「それでは、第2回定期審査を始めたいと思います。」
女王アンジェリークの声に、二人の女王候補は背筋を伸ばした。
今日、謁見の間には守護聖も教官達も居ない。
代りに傍に控えているのがエルンストだった。
「では、エルンストから惑星の数を報告していただきます。」
喉の奥がごくんと鳴った。これで負けてしまったらどうしよう…アンジェリークの心に、そんな気持ちが過る。
けれど、彼女はもうそんな不安を表に出すような弱い人間ではなくなりつつあった。1度目の定期審査では真っ青だった顔も、今は僅かに白い程度に抑えられ、なおかつ、前をしっかり見て立っていられた。
「惑星の数ですが…レイチェルが11。…アンジェリークが12個です。」
エルンストは冷静に資料を読み上げた。レイチェルのはっと息を呑む声が聞こえた。
それはそうだろう。昨日…そう、たった昨日の昼間レイチェルが研究院にやってきたとき、彼女は勝っていたのだから。
一晩で二つの惑星。
信じられない、とエルンストでさえ思った。
産まれたのは夢の惑星と水の惑星。どちらも後僅かで誕生するとは思っていたが、まさか一晩でとは。これで、今週宇宙に誕生したアンジェリークの星は、なんと5個。
一晩に1つ、惑星が誕生した計算になる。
そんなことが起き得るのだろうか…いや、こうして目の前にあるデータが嘘を付くわけがない。エルンストも実際その現場を見ていたのだし。
「では、アンジェリークにはご褒美としてハートを1つ与えます。」
「はい。有難うございます!」
アンジェリークは心からお礼を言った。
嘘みたいだと自分でも思っていた。ここのところ育成に重点をおき、学芸館には週に1度しか行かなかったし、まして平日の研究院に行く事もなく…彼女には状況が良く分からなかったのだ。
嬉しくて嬉しくて仕方なかった。レイチェルにはまだまだ負けているけれど、それは問題ではなく、ここからでも頑張ればきっと自分が役に立てるに違いないと知ることができたからだ。それに、これからの試験をスムーズに進めて行く事も出来るだろう。
── ヴィクトール様の言ったことは、本当だったんだわ。
数週間前、精神の教官から貰った言葉を改めて思い返す。
しかし、横に立つレイチェルの表情に気付いたアンジェリークの顔から、その喜びの表情がふっと消えた。
長い睫毛を伏せて色をなくしている顔は、先日のアンジェリークそのもの。
「では、また次の審査でね。」
女王アンジェリークはそう言って下がって行った。
「…レイチェル…。」
アンジェリークはそっと彼女に話しかける。
レイチェルはそんな彼女の躊躇いがちな仕種に無言で顔を上げ、心配そうなアンジェリークの顔を見た。
「ん…。大丈夫だよ。」
小さくにっこりと笑って見せる。
彼女の立場は前回の自分の立場。嬉しさと気まずさがないませになって居たたまれないのだろう。
レイチェルは身体をしっかりと伸ばし、それから改めてアンジェリークを見た。
「アナタはまだワタシに勝ったワケじゃないんだからネ! …次で突き放しちゃうからカクゴしなよ?」
大きく笑って見せると、アンジェリークはやっとその唇に微笑を乗せた。
「じゃ、そろそろ帰ろっか? いつまでもここに居たって仕方ないしね。」
そう言って1つ年上の少女を促がす。
アンジェリークはこくんと頷いてレイチェルの後に付いてきた。
その気配を感じながら、レイチェルは目を伏せた。
最近アンジェリークは目に見えて変わってきた。穏やかな所や口数の少ない所は全くそのままなのに、内側から輝くような感じがする。
── アンジェリークだって女王候補、だもんね。
今日の結果をみて思い知らされた。一晩に2個も惑星を作るなんてただ事じゃない。一週間前までは惑星4つも差があったというのに。
惑星の報告をしたエルンストの横顔がレイチェルの頭を過った。
── ワタシは、負けるわけにはいかないの。アンジェリークの事はスキだし、泣いて欲しくない。でも…。
女王になれなかったら、地上に降りることになる。
もし候補に選ばれず、エルンストにまた会うことがなかったら、もしかしたらレイチェルは地上で一生を過ごす事に甘んじていたかもしれない。しかし一度であってしまったら…もう諦める事なんて、出来ない。
── 離れ離れになるなんて、イヤだよ。
時の流れに逆らえず、自分だけが年老いてこの世から消えうせる。
ぜったい、負けない。
女王候補に戻り、門前で別れたもう一人の女王候補の背中を見送りながら、レイチェルはそう改めて決意したのだった。
「おう、どうした、休みの日に。」
日の曜日だと言うのに執務服を着たヴィクトールは、何をしていたのか部屋の中央辺りに立っていた。
彼の執務室を訪れるのは、もうこれで何度目になるのだろう。
振り返って驚いた表情を見せたヴィクトールにアンジェリークは小さくお辞儀をして、部屋の中に入った。
「こんにちは、ヴィクトール様。」
いつもの通りの制服姿であったが、手には可愛らしいバスケットを持っている。昨日は定期審査の緊張で僅かに白過ぎた頬も、今はどこか嬉しそうな表情とともに、淡く桃色がかっていた。
「あの…ヴィクトールさま、これ、プレゼントです。受取ってくださいますか?」
「なんだ?」
ヴィクトールは彼女に歩み寄る。バスケットを一度足元に置いて屈み込んだアンジェリークの手には、大きな包み。
「えっと…気に入っていただけるかどうか分からないんですけど…」
そのプレゼントがハートを使って手に入るものだと知っていたヴィクトールは、彼女の手からそれを受取った。
「気を使わなくてもいいのに。」
言いながらそれでも包みを開ける。出てきたのはライオンの置物だった。逞しい四肢で地を踏み、前を見据えた鋭い視線、そして王者らしいたっぷりした鬣。
自分の好きな動物の事など、彼女に話したことがあっただろうか。
ヴィクトールは一瞬考えたが、そんな覚えはなかった。
「なんだか、ヴィクトール様に似ている気がして…。…もしかして、ご迷惑でしたか?」
余りにじっとそれを見ていたもので、勘違いされてしまったのだろう。ヴィクトールは慌てて首を振る。
「いや、そうじゃない。お前が俺の好みを理解していてくれているとはおもわなかったからな。…ありがとう。大切にしよう。」
ヴィクトールは笑って彼女からのプレゼントを一旦執務机の上に置いた。
アンジェリークはその後姿を目で追って、嬉しげに微笑む。
── ヴィクトール様がこんなに喜んでくださるなんて。
勇気を出して差し上げてよかった。と心の底から思う。買ってから随分間が開いてしまったが、部屋のチェストの上にあの置き物があるのを見る度に、ヴィクトールのことを思い出して迷っていたのだ。
ヴィクトールはそんなアンジェリークの内心は露知らず、振り帰って彼女に尋ねた。
「今日は日の曜日だ。ここでの学習は、行ってないんだが…。お前はここへ何をしに来たんだ?」
アンジェリークは言った。なんの気負いもせずに。
「ヴィクトール様、私の部屋にいらっしゃいませんか?」
言われたヴィクトールは一瞬困った顔をした。
「お前の部屋か…。」
それは、試験の一貫として許されている事だった。それどころか、なるべくなら女王候補と交流を深めるために、一緒するのが望ましいと、そう言った暗黙の了解さえあった。
だが、まさか自分が誘われる事になるなどとは思っていなかったヴィクトールは、一瞬躊躇ったのだ。
── いいのか? 仮にも女性の部屋に。
けれど、そんな一瞬の迷いは、彼の責任感に打ち消されて消えた。
僅かに口端を上げ、困ったような視線はそのままに、言う。
「行って良いのか? おまえがいいなら断る理由はないが…。」
アンジェリークは大きく笑った。
「嬉しい。」
ヴィクトールはそんなアンジェリークを見て、小さく笑う。
「じゃあ、行くか。」
「はい。」
そうして二人は学芸館を出た。
ヴィクトールを部屋に通し、香りのいい珈琲を淹れて席についたアンジェリークは、いつも誰もいない向かいの席に人が── それも自分が招待した男性が ── 座っている事に何となくむず痒いような気持ちになりながら、自分も席についた。
自分にあまりにも似合わない可愛らしい部屋に、これまた落ち着かない気分を味わっていたヴィクトールは、アンジェリークが戻ってきてほっと息をつき
「俺は、なんの話をすれば良いんだ?」
と聞いた。ハートを使って招待されているわけだから、職務をおろそかにするわけには行かない。
「ええと。ヴィクトール様のお好きな食べ物を教えてください。」
アンジェリークはあらかじめ用意してあった質問をした。
その他愛のない問いに、ヴィクトールは思わず笑う。
「俺の好きな食べ物? そんな事を聞いてどうするんだ? …まあ、俺は基本的に食べ物は何ても美味いとおもっている人間だから…即座に思いつくものもないが…そうだな、強いて言えば軍人だった頃良く食べていた豆のスープだな。大豆入りトマトスープと言うやつだ。」
アンジェリークはそのスープを食べた事はなかった。似たものは主星にもあるし作り方も想像もつくが、あまり一般的なものではなく、たぶん、ヴィクトールの惑星独特の調理法なのだろう、と思う。
「あれなら自分でも作れるし、簡素な味がなんとも言えず美味い。お前もそう思わないか?」
そう言われてアンジェリークは思わず詰まった。食べた事がないから、答えられないのだ。
しかし
「はい、私もそう思います。」
と、ついうっかり答えてしまった。
ヴィクトールはその答えににっこりと笑った。
「そうか、お前もそう思うか。そうだな。あれは本当に美味いからな。」
もう、食べた事がないなど言い出せなくて、アンジェリークは笑うしかなかった。しかし、その微笑みが更に誤解を誘う。
「そのうち、セイランやティムカに食わせて…いや、食べさせてやろうと思っている。その時はお前も招待しよう。」
「は、はい。有難うございます。」
── どんな味なのかしら??
願わくば、自分の想像と余り違わない事を祈るアンジェリークだった。
「あ…もう珈琲がありませんね。お代りを持ってきますね。」
アンジェリークはそう言って席を立った。
自分のとヴィクトールのカップを持って、ミニキッチンに向かう。
ヴィクトールはその後姿を目で追いかけて、それからこっそり溜息をついた。
── まいった。もう『お話』は終わってしまったぞ。
少女とは言え女性の部屋に通されて、このままだんまりでは済まない、とヴィクトールは思う。
── 他に何を話せば良いんだ?
十代の少女と合う話のネタなどもちあわせていただらろうか? 自分があの年にはもう軍に所属していて、無味乾燥な日々を送っていた。…勿論楽しい事もあったが、それは女性に話せるような話題ではないし…。
そんな思いを巡らせているうちに、アンジェリークが煎れたての珈琲を持って戻ってきた。
細い白い指がヴィクトールの前に珈琲を置く。
「………。」
「………。」
沈黙。
「あの…。」
「ええと…。」
二人同時に声を発してしまい、思わず相手をみる。
「ヴィクトール様、お先に。」
「いや、お前は?」
ぷるぷる、と首をふるアンジェリークに、ヴィクトールは笑った。
「その…大した話じゃないんだ。ただ、この珈琲が美味いと思っただけで…。」
紅茶よりは珈琲派のヴィクトール。彼の舌にもこの豆は上級品だと分かった。
「美味しいですか? よかった。…それはうちのお父さんが好きな豆なんです。」
いつかジュリアスにした説明を、ヴィクトールにもする。
「そうか。…俺にはこういうのを言葉で表すことは出来ないが、本当に美味いぞ。」
ヴィクトールはそう言って笑った。そして、尋ねる。「お前は? お前は何を話そうとしたんだ?」
促がされて、アンジェリークは僅かにためらい、そして口を開いた。
「あの…今日お部屋に誘ったのは、実は…お礼を言いたかったからなんです。」
「礼?」
聞き返してから、気付く。「ああ、そう言えば怪我は治ったのか?」
打ち身をしたアンジェリークの足を固定したのはもう3週間ほど前の話だ。ねんざではなかったから腫れが引けば治ったようなものだが…。
「はい、もうすっかり…。」
アンジェリークはほっそりした足をテーブルの下から出し、紺のハイソックスを下そうとする。
「あ、いや、見せんでいい。見せんでいいから!」
ヴィクトールは慌ててアンジェリークを止めた。怪我をしているならまだしも、別に何ともないときに足を見るのはいただけない。しかもベッドのある部屋で。
変な作りをしているなぁと、ヴィクトールはうっすら思う。ワンルームとはまあ、こういうものなのだろうが、何人もの人間が尋ねてくる部屋と分かっているのにこういう状況とはどういう事だ。
止められてアンジェリークはポッと頬を染めた。
「そ、そうですね。…済みませんでした…。」
また、沈黙。
「あ。」
ヴィクトールは気付いた。「そうか。今日のあのプレゼントは、そういう意味なのか? アンジェリーク。」
聞かれてアンジェリークは顔を上げた。
「えっ? …ええ。…いえ! 違うんです。あれは…その…。もっと前の…。」
「もっと前?」
うろたえた様子のアンジェリークの態度に首を傾げるヴィクトール。
「初めて公園で会った時と、それに図書館で倒れたときもお世話になったし…。」
言われて初めて、ああ。そんな事もあったな、と思い出すヴィクトール。
「そうか。しかしそれは分かったが、なんでこんなに時間が経ってから?」
尤もな質問。
アンジェリークはしばしためらったが、結局口を開いた。
「あの…何週間か前の日の曜日に、公園でお会いしたのを覚えてらっしゃいますか?ヴィクトール様。」
「ああ。屋台で昼メシを食った時の事か?」
アンジェリークは小さく頷く。
「はい。あのとき、帰りに私のバスケットを持ってくださいましたよね?」
「覚えているぞ。あの妙に重い…。」
言いかけて、ヴィクトールは気付いた。あのときのバスケットの中身がなんだったのか。
どうりで自分に渡すのを渋った筈だ。無理矢理に預かってしまったが、あの中身は…。
そういえば、いつかこの部屋にアンジェリークを誘いに来た時も、チェストの上にはあの置き物が…。部屋の雰囲気に合わないとは思ったが、そのまま忘れていた。
色んな事を一気に思い出し、なるほどと思いながらアンジェリークを見ると、彼女は申し訳ないような困ったような表情をして、おそるおそるヴィクトールを見ていた。
「…くっ。」
ヴィクトールの咽喉から、掠れた声が漏れる。
── どうやら俺は余計な事をしたみたいだな…。
そして、その声はあっという間に闊達とした笑い声に変わっていた。
「…あっはっはっはっはっ。…ああ。…わかったよ。なるほどな。」
破顔するヴィクトールを、呆気にとられて見つめるアンジェリーク。
やがて、笑いの収まったヴィクトールが、まだ笑みを残した琥珀色の瞳をアンジェリークに向けた。
「…全く、いつもお前は俺を楽しませてくれるよ…。」
その笑顔の中に、彼が生来もつ優しさと暖かさ…それから僅かに、いつもは職務で隠されている持ち前の気安さが覗いた。
アンジェリークの胸が、とくん、と音を立てる。
── あ、また。
その胸の高鳴りは…どう言うわけなのだろうか。最近アンジェリークがヴィクトールのことを考える度に、彼女の胸を騒がせるのだ。まるで胸の中にヴィクトールに反応する小鳥がいるように。
そんな事とは露知らず、ヴィクトールはアンジェリークに聞いた。
「まあ、これでもう妙なこじれは解けたわけだ。…安心したか?」
その言葉に、思いを巡らせるアンジェリーク。やがて、言った。
「えっと…まだあるんですけど…。」
「まだ!?」
「ご、ごめんなさい。」
思わず声高になってしまったヴィクトールに、アンジェリークは頭を下げた。
「一体なんなんだ、言ってみろ。」
そんなアンジェリークを面白そうに見ながら、ヴィクトールはからかう様に尋ねた。
といっても、この分では大した事でもなさそうだが。と彼は思った。どうやら些細な事で思い悩む癖のあるこの女王候補。彼女の考え方は、充分にヴィクトールの好奇心をそそる。
「えっとですね。今日ヴィクトール様をお誘いしたのは…。あの、もちろん怪我の手当てをしてくださったお礼もあるんですが…。それだけじゃあないんです。」
「それだけじゃない?」
ヴィクトールは珈琲を飲む手を一瞬止めた。
「はい。わたし、今回の定期審査で勝てたのは、ヴィクトール様のおかげだって思ってるんです。」
「俺の…?」
琥珀色の瞳をアンジェリークに向ける。先日定期審査が行われたこと、その結果について、ヴィクトールは既に知っていた。…この栗色の髪の少女がその審査に辛くも勝った事を。
「ヴィクトール様が言った通りでした。…わたし、あの次の日、ヴィクトール様に言われた通り研究院へ行ったんです…。」
平日。エルンストにハートを4つ渡し、アンジェリークは虚無の空間…そこは既に虚無と呼ぶ事は出来なかったが…に入った。
女王候補の思わぬ訪問に、アルフォンシアの喜びの念が宇宙を満たす。
「こんにちは、アルフォンシア。」
アンジェリークが手を差し出すと、アルフォンシアはその腕の中に駆け込んできた。
<アンジェリーク、いらっしゃい! どうしたの、今日は?>
惑星が出来るにつれ、意思の疎通が明瞭になってきたアルフォンシアの心が、アンジェリークに流れ込んでくる。
「あのね、今日はアルフォンシアとお話しようと思ってきたの。」
<僕と? 嬉しい。>
小さな羽をぱたぱたと動かして、その喜びを表す聖獣。アンジェリークは何もない空間に腰を下ろして彼の背中を撫でた。
細い咽喉をぐるぐると鳴らす様子は猫のよう。しかしその姿は地上のどんな動物とも似つかない。
しばらくその背中を撫でながら、アンジェリークはいつしかこの宇宙に溶けこんでいった。
<お話、する? アンジェリーク……?>
遠く。それでいて酷く近い場所でアルフォンシアが囁く。
── うん、お話、しようね。
アンジェリークは心の中で答える。
アルフォンシアの前足がアンジェリークの頬に触れた。
── くすくす。くすぐったいよアルフォンシア。
ふわふわの前足。柔らかくて暖かくて気持ちが良い。
<お話、してるの。>
もう一方の前足が寄せられる。<最近、アンジェリーク元気がなかったから。>
穏やかな心が流れ込んでくる。
── ああ、このキモチって。
アンジェリークは感じていた。この宇宙を構成する全ての存在を。
それはアルフォンシアそのもの。
── あったかい…。
<僕はキミ。キミは僕たち…。僕らはキミの一部。>
アンジェリークの資質が凝縮され、昇華したもの…それが彼女の宇宙。目の前にいるこの存在。
「信じられ、ない。」
── 本当に? 本当にこれが私の作った宇宙なの?
何度も通い、長い時間をここで過ごしたこともあったのに、何故気付かなかったんだろう。
<だって、キミが目を逸らしていたから。>
大人びた瞳で、アルフォンシアはアンジェリークの蒼緑の瞳を覗き込んだ。
<宇宙は、ここにあるよ。アンジェリーク。>
「私はここに居て良いんだって…。あのときやっと分かったんです。」
伏し目がちにそう言葉を終えると、アンジェリークはそのまっすぐな瞳をヴィクトールに向けた。「ヴィクトール様が教えてくださらなかったら、私きっとずっとこんな簡単なことも分からないままで、審査だって負けていたと思います。」
「……そうか。」
ヴィクトールは頷いた。 ここのところ学芸館に姿を見せる事もなく、育成に没頭しているのだろうとは思っていた。しかし、実際にでやってのけるとは。知らせを受けた昨日の晩には、思わずにやりとしてしまったものだった。
「しかし、それはあくまでもお前の努力の結果だぞ。…しかし、俺の言葉がきっかけになったと、お前がそう言ってくれるなら俺もなんだか嬉しいよ。」
そう言ってヴィクトールは目の前に座っている栗色の髪の少女をまじまじと見た。
ついこの間までの気弱さが影を潜め、穏やかさも優しさも内に秘めたまま、内面から淡く光るようだ。
簡単なこと、と彼女は言ったが。
── この娘は女王に向いている。宇宙を導くだけの力をきっと秘めている…。
ヴィクトールは今こそ自分の考えが決して間違ってはいなかったことを知った。
今、自分の目の前に座る少女は、彼の視線を惹きつけるに充分な輝きを持って佇んでいる。
自信がない、もう試験など止めてしまいたいと泣いたあの時の少女は、もう居ない。
少しだけ、ヴィクトールの胸を淋しさが過る。
会うたびに、何か目が離せなくなるようなことをやらかしてはおろおろしていた。そんな時間はもう戻ってこないんだろうか。
けれど。だからこそ。
「良くがんばったな、アンジェリーク。」
琥珀色の瞳に、限りない優しさを込めてヴィクトールは言った。
その言葉にアンジェリークは、淡いピンクの花がほころぶように微笑んだ。
今回の審査の結果を知った聖地の人間は、皆同じ言葉で彼女を誉めてくれた。がんばったね、びっくりしたよ、と。
けれどなぜかいつでも、彼が自分を誉めてくれる時には、他の人が誉めてくれた時以上に胸の奥が温かくなる。
学習のときも、庭園でのときも。
だから、アンジェリークは彼に最高の笑顔を見せることが出来た。
── どうしてかしら?
彼と、彼以外の人と。一体何が違うと言うのだろう。
何も言わず、微笑で返したアンジェリークに惹かれ、ヴィクトールはどこか困惑したような琥珀色の瞳で、彼女の顔をじっと見つめた。
「お前は変わった、な。」
言われて、アンジェリークは小さく首を傾げた。
「え?」
「しばらく会わないうちに…。」
── 綺麗に、なった。
そんな言葉が口を付いて出そうになり、ヴィクトールは慌てる。
何を言おうとしているのか。仮にも女王候補に向かって。そういった気持ちがヴィクトールに別の言葉を言わせた。
「その…。女王候補らしく、なったぞ。」
一瞬前に考えていた事を悟られないように、真顔で言う。
「本当ですか? 嬉しいです。ヴィクトールさま。」
アンジェリークは心の底から微笑んだ。
── この気持ちは…?
── このきもちって…?
二人の視線がどちらからともなく絡む。
とくん。
鼓動が重なる。
とくん。
胸の奥が暖かい。
…とくん。
そして、僅かな時間が経ったように、思った。
「…そろそろ、俺は帰ったほうがいいな。」
ヴィクトールはどこか掠れた様な声でそう言った。
「え…? もうですか?」
我に返ったアンジェリークが窓の外を見ると、そこには夕暮れの光が差し始めていた。
「ああ、…今日はこの程度にしておこう。…また、機会があればな。」
そう言って立ちあがる。
アンジェリークは、突然急がしそうにしはじめたヴィクトールの様子に少し面食らって、慌てて彼を玄関先まで送る。
「ヴィクトールさま?」
彼の背中を追いかけたアンジェリークの声に不安が現れ、半ば彼女を振りきるようにして部屋を出たヴィクトールだったが、玄関で振り返った。
そして、どこか放心したような様子で、彼女を見降ろした。
「その…。」
「はい?」
蒼緑の大きな瞳は無心にヴィクトールを見上げる。
「おやすみ。」
ヴィクトールはそう言うのが精一杯だった。
「はい。おやすみなさい、ヴィクトール様。」
アンジェリークの声を聞くか聞かぬかの内に、彼は踵を返して歩き出していた。
── 冗談だろう。
止めておけ、と理性が囁く。
けれど同時に、今別れたばかりの少女へ心が傾くのを感じてしまう。
── 俺が? 14も年下の子供に? 女王候補に?
もし、この時彼の姿を見かけるものがあったら、驚きに目を丸くしただろう。
いつも僅かな隙さえも見せないヴィクトールが、どこか呆然とした様子で歩いていく姿を見たら。
それほど、ヴィクトールは驚いていた。自分の感情が信じられなかった。
ヴィクトールは突然立ち止まると頭を振った。
── いかん。早く帰って頭を冷やそう。
そうして、更に足取りを速めて歩き出したのだった。
- continue -
では、また
蒼太
2001.05.31