── しまった! 寝坊しちまった!
機械油の匂いの中で、ゼフェルは目を覚ました。
私邸の地下に作られたその部屋は、ゼフェルの寝床であり作業場であり食事の場でもある。しかし、地下である故に日の光も月の光も差しては来ない。夜更かしして機械弄りをしていた彼が自然に目を開けたとき、部屋の隅のソファ兼寝床の傍においてあった手作りの時計は既に10時を指していた。
これから全力で走っても、もう間に合わないかもしれない。
急いでマントを着けて私邸を飛び出した彼は、そのまま宮殿への道を全力疾走し始めた。
その彼の姿をおどろいた眼差しで見送る聖地の人々。
── 別に、行ってみてアイツが居なくったって、俺は全然ヘーキだけどな!
アンジェリークが…あの栗色の髪の少女が、自分を待ちきれなくて他の誰かの所へ行ってしまっていても。もしくは、おとといの約束などすっかり忘れてしまっていても。
── ただ…俺から誘われたのに、行ってみたら誰もいなかったなんて言われちゃマズイかんな!
そう、自分が滅多に無いほど急いで宮殿に向かう理由を心の中でこじつけた。
その割には油で汚れた頬を拭うのも忘れていることや。
昨夜少しだけ緊張して眠るのが遅くなったことも。
彼は多分認めない。
そして、普段なら30分はかかる道のりを、素晴らしい勢いで駆け抜けた鋼の守護聖が自分の執務室の扉を開いたとき、果たして、栗色の髪の少女は少し困ったような様子で部屋の中央で佇んでいた所だった。
「…っ …わりぃ。」
口を突いて出たのはそんな台詞。まるで待たせてしまった彼女に許してもらおうかと言うような。
普段の彼なら、誰にもそんな言葉は使わないだろう。
振り返った彼女の微笑む顔には、けれど怒った様子などかけらも無かった。
「ゼフェル様。」
そう言って笑う。「よかった。いらしてたんですね。」
彼女はゼフェルが一時席を外していただけだと思ったらしい。
「なんだ…ホントに来たのかよ…。」
思わず、皮肉な台詞を言ってしまった。けれど、アンジェリークは全く気にしていないようすだった。こっそりと呼吸を整え、やや乱暴な態度で部屋に入っていくゼフェルに、彼女がそっと持ってきたものを差し出した。
「あの…ゼフェル様。これ…プレゼントなんですけど。」
それは新品の、緑色をした工具箱。
「えっ。」
ゼフェルは目を丸くする。
「あの…気に入っていただけるかどうか…。」
ここへ来る途中でアンジェリークは一週間ぶりに庭園の商人の元へ寄った。そしてこの工具箱を手に入れたのだったが。果たして彼は喜んでくれるのだろうか。
「へえ…。」
ゼフェルはアンジェリークの手から、興味深げにそれを受取った。そして早速執務机にそれを運び、中を覗く。
鈍い灰色でコーティングされたスパナやレンチ。こんなに上質の工具を見たのは久しぶりだ。…彼の故郷ではよく見かけたものだったが。
アンジェリークはそんな彼の背中を嬉しそうに眺めた。その様子は新しい玩具を買い与えられた少年そのもの。アンジェリークの姿も今は見えていないだろう。
やがて、品物を思う存分見終えたゼフェルが振り返った。
「その…あんがとよ!」
あまりしっかりとこちらを見てはくれなかったが、それは心からの言葉だった。アンジェリークは嬉しくなって、微笑んだ。
「よかった…。」
── なんだよ。その顔。
そんなアンジェリークの反応にゼフェルは戸惑う。これがジュリアスだったら。『その礼の仕方はなんだ! 礼儀と言うものを知らんのか!』と言うであろうし、ランディやマルセルなら、『折角送ったんだから、ちゃんと使ってよね。』などと一言釘を刺すに違いない。
── ま、あいつらがこんな気の効いたモン寄越す訳ねーケドな。
改めて手の中の工具箱を見て、それからゼフェルは我知らず微笑んだ。
── これであの古い工具ともおさらばだ…ぜ…?
なんか、引っかかる。
ゼフェルはちらりとそれを考えた。
なんだっけ?
けれど彼は、傍に立ったままゼフェルの事を待っている女王候補に気付いて、その思いはそっくり何処かへ放ってしまった。
「じゃ、どこへ行きてーんだ? オメーは?」
「えっと…森の湖に行きたいです…。」
もう、庭園恐怖症とでも言おうか。アンジェリークはよほどの事がないかぎり、デートで庭園を選びたいとは思わなくなっていた。
もちろんゼフェルはそんな事は知らない。
「ふーん…。」
森の湖かよ。と頬を掻く。
── どーすっかなー。あそこは誰もいねーし、なんも無くて、何喋ってイイのかわかんなくなるんだよな〜。
以前、金の髪の女王候補と出かけたときには、すぐさま帰ってきてしまったほどだ。
手の中の工具箱と、栗色の髪の女王候補の心配そうな顔を見比べる。
「ま、いっか。じゃあ行こーぜ。」
そう言って彼は執務机に工具箱を置き、そして彼女を促がして森の湖へと向かったのだった。
「良いお天気ですね、ゼフェル様。」
そう言って額の上に手をかざして、アンジェリークが言った。
「んー。まーな。」
ゼフェルは湖の傍に所在なげに座りこんで、頷いた。
少し汗ばんでしまうほどの天気だった。けれど二人の居る湖のほとりは、木陰である上に湖面を渡る風がそよいできて、大変過ごし易い場所だった。
アンジェリークはその隣で、静かに座っている。
── なんか、話さなくっていいのかな。
ゼフェルはこっそりと彼女の横顔を見た。
レイチェルと違って、なんだかんだと質問をしてこない変わりに、アンジェリークは本当に無口だ。いつもみんなで遊んでいても、彼女だけは何がそんなに嬉しいのか、微笑んで聞いているばかり。
今も、何が可笑しいのか湖の上を飛ぶ鳥に目を奪われている様子だった。
── ちぇ。
1人で楽しいってんなら…来なけりゃよかったな。…俺。
そして、ごろりと寝転がった。
「…ゼフェル様?」
その様子に気付いて、アンジェリークがおどろいたような声を出した。けれどもう半分目を閉じているゼフェルには、彼女の表情が見えない。
── もっと楽しいかと思ったのにな。
勝手な事だけれど、アンジェリークは他の女性とは違うと思っていた。と言ってもゼフェルが知っている女性といえば、故郷にいた頃の近所の女性以外には、現女王アンジェリークと、補佐官ロザリア、としてディアと元女王陛下くらいなもの。ディアと元女王に関しては、殆ど知らないといって良い。
しかし、ゼフェルは次の瞬間、驚いて目を開けた。
自分と同じように、アンジェリークが隣にごろりと横になったからだ。
「…空が、青いですね…。」
同じようにああ向けになって、アンジェリークはゼフェルを見た。
「あ、…ああ。」
どきん、と心臓が跳ねる。
アンジェリークはにっこりと微笑むと、また空に視線を戻した。
「見てください、あんな上のほうを…飛んでいますよ。」
「ホントだ。」
先ほどは湖面すれすれを飛んでいた褐色の鳥が、今は聖地の空高く、遥か上を飛んでいる。
ゼフェルは思わず呟いた。
「メカチュピのよー。もっと性能をよくした奴、そんなのが作れたら…あそこまで飛ばせてやれるのに…。」
高さが増すと、重力が増す。そしてメカチュピは、空気の薄い場所では動けない作りになっていた。
「今、作っているところなんですか?」
アンジェリークに尋ねられ、ゼフェルは強く頷いた。
「おう。 …でもこれがなかなか難しくってよ。まず、飛ぶ速さ。…ああ言う風にゆっくり飛べること。…それから重さ。…これは、重いまま飛ばせないと意味がねーんだ。」
「どうしてですか?」
寝転がったまま、アンジェリークが聞く。
「だって、軽くしたから飛びました、じゃ意味ねーだろ? 俺の今の目標は、『高い所を、ゆっくり飛ぶ事が出来る』鳥形メカを作る事なんだ!」
「そんな事ができるんですね。」
感心したような彼女の言葉に、ゼフェルはムッとした顔をする。
「まだ出来てねー。」
「あ。ごめんなさい。」
しかし、ゼフェルは気にしていないようすだった。思い悩んだ様子で起きあがる。
「…半重力装置。あれを使えば簡単だろうな。あの重力システムを強化して、何か推進力をつけるためのものを…でも…それじゃ駄目なんだ。」
アンジェリークはつられたように体を起こした。
「どうしてですか?」
「それじゃ当たりめーの事だし、…その…なんていうか…。」
ゼフェルはそれを現す言葉を捜すために、言いよどむ。アンジェリークはじっとそれを待っていた。
「…そう、『優雅』じゃねーんだよ!」
ゼフェルはおよそ彼らしくない言葉を紡ぎだした。
「優雅、ですか?」
アンジェリークの言葉に、強く頷く。
「そうだ。優雅、って分かるかオメー? なんつーか…ゆらゆら、してるっつーか。ふわふわしてる、っつーか。こう、しゅーっ、って感じだ。」
彼は夢中になって、鳥の軌跡を手で描いた。
くすくすと笑う彼女に、ゼフェルはじれったそうに言う。
「あ〜!こんな事、すぐ分かってくれる奴…一緒に作ってくれるような奴が居てくれたらなって思うよ! …オメーも結構聞いてくれるけど…。でも、技術的な事分かんねーだろ?オメーは。」
尋ねられてアンジェリークは素直に頷いた。
ゼフェルは白銀の髪に指を通して、くしゃくしゃと掻き回して言った。
「だからここは嫌なんだよ。…昔は…俺が居た惑星じゃ、飛ぶ鳥を作るなんて、子供の遊びだったんだぜ? まあ、メカチュピは…その中でも良い出来だって思うけどよ…。とにかく、宇宙レベルの技術者が、その辺にゴロゴロ居たんだ。」
嫌だ、と言う言葉に僅かに心を引かれながら、アンジェリークは彼に尋ねた。
「ゼフェル様は、だからそんなに器用なんですね。」
と、ゼフェルは思わず頬を染めた。
「い…いや。…まあ。…それもあっけどよ!」
しかし。
「流石は鋼の守護聖様ですね。」
と、アンジェリークが何の気なしに言った瞬間、ゼフェルの顔色が変わった。
「…………。」
アンジェリークは、おどろいて彼の横顔を見つめた。先ほどまでの高揚した雰囲気が影を潜め、じっと目を伏せている。
「どう…なさったんですか…?」
おそるおそる、彼女は尋ねた。
ゼフェルは顔を上げた。真紅の瞳が怖いほどに真剣にこちらを見つめている。
「あのよ…。」
「は、はい…。」
「オメー、ちょっと前に俺が、『聖地になんて来たくなかった』って言ったの、覚えてっか?」
そう言われてみれば、聞いた事があった。
その言葉に共感を覚えていた事もあったのに、自分がその考えから抜け出た途端に忘れかけていた。
「あんとき、オメーは何にも言わなかったけど、俺は、オメーもそう思ってんだな。って、ちょっとだけそう思った。…だけど、今は…。」
「今は…。」
アンジェリークは、ゼフェルのかもし出す雰囲気に、どこか恐ろしげなものを感じて、思わず腰を引いた。
「あんまし…そういう感じ、しねーのな。」
そういうと、彼はぷいと視線を逸らした。
アンジェリークは我知らず、ホッと息をつく。
「どうしてだ?」
しかし、ゼフェルは尚も聞いた。
アンジェリークは、どう答えていいものか、少し躊躇った。そんな彼女の様子を、ゼフェルは肌で感じて、更にその訳を知る。
「…オメーさ…もう、帰りたいとは思わねーの…?」
── たぶん、そうなんだろうさ。
尋ねながらも、ゼフェルは一人で納得する。幾ら17の少女だからと言って、いや、17の少女だからこそ、こんな聖地の美しい情景や、そこにあるもろもろの事柄に惹かれるんだろう。そして、故郷よりもここに、居たいと願うんだろう。
「ちっ。」
彼は小さく舌打った。
── ここまで来て、帰りたいなんて思ってるのは、どうせ俺だけだよ。
『もう、故郷にはもどれません。諦めてください。ゼフェル。』
『嫌だ! 俺は戻るんだ!』
『お願いですから…困らせないで下さい。…もう、あなたの知るあの星ではなくなっているんですよ…。』
それでも、一目見たかった。
会いたかった。
話しをしたかった。
…けれど、自分の知る人々は、もう居なかった。
『一番刻の流れが速い時期だったんですよ。…済みません。それが言い出せなくて…。』
── オメーのせいじゃねー。
そう、言ってやってもよかった。
けれど、口をついて出てきたのは、別の言葉。
『お前なんて大嫌いだ、ルヴァ!』
傷ついたのは、ルヴァだけじゃなかった。
けれど、首座の守護聖を含め、その場に居た人間の視線は冷たかった。
泣きたかった。
でも、そんな事は出来なかった。
── 俺は、男だし。
頼れる奴なんて、誰もいなかったから。
ゼフェルは湖を眺めながら、そんな事を思い出していた。
「…もう、帰ろーぜ…。」
言いながら、アンジェリークを見た。
けれど。
アンジェリークは、泣いていた。いや、正確には泣くのをぐっとこらえていた。
「お…い…。」
ゼフェルは、おどろいて彼女の肩を両手で押し上げた。「なんでオメーが…そんな顔するんだよ。」
「だ…って。」
アンジェリークは、小さな声で囁いた。「帰りたくない筈が、ないじゃないですか…。」
「でも…オメーは…。」
ここが気に入ったんだろ? と言いかけて、口を噤む。
「お母さんやお父さんが、まだ待ってます。…ホントは、もしかしたら、私が帰ってくるって、きっと思っています。」
頑張ってね、と送り出された家の前で。
目だけは違うことを言っていた。
「じゃあ、帰ればいいじゃねーか! 試験なんて手を抜けよ! オメーには待っててくれる人が居る。それにオメーは1人じゃねー! レイチェルがいるだろ? 代りがいるだろうがよ!」
俺と違って! ゼフェルは心の中で叫ぶ。
アンジェリークは激しく首を振った。
「代りなんかじゃない! レイチェルは…レイチェルは私のライバルです!」
「でも…。」
日頃大人しい彼女の大声に、ゼフェルは思わず怯んだ。
アンジェリークは、零れ落ちそうな瞳を上げた。
「そう思わなければ…私、なんのためにここに居るのか…。」
「アンジェリーク…。」
「私は1人じゃない…。私は、レイチェルと一緒にあの宇宙を育てているんです。…私は、…必要とされているから、ここにいるんです。…そうでしょう?」
ゼフェルは、そのまっすぐな視線に耐えきれずに、顔を背けた。
「でも…帰れなくなる。」
今なら、帰れる。俺ならそうする。
「教えてくれた人が、いるんです…。」
アンジェリークはひっそりと呟くように言った。
「トロくて、弱くて。…主星にいた頃だってわたし、いつもそうだった。自信がなくて、いつもおどおどして。…でも、私、ここに来て初めて自分の事を知った気がするんです。少しだけ、勇気を持って周りを見れば…。いつだって私の周りには私をちゃんと見てくれている人が居る。私を必要としてくれる人が…宇宙があるって。」
── なんでだ?
ゼフェルは思った。
── こいつ、この間までとは違う。
「だからわたし…例え最後にレイチェルに負けてしまう事があっても…勝つ事になっても。この女王試験には、全力でぶつかるつもりでいます。ホントは帰りたくても…。今だけは、女王試験の間だけは、わたし、その事はもう、考えない事に…したい。」
もう、耐えられなかった。
潤んだ瞳で、しかし決して涙は零さずにゼフェルを見つめるその瞳には。
そして、もうとっくに…本当はもうずっと前から分かっていた、その言葉をこの女王候補の口から聞くことには。
「…俺。…もう帰る。」
ゼフェルは勢いをつけて立ちあがった。
「…ゼフェル様!」
アンジェリークの呼ぶ声を無視して。
ゼフェルは走りだした。
宮殿ではなく、自分の私邸への道を。
走って、走って、走って。
もう、忘れてしまいたかった。
あんな、か弱いだけの少女に突きつけられた現実を。
「っ…はぁっ。 …はあっ …はぁ…。」
地下室に飛び込んで、ゼフェルは頬を拭った。
朝から付けたままのオイルが、手の甲に付いてくる。そして、涙も。
「…泣いてなんかない!」
ゼフェルは部屋の中央に置いた作業台に歩み寄った。
その上には、昨夜遅くまで使っていた古い…工具箱。
── …あ。…そうだ。…これ……って。
はげかけた赤いペンキ。
壊れてしまった取っ手。
『これを差しあげますよ〜。あなたの故郷のものとは、随分格が違いますが〜。それでも、前任の鋼の守護聖が残して行ったものより、手が出しやすいかなぁ、なんて思いましてね〜。』
あのころは、ぴかぴかだったんだ。今日貰ったアンジェリークの工具箱みたいに。
── なんで忘れちまってたんだろ、俺。
おせっかい焼きの、お人よしの、うすぼんやりした。
でも暖かい。…あいつ。
『もう、帰る場所はないんです、ゼフェル。…今はもう。』
帰りたい場所は。
今は、…どこなんだろう。
- continue -
くは〜!
愛が。傾いてしまいました。ゼフェル様に。
今回書きたかったのは、
なんで送ったモンを使ってくんないのよ〜!ってことと。
精神年令は、女のコの方が高いのヨ!
でした。
では、また。
蒼太
2001.06.19