学芸館から取るものもとりあえず駆け出してきてしまったアンジェリークは、女王候補寮への道を息を切らせながら走っていた。
あんな風に男性に触れられたのは初めてだった。
唇に残ったヴィクトールの指の感触に、アンジェリークはただ混乱するだけ。
覗き込む様に唇だけ見つめていた琥珀色の瞳。
アンジェリークはヴィクトールが彼女に触れた瞬間、もうどうすることも出来なくなってしまった。
動きを止めて、息を止めて。
ただ立ちすくむことしか出来なかった。
── キス、されるのかと…。
そんな訳は無いのに。彼はただ自分の付けていた口紅に興味を惹かれただけだったのに。
そして、彼の無骨な手の確かさが、まだ残っているような気がする。
「私…もう…。」
胸元に抱えたノートと筆箱をぎゅっと抱きしめる。
胸の高鳴りが抑えられない。
そんな中、アンジェリークはただ闇雲に走っていたらしい。
気付いたときにはもう公園の傍まで来ていた。
小道の脇に続く生垣の角を曲がる。
「わっ」
「きゃ?」
アンジェリークは突然の人影におどろいて持っていた学習用具を取り落とした。筆箱の蓋が開いて、地面にペンが散らばる。
「…っ、ワリィ!」
ぶつかりかけた人物は、鋼の守護聖であった。彼はすぐさまその場に屈み込むと、辺りに散ったペンを慌てた様子でかき集めはじめた。
「ゼフェル様!」
アンジェリークは夕暮れの中で、相手が彼だと気付く。「大丈夫です。…わたし、やりますから。」
そういって、ゼフェルの前に屈み込み、同じく参考書やらノートやらを拾い始めた。
「…汚れちまった。」
彼女のお気に入りのピンクの万年筆を最後に拾い上げると、立ちあがりながら彼はそう言ってそれを彼女に手渡した。
「大丈夫です、これくらい。」
付いた泥を軽く払って、アンジェリークは元のように筆箱の中にそれをしまう。「お急ぎだったんですか?」
アンジェリークが言うと、ゼフェルはああそうだ、と言うように頷いて彼女を見たが…
「…おめー、なんだそれ? 汚れてっぞ。」
そういって、彼女の唇と頬を指差した。
「えっ、…あっ、これは…。」
アンジェリークは慌てて唇を隠す。汚れているようにしかもう見えないらしいことに気付いて、そしてたった今の出来事を思い出して、頬を染めた。「オリヴィエ様に口紅をつけていただいたんですけど…。…擦ってしまって。」
「オリヴィエ〜?」
ゼフェルはさもありなんというように肩を竦めた。「あいつ、いっくら自分の趣味だからって、お前でまであそばなくってもいいのになぁ。」
「おまえでまで?」
アンジェリークは小首を傾げた。
ゼフェルはしまった、と言うように視線を逸らしたが、言った。
「あ〜〜〜。あいつってば年中俺達になんか塗ったり付けたりしようとしやがるからよ〜。…メルとかは結構言いなりになってるみてーだゼ?」
俺はぜってー掴まったりしねーケドな、と彼は言った。
アンジェリークはくすくすと笑う。
「そうなんですか…、でもこれは、私達がオリヴィエ様に頼んだんです。でも、もう落ちちゃいましたけど…。」
残念そうな、それでいてなにか他のことを考えているような上の空の語尾に、ゼフェルは内心首を傾げたが、
「ふ〜ん。」
と、気の無い返事をして、彼女の手の平の中に見え隠れするピンクベージュの口紅に目をやった。
── こいつが口紅ね〜。
ちゃんと塗られていたら、どんなだったんだろう、などと考えたら、なんだか急に気恥ずかしくなってしまった。
「けっ。」
ぷい、とそっぽを向いて、彼は言った。「似合わねーよ、そんなの。取れちまって正解だって。」
照れ隠しの一言だった。でも、ちらっと彼女の顔に視線を走らせて、ゼフェルは思わず目を丸くした。
「…似合わない…。…そうですね。」
似合うと、言って欲しかったのかもしれない。…彼に。
気付いてくれはしたけれど、そんな風には言ってくれなかった。…そう、似合わなかったから?
「お…おい。泣くなよ!? 嘘だ! 嘘だったら!」
今にも泣き出しそうにうつむいてしまったアンジェリークの顔を上げさせようと、手をばたばたさせて彼女の注意を引こうとする。
そして顔を上げたアンジェリークに、ゼフェルは頬を軽く掻いて彼は照れたように言った。
「その…俺にはそういうのわかんねーケド…たぶん、似合う…よ。」
── うわ、俺、何言ってんだよ!!?
自分の口から零れた言葉に、ゼフェルは慌ててしまった。自分がこんな台詞を言うなんて…。彼はきょとんとした表情のアンジェリークを見て、彼女がもう泣きそうな顔などしていないことを確認すると、
「〜〜〜っ、俺! 急ぐから! …じゃあな、アンジェリーク!」
叫ぶように言って彼女の脇をすり抜けた。赤くなってしまった自分のことを見られないように。
「…ゼフェル様?」
飛ぶように駆けて行ってしまった彼の後姿を呆気に取られて見送るアンジェリーク。しかし彼が突然振り帰ったのに気付いて、小首を傾げた。
「アンジェリーク!」
「はい?」
ゼフェルは、何かを言い迷うようなしぐさを見せ、それから彼の言葉を待っているアンジェリークに向かって、半ば叫ぶように言った。
「オメーよ、今度の日の曜日、暇なのか?」
「えっ、はい。大丈夫です!」
特にまだ予定は入っていない。アンジェリークは彼に叫んで返した。
逆光で良く分からなかったが、彼は大きく微笑んだらしかった。
「じゃ、デートしようぜ! 日の曜日の朝になったら執務室に来いよ! …分かったな!?」
「ええ、じゃあお迎えに行きますね。」
アンジェリークは微笑んで、答えた。
ゼフェルはそれを見てから改めて駆けて行った。
その後姿を見送りながら、アンジェリークは改めてゼフェルの答えを思い返した。
今、一瞬泣きかけたことなどもう忘れてしまう。
── なんだか、不思議な気持ち。…似合う、なんて言ってくださるなんておもわなかった…。
ほてってしまった頬を抑えながら、アンジェリークは女王候補寮へ戻った。
次の日。アンジェリークはドアのチャイムが鳴るのに気付いて、扉を開けに玄関に出た。しかし彼女はその扉の向こうに立っているのが誰かと言うことに気付くと、ドアを引いた姿勢のままで、固まってしまった。
「……ヴィクトール…様?」
そこにはいつもと変わらぬ執務服のままの彼が立っていた。
「今日は暇か? アンジェリーク。」
尋ねながら、彼はぎこちなく微笑んだ。「突然済まん…その…。昨日のことが気になって、な。」
「あ…。」
ヴィクトールは自分がやったことと、そして走り去る彼女に何も言えなかったことを気にかけていた。
「平日だから…お前が忙しいなら俺は帰ろう。ただ、ちょっと謝りたかっただけなんだ。」
アンジェリークは思いきり首を横に振った。
「いいえ! そんなこと無いです。誘いに来てくださって…嬉しいです、…ヴィクトール様。」
そんな彼女の様子にヴィクトールは苦笑する。
来るか、来るまいか迷ったが…こんな顔をされてしまうと、間違ったことはしなかったのだと思える。
「どこに行きたい?」
尋ねられて、アンジェリークは『庭園』と言いかけたが…思いなおして彼に言った。もう質問デートはこりごりだった。
「あの…森の湖がいいです。」
「森の湖?」
ヴィクトールは首を傾げる。庭園を選ぶと思ったのに。「そう…だな。あそこは静かで良い所だ。女王試験のいい気分転換になるかもしれんな。…行こう。」
そう言うと、アンジェリークの外出の支度が整うのをまって、彼女を伴って森の湖へと出かけたのだった。
聖地は今日も晴れ渡った良い天気で、森の湖はいつものように輝いていた。
「さて…、この辺で休もうか?」
ヴィクトールは湖の傍に適当な場所を見つけると、腰を下ろした。
「はい。」
アンジェリークはスカートにしわをつけないように気を付けながら、柔らかくきれいな草の上を選んで、彼の隣に座った。
湖から風が吹いてくる。その風がアンジェリークの栗色の前髪を煽り、その滑らかな白い額を露にする。
平日だからだろうか、今日は他に誰もいない。背後で流れ落ちる滝の音、傍を流れる小川のせせらぎ、森を渡る風が木の葉を揺らして行く。
湖面に跳ねる光がまぶしくて、アンジェリークは目を細めた。長い睫毛が頬に影を作る。
「涼しいですね。」
「そうだな…。」
今日の聖地は秋口の爽やかな気候で、空も心なしか高く見える。
アンジェリークは隣で同じように湖を眺めているヴィクトールの横顔を見上げた。
穏やかな顔をしている。
それはヴィクトールが既に自らの心を固めたからなのだろうか。
その視線に気付いて、ヴィクトールが振り返って彼女に言った。
「どうした、アンジェリーク。今日は試験の息抜きにきたんだから、そんなに堅くならなくても良いんだぞ?」
微笑む琥珀色の瞳。しかし、そんな彼の視線の中にも、僅かに戸惑いが見られた。
というのもこうして二人だけで過ごすのは、学習を除けば、女王試験始まって以来初めてのことだったからだ。
「…はい。」
しかし、アンジェリークは彼に視線を向けられたこと自体に慌ててしまいうつむいて、その戸惑いには気付かない。
── 何を話したらいいのかしら?
ここにきて、アンジェリークは彼の事など、僅かしか知らなかったことに気付く。趣味や、好きな食べ物。そんなことを知っていても、彼自身が思うことや、彼が今までどんな生き方をしてきたのか…。そんなことを聞いたことはなかった。
彼はどんな人?
私に見せる教官としての彼ではない、ヴィクトール様はどんな人?
庭園の奥で初めて言葉を交わしたとき、そういえば彼は執務服を着ていなかった。まだ学芸館が開くまえで、公的な場所ではなかったからだと思うけれど、ラフで首もとが広く開いた夏物セーターにボトム…。そして茶の皮手袋に寝乱れた前髪。
あの時見せてくれた一瞬の表情が、彼の本当の顔?
アンジェリークは伏せていた視線を上げた。
照り返しのまぶしさに僅かに目を細めて湖を眺めている彼の横顔を、もう一度まじまじと見詰める。
好きになったのは、教官としての彼だけれども。
アンジェリークはもっとヴィクトールのことを知りたいと思うようになっていた。
「………。」
じっと見つめられ気まずくて、ヴィクトールは湖から視線を戻して、彼女に尋ねた。「…その…。…お前はよくここへ来るのか?」
「え? …はい。たまに。」
「一人で?」
聞いてから、ヴィクトールはしまったと言う顔をした。そんな訳がないのに。
「一人だったり、皆様と来たり…。レイチェルとも、ご飯の後散歩をしに来たりします。」
ヴィクトールは、その答えに相好を崩して笑った。
「そうか。…お前達はライバルだっていうのに仲が良いな。…さすがにそろそろ試験にもなれてきたみたいだし。」
「ライバルですけれど…。この間占いをしに行ったら、レイチェルと私、相性も親密度も凄く良かったんです。」
アンジェリークが微笑んで答えると、ヴィクトール苦笑しながら尋ねた。
「占いの館に行ったのか?」
「ええ…。あの…。」
アンジェリークはヴィクトールを見上げた。「ヴィクトール様は、占いをなさったりします?」
「俺か?」
ヴィクトールは目を丸くする。「いや…占いは、ちょっとな。」
「あっ。…そ、そうですよね。」
「しかし、カードで遊び程度のものなら、軍にいたときにはよくやったぞ。」
苦笑しながら、ヴィクトールは言った。
「軍にいたとき? …あの。…ヴィクトール様は…聖地に来る前はどんな風に過ごしていらっしゃったですか?」
「どんな風にって…。」
「仕事とかじゃなくて…あの…上手く言えないんですけど…お友達とか。そういった、カードとかの…普通の事。」
しどろもどろになりながら話すアンジェリークに、ヴィクトールは小さく微笑んだ。
「なんだ? そんなことを聞いて面白いのか?」
「はい!」
握りこぶしを作りそうな勢いで、アンジェリークは頷いた。
ヴィクトールはそんな彼女の様子に笑って、そして少し遠いところを見るように、湖へと視線を投げた。
「…そうだな。聖地に来る前か…。」
そして、昨夜久しぶりに見た夢を、思い出した。雪の降る景色と、そして懐かしい友人の顔。
ヴィクトールは、そのまま湖へ視線を戻したまま、語りはじめた。
「俺にも、ライバルってやつがいてな…。俺と違って冗談好きで、世話好きで、明るくってな。…でも任務に関しては冗談が過ぎて失敗することが多かった。同期で同年で、ずっと奴と一緒に行動していたよ。」
過去の思い出を思い出しているのだろう、笑いを含んだ彼の声に嬉しくなって、アンジェリークは思わず尋ねた。
「その方、今はどうしてらっしゃるんですか?」
「……今、か。」
尋ねた瞬間に、彼の瞳に暗い影が過るのを、アンジェリークは見逃さなかった。
「今は、…辺境の惑星にいるよ。」
そう言われて、アンジェリークはホッと息を吐いた。ヴィクトールの眼差しが余りにも寂しげだったから、もしかして…と、思ってしまったのだ。
「…聞かせてくださいますか? ヴィクトール様とその方との事。」
ヴィクトールは驚いて目を丸くする。なぜ彼女がそんなことに興味を持つのか分からなくて。
しかし、口を突いて出たのは、
「大して面白い話じゃないが…お前が聞きたいって言うなら…。」
という、そんな言葉だった。
「そろそろ、帰るか?」
ヴィクトールは、夕暮れ近くなった空を見上げて、そう言った。
今日は、楽しい1日だったと言えるだろう。昔の事を…楽しかった思い出だけをこうして誰かに語り聞かせるのは初めての事だった。それは、彼女があの事件についてなにも知らないから、だからこそ出来たことだったのかもしれない。
しかし、幾ら話が楽しくても、女王候補である彼女をこれ以上帰さずに行く訳にはいかなかった。
ずっとくすくすと笑いながら、あの頃起こした莫迦な事件を聞いていてくれた少女は、笑い過ぎで涙を浮かべた目元を拭って辺りを見まわした。
そうして、日暮れた辺りの様子に、初めて気付いて驚いた。
森の湖には夕暮れ間際の光が映り、気温も僅かながら下がり始めているようだ。
正直言ってもう少し彼といたかったが、アンジェリークはヴィクトールを見上げて小さく頷く。
「…はい。」
たちあがった彼が差し出してくれた手に掴まって、羽のように軽い身体を起こした。
ヴィクトールはその軽さに目を見張った。そのたおやかな指先にも。折れそうな手首にも。
そうとは知らないアンジェリークは、怪訝そうな瞳を彼に向けた。
「…どう、なさったんですか?」
「いや…。」
ヴィクトールは首を振って小さく笑い、彼女の手を離した。
そして、初めて気付く。
「今日は口紅をつけてないんだな、アンジェリーク。」
夕闇の中で分かりにくくはあったが、もうその色彩はヴィクトールにとって忘れようもないもので、それが彼女の唇を覆っていないことも、分かるようになっていた。
「は、…はい。」
それに気付いていたのか。という驚きと、もしかしたら無防備に開いていただけかもしれない口元をヴィクトールに見られていたのだという恥かしさに、アンジェリークの頬は桜色に染まる。
思わず手元を手の平で隠したアンジェリークに、ヴィクトールは笑った。
「はは…。済まんすまん。…もうあんなことはしないから…。別に怒りもしないし、付けて来たって構わないんだぞ?」
オリヴィエに付けてもらった口紅だと知らないヴィクトールは、それを彼女の私物だと思い込んでいるらしかった。
あんなこと、を思い出して黙ってしまったアンジェリークの気持ちに気付かずに、先を歩き出す。
「送ろう、アンジェリーク。もう暗いからな。」
そして二人は他愛もない会話をしながら、女王候補寮へ戻った。
寮部屋の明かりが灯った。
オレンジ色の柔らかい光りが、寮の小庭を照らし出す。
「あの…今日はありがとうございました。とっても楽しかったです。」
アンジェリークは玄関先で振り返ってヴィクトールを見て、「とっても」と「楽しかった」を心持ち強く言った。
ヴィクトールは、そんな彼女の嬉しそうな顔を見て、その視線を緩めた。
「そうか。それは良かった。役目以外で俺に出来るのはおまえを励ますことくらいだから、な。」
少しでも、この華奢な肩にのしかかる、女王試験というものの重みを減らしてやれればいいと、今は強くそう思う。
彼女の泣き顔を知っているからこそ。
こうやっていつも微笑んでいて欲しいと、そう思う。
そうした思いが、彼にこう言わせてしまったのだろう。
「…もし、それがお前のためになるなら…お前にとって迷惑でないなら、またこうして話をするか?」
とくん。
アンジェリークの心臓が跳ねた。
その言葉をくれたヴィクトールの眼差しが、余りにも優しく、そして暖かだったから。
そんな風に尋ねられて、頷かない筈がない。
「…はい。…お願いします。」
アンジェリークはその嬉しさで、蕩けるような笑みをヴィクトールに向けた。
その笑顔を見た瞬間、ヴィクトールはまた罪悪感に苛まれる。過去や、責務が頭を過って。
しかし、そんな心中をアンジェリークに悟られることなく、ヴィクトールは言った。
「…そうか。嬉しい事を言ってくれるな。頑張ってくれ、アンジェリーク。」
「はい!」
── ヴィクトール様が頑張れって言うなら、私は幾らでも頑張れる。
彼が誉めてくれるなら。
彼がこうして励ましてくれるなら。
「じゃ…な。」
そう言って踵を返して歩き出したヴィクトールの広い背中を見送りながら、アンジェリークはもう一度、ほのかに頬を染めるのであった。
- continue -
え〜、どこか変わったの?と聞かれてしまいそう…(慌!)
でも変わってますので…。
まだまだ頑固オヤジは頑固なまま。
ずっと書きたかった森の湖デート編でした。
では、また
蒼太
加筆修正 2001.09.01