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23.口紅

  

「オヤスミなさ〜い! セイラン様っ!」
 レイチェルは大きく笑って、彼の背中を送り出した。今日は月の曜日。昨日のエルンストとの思いがけない会話のせいで、彼女の心は未だに浮き立つようだった。
 その雰囲気が伝わったのだろうか、いつもはもう少し気難しげな表情を見せる感性の教官も、今日は苦笑ながらも笑顔をちらつかせてくれた。
 上手くいってるじゃん! やるね、ワタシも!
 彼女はセイランの後姿が門柱の向こうに消えるのを確認すると、そのまま部屋の中には戻らずに、候補寮のもう一人の女王候補の部屋へ足を向けた。
 昨日はあの後浮かれすぎてしまって、彼女への報告を…といっても、アンジェリークはレイチェルの気持ちなど知らないのだから、研究院の中を見せてもらった、という程度のことしか言うつもりは無いが…する余裕がなかったのだけれど、今日ならば大事な所は隠しつつ、嬉しい気持ちを彼女に伝える事が出来そうだった。
「アンジェリーク、いる〜!?」
 栗色の髪の少女が暮らす、西の部屋のポーチに立って、レイチェルは天使の呼び鈴を鳴らした。高く澄んだ音が部屋の中から聞こえ、そして人の気配がドアの向こうまでやって来た。
「…レイチェル?」
「そうだよ、開けて〜!」
しかし、答えが返ってこない。「…どうしたノ? アンジェリーク…?」
 不穏な気配を扉の向こうに感じて、レイチェルは眉を寄せた。
「…ごめんねレイチェル。今日は帰ってくれる?」
 か細い声が答える。しかもそれは酷く掠れいた。
 しかし、そんな声を聞いて引き下がるレイチェルではない。
「ちょっと、ナニよその声! …開けてよ、アンジェリーク。」
「今はダメなの…私…。」
「開けてったら!」
 僅かな沈黙。そしてドアが薄く開けられた。
 アンジェリークの顔が覗く。レイチェルはその顔を見て、驚きに目を丸くした。
「どうしちゃったの、その顔!」
「…………。」
 アンジェリークは1歩引いて、レイチェルを部屋に通すとすばやくドアを閉めた。
 薄暗い部屋の中で、降り返ったアンジェリークの目元はそんな中でもはっきりと分かるほどに赤い。例え誰が見たとしても、泣いていたのは明かだった。
「うっわ〜…酷いね、その顔。……泣いてたの?」
 レイチェルの言葉に こくん、と頷く。
「何かあったの?」
 また、頷く。
「何があったノ?」
 答えない。
 潤んだ瞳を僅かに揺らめかせただけ。レイチェルは溜息をついて、アンジェリークのベッドの上に腰掛けた。
「ねえ、聞かせてヨ。アナタがそんなだと、ワタシも張り合いが無くなっちゃうよ。」
 アンジェリークは誘われるようにレイチェルの隣に腰掛けた。
 レイチェルは待った。アンジェリークが自然と口を開いてくれるのを。彼女の生来の気質は、こんなとき本領を発揮するのかもしれない。
「レイチェル…。」
 アンジェリークはとうとう顔を上げて話し始めた。今日起きたこと。ヴィクトールとのデートを失敗に終わらせてしまったこと。
 レイチェルは彼女の話がすっかり終わるまで、じっとそれを聞いていた。
 そして、おもむろに立ちあがる。
「アンジェリーク、明日…はワタシがだめだから…。えっと…あさっては、ヒマ?」
 女王候補ともあろうものが、平日にヒマも何もないだろうとは思うのだが、レイチェルは兎も角そう言った。
「? …うん、それは…。」
「じゃ、その日はワタシに付き合ってよ。」
 頷くとも取れないアンジェリークの返事だったが、レイチェルは言葉尻を捕らえて強く言った。
 アンジェリークは、それに押されてこくりと頷く。
「じゃ、決まりだネ! 朝迎えに来るから…。とにかく今はその目をなんとかしようヨ! ソレじゃあご飯も食べにいけないヨ?」
 そう言うと、アンジェリークの部屋のミニキッチンへ入り、濡らしたタオルを彼女に手渡した。

 

 そして水の曜日がやってきて、アンジェリークはレイチェルに誘われるまま朝早くに女王候補寮を出た。
 彼女に連れられてやって来たのは占いの館。
「あっ! レイチェル、アンジェリーク! いらっしゃい!」
 薄暗い室内の置くから、弾けるように明るい、占い師メルの声が二人を出迎えた。
 ここ最近、メルも始終暇を持て余す事は無くなってきた。たとえ女王候補たちが姿を見せなくても、守護聖やら協力者やら、はては補佐官や当の女王陛下その人までが、こっそりあるいは大手を振ってここを尋ねては、話をしたり占いをしたりしていくようになったからだ。
「やっほー!メルくん元気にしてた!?」
レイチェルは片手をあげてメルに向けた。
「うん! レイチェルは?」
 メルはどうやら金の髪の女王候補と仲が良いらしかった。それもそのはず、アンジェリークは彼と話しをしたり一緒に遊んだことはあっても、一度も占いの館それ自体には来たことが無かったからだ。それも育成に熱心だったからだといえば、そうだ。
「ワタシはいつだって元気だヨ。ねえ、占いして欲しいんだけど…。」
 そういって、レイチェルはちらりと後を振り返り、アンジェリークの肩を軽く押した。
「ほら、占ってもらいなヨ!」
「えっ…?」
「ちゃんとその目で確かめたら? アナタとヴィクトール様の相性とかさ。落ち込むのはそれからでいいんじゃナイ?」
 メルはその会話に僅かに耳をそばだてたが、黙って聞かなかったふりをした。
 アンジェリークはそこまで言われてやっとレイチェルの意図に気付き、
「そんなことも分かってしまうんですか? メルさん。」
 小首を傾げて、奥に座す少年を見上げる。
「うん! 占いはハート一個で、相性と親密度を占うよ!おまじないは二個もらうけど親密度があがるんだ。どうする?アンジェリーク。」
 アンジェリークは一瞬躊躇った。でも良く考えれば今アンジェリークの持っているハートは五つ。いつだってあまってしまう中途半端なハートなのだから、占いが出来るなら、してみたい様な気がする。
── 少し、怖いけど…。
 もし、ヴィクトールとの相性が悪かったらどうしよう、そんな事を考えてしまう。
「ホラ! ぐずぐずしてないで! 今日はもう1つ行く所があるんだカラ!」
 アンジェリークはレイチェルのその台詞に小首を傾げたが、その雰囲気に気圧されて、メルに頼んだ。
「じゃあ、占いをお願いします、メルさん。」
「分かった、占いだね! …星の囁きに耳を澄ませてね……。」
メルの密やかな声に、蒼い水晶が反応し始める。彼は半分瞼を伏せ、水晶に手の平をかざす。そして水晶は淡く靄がかかったように光り始める。そしていつもより僅かに低い声で、メルが言った。「…さあ、占いの結果がでたよ…。」
 レイチェルに促がされ、アンジェリークは1歩進み出てそろそろと水晶の中を覗き込む。そこには自分の顔と、それから守護聖・教官・そしてレイチェルとアルフォンシアの姿が映っていた。
 アンジェリークの目に、ヴィクトールの姿が飛び込む。
 腰に手を当てて、休んだ状態で立っている姿。彼本人の3Dなのだろう、その傷の場所さえ一緒で、なんだか彼のことを覗き見しているような気分になる。
『親密度 170 相性 99』
「うっわ〜! なにコレ!? すっごい数値じゃない?」
 後からその様子を覗き込んでいたレイチェルが大声を上げた。「99ダヨ? もう、おまじないの必要なんて無いよ!」
「そ、そうなの?」
 アンジェリークは驚きの眼差しを二人に向けた。
「うーん。まだ一回くらいはやっても良いだろうけど…。アンジェリーク、やってみる?」
 メルが尋ねた。しかし、アンジェリークはそれはまたの機会にすると断った。
 レイチェルは言った。
「こうやってさ、色んなコトを試して見てから、それから落ち込めばイイんだよ、アンジェリーク! なにもしないうちに悩んだり泣いたり…。それってかなり非生産的だと思わない!?」
 アンジェリークは彼女のさっぱりとしたその言いかたに、改めて彼女を見つめた。レイチェル。いつも前向きな金の髪の少女。守護聖達の前でも気取らず、気圧されず、いつも彼女は彼女のままだ。
 こんな時は、彼女のことをより一層好きになるし、と同時に羨ましいなとも思う。自分には無い、強い気質。
「うん……。」
 ふわりと心が温まる。占いの結果によってではなく、彼女の気遣いのお陰で。
 ヴィクトールに怒られてしまった事実は消えないが、アンジェリークは僅かに笑顔を取り戻した。
 レイチェルはそれを見てにっこりと微笑んだ。
「じゃ! 次行くよ! アンジェリーク。」
「えっ?」
 アンジェリークとメルは同時に言った。
「ええ〜!もう行っちゃうの?二人とも!」
 眉を下げてメルが言う。
「ゴメンね、メルくん! アトでまた来るからさ!」
 アンジェリークの背中を押し出しながら、レイチェルは顔だけを彼に向けて笑った。
「もう〜。絶対だからね!」
 メルの声を後ろに聞きながら、ふたりは占いの館を出た。

 

 そして次にアンジェリークが連れられてやってきたのは、オリヴィエの執務室であった。
「おや〜、珍しいね二人で来るなんてさ。」
 彼は執務机の上で爪を塗っていたらしい。顔を上げると驚いたような顔をした。
「今日は、オリヴィエさま!」
「こんにちは…。」
 二人が挨拶をすると、オリヴィエは立ちあがって二人を出迎えた。
「どうしちゃったのさ? ん〜、なんか面白いことが起こる予感がするよ。」
 女王候補が連れ立ってくるなど、初めての事だ。何かが起こらないはずが無い。
「あの〜ワタシ達、オリヴィエ様にお願い事があってきたんですケド。」
 レイチェルは、きょとんとするアンジェリークを隣に、オリヴィエに向かってにこりと笑った。
「ん〜? なになに? 何でも聞いてあげちゃうよ?」
 オリヴィエはレイチェルのどこか油断のならない笑顔にさらりと笑って返した。しかし、その一方でアンジェリークの目元が僅かに腫れてしまっていることも見逃さない。
 そうとは気付かぬレイチェルは、オリヴィエに言った。
「メイクの仕方、教えて欲しいんです!」
「………。」
 オリヴィエは僅かに目を見張った後、いつもの調子のレイチェルと、驚き顔のアンジェリークを見比べた。
 そして、
「…へえ〜。アンタ達も、そんなコトに興味もつようになったんだね〜。」
そう言って、不敵に笑った。
「じゃ、イイの?」
「いいよ…って、言いたい所だけど…。」
オリヴィエは、軽く頭を振った。「どうしよっかな。」
「ええ〜!!」
レイチェルが叫ぶ。「何でも聞いてくれるって言ったのに〜!」
 予想通りの彼女の反応に苦笑しながら、オリヴィエは言った。
「しないとは言ってないさ。…でもどうしちゃったんだい、急に。」
 爪が乾いた事を確認してから、オリヴィエは軽く腕を組み、レイチェルの顔を覗き込んだ。
 途端にレイチェルの頬が赤らむ。どうやら、ここにやってきたのはアンジェリークのためだけではないらしい。
「えっと…。それは、やっぱり、…その…ね?」
 その態度を見て、オリヴィエは彼は小さく嘆息した。
 先日の研究院での会話を思い出す。蒼い髪を持った優秀な主任は、確かこう言っていた。
『最近の彼女の行動は私には掴みかねます…毎日ここへ来るのです。』
 今はあくまでも女王試験の最中。そんな時、女王候補が恋をするとすれば、それは聖地の人間に他ならず…あえて言うなら守護聖や教官、協力者、つまりは試験に関係のある人間である可能性が大きい。
── べつに、反対もしないけどさ…。
 誰が何をしようと自分には関係ない事。スキな事は好きにすれば良いし、その結果がどうなろうとそれは本人の行動の末だ。
 彼はそう思っていた。…自分では。
 けれど実際の彼の評価は、世話好き。
 前回の女王試験でのこと。
 オリヴィエは二人の女王候補の恋の相談相手でもあった。彼自身が信頼できる人物であったこと、恋愛の機微に詳しかった事がその原因なのだろうが…。
 二人は恋に振り回されていた。
 相手の一挙一動に、悩んで、泣いて。
 それを知っているオリヴィエは、試験と恋の行方をなんでも無い降りをして、実際はハラハラしながら見守ったのだ。
── 恋は人を強くするけど…。
 あの二人の場合、全てが上手い方向へ転がった。女王試験にも彼女達自身にとっても、恋の結果はすばらしく良いものになった。しかし、それが女王候補の恋である限り、どこか辛い雰囲気が漂っていていけない、としみじみと思ったものだ。
 アンジェリークの目の腫れを見ながら、オリヴィエはその訳をも鋭く見抜いていた。
── 今度の恋もたやすいものではなさそうだねぇ…。
「アンジェリークは?」
漸くその想いから抜け出たオリヴィエは、アンジェリークに訪ねた。「あんたもその為に来たのかい? 化粧して綺麗になりたいの?」
 アンジェリークはしばらく考え込んだ。
── 私、キレイになりたいのかしら?
 それは、勿論なりたい。綺麗じゃないといわれるより、綺麗だと言われたほうがずっといい。でも、なんで綺麗になりたいの?
 今までの経過を良く思い出さなくっちゃ、とアンジェリークは思った。
 ヴィクトール様に怒られて。レイチェルに慰められて。そして占いの館に行って相性を確かめた。
「ね、アンジェリーク…。」
レイチェルはなかなか答えないアンジェリークに焦れて、彼女の耳もとに唇を寄せた。「ヴィクトール様に嫌われちゃったと思ってるんでしょ? だったら今度は好きになってもらえばいいじゃない。…でしょ?」
 そして、思いきった様子でオリヴィエに向かって言った。
「ねえ、オリヴィエ様。…男の人はキレイな女の人が好きですよね?」
 率直に聞かれて、オリヴィエは僅かに面食らった顔をした。
 しかし、それは一瞬の事で、再びあの笑みを浮かべる。
「…そうだねぇ。大概は、そうでしょうよ。」
「じゃ、メイクしてください!」
 有無を言わせぬ言いかたに、オリヴィエは今度こそ目を丸くした。
 レイチェルは言った。
「どうしても今必要なの! 私達キレイにならなきゃならないの!」
 そんなレイチェルの必死の様子に、オリヴィエは半ば呆れ、半ば酷く感嘆した。
「やれやれ…。恋をした女の子ってのはわがままだね。」
 言った途端に、レイチェルの頬が赤く染まる。そしてアンジェリークの頬も。
「だって…。」
 慌てて何かを言おうとするレイチェルを、オリヴィエは指先で制する。
「まあまあ、…それはイイさ。良いことだよ。女の子ってのは恋をしてこそ、だからね。」
 その通りだ。女王候補が恋をしてはいけないなどと、誰が言ったわけでもない。
 そして改めてアンジェリークを見る。
「さあ、アンジェリーク。答えは出たかい?」
 キレイになったら、ヴィクトール様は私を好きなってくれる?
 アンジェリークは、考え込んでいた顔を、漸く上げた。
「…私も…わたしもきれいになれるなら…。」
 そんなアンジェリークの一途な眼差しに当てられて、オリヴィエはふぅと溜息をついた。
── …しかたない、…か…。
 オリヴィエは小さく微笑んだ。
「そうか…。でもね、あんたたちにはまだ化粧は似合わないよ。」
「ええ〜!?」
 声を上げたレイチェルを、指先で制する。そして、口端をきゅっと上げて微笑んだ。
「本格的なのは…ね。」
「じゃあ…。」
アンジェリークがオリヴィエを見つめる。
「さあ、ここに座って二人とも。」
 オリヴィエは来客用の椅子を二つ、執務机の前に置いた。そして、机の引出しを開ける。
「わあ…凄いですね…。」
 アンジェリークは机の中にこまごまとしまわれた、見たこともない化粧品の数々に思わず溜息をついき、いつかの帽子のことも思い出した。きっとオリヴィエは美しくなるためのものならば、なんでも持っているに違いない。
「これはまだ序の口 ☆  …さ、前髪をこれで上げて…。始めよっか。まずはアンジェリークから…。その目の火照りをとらなきゃね。」
 言われてアンジェリークは、すっかりお見通しだったらしい彼に、驚きの眼差しを向けた。
 オリヴィエは化粧水をコットンに取ると、アンジェリークの目を閉じさせ、瞼に置いた。
「これは魔法の化粧水だよ、アンジェリーク。これならあっという間に腫れもひくだろうさ。…レイチェル。あんたにはこれ。」
 そういって、彼女の後に立ち、同じくコットンに別の化粧水を落として彼女の顔を撫でる。
「こうしてまず一度汚れを落として…それからマッサージ。」
 レイチェルはオリヴィエの手の平の、そのくすぐったい感触に目を細める。
 マッサージが終わると、化粧水を手の平に落とし、パッティング。
「これぐらいのことは二人ともやってるだろう? でも、ここが一番重要なんだからね。しっかり水分を取り込むんだよ、わかった?」
「はーい!」
 なんだか肌がいつもと違う気がして、レイチェルは嬉しそうに答えた。
「マッサージと化粧水。これが基本。あんた達くらい肌がきれいなら、スッピンでじゅうぶんなんだから、その素肌を磨いて、磨いて、磨くのさ。」
── うーん、羨ましいねぇ。
 レイチェルに一段落をつけ、次にアンジェリークに取りかかったオリヴィエは、思わず感嘆の溜息をついた。
 二人とも肌はつやつや、しっとり。唇には張りがあるし、こうして僅かに手を入れただけで、頬に赤みが差す。
 オリヴィエはアンジェリークの瞼に置いたコットンを外した。どうやら腫れは引いた様子だ。
── どうしたのかね? この子は。
 同じくマッサージをしてやりながら、この気弱な女王候補の事を思う。レイチェルだけでなく、彼女にも恋の相手が居る様子だが、今から泣いているのでは先が思いやられる。
 レイチェルはそんな事なさそうだけど、と隣で爪を乾かしている金の髪の女王候補を見て微笑む。
 16歳と17歳。二人が感じているのはまだ、恋。ただ好きだという気持ち。
 愛を知るのはいつになるのだろう。
 今恋をしている相手と上手く行くかもしれないし、もしかしたら結ばれることはないのかもしれない。
 どちらにしてもまだ先の事。
「さあ、出来たよ二人とも。」
 オリヴィエは最後に薄く、淡い香りがするパウダーを頬に叩くと、二人を立ちあがらせた。
 二人はお互いの顔を確認して、思わず目を見張った。
「……アンジェリーク。」
「…レイチェル?」
 二人にほんの薄ら施されたメイクが、元の表情を引きたてている。そしてレイチェルの薄い唇にはほんのりパールの入ったピンク系のルージュ、アンジェリークの柔らかな口元には淡いベージュ系のルージュ。流石は美しさを司る守護聖の仕業である。
「カワイイよ、二人とも!」
 きっと、ぱっと見たくらいでは化粧したとは思われないだろう。口紅も本人の唇の色に合わせたことだし。と、オリヴィエは思った。
── 化粧した事、どっかの口うるさい守護聖にパレるワケにはいかないからね。
「有難うございます! オリヴィエ様!」
「ありがとうございます。」
 二人の女王候補は、途端に落ちつきを無くしてしまったようだった。
 オリヴィエはそんな二人のみえみえの態度に思わず笑ってしまった。
「さあ、誰に見せに行くのかな? …気になっちゃうけど、聞かないコトにするよ。…さ、行きな。」
 二人はそれぞれぺこりとお辞儀をすると、えもいわれぬ笑顔を見せて、執務室を出ていった。
 その後姿を見送って、彼は溜息をつく。
「あ〜あ、私ってホントに損な性分だよねぇ。ま、あの二人とは今度デートでもして色んな話を聞いちゃおう☆」
 そして、後片付けに追われるのだった。

 

 

 アンジェリークは、息を切らせて学芸館の階段を上った。
 オリヴィエの執務室から一度女王候補寮に戻り、学習道具を持つとそのままお昼も食べずに歩いてきたのである。
── だって、ご飯を食べたら口紅が落ちてしまいそう。
 アンジェリークは精神の執務室の扉の前で立ち止まった。先日の彼の怒った顔が頭を掠める。
 会うのが怖い。…だけど、会いたい。
 私、どんな顔をして入ってゆけばいいんだろう。
 それにもし彼がまだ怒っていたら…どうしたらいい?
 だがアンジェリークは手鏡を取り出して、髪を整え、そして薄く紅を引いた唇を確認した。
 それから思いきって扉を叩く。中からいつものように声がした。
 うっすらと施された化粧はまるで魔法のようだ。扉を叩くための魔法。
 勇気を出すのとはちょっと違う。ただ、会って…そして…気付いてほしいだけ。
「…アンジェリークか。どうしたんだ、今日は?」
 執務机に腰掛けたヴィクトールは、いつもの通りだった。先日のあの怒った様子など欠片も見られない。
 アンジェリークは内心ほっとして、学習に来たのだと伝えた。
 促がされるままに席について、そしてちらり、とヴィクトールに視線を走らせる。
 机の上には教科書。
 アンジェリークはそれから二、三ヴィクトールと言葉を交わして、そしてやっと安心した。
 本当にすっかり、彼がいつも通りだという事を確認して。
 そうなればもう、気になるのは1つだけ。
── 気付いてくれるかな?
 教科書を開きながら、いつものように彼の低い声で例題が読まれるのを聞く。
 アンジェリークはほっそりした指先で、唇に触れた。
 良く響く、しかし掠れた声。
 ずっと聞いていても飽きない。それどころか、もっと聞いていたいと思う。それは恋をしているせいだからなのだろうか?
 しかし、気付いて欲しい一方、なんだか似合わない事をしてしまったような気もして気恥ずかしい。
 いつもより、熱を持った唇。
 僅かに薫る香りは、ブルーローズだとオリヴィエは言った。
── 気付いているのかな?
 例題をもう一度読み返しながら、アンジェリークはこっそりと仕事中の彼の横顔を見る。
 時間が経つにつれ、落ち付いて来たアンジェリークは、今度はゆっくりとヴィクトールの横顔や、そしてその仕種を追った。
 だがしかし羽ペンを書類の上に走らせて俯くヴィクトールの表情は、良く見れば横顔がやはりいつもより少し気難しい風に見える。それは自分がいつもと違うからだろうか?
 そんな彼の横顔に見惚れて、例題を解釈するのを滞らせていたことにアンジェリークは漸く気付いて慌てて教科書に目を戻した。
── いけないわ。ちゃんとしなくっちゃ。…ヴィクトール様にいい生徒だって思ってほしいもの。
 アンジェリークが目を伏せると同時にヴィクトールが目を上げた。
── ? なんだか視線を感じたが。
 問題を解き終わったのだろうかと、席を立ってアンジェリークの後から彼女のノートを覗き込む。
「分からない所があるのか?」
 いくらアンジェリークがゆっくりめだからといっても、時間は結構経っている。いつもだったら終わっていてもおかしくないのだが、まだノートには考えがまとまっていない様子だ。
 アンジェリークが顔を上げる。
「いいえ、そう言うわけではないんですけど…。」
 まさか、あなたに見蕩れていて遅くなりました、などとはいえない。
「そうか? なら良いが…。」
 アンジェリークの上向いた顔を見て、ヴィクトールは僅かに首を傾げ、席に戻る。
── なんだか、いつもと違う気がする。
 しかし、それが何なのか彼には分からなかった。
 自分が意識しすぎているからなのだろうか、と苦笑いする。
── もしかしたら怯えさせてしまったかとも思ったが…。
 先日酷く叱りつけてしまったことを、必要だったとは言え彼は気にかけていた。かといって自分から彼女を尋ねるほどには気持ちが固まりきって折らず、なら次に会った時には多少なりとも謝らなければと思ってたが、彼女のほうは別段気にも止めていない様子を見せている。
「出来ました、ヴィクトール様。」
 言われて、ヴィクトールは我に返った。
「そうか。じゃあ、お前の解釈を聞かせてくれ。」
「はい……。」
 アンジェリークの僅かに高く、しかしまろやかな声が、ヴィクトールの出した質問に対する考えをゆっくりと語る。
 心地よい声。高い声は耳障りで嫌いだったが、この少女の声は別だった。
 ヴィクトールは席を立ってアンジェリークのまとめたノートを取り、彼女のほうへ椅子を巡らせ、向かい合うようにしていくつかの注意を与える。
 昨日、水の守護聖のテラスでしばらく彼と話し込み、そしてヴィクトールの心は大分落ち着いてきていた。
 こうして二人きりで向かい合っていても、先日ほどの焦りはない。
 アンジェリークは大人しく彼の話を聞いて、時折頷いていた。
 そんな彼女の顔には、ヴィクトールが今何を考えているかなど、微塵も気付いていないだろうと言う事が伺える。
 そして、学習はおわった。アンジェリークを立ったまま待たせてヴィジコンを覗くと、安定度と書かれた数値は大きく上がっていた。
 思わず、笑って彼女を振り返る。
「頑張ったな、アンジェリーク。精神がかなり上昇したぞ。お前は、やれば出来る人間なんだからな。これからもこの調子で一緒に頑張っていこう。期待してるぞ。」
 そう言った途端、アンジェリークは零れ落ちる花のように笑った。
「本当ですか? …嬉しいです!」
 その、くちびる。
 ヴィクトールは思わずまじまじと彼女の顔を覗き込んだ。
 いつもより、僅かに朱がかっている。
 無意識に手袋をはめた右手を伸ばし、彼女の顎先を捕まえてくい…と上げさせた。
── これは、なんだ?
 見慣れない色。僅かにぽってりとしてみえる彼女の唇。
 そのまま、ヴィクトールは右手の親指で、彼女の唇を強く拭った。
 きょとんと丸い瞳が彼を見上げて。
 そのまま固まっている事に気付いたのはその時だった。
「……あ。」
 ヴィクトールは我に返った。今度こそ。
 真っ赤に顔を染めたアンジェリークの唇から頬に、塗られた口紅が線を描いている。
「す、済まん! …何かと思ったんだ、ただそれだけなんだ!」
 彼女の顎先からぱっと手を離す。何もしないという印に軽く腕を上げるように。
 まさか、口紅を塗っているとは思わなかった。今までもしていたのか? 俺が気付かなかっただけのか? いや、それにしたって俺は何て事を。
 ヴィクトールはアンジェリークの様子を伺った。彼女はされた事に呆然として、そのまま彼を見つめている…そして。
「わ、私…失礼します!」
 そう言ってぱっと自分の学習道具を抱えると、口元を押さえ、踵を返して扉の向こうへあっという間に駆け去っていった。
 後に残されたヴィクトールは。
 追いかけることも出来ず、彼女の走り去った後をしばらく呆然とした様子で見ていたが、やがてゆっくりと自分の手元を見降ろした。
 白い手袋に残されたルージュ。
── 莫迦か、俺は。
 自分を叱りつけながら、その手袋を取る。
 露になるのは無数の傷に覆われた無骨な手。
 その手が手袋を持ち上げる。
 ヴィクトールは口紅の色など何も知らなかったが、そのオレンジかかった色彩は、アンジェリークにぴったりのように思えた。
 途端に、彼女の唇の形を、そこから漏れる笑い声を、思い出す。
 ヴィクトールは窓辺に歩いた。窓の外に駆け去っていく栗色の髪の少女の後姿があった。酷く慌てて、何も無い場所で躓きそうになっている。
 そんなアンジェリークの背中から目を逸らし、ヴィクトールは遠い過去の出来事を無理矢理に自分に思い起こさせた。
「……っ!」
── そうだ…俺は、恋などしない…。…いや、したくないんだ。
 ヴィクトールは気付いた。この気持ちを誤魔化そうとするのは、この試験に対する責任感によってのみではないということを。
 忘れたりしないように、時折思い出すようにしている、あの日の事。
 自分が、ただ一人だけ生き残った自分が、あの日を忘れることは出来ない。自分が忘れてしまったら、もう誰も彼らの事を思い、悼む者がいなくなってしまう。
 今感じ始めているこの気持ち…それが例え自分からの一方的な想いだとしても、恋をする事、それは死んでいった仲間の誰にも、もう経験の出来ない事。
 幸せなこと。自分が生きていると実感できる事。
 だからなおさら、この気持ちは恋ではなく、ただ弱いものを助けたいと思う保護欲の表れなのだと、そう思わなければならない。
── 俺は何を望んでいるんだ…仲間の安寧か? 宇宙の平和か? 
 そのはずだった。 
 聖地に来てすぐの頃は、この任務は女王の勅命であり避けられないのだという意識が強くて、外にも余り興味を持てずに居た。しかしこの仕事がいつかは宇宙の未来に繋がる大事な仕事であると自覚したとき、ヴィクトールの意識は変わった。
 女王が優れた資質を持つものであればあるほど、あのような悲惨な事件が起こる確率は減る。そう気付いて、新しい宇宙へと向かう女王候補たちへ、自分の経験や知識、そして資質の全てを伝える事に意義を見出しはじめた。
 けれど、アンジェリークが強く変わったあの時から…女王候補としての資質をヴィクトールに見せつけたあの日から。
 それはまさしく彼が待ち望んでいた瞬間であったのに、あれからヴィクトールは。
 どんなに冷静であれと自分を戒めても。
 栗色のまっすぐな髪が風に揺れる場面を、蒼緑の透明な瞳が自分に向かって微笑む場面を、事あるごとに思い出してしまう。
── 俺が望む事…それは、もしかして俺自身の…?
 ヴィクトールは、手袋を視線の先まで持ち上げた。
 ピンクベージュの口紅。
 彼女の微笑む唇。
そっと、そのルージュの上にヴィクトールは唇を寄せた。
 そして。
 触れるか触れないか。
 「……ふっ…。」
そのまま、彼は酷く自虐的な笑みをその口端に乗せた。「俺は何を、しているんだろうな…。」 

 ヴィクトールは荒く執務机の引出しを開けると、アンジェリークの紅のついた手袋をその中に投げ込んだ。
 どうもこうも無い。…俺に出来ることは、教官としてあいつを指導すること。それに全力を注ぐ事。
 そしてアンジェリークだってそれ以上の期待を俺に望んではいない。
 彼女の微笑みは俺にだけではなく、守護聖、協力者、そしてほかの教官たちにも向けられるのだから。

 ヴィクトールは勢いをつけてまた引出しを閉じる。

 俺はあいつを見守ろう。これからも、ずっと。
 あいつが立派な女王になることを願って。


 

 

 
- continue -

 

ええと…少し加筆しました。黙って…m(__)m。
ヴィクトール様の気持ち、相変わらず難しゅうございます。
では、また次回。
蒼太。

01.06.08

加筆01.09.02

01.08.30

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