ねんざ

  


がさごそ…。
 茂みの中で、動く数人の気配。
「いて…っ、こっち来るなよ。…見えねーだろ!」
「ゼフェルこそ、もう少し向こうへ行けよ! …あっちからだって見えるだろ?」
「もう、止めて二人とも〜。」
 この後に及んでまだ喧嘩をしている二人に、呆れたようにマルセルが言った。
 何をしているのか。
 三人は、女王候補寮の前庭に潜んでいる。
「…見えるか?」
 ゼフェルはランディの背中ごしに伸びをした。
「…見えないな。…結構高いんだよ、この窓…。もう少し…でも、見つかっちゃいそうだ…。」
 そう。ここはアンジェリークの部屋の窓辺。
 先ほど光の守護聖ジュリアスが入っていったのを見送ったばかりである。
「…ねえ、怒られてる?」
 マルセルは心配そうにランディに尋ねた。
「うーん…。まだわからないよ…。」
 そう、昨日見晴らしの丘で起きたことは、すっかりジュリアスに伝わってしまっていた。こっそり先に宮殿へと戻ったゼフェルとマルセルの二人を、まるで待ち構えていたかのように、ジュリアスが見つけたのだ。当然、ゼフェルの手首の腫れを彼が見逃す筈もなく…。
 昨日のうちにこってり絞られた3人だったが、今日になって女王候補たちにもおとがめがあると知り、今朝ジュリアスが候補寮に向かう後を、こっそり付いてきたのだった。
 しかし、追って来ては見たものの、それでどうすればいいのかは全くわからず、こうして庭先から様子を伺っている、という次第。
「あ、でも…なんか言われてるみたいだよ…アンジェリーク、俯いてる…。」
 その言葉を聞いて、
「おい、お前行けよ。」
 と、ゼフェルはランディの背中を突付き、ランディは思わず首を横に振った。
「ええ? 俺嫌だよ…ジュリアスさまと鉢合わせるなんて…。」
「仕方ねーだろ? 俺が行ったら火に油だ、お小言が更に長くなるだけだっての!」
「じゃあ…ぼく?」
マルセルが引きぎみに呟く。「僕も…ちょっと…。」
 ジュリアスに怒られた経験は余り無い彼だったが、それでも飛んで火にいるなんとやら、はちょっとご免だった。
「じゃあ来た意味がねーだろ!? 大体、アンジェリークには何の責任も無いんだぜ? 誘ったのは俺達だし、メルを助けようとしただけじゃねーか。」
 そう言ってから、ゼフェルは手首に目をやった。もう余り痛みはないような気がしていたが、水の守護聖の手によって、酷く厳重に包帯が巻かれてしまっている。
── 俺が受け止めきってれば、大した騒ぎにもならなかった訳だしよ…。
「それに…。なんでレイチェルにはロザリアで、アンジェリークにはジュリアスなんだよ。ロザリアのほうがよっぽど優しいだろ?」
 その通り、今レイチェルの部屋には、ロザリアが行っている。彼女自身は余り気が向かないようだったが、ジュリアスに
『示しと言うものです.』
と押し切られてしまったのだった.
「うーん、わかりませんよ〜。ロザリアだって、結構厳しい人ですからね〜。」
「厳しいって言ったってジュリアスほどじゃ…って、オイ!」
ゼフェルは思わず振り返った。 そこには、いつものターバンを頭から顔に巻きつけ本を小脇に抱えて、怪しいサングラスをかけた背の高い男が立っていた。
「こんな所で何してんだ、ルヴァ!」
 3人の後ろにいつのまに来たのだろう、彼は腰を屈めて一緒に茂みの中に潜んでいた。
「あ、あれ? ルヴァ様。」
「ルヴァ様?」
 他の二人も驚いて振り返った。
「なんだ…? その格好??」
 目を丸くして、ゼフェルは尋ねた。ルヴァは目の前で手を振った。
「いえいえ、私はルヴァじゃありません〜。ただの通りすがりの人です〜。」
「何言ってんだよ!」
「本当です〜。ルヴァなんて人は知りませんよ〜私は〜。」
 なおも言い募るルヴァに、ゼフェルは呆れた様子で肩をすくめた。
「あのな…。」
「どうしてそんな格好しているんですか?」
 マルセルが尋ねた。
「…………。」
 ルヴァはしばし、考え込んでいる様子だった。
「どうしたんですか? ルヴァ様。」
 ランディがきょとんとした視線を送る。
 なおも悩むルヴァだったが、しかし。
「……そうですか〜。わかってしまったんですね〜。」
 と、寂しげに呟いて、ふう、と息をついた。
「分かんねーワケねーだろ! …ったく、ホントに何しに来たんだよ、ルヴァ。」
 ゼフェルに突っかかられて、ルヴァはサングラスを取り、ターバンを途中まで解くと器用に巻きなおした。
 そして、元の姿に戻る。
「ええと…実はですね〜ロザリアに頼まれまして〜。ジュリアスのお小言が度を越していたら止めに入れということだったんですが〜。私もジュリアスに怒られるのは嫌なので〜。こうして小道具など用意しましてから変装したわけなんですが…。──商人さんはまったく私だとわからなくなったといってくださったんですがね〜。」
「『私が分からなくなった』の間違いじゃねーの?」
「あ、なるほど。」
 ぽん、と手を打つルヴァ。
── 嫌味も通じねー。
「ねえねえ。」
 漫才を繰り広げる二人の袖を、マルセルが小さく引いた。
 降り返ると、ランディが窓の傍に二人を手招きしている。
「どれどれ…行ってみましょうかね〜。」
ルヴァはそそくさと窓辺に近付いた。そして、ランディに場所を譲られて僅かに腰を屈めて中を覗く。「あれ〜?」
 間延びした声に、ゼフェルは慌てて尋ねた。
「どうしたんだ!?」
「ジュリアスが…笑ってますよ…。」
 ルヴァは思わず我が目を疑った。唇に薄く…ではあったが、ジュリアスは確かに微笑んでいる。
「んなワケねーだろ? さっきまで…。」
ルヴァを押退け、背伸びして窓を覗き込んだゼフェルだったが…。そこには、ルヴァの言った通りの光景があった。
「アンジェリーク、1度泣きそうになったんだけど…。でも、何か一言二言、ジュリアス様に向かって言ったんだよ。そしたら、ジュリアス様がああしてにっこり…。」
 と、後ろからランディが説明を加えた。
「何でだ…?」
 こんなにちょっとの間にジュリアスの機嫌が直る術があるのなら、本気で知りたいものだとゼフェルは思った。
「ジュリアスがああして笑うのなんて、久しぶりに見ましたね〜。」
ゼフェルの後ろから覗き込み、ルヴァは感慨深げに言った。「半年ほど前にチェスで私に勝ったとき、以来ですかね〜。あー、本当に珍しいものを見せていただきました〜。」
 うんうん、と頷く。
 しかし、納得いかないのはゼフェル。
「何でだよ〜。俺なんかあんなに長いこと説教食らったってのに!」
「それって日ごろの行いってやつじゃあないかなあ…。」
ぽそり、と呟く緑の守護聖。
「ええっ? じゃあ俺も…??」 
 思わずわが身を降り返るランディ。
「とにかくですね〜。通常の訪問と同じになったようですから〜。私はもう用が無くなってしまったようですね〜。じゃあ、今度はレイチェルのほうへ…。」
 ルヴァはそう言ってそそくさとサングラスとターバンをかけなおした。
「もうやめろよ…それ…。」
 ゼフェルの小さな訴えは、どうやら届かなかったようだった。
「ねえ、ゼフェル…。」
マルセルが困ったような声で降り返る。「僕達ももう、ここにいる必要無いんじゃないかなぁ?」
 言われて、僅かに言葉に詰まった。確かにその通りである。だが、何もせずに帰ると言うのも…。
「俺達も、行くか?」
 ランディが行って、ゆるゆると歩いていくルヴァの背中を指し示した。
「………。」
 ゼフェルは僅かに迷った様子だったが。
 結局、ルヴァのと皆の後をついて歩き出した。

 

 

 

 

翌日。金の曜日。
  こんこん、と赤褐色の縁取りが施された扉を小さく叩く音がして、ヴィクトールは顔を上げた。
「入れ。」
 軽く立ちあがって言うと、扉を薄く開いて、アンジェリークの顔がひょっこりと現れた。
「? どうしたんだ?」
 執務机に向かっていたヴィクトールは、そんなアンジェリークの態度に不思議そうに声を掛けた。いつもならすぐに入ってくるくせに。
 アンジェリークは部屋に入りながらいつもの様にヴィクトールに笑いかけたのだったが、その笑顔には普段の明るさも欠けている。
「えっと…今日は学習しに来ました…。」
 だが、アンジェリークは普段通り用件を告げるだけ。
「そうか…じゃあ、そこに座れ。」
 僅かに不審に思いながらも、椅子を薦め、ふと気付いた。
── 足を、引きずってないか?
 僅かなバランスの狂いだったが、ヴィクトールの目には、アンジェリークが左足をかばって歩いているのに気付くのは容易だった。
「足をどうした?」
 ヴィクトールは何の気無しに尋ねた。
「えっ? …あ、あの…これは…。…えっと…。」
 酷く慌てた様子のアンジェリークに、何も知らないヴィクトールは苦笑する。
「なんだ、またどこかで転びでもしたのか?」
 言った途端、アンジェリークは酷く悲しげな表情になった。
── おかしいな。
 いつもならここで真っ赤になるくらいなのに。
 隠せもしないのに怪我をしたらしい足を後ろに回して、俯いてしまったアンジェリークに、ヴィクトールは言った。
「…とにかく座れ。ちゃんと手当てはしたのか?」
 アンジェリークは小さく首を横に振った。怪我をした事を秘密にしておきたかったからだ。
 そんなアンジェリークの様子に、戸惑いながらもヴィクトールは
「なんで医者に見せないんだ。 …足首か? …見せてみろ。」
 と言って彼女の足元に屈み込んだ。
「えっ、きゃ…。」
 アンジェリークは思わず足を引いた。その早業に、呆気に取られて視線を上げるヴィクトール。
「あ…、ああ。…すまんな。」
── そうだ、相手は女性だった…。足を触られるのにも抵抗があるって事か。
 自分の気の効かなさを再認識してしまう。
「ご、ごめんなさい…。」
 ぽうっと頬を染めて、アンジェリークは謝った。
 そして、気まずい沈黙。
── しかし、放っておくわけにはいかん。…だが。
── お医者様になら平気で見せられるけど…なんだか恥かしい…。…でも。
 ややあって、ヴィクトールは立ちあがりながら言った。
「嫌だったらいいんだ。…思わず。」
 軍では必ず応急処置の方法を学ぶ。怪我など見るとすぐに手当てをしなければならないと思い込んでいる節がある。
「あ、あの…。嫌じゃないです…。ちょっといきなりでビックリしただけですから。」
 アンジェリークはヴィクトールを見上げて言った。
「…そうか?」
 少し困ったような顔をして、ヴィクトールは言った。
「はい。」
 実の所、アンジェリークの足首の痛みは、時間が経つに連れて増すばかりだったのだ。森の泉から歩いて帰り、昨日はジュリアスの訪問があったおかげで余り歩かずにすんだが、今日は午前中は宮殿に、そして今は学芸館に。…かなりの距離を歩いている。
 ヴィクトールは改めて腰を落とすと、壊れ物を扱うような慎重さでアンジェリークの足に触れた。
「…んっ。」
 にもかかわらず、アンジェリークの唇から小さな声が漏れる。
「結構酷いな。」
ヴィクトールは冷静だ。「こっちに曲げると痛いか? …じゃあ、こっちはどうだ?」
 足を固定させつつ、足首を左右に動かす。
「そうか、捻っただけじゃないな。…打ったんだろう。それもかなり酷く。…冷やしたか?」
 アンジェリークは、こくりと頷いた。
「大分熱を持ってるな。」
そう言うと、ヴィクトールは立ち上がってアンジェリークに言った。「少し待っていろ。…一応、教科書でも読んでいてくれ。」
「え…? は、はい。」
 アンジェリークは、さっさと部屋を出て行くヴィクトールの背中を、半ば唖然と見送った。
 そしてしばらく。
 素直に言われた通り教科書を読みながら帰りを待っていたアンジェリークの元に、ヴィクトールが戻ってきた。
 手にはバケツと医療箱を抱えている。
 中には水。ヴィクトールは扉を後ろ手に閉めるとアンジェリークの傍にバケツを置いた。
「靴と靴下を脱いで、授業の間浸していろ。授業が終わったらテーピングしてやるから。」
 アンジェリークはきょとんとしてバケツを見降ろした。
「どうした?」
 ヴィクトールは不審に思ってアンジェリークの顔を覗き込む。どうやら医者に関われない理由があるらしいと察したからこそ、こんな原始的な方法で乗りきろうというのに。
「くす…っ。」
 アンジェリークは、小さく笑いを漏らした。
── ヴィクトール様って、なんて…。
 授業中ずっと、片足をバケツに入れて真面目に教科書を読む自分を想像し、そして、その隣で更に生真面目な顔をして、座っているヴィクトールの姿を想像して、思わず笑ってしまう。
「くすくすくす…。」
 アンジェリークがなぜそんなに笑うのか理解できずに、ヴィクトールは面食らった。
「アンジェリーク…どうし…。」
 そういって、もう1度彼女の前に屈み込み、それから、ぎょっとして動きを止めた。
ぽと ぽと ぽと…。
 俯いて笑っている筈のアンジェリークの頬から、大粒の涙が零れていたからだ。
「…どうしたんだ。」
思わず低く尋ねる。「痛むのか? …そんなに?」
 アンジェリークはふるふると首を振った。
「うっく…。…違…ちがうんです…。」
「ならなぜ泣くんだ。…俺が何かしたか?」
 こんな風に泣かれるなどとは思っても見なかったせいで、ただおろおろとしてしまう。
「…ただ…。ひっく…。…なんだか気が…ゆるんでしまって…。」
 しゃくりあげながら、アンジェリークは囁くように言った。
「………。」
 ヴィクトールは、黙ってアンジェリークの足を取った。
 細い小さな足からこげ茶色のローファーを取り、紺のハイソックスを脱がせた。
 アンジェリークは、ほろほろと泣きながらされるがままになっていた。
ぱちゃ…。
 軽く足を上げさせて、見て分かるほどに腫れてしまった足首を水に浸す。
 白い細い足の、そこだけが無残に青くなっていた。
 ひんやりとした感触が、重く凝った足首冷やし、その心地よさに更に涙腺が緩んでしまう。
「…何があったんだ? 差し支えなければ話してみろ、俺に。」
 その泣き顔を見ているのが、酷く切なかった。
 いつも微笑んでいる所しか見た事がない。それが、こんな風に押し殺したように泣くなんて。
「ヴィクトール様…。」
── 話してしまっていいの? ヴィクトール様に余計な心配をかけてしまうだけなのに…。
 しかし、アンジェリークは今誰かに頼りたかった。
 押し殺してきた気持ちを聞いて欲しかった。
 潤んだ瞳を、上げる。
「…どうして私が女王候補なんですか…?」
 囁くような声で、アンジェリークは言った。
 それは、いつだったか彼女が光の守護聖に向けた質問だった。あのとき、ジュリアスは『それは宇宙の意思によるのだ。』と至極まっとうな答えをし、アンジェリークはそれに対して、もっと努力しますと答えたのだが…。
 ヴィクトールは、思っても見なかった質問に、思わず言葉を詰まらせた。
「…それは。」
 彼自身、女王候補が既に選ばれた状態で聖地にやってきたものに過ぎない。初めて会って、「彼女達が女王候補です。教育をお願いしますね。」と、ただそれだけ言われて、深く考えもせずにその役割についていた。
 なのに、当の本人からそう言われるとは…。
「私なんかが、どうして女王候補なんですか? レイチェルだっているのに。私より頭がよくて、皆様とも仲良しで、頼りになって…。優しくて。」
 アンジェリークの脳裏に、過労で倒れた自分を気遣って、夜遅くまで部屋にいてくれた彼女の姿が過る。
── とても敵わない。どんなに頑張っても。
「私は、いつも皆様に迷惑をかけてばかりで…。ドジで…すぐ転ぶし…。」
 しまった、とヴィクトールは思った。それであんな悲しそうな顔をしたのか。
 うかつにからかってしまった自分を呪いたくなる。
「それに…私のせいで、ゼフェエル様は怪我を…。ジュリアス様もお怒りになられて…。」
「お前のせいで、怪我?」
 ヴィクトールは思わず聞き返した。
 アンジェリークはこくんと頷いた。
「はい…。」
そして、おととい起きた出来事を、洗いざらいヴィクトールに話し始めた。
 皆で木登りをしたこと。
 メルが落ちるのを防げなかった事。
 下にいたゼフェルが、二人の下敷きになって、手首をひねってしまったこと。
「今朝、ゼフェル様の執務室へ行ったんですけど…。ゼフェル様、怒ってらっしゃって…。『俺に構うな』って。」
 それは、彼なりの気使いだったのだが、アンジェリークには通じなかったようだった。
「なるほどな…。」
 漸く涙の収まってきた栗色の髪の少女を見ながら、ヴィクトールは溜息を付いた。
 初めから、彼女の自分に対する自信のなさは目に付いていた。どことなくおどおどした様子や、うつむき加減の視線。
 それは、大人しいと言えばそれまでだが、確かに女王試験に勝つ、と言う目的がある限りマイナスであるのは否めない。
 けれどヴィクトールは、それが女王にふさわしくない資質であるかと問われれば、否、と答えただろう。
「アンジェリーク…。」
 ヴィクトールは、心持ち柔らかく彼女に呼びかけた。アンジェリークは、今だ潤んだ瞳をヴィクトールに向ける。
「正直言って俺には、なぜお前が女王候補に選ばれたのか、分からないよ。」
 その言葉に、はっと息を呑み見るからに青ざめ、俯くアンジェリーク。
 しかしヴィクトールは言葉を続けた。
「お前だけじゃない。レイチェルもそうだ。なぜ彼女が女王候補に選ばれたのかも、分からない。」
「え…?」
 思いがけない言葉に、アンジェリークは今一度視線をヴィクトールに戻した。
「俺は、ここの人間じゃない。サクリアがどうとか、宇宙の安定がどうとか、それは説明されれば何となく分かるが、こうして聖地に来なければそんな事は考える事も感じる事もないままに過ごしていたろうな。」
 聖地にいるからこそ、こうして辺りを包むサクリアが感じられるが、ひとたび惑星に下りたってしまえば、それはこう体感できるものではなくなる。
 初めて聖地に来たとき、女王のサクリアと言うものを実感して、どれほど驚いたものか。
「一度聞いてみたかったんだ。…お前には宇宙の意思が『聖獣』としてみえるんだってな。エルンストから聞いたんだが。」
 突然のヴィクトールの問いに、アンジェリークは戸惑いながらも小さく頷いた。
「どんな風に見えるんだ?」
 アンジェリークは、アルフォンシアを思い浮かべながらたどたどしく言葉を継いだ。
「…小さくて、ふわふわしてて…ピンク色で。えっと…背中に小さな羽があるんです。まだ飛べそうにない、そんな感じの羽…。」
その愛らしい様子を思い出して、アンジェリークの口端に僅かに笑みが灯る。「とても可愛いんです。私が尋ねると嬉しそうに跳ねて、『来てくれたんだね!』って、言うんです。」
「それで、いいんじゃないか?」
 中腰のまま、アンジェリークの座った椅子の背に手をかけ、ヴィクトールは言った。
「え?」
「上手く言えるかどうか分からないんだが。」
とヴィクトールは前置いて言った。「俺は聖獣を見ることが出来ない。だがお前は見ることができる。そうだな?」
 こくん、とアンジェリークは頷いた。
「それはどうしてだ? お前が好きだから、お前じゃないと駄目だと、そう思ったから聖獣はお前の前に姿を現した。聖獣がお前を必要としているから…だからお前が選ばれた。…そうじゃないか?」
「でも…育成はレイチェルのほうが上手で、…だったら私にはもうやることは無いんじゃないでしょうか…私がいる必要なんてないんじゃないですか…?」
 そう言いながらも、アンジェリークは塞いでいた心が僅かに揺らぐのを感じた。
「育成か。」
ヴィクトールは頷いた。「お前はもう少し自信を持て、アンジェリーク。」
「…自信?」
 低い、だが確固とした意思を感じるその声に、アンジェリークはヴィクトールを見つめた。
「そうだ、自信だ。…お前がそう感じているように、確かにお前はレイチェルに比べてその…ゆっくり目だ。だがな、それが悪い事か?」
言葉を慎重に選びながら、ヴィクトールはなおも言った。「この数週間、俺はお前を教えてきた。学習の進み具合は確かにレイチェルのほうが勝っている。けれど、学習の内容をより深く理解しているのは…正直言って、お前のほうかもしれないと、俺は最近思い始めていたんだ。」
 ヴィクトールは、そこで少し言葉を切った。
 今まで二人の女王候補を見てきて、感じていた事を上手くアンジェリークに伝えるために。
「…例えるなら、レイチェルは山合を流れて行く清流のようだよ。どんな知識もあっという間に懐に取り込んで、駆け下って行く…。そしてアンジェリークお前は…、大地のようだ…。降り注いだ知識を、ゆっくりと取り込んで潤って行く…。俺にはそう思えてならない。」
「川と…大地?」
 アンジェリークはヴィクトールの言葉に惹き込まれるように呟いた。
「お前がレイチェルに劣っているとは、俺は思わない。二人の性質が違うだけなんだ。その証拠に…今度虚無の空間に行ったときには、もっとしっかりと周りを見てみろ。お前のその穏やかさも優しさも、きっと宇宙に反映されているはずだぞ、アンジェリーク。」
 ヴィクトールの話を聞きながら、アンジェリークは心が晴れていくのを感じていた。
 言われたことは、ジュリアスに尋ねた答えと同じなのに。
 ただ、ほんの少しの口調で、言い方で。
 こんなにも、ホッとする。
「お前のその自信のなさがもう少し薄れれば、お前が思うよりずっと育成はうまく行くと俺は思うぞ。…といっても、俺自身はあまり自信について考えた事が無いし…余り自信を持ちすぎるのも…お前らしくなくて変な気がするが…。」
「ヴィクトール様…。」
 真剣に自問自答するヴィクトールの、困ったような表情を見ながら、アンジェリークは、何時の間にか微笑んでいる自分に気付いた。
「…どうだ? こんな程度の話で、分かったか?」
 小さく、だがしっかりとアンジェリークは頷いた。
 ヴィクトールはすっかり乾いた涙に、ホッとしつつも頷き返す。
 そしてふと、時計に目をやった。
「いかん、もうこんな時間だったのか? …すまないアンジェリーク。学習が出来なかったな。悪いが、今日は『お話』と言うことにしておいてくれないか?」
「ご、ごめんなさい…私こそ。こんな時間まで…。」
 暗くなりかけた窓の外に目をやって、慌ててバケツに浸していた足を抜こうとする…が、びしょぬれの足をどこにやっていいのか分からずに、ただおろおろとするばかり。
 ヴィクトールは苦笑する。
「謝らなくていい。…テーピングをしてやると言っただろう? 明日からは自分で出来るようにやり方を覚えて帰れよ。…送っていこう。終わる頃には暗くなるだろうからな。」
 そしてアンジェリークはその日、その言葉通りに、暗くなった道をヴィクトールに送ってもらって帰ったのだった。  

 
- continue -

 


まだ、本格的には惹かれあっていない二人。
ずっと書きたかったこの話。
蒼太

2001.05.21

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