14.定期審査

 

    ACT1 定期審査
 その日の朝、ヴィクトールは宮殿から派遣された馬車に乗り、学芸館を出た。
 古びたタイルの敷き詰められた長い道のりは、ヴィクトールの身体に心地よい振動を与える。ヴィクトールは馬車に揺られながら、今日これからの仕事について想いを馳せた。 
── 女王陛下も酷な事をされる…。
 初めて聖地にやってきたとき、出会ったあの華奢な金髪の女王は、思っていたよりも厳しい人間らしかった。昨夜遅くになってからヴィクトールの元に届けられたカードには、今日これから行われる定期審査の手段が書かれていた。
『あなたが女王にふさわしいと考える候補の名前を挙げてください。』
 しかも、今日行われる定期の内容を知らず、心構えも何もしていない女王候補本人の目の前でだ。
── 気が重いな。
 ヴィクトールの心の中では、既にどちらを選ぶかが決まっていた。
 レイチェルである。
 王立研究院からの報告、学習のすすみ具合。それらを比較検討してヴィクトールは答えを出したのだ。私情を挟む隙はない。
 レイチェルは誰の目から見ても女王にふさわしかった。その毅然とした態度も、頭の回転の早さも。
 心のどこかでアンジェリークに惹かれつつあるヴィクトールではあったが、それを含めても、アンジェリークを選ぶわけにはいかなかった。
 馬車が宮殿の前に着いた。
 ヴィクトールは嘆息して馬車を降り、謁見の間に向かった。

 

 上座には金の羽を背負った女王と、その隣に紫の髪の補佐官が立っていた。
「では、各々女王にふさわしいと思う候補の名前を挙げてください。」
 女王アンジェリークの柔らかな声が告げる。
 ヴィクトールは、御前に歩いて行くジュリアスの背中ごしに、二人の女王候補へちらりと視線を投げた。
 レイチェルは自信に満ち溢れ、余裕の微笑を行くちびるのはしに乗せている。青ざめていると言ってもよい程のアンジェリークを気遣う余裕さえあるようだった。
「私は、レイチェルを推そう。」
 凛とした光の守護聖の声が響く。案の定、そうやって試験は始まった。
「…どちらとも言えないな。」
「俺は、レイチェルがいいと思います!」
 次々と前に出て、そう述べて行く守護聖たちの声に迷いはない。
「私は、レイチェルがふさわしいと…。」
「俺はレイチェルが良いと思うぜ。」
「僕はまだ、どちらも選べないよ。」
 俯いてその声を聞きながら、ヴィクトールはふと思う。これが女王候補達にどんな心理的ダメージを与えているのか、彼らは分かってやっているのだろうか?  
 レイチェルを推す声が多い中、ぶっきらぼうな声が上がった。
「俺は、アンジェリークを推すぜ!」
 ヴィクトールは少し驚いて、顔を上げた。
 年若い鋼の守護聖は、当然と言った顔をして、御前から下がってくる。ヴィクトールは彼をよく知らなかったが、彼がアンジェリークと歩いている姿を見掛ける事はよくあった。
── 意外と言えば、意外だな。
 今の力の差では、アンジェリークを選ぶものは居ないだろう。謁見室には勝負の前から既に、そういった雰囲気が漂っていたのだ。しかし青年には関係のない事であるらしい。ヴィクトールは周りに左右されないそんな彼の性格を好ましく思った。
 ヴィクトールがふと気付いて、アンジェリークの顔を見遣ると、彼女は心底ホッとしたような顔をしていた。
 確かにこのまま誰も彼女を選ばないままであったら、救われないだろう。
 自分もレイチェルを選ぶつもりでいるだけに、何故か鋼の守護聖に感謝したいような気分になった。
「アタシはどっちとも言えないな。」
 夢の守護聖が言い、ヴィクトールの前に戻ってきた。ふと、目が合ってぱちん、とウインクを投げられる。一瞬呆気に取られたが、気を取りなおした。ヴィクトールは彼とも余り話したことがないが、その風貌の裏に、どこか油断のならない部分が潜んでいるのではないかとを感じていた。実際今も、本当の所はどちらかを選ぶことができたのではないかなどと疑ってしまう。
 そして、のろのろと上がっていったルヴァの声。
「え〜私は、アンジェリークを推しますね〜。」
 これもまた、予想されていた答えだった。ヴィクトールの情報では、図書館での一件以来アンジェリークと地の守護聖の親密度は上がっていた筈だ。鋼の守護聖の受けがよいのもそういった所から来ているのかもな、などと考えながら、ヴィクトールは戻ってくるルヴァと入れ違いに女王の前に立った。
「俺は、レイチェルが良いかと思います。」
 言った瞬間、レイチェルのほっとしたような溜息が聞こえ、アンジェリークの小さな呻きが聞こえた。罪悪感が胸の隅を過る。ヴィクトールは勤めて二人の女王候補の顔を見ないように下がった。 
 ヴィクトールの一言で、アンジェリークの負けが決定した。レイチェルを推したものが五人。アンジェリークを推薦したのが二人。後の二人がアンジェリークを推しても、もうハートを貰う事は出来ない。 
「どちらとも言えないな。」
というセイランの声と、
「僕はアンジェリークがふさわしいと思います。」
というティムカの声で、審査は締めくくられた。
 レイチェルには新しいハートが与えられ、皆は謁見室を出た。
 各々仕事に戻って行く彼らの後姿を見ながら、ヴィクトールは宮殿の前でぼんやりとたっていた。
── こんなにあっけないものか。
 ここ数日の二人の頑張りが、この数時間に反映されたと言うわけだ。
 迎えの馬車がやってくる。歩いてでも帰る事は勿論出来たが、ヴィクトールは何となく疲れて、薦められるままに馬車に乗り込んでいた。
「では、参ります。」
御者の声に頷いて、窓の外に目をやる。
白亜の宮殿。大きくてきらびやかで、そしてそれにふさわしい人々が住んでいる場所。
走り出した窓の隅に、宮殿から連れ立って出てくる二人の女王候補が映る。
 二人とも笑っていたが、栗の髪の女王候補の笑顔は、不自然に歪んでいるように、ヴィクトールには思えた。
── 明日は、日の曜日だな。
 ふと、ヴィクトールは思い立った。懐から厚い皮の手帳を取りだし、スケジュールを繰る。
── 大丈夫だな、よし、行ってみるか。
 ヴィクトールはパタンと手帳を閉じた。

 

 

ACT2 庭園で。

 

 小さな天使のタイルにはめ込まれた呼び鈴を押すと、高い澄んだ音が部屋の中から聞こえて、目の前の扉が開いた。
「おう、アンジェリーク。今日は日の曜日だな。」
 当たり前ことなのに、そんな切り出し方をしてしまうのは、少し緊張していたからだろうか? 扉を開けた姿勢のまま、アンジェリークは驚いたような瞳を上げたが、すぐに花がほころぶように微笑み、部屋の中へヴィクトールを招き入れた。
 室内は可愛らしい装飾品で飾られていた。落ちつかないような気がして、ヴィクトールは思わず歩みを止める。
 ふと、チェストの上にライオンの置き物が飾られているのが目に入って、無意識に小首を傾げた。だが、そのまま忘れてしまう。
「折角の休日だ。お前さえよければ、息抜きも兼ねて何処かへ出かけないか?」
 小さな後ろ姿にそう言うと、彼女は嬉しげに振り帰って笑った。
「誘いに来てくださって、とっても嬉しいです、ヴィクトール様。」
 その顔には昨日の試験の後の、あの暗い表情を見る事は出来なかった。
「その笑顔が見たくて、俺はここに来たのかもしれないな。…俺も嬉しいよ、アンジェリーク。」
 そう言った途端、アンジェリークはポッと頬を染めた。気障な台詞を言ってしまったのだろうかと、ヴィクトールは慌て、彼女にどこに行きたいのかを尋ねた。 
「ヴィクトール様のお好きなところで…。」
 はにかむように俯いて、アンジェリークはそう言った。ヴィクトールとしてはここにずっといる事にちょっと耐えられそうになかったので、彼女を外に誘う。 
「じゃあ、庭園にでも行くか。」
 そう言うと、アンジェリークは小さく頷いて、さっさと部屋を出て行くヴィクトールの後に小走りについてきた。
 庭園を選んだのは、何度もそこで出会っているからだ。たぶん…アンジェリークは庭園が好きなのだろう、とヴィクトールは思っていた。
 寮から庭園に繋がる小道には、今日は誰の姿もなかった。
 半歩後ろから付いてくるアンジェリークの姿を確認しながら歩くヴィクトールは、彼女の息が上がっていることにふと気付く。
「…すまん。歩くのが早すぎたか?」
女性と連れ立って歩くなど久しぶりで、勝手が違うのを忘れていた。「少しゆっくり歩こう。」
 以前、庭園から寮へアンジェリークを送ったときも、彼女は付いてくるのがやっとだったのだろうか? ヴィクトールは思い出しながら微笑んだ。
「どうなさったんですか?」
「いや…。」
 その微笑を見られていた事に気付いて、ヴィクトールは慌ててそれを引っ込めた。
 小首を傾げるアンジェリーク。ヴィクトールが歩調を緩めてくれたおかげで、少し楽になった。
「どうだ? これくらいで。」
「はい。大丈夫です。」
 そうか、と頷いて、ヴィクトールは視線を元に戻した。そのまま黙々と歩く。アンジェリークはその広い背中にくっつくように付いていく。
「…着いたぞ。」
ヴィクトールは庭園の入り口で立ち止まった。「さて…今日はどうする?話をするか、俺の質問に答えるか。どちらかを選んでくれ。」
 言って、アンジェリークを見降ろした。しかし、迷っているアンジェリークの顔を見ながら、ヴィクトールは彼女が「質問」よりも「お話」を選んでくれれば良いと思っていた。 
 今日アンジェリークを誘いに来たのは、しばらくの間でも、女王試験の事を忘れて欲しかったからだ。
 罪悪感から来ていたのかもしれないが、それだけだろうか? と自問する。どこかでこの女王候補を誘うきっかけを探していたのでは?
 そんな想いを巡らせたが、アンジェリークの声で破られた。
「えっと、お話がいいです。」
 ヴィクトールは無言で頷いて、彼女を連れ、噴水の前を右に折れた。
 その先には、約束の木がある。
 ヴィクトールはその下で立ち止まった。
「…流石に涼しいな。」
 アンジェリークはその言葉に大木を振り仰ぐ。木の葉を透かして煌きが降りてきていた。
「大きな木ですね。」
「ああ…。聖地では、『見晴らしの木』の次に大きいものらしいぞ。この木は『約束の木』と呼ばれているそうだ。」
「約束の木?」
 アンジェリークはヴィクトールの声に、僅かに苦いものを感じて彼を振り帰った。ヴィクトールは彼女を真剣な眼差しで見降ろす。
「そう、約束の木だ。…アンジェリーク、お前は約束を破った事はあるか?」
 アンジェリークはしばし考え込む。約束…と一口に言っても、小さなものから大きなものまで色々だ。ヴィクトールが今言っているのは、その大きなものの方、1度破ったら取り返しのつかないものをさしての事だろう。だから首を振った。
「…そうか。まだお前は若いんだな。」
 ヴィクトールの眼差しに憧れと、寂しげな色が浮かぶのを見て、アンジェリークは何故か、切ない気持ちになった。
「そのうちやむを得ない時と言うものを経験するときがくるだろう…。だが、願わくばそんな時がお前にやってこないといいと思う。今のままのお前で居て欲しいと思うぞ。」
 そう、呟くように言ったヴィクトールの横顔は、どこか遠い場所に想いを馳せている様子だった。
── ヴィクトール様は、何か辛い過去をお持ちなのかもしれない…。
 彼がどんな人間なのか、アンジェリークは知らない。辺境の惑星で起きた悲惨な事件も、そこで交わされたさまざまな約束も、小さな子供だった頃の出来事だ。 
「さて、あっちへ行ってみるとするか。」
 ヴィクトールは東屋にアンジェリークを連れて行った。
 蔓に巻かれた細い真鍮で囲まれた小庭には、誰もいなかった。アンジェリークはまだここに入った事は無かったので、その細工の美しさに目を見張った。 
「なんだ…、そんなに珍しいのか?」
「だって、ヴィクトール様、ほら…小さなお花が沢山。」
 お互い支え合うように絡み合い、壁を覆っている。まるで緑で出来た小さな家だ。マルセルの庭でもこんな細工を見かけたが、やはり、美しいと思った。 
「そうか…俺はあまりこう言うことには疎くてな…。なるほど、言われて見れはそうだな、確かに綺麗だしこんな風にするには大変な労力が必要だろう。」
 その最後の一言が、彼の雰囲気を堅いものにしてしまうことに、気付いていない。
「それにしても…良い天気だな。」
 三本の支柱が重なり合って、天に向かっているのを目で追って、澄んだ青い空に気付き、ヴィクトールはそう言った。
 まぶしいくらいの好天がここの所…いや、聖地に着てからと言うもの、ずっと続いていた。
 東屋を囲う水の上を渡ってきた涼風が、二人を包んだ。
「本当ですね…。」
長い事歩いてきたせいもあって、少し暑いくらいだ。アンジェリークはふとヴィクトールを見詰めた。
 その視線に気付いて、ヴィクトールは笑う。
「これか?」
 執務用の左官服は、長袖で生地も見るからに厚い。「お前の服に比べたら、暑そうに見えるだろうな。」
 こくりと頷くアンジェリークに、ヴィクトールは困ったような視線を投げた。
「しかし…脱ぐわけにも行かんし、まあ、今日は少し我慢と言うものだな。だが、夕刻近くなれば寒いくらいのときもある。不思議だな。ここには四季もないし雪も降らない。でも暑さ寒さは確かにあるんだ。…お前は雪が降るのを見たことがあるか?」
 アンジェリークは頷いた。
「はい。でも…主星では本当にたまにしか降らないから、凄く珍しいんです。」
 聖地の恩恵深い主星では、冬になってもさほど天候の荒れることがない。年に一度降るか降らないかの雪を、アンジェリークは楽しみにしていた。
「そうか。俺も主星近くの惑星の出身だが、あそこでも雪はあまり降らなかった。…けれど、俺が派遣されていた辺境の惑星ではな、よく降ったもんだよ。」
どうしてだろう? 今日は何故か昔のことを多く思い出す日だ。しかし、それは決して辛い思い出ばかりではなかった。「雪が舞う時の、あの少し寂しくて静かな雰囲気が、俺は好きだ。音もなくただ降り積もる…。天気雨、って知ってるか? あれと同じで、天気雪、ってのもあるんだぞ。」
 アンジェリークが不思議そうに首を傾げるのを見て、ヴィクトールは笑った。
「月が出ているのに、雪が降るんだ。…雪の一片ひとひらが、月明かりにキラキラと反射しながら舞い降りてくるあの光景が、俺は忘れられないよ。」
「素敵ですね…。」
 その様子を想像して、アンジェリークはうっとりと呟いた。
「だが、寒いぞ。そんな日は。」
そんなアンジェリークに、ヴィクトールはからかう様に言う。「風が酷くてな。お前のような華奢な身体では吹き飛ばされてしまうかもしれん。」
「ええっ?」
 アンジェリークは慌てて自分の身体を見降ろした。 
「ははは。冗談だ。済まんな、情緒がなくて。…その雪も、もしお前があの星に行くなら、見せてやれんこともないが…。」
 今、あの星は復旧に向かっていると言う。どんなだろうか…。まだ、荒野のままだろうか…?
「私、見てみたいです。」
と、アンジェリークは言った。「本当に…。」
 きっと、ヴィクトールが言う以上に、それは美しい光景に違いなかった。
 ヴィクトールは、はっとして、そんなアンジェリークの横顔を見た。
 日に透けるような白い肌。頬に影を落とす長い睫毛。すらりと描かれた眉。
「そこは、ヴィクトール様の思い出の場所なんですね。」
 アンジェリークは顔を上げた。
「あ、…ああ。そうだ。」
 ヴィクトールは慌てて視線を逸らす。
── …なんだったんだ、今の間は。
 10以上も年下の子供に、目を奪われるなんて。
「さて、女王像のほうへ行ってみるか。」
 ヴィクトールはそういって、アンジェリークが頷くのも待たず、歩き出した。
 東屋の木陰から外に出ると、今までのしんとした空気が薄れ、庭園の、活気に満ちた喧騒が聞こえるようになった。女王像の前を歩きながら、ヴィクトールは歩調をおとして、アンジェリークに話しかけた。 
「ここに来ると、女王陛下のことを考えずには居られないな。」
 庭園はどこも緑に囲まれ、人々のはしゃぐ声が聞こえていたが、女王の像の周りだけが、凛とした空気で覆われている。
 女王像は、とくにモデルが居ると言う訳でないらしい。ただ、その背にある大きな羽と、丸みのある姿態が女王を連想させるのだ。
 ヴィクトールは話のついでもあって、前回の女王試験について、聞き知ったことをアンジェリークに教えてやった。
 アンジェリークはいちいち頷いて、ヴィクトールの話を静かに聞いている。
「ヴィクトール様は、なんでもご存知なんですね。」
 前回の試験に参加したわけでもないのに、その後の行方まで知っているということに感心する。
「まあな。俺にも教官としての責務があるし…。」
と、言いかけて、ハッと口を噤む。
 この女王候補をここに連れ出したのは、試験の息抜きになればと思ってのことだったのに、今ので思い出させてしまっただろうか。
 しかし、全く試験を忘れろと言うわけには行かない。
 そうこうするうちに、二人はカフェテリアの前に着いた。
「アンジェリーク、今日はケーキを食べられるか?」
 隣を歩くアンジェリークにからかう様に尋ねると、アンジェリークは一瞬で耳まで赤くなった。
「ヴィクトール様、私いつもあんなに食べてるわけじゃ…。」
「ははは。分かってる。からかっただけだ。…じゃあ、寄って行くか? 随分歩いたことだしな。」
「はい。」
 ヴィクトールはアンジェリークを連れ、オープンテラスの一席に腰を下ろした。カフェの庭先には広い水辺があり、他の席はそれにほど近い所に固まっていたが、ヴィクトールの選んだその席は、他からは少し離れた、奥まった所にある。すぐ背中に庭木があるので、なんとなく安心できるような気がしたのだ。 
「珈琲を。」
 そう言うと、ウエイトレスが答えた。
「こちら、ケーキセットになってしまいますが。」
 セットになってしまうというのも珍しい。(笑)
── しまった。甘いものは苦手なんだが…。
 しかし、頼まないわけにもいかない。
「とっても美味しいんですよ、ここのケーキ。」
 何も知らないアンジェリークは、嬉しげに微笑んだ。5つも食べたあの日から、大分時間が経っているので、あの苦しさはすっかり記憶のかなたらしい。 
「そ、そうか…。じゃあ、そうしよう。」
「ケーキの種類は何になされますか?」
── 種類? そんなもの知らんぞ、俺は。
「えっと…私はショートケーキをお願いしますね。」
メニューを見ながら、アンジェリークは言った。
「俺も…そうしよう。」
 と、言った瞬間、アンジェリークがくすりと微笑んだ事に、ヴィクトールは気付かなかった。
──  ショートケーキか。あれなら俺も流石に知ってるぞ。たしか妹が昔買ってきた…、物凄く甘い…。
 こてこてと生クリームの乗ったあのケーキは、忘れられそうにない。
 やがて、そのケーキが運ばれてきた。
── むむぅ。
 ヴィクトールは思わず心の中で呻いた。
「わあ、美味しそう。」
「そ、そうだな…。」
この薄いパラフィン紙を剥がすんだよな…確かそうだ。アンジェリークの仕種を横目で見ながらヴィクトールはそれを確認する。
「いただきます♪」
 嬉しげにフォークを持つアンジェリークに、ヴィクトールは気弱げに微笑んだ。
── 何年ぶりだ…? ケーキを食べるなんて。
 まさか自分も食べることになるとは思ってもみなかったので、ヴィクトールは本気で弱っていた。
 だが、一口、それを口に含んで、驚いた。
「なんだ…あんまり甘くないんだな。」
「そうなんです。甘すぎなくって、美味しいなっておもいませんか?」
 良く見れば量もさほどではない。甘酸っぱいイチゴも沢山入っていたし、これなら食べられそうだった。
「ふむ。」
ふと気付くと、アンジェリークが手を止めて、ヴィクトールを見ていた。「…なんだ?」
 尋ねると、アンジェリークはにっこりと微笑んだ。
「ヴィクトール様、食べられてよかった。」
「?」
「この間、あんまり甘いものは得意じゃない様なことを言ってらしたから。」
「ああ…。」
そう言えば、何週間か前の日の曜日も、こうして二人で居たんだった。と思い出す。「まあ、それはそうなんだが…。好き嫌いを言うのもなんだし…。」
 そう言った途端に、くすりと笑われた。
「ヴィクトール様、干しブドウは?」
「あ…。」
 くすくすくす、とアンジェリークは笑い、遠慮がちに言った。
「お返しです。…さっきの。」
 言われて、気付く。
「なんだ…。」
 この物静かな娘に、自分はからかわれたのだ、と知って、気が抜けた。元気付けようと連れ出したが、そんな必要はなかったようだ。ヴィクトールはアンジェリークに言った。  
「なら、これからここに来るたびに、俺の分をお前にやろう。いつでも連れてきてやるぞ。」
言い返すと、アンジェリークはきょとんとした。「…太るかもな。」
「…ヴィクトール様って…」 
「俺をからかうにはまだ経験不足だ。」
 皿に食べ終えたフォークを置き、ヴィクトールは知らんふりして珈琲に口をつけた。
 横目でちらりと様子を見ると、アンジェリークはまだ楽しそうに微笑んでいる。
── 本当に、よく笑う娘だな。
 ヴィクトールは、またゆっくりとケーキをついばみ始めたアンジェリークに、聞かせるともなく話し始めた。
「お前はこの庭園の、どの場所が一番好きだ? アンジェリーク。 俺は、この間お前が覗き込んでいた、あの噴水が一番好きなんだ。二つ並んでいるだろう? だから、美しさも2倍に感じられるんだろうな。」 
 庭園に来るのは夕暮れ時が多いが、そんな時はいつも、あの噴水のそばに腰を下ろす。夜の帳の落ちる前の、公園の緑を映した一瞬のブルーが酷く綺麗だった。
「お前の瞳の色に…似ているな。」
「え?」
 その小さな呟きを聞きつけ、アンジェリークは小首をかしげる。
「あ、いや…何でもないんだ。…そろそろ行くか?」
 ウエイトレスが二人の様子を見て、皿を下げにやってきた。
 ヴィクトールはたちあがり、アンジェリークが付いてくるのを確認して歩き出す。
「ああ、美味しかった…。」
満腹、と言った様子でそう言ったアンジェリークに、思わず苦笑する。
 ふと気付いて、ヴィクトールは小道を逸れた。
 そこには小さいながらも、よく整えられた花畑が広がっていた。
「まぁ、きれい…。」
 アンジェリークは一瞬、隣にいるヴィクトールのことを忘れて、はしゃいだ。
 花畑の中に歩いていくアンジェリークの背中を見送りながら、ヴィクトールは言った。
「お前が喜んでくれてよかった。ここは確かに綺麗だから、お前に楽しい思い出を残してくれるだろう。今日は俺が一方的に話すばかりだっただろう?でも、お前が俺とここにきたことを後悔するような事になって欲しくなかったんだ…なぜかって…。」 
── 何故かって、なぜだ?
 ヴィクトールは、そこで言葉を区切って、ふと考え込んだ。
 彼女を楽しませたいと思った。
 ここ数日の疲れを癒してほしかった。
 アンジェリークは、ヴィクトールの小さな呟きを、聞いていなかったようだ。
「そろそろ部屋に帰るとするか。送ろう。アンジェリーク。」
 ヴィクトールは小走りに駆け戻ってくるアンジェリークを待って、二人歩き出した。

 

「今日はなかなか楽しかったな。互いのことが少し分かったような気がして、嬉しいよ。」
 部屋の入り口で降り返ったアンジェリークに、ヴィクトールは言った。
 そろそろ辺りも夕闇にかすんできている。このまま中に入らず別れる方がいいのだろう。
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろう。…またな。アンジェリーク。」
 そう言って、ヴィクトールはきびすを返して歩き出した。
 後ろで寮部屋の明かりが付き、足元を明るくする。
 アンジェリークがわざとまだカーテンを閉めずにいてくれるのが分かった。
 どうしてか、酷く満ち足りた気持ちで、ヴィクトールは寮の前庭を出た。
 あの栗色の髪の女王候補に出会ってから、まだ間もない。なのに、学習のときには感じなかった、こんな気分になる自分がいる。
── どうしてだろう。
 こんな気分は初めてだ。
 僅かに、ヴィクトールの胸の隅を、予感が過る。
 しかし、ヴィクトールはそれを感じないままに打ち消した。
── まあ、あいつはどうも、俺の保護欲をそそるからな…。
 小さな身体や訴えるような視線が、ヴィクトールにとっては見過ごせないのだった。
 ヴィクトールは、軽い足取りで私邸に戻って行った。 

 

 

 
- continue -

 

はい。どうでしょう? だんだんヴィクトールが…。
鈍いです。ウチのヴィクトール様は。
でもまだ定期審査1回目ですもんね、気付かなくても当然かも。
私がプレイすると、1度目の定期審査までにはもっとラヴラヴになってますが…。(笑)
次回は森の泉で木登り。で、お送りしたいと思っています。
では、また。
蒼太。 

2001.05.03

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