言うとオスカー様以外の人とは一度も剣を交えた事が無くて…。ホントはどれ位の実力なのか、さっぱりなんです。」
 二人とも、準備は万端。
「では、始めましょうか。」
 ヴィクトールは笑い、ランディは僅かに緊張した面持ちで頷いた。

 

 初めはヴィクトールもまだ剣の感覚それ自体から離れていた時間が長かったこともあって、基本動作の繰り返しだった。
「ランディ様は普段どういった稽古をされているんですか?」
 ヴィクトールは縦・横・斜めに剣を振り、その重みと感触をもう一度、今度は正確な動作で確かめながら、隣のランディに尋ねた。
「俺ですか? 俺もやっぱりこういうことから始めます。大抵はオスカー様が傍で見ていて下さって、姿勢が崩れたりすると注意してくれるので…。」
と、息をつく。「…崩れないように、それと力を抜けっていつも言われるから、その辺に気をつけながら…。」
「ふむ…。」
 ヴィクトールは手を休めて、ランディの横に回った。そして、彼につられて手を止めそうになったランディを留める。
「いや、続けてくれますか? どんな型なのか知りたいので。」
「はい、分かりました。」
 ランディは素直に頷き、続きを始めた。
 すんなりとした剣筋。彼の性格ににてまっすぐで読みやすい。…そして、まだ力強さや強引さは感じられない。
 眺めていると、確かに本筋からは離れ姿勢が崩れるときがある。それでもなかなか良い太刀筋だった。きっと懸命に練習したのだろうと思える。身体の堅さはご愛嬌だ。多分少し緊張しているのだろう。
 こうして見ていると、彼に剣を教えたオスカーその人の影が甲斐見えるような気がした。
 意外にも基本に忠実で、真面目な太刀筋。
── オスカー様、か…。
 彼の執務室を尋ねるとき、どうしても心が強ばるのを止められない。あの日のことを思い出してしまう。
 炎の守護聖…。今はもう、あの事件に守護聖の力は関係ないのだと知っている。炎のサクリアがあろうがなかろうが、あれは起きてしまった事件。
 だがそれとこれとは別なのだ。
 あのアイスブルーの瞳はいつだって笑いを含んでいるのだが、その奥に尊大さや冷酷さを感じる時がある。それは…俺の勘違いなんだろうか。
 この太刀筋を見ていると、そう思えてくる。
「軍で教えているものと一緒のようですね。」
 しばらくしてから、ヴィクトールはそう言った。
「はい、オスカー様もそう言ってらっしゃいました。」
「では、同じものを。」
と、言ってから、ヴィクトールは口端を僅かに上げ悪戯げに微笑んだ。「…教えても意味は無いので、俺なりに解釈したものをお教えしたいと思いますが…それでいいですか?」
 そんなヴィクトールの表情に、ランディは一瞬目を見張り、そして大きく微笑んだ。
「有難うございます!」
「言っておきますが…なかなかズルイ手もありますよ。」
笑いを含んだ目をしてヴィクトールは言う。「もし御前試合なんてことになったら、絶対に使わないほうが良いでしょう。」
「じゃあ、ずるくないのだけ覚える事にしますよ。」
 からっと笑ってランディが答える。
 今度はヴィクトールが笑う番だった。
「ははは…、そうですね。でも体さばきの練習位にはなりますから、全くの無駄にはなりません。やっぱり覚えてください。」
「分かりました。」
 そうして二人は向かい合った。

 

 カン、カン…と、小気味良い音が連続して響く。
「こっちです。右に注意を引き付けて、左。」
 ヴィクトールはランニングの後だというのに息も切らせず、ランディの剣に剣を合わせる。
「は…、はっ…。」
 一方、ランディの咽喉からは絶えず息が漏れるようになっていた。
「自分中心に回ってください。余計な体力を消耗しますよ。」
 言われて、なるほどとランディは思う。そういえば、オスカーとの手合わせでは確かに、自分は彼の回りをぐるぐる回っているだけだったような気がする。
「そのためには、こうして…誘うんです。自分の左へ左へね。」
 右に持った剣で切るには左手にいて欲しい。相手にとっても自分が左になるが、それはもう片方の手で牽制する。
「そして相手の剣を跳ねる…そう。」
 まっすぐに剣を構える時と、相手を威嚇するように身体を開くときは違う。
 正式な剣しか学んでこなかったランディには新鮮だった。
「本当ならこうして…懐に飛び込んで相手の肘を肘で払います…ですが、これは…」
と言って、余裕で笑うヴィクトール。「ズルイ方の手です。…覚えないように。」
 からかわれてランディは息をつき、思わず声を上げた。
「もう…、ちょっと休ませてください!」
 ヴィクトールの剣先が、ランディの手許で止まる。ランディは深々と溜息を付いた。
「木陰に行きましょうか。」
 そういって二人は芝のある東の木陰に歩いた。
「…凄いですね、ヴィクトールさんは。」
流石のランディもへたったようだった。芝に着くなり腰をおろしてしまう。「俺ぜんぜん敵わないや。あんなに強いなんて。」
 言われて、ヴィクトールは僅かに照れたような顔をした。
「いや…好きなだけです。それに、ランディ様もなかなか見所がありますよ。」
 ランディの傍に立って、彼から剣を受取り、そして木の幹に自分の分と一緒に立て掛ける。
「そうですか!? 嬉しいなぁ。」
ランディはこげ茶の髪を掻き上げて、それからそこに置いておいたタオルで顔を拭った。
「オスカー様の教え方がよかったんでしょう。実に素直ないい型がついています。…随分練習された様子ですね。」
 だから、ヴィクトールは今日の稽古を軸に、これからなるべくその型を崩さないように、彼にいろいろと教えてみるつもりになっていた。
 今度はランディが照れる番だった。
「えっ、いやっ……俺なんて…。」
でも、ちらっとヴィクトールの方をみて、彼がお世辞でなくそう言ったと分かると、心底嬉しげに笑った。
 と、そこに。
「…やっと一段落かい?」

 と、よく通る若い男の声がして、ヴィクトールとランディは振り帰った。
「セイランさん!」
 ランディの口からその声の主の名が零れる。
「やあ、二人とも朝早くからご苦労な事だね。」
「セイラン…珍しいな、こんな時間に。」
 ヴィクトールは少し驚いた顔をして振り返った。どちらかというと朝は憂鬱そうに起きだしてくるのがこの感性の教官であったから。
「ええ、『こんな時間に』ね。」
 その含む所のある言い方に、ヴィクトールは小首をかしげる。
「なんだかカンカンうるさい音が聞こえてきて…何かと思って窓を開ければ君達が僕の窓辺の下に居たのさ。」
 セイランの私室はロの字型の建物である学芸館の中でも、南に面した方にある。見上げれば確かに彼の部屋の窓が開いて、そこから薄いブルーのカーテンが揺れていた。
 そしてセイランは尚も言った。その後ろ手に持った剣を二人に見せながら。
「それで寝ていられなくて出てくれば、こんな物騒なものが玄関先にひょいと置いてあるし…。」
「あ、それ俺です。すみません、セイランさん。」
 ランディは慌てて立ちあがってそれを受取った。だが謝っている割にはあまりすまなそうな顔はしていない。
 そんなランディの表情に、セイランはなんだか不満げな顔をした。
 だが、ヴィクトールはそのセイランの態度に、逆に笑いを誘われてたずねた。
「セイラン…それでずっとそこで見ていたのか?」
軽く視線を走らせた先には、小さなベンチ。「すぐに声を掛けてくれれば良かったじゃないか。」
 ヴィクトールはランディと剣を交えながらも、セイランが小庭に姿を現したその瞬間から、しっかりその姿を確認していた。
 その言葉にセイランはぷいとそっぽを向く。
「別に…僕にはそんな危ないところに割り込む気力はないよ。こうして待っているほうが余程利口さ。」
 とはいえ、その頬が僅かに染まっているのをヴィクトールは見逃さない。くっくと小さく笑って、頷いた。
「そうだな。しかし迷惑をかけてしまったならすまないことをした。明日からは場所を変えようか?」
「それほどの事じゃないね。僕はただ、こんな珍しい顔ぶれで何をしているのかと思っただけなんだから。」
 確かに珍しい顔ぶれではあった。そこにセイランが入れば尚更の事だ。
「剣の稽古をつけてもらっていたんですよ。セイランさんもどうですか!? ヴィクトールさんに習えば、強くなれますよ!」
 ランディが爽やかに言った。
 セイランは、一瞬ぎょっとして、言葉を失った。
 その隣でヴィクトールが笑いを堪えている。セイランは軽く首を振って小さく溜息をついた。
「いや…僕は遠慮しておく。脳みそまで筋肉になったら僕という貴重な存在がこの世から消えてしまうからね。」
 しかしランディはそんなセイランの心境はよく分からなかったらしい。…いや、その言っている意味もわからなかったかもしれない。
「そうですか? 残念です。」
あっさりとそう頷いて、そしてヴィクトールを見上げる。「人が多いほうが楽しいかなって思ったんですが。」
 その言葉にヴィクトールはとうとう笑ってしまった。
「はっはっはっ…そう、そうですね。…しかし、そうすると俺はランディ様にマンツーマンで教えるわけには行かなくなりますから…このままでも良いんじゃないでしょうか。」
「あ、なるほど!」
 ぽんと手を打って、ランディが笑う。
 セイランは呆れたようにそんな様子を眺めていたが、やがてしどけなくその青い髪を掻き上げ、言った。
「どうでもいいけどね…。もう二人とも止めたら? ヴィクトール…あなたの事、執務官が探していたよ。」
「え?」
ヴィクトールは言われて初めて、はっと気付いて上を見上げた。東の空高く、太陽が上っている。「しまった!」
 久しぶりの稽古が面白くて、時間を忘れていたらしい。これからシャワーを浴びて、朝食を食べて…。
「ああ! 俺ももう行かなくっちゃ!」
ランディもすっとんきょうな声を上げる。「遅刻する! ジュリアス様に怒られる!」
 言うが早いか、幹に立て掛けた剣を三本とも抱えてその場から駆け出した。
 が、小庭を出るか出ないかというところで振りかえる。
「ああ、ヴィクトールさん、今日は有難うございました! 明日もよろしくお願いします!!」
 そのまま後ろに走ろうとして、一瞬転びかけ、そしてまた駆け去っていった。
「…あ〜あ。慌しいことこの上ないね。」
 呆れたようにセイランが呟く。
 ヴィクトールは低く笑って頷いた。
「さて、じゃあ俺も行こう。知らせてくれて助かった。でなけりゃまた始めてた所だ。…ところでセイラン。」
「なに?」
 二人は話しながら学芸館に戻るため歩き始める。
「今度女王候補の息抜きのために茶会が開かれるそうだ。教官サイドとしては、それに出席するべきだろうか。」
「ふーん。お茶会ねぇ…。」
「意見を纏めるようにということだ。」
「僕は別にどっちでもいいよ。面白そうだといえばそうだし、面倒って言えばそうだね…ティムカにはもう聞いたの?」
 階段を上がり、学芸館の中へ入る。
「いや、まだだ。ついさっきランディ様から伝え聞いたんでな。」
「ふーん。じゃ、僕は二人の思うようにするよ。任せる。」
 あっさりとそう言うと、セイランは軽く手を上げて執務室のほうへ歩いて行ってしまった。もう出勤してもおかしくない時間なのだ。
 ヴィクトールはその後姿を一瞬見送って、そして自分の私室へ急ぎ足で戻って行った。

 

 
- continue -

 

さて。久々の新作です。
誰が嬉しいかって書けた私が一番嬉しいんじゃないかと(笑)
タイトル通りの内容でした。
楽しんでいただけたならよいなと思います。
ではまた!
蒼太

2001.09.02

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