13.日常

 

 朝がやってきて、ヴィクトールはいつもの通りに目を覚ました。
 ベッドから降り、少し伸びをしてから、長い指で雑に赤銅色の髪を掻き揚げる。
 確かめた時間は、まだ五時。
 眠気を覚ますために、彼は私室の中にしつらえられたシャワールームに向かった。
 そこは、他の部屋同様広くしつらえられている。既に洗いたてのバスローブとタオルが一組と、ランニングへ出かけるための準備が整えられていた。   
シャツを脱ぐ。
 鏡に映ったその逞しい身体に、無数の切り傷が刻まれている。彼にとっては日常の慣れた光景だが、もし、これを他人が見ることになれば、目を釘づけにされるだろう。そして、今ではすっかり癒えたその傷を見て、一時にこれだけの傷を負うような目に遭うとは、一体どんな事が彼に起きたのだろうかと、誰しもが思うだろう。
 ヴィクトールは軽く身体を流すと、徐々にクリアになっていく頭を振るって、シャワーを止めた。
 濡れた髪と身体を拭い、そのままランニング用のシャツとハーフパンツに着替え、踝までのシューズを履く。
 これから、1時間。彼は毎日の日課であるランニングに出かける。とは言え、その内容はもちろん走るだけに留まらない。
 アスリートのように長い柔軟で、前日の夜の軽いトレーニングで堅くなった筋肉をほぐす。彼の身体は徐々に整っていく。
 そして、学芸館から森の湖への小道をたどり、降り返してくる20分程度のラン。ジョグより早く、マラソンよりゆっくり目に。
 走る間に風の守護聖・ランディとすれ違うが、いつも目礼するだけに留まる。しかし最近は、二人とも何か通じ合うものが出来てきたような気がしている。 
 そして、学芸館に戻ると一休みし、今度は武道の型を一通りなぞる。軍で学んだ激しい動きのものと、自分で習得した舞う様にゆっくりなもの。
 型をなぞる内に、また一段と身体も心も落ちついていくような気がする。
 それが、クールダウンの代りでもあった。
 もし、主星に居るのであれば、機を見て組み手や剣の稽古もできるが、ここでは相手も道具も無い。
 ヴィクトールはそれでも、一人きりの集中した一時間を終え、私邸に戻った。
 それから、もう1度シャワールームに向かう。今度はそこに、執務用の服が用意されていた。
 この周到な配慮に、初めこそ慣れられずに居たヴィクトールも、今ではそれを受けとめている。
 時刻は六時少し前。
 汗を含んだシャツを脱ぎ、シャワーに打たれる。運動した後の張り詰めた筋肉が程よくほぐれて行くのを感じながら、少しのびた髭を剃る。
「…つぅ!」
 今日は、少しぼんやりしてしまったのだろうか? ヴィクトールは顎に小さな痛みを感じて、眉をしかめた。
「参ったな…。」
 慌ててシャワーを止め、バスローブに袖を通したヴィクトールは、鏡の前で途方にくれた。
 結構深く切ってしまった様で、血が止まらない。
「しかたない…何か貼っておくか。」
 バスローブのまま部屋に戻り、緊急医療用の箱から、血止めのテープを取り出して、顎先に貼りつける。
 それから、中庭に面した広い窓際のソファに落ちつく。
 テーブルの上には、その日の飲み物と新聞。主星で発行されたものだ。聖地に居ても、主星で起きたことは逐一漏らさず知っておきたかった。
 新聞を広げ、兆度良い明るさの日差しの中、飲み物を口にしながら、ヴィクトールはゆっくりとした1時間を過ごす。未だ空腹のため、冴えている頭の中に、記事を詰め込む。
 そして、着替え。
 ヴィクトールが着替え始めたのを見計らい、執務官たちが朝食のテーブルを用意し始める。
 彼の好みと体躯に合わせた、量の多い、バランスの良い食事。
 着替えを終えて出てきた時には、暖かいままのスープとパン、そして2.3品の副菜、サラダ。
 食事の後に、珈琲。
 その後、書斎で支度を整えつつ、しばらくゆっくりとした後、学芸館に出勤。
 女王候補が来るのを待ちながら、主星からの仕事を集中してこなす。
 そして、10時。
 今日は、栗色の髪の女王候補がやってきた。
「女王候補ってのも大変だと思うが…。壁を乗り越えたものだけが本物になれるんだ、自分に負けるなよ。」
 時たまやってくるだけだが、ヴィクトールはこの栗色の髪の女王候補を気に入っていた。つい金の髪の女王候補には言わないような台詞をいってしまう。 
 そして、いつもならこのまま学習なり、お話なりするところ。
「…なんだ? なにかおかしいのか?」
 ヴィクトールは彼女の微笑むような視線に気付いて、尋ねる。
 彼女は、くすくすと笑いながら、ヴィクトールの顎のテープを指差した。
 しまった。と内心思う。血などとっくに止まっているだろうに、忘れていた。きっと執務官たちも気付いていただろう。…言ってくれれば良いものを。
「これは…今朝髭を剃ってるときにちょっとな…。」 
言って、彼女の不思議そうな瞳に笑う。「なんだ…髭を剃るってのが珍しいのか? …まあ、そういうこともあるんだろうな。」
 痛くないんですか? と聞かれて、いや、と首を振る。
「もう血は止まってる。…さあ、今日の用事はなんだ?」
 学習です。と答える。「 …そうか。なら精神を高めるための学習を始めよう。」
 席に着いた彼女の勉強のすすみ具合を横目で確かめながら、自分も仕事を進める。そして時折注意を与えたり、たちあがって指示をする。
「そうじゃない、アンジェリーク。この人物の気持ちになって考えてみろ。ここで、こんな行動を起こしたのには、もっと深い訳がある…。」
 素直に頷く少女の後ろに立って、しばらくその成り行きを見守る。
「…そうだ、そういうことだ。良く気付いたな。」
 時間がかかるときもあるし、それによって自分の思い以上の答えを返され、感心することもある。そしてそれを伝えると、彼女は花がほころぶ様に笑うのだ。
 そして、授業が終わる。
 ありがとうございました、と言って出て行く女王候補の後ろ姿をしばらく追った後、昼が近いことに気付いて、精神の学習室を留守にする。
 忘れずに顎のテープを取ってから。
 今日は、学芸館の中にしつらえられた食堂に行ってみるつもりだった。食堂は階段を降り、中庭に面した廊下を奥へ向かって歩くと、突き当たりにある。
 扉を開けると、今日は数人の執務官と、それからティムカが居た。
 軽く挨拶をして、同じ席につき、注文をする。
「おう、珍しいな…ここで会うとは。」
 若い教官に向かい、そう笑いかけると、彼は少し緊張したような、それでも礼儀正しい態度で、ヴィクトールに答える。
── 相変わらずしっかりした子だな。
 その態度に、いつもそう思う。だが、子供らしい部分を押し殺している気がしてならない。もっと、外に出て見れば変わって行くかもしれない。
 二人の女王候補の学習についてなど、軽く会話をして、ティムカは食堂を出て行った。
 ヴィクトールも運ばれてきた食事をとり、普段ならまた学習室へ戻る。
 そして、午後。
 いつも、誰かが来るかもしれないと思いつつも、学芸館を開けてしまう時がある。
 今日がそれだった。
 辺境の惑星の移民の状況について、守護聖の力が足りないと報告があった。聖地に居るうちに都合がいい仕事は、全部してもらおうとでも言うのか、どうもそういった依頼がおおい。
 ヴィクトールは書類を持って、光の守護聖ジュリアスの元に向かった。
 先住民族がいる星に、移民として渡った人々の誇り。
 強すぎても弱すぎてもいけない。
 そんなことを遠まわしに伝える。何しろ、ジュリアス自身、誇り高い人間だから。
 しかし、直接に言ったとしても、彼はそれを仕事として素直に受け止めることが出来る人間だ、と最近のヴィクトールにも分かってきていた。
「…と、いうわけなんです…。」
 そう言った所で、扉を叩く音。
 金の髪の女王候補が入ってきた。
 ヴィクトールは彼女と入れ替わるように執務室を出る。
 そして、ふと思いついて占いの館へ。
 占いの館の小さな少年、メルは、ここのところヴィクトールが保護の対象として(?)一番目を掛けている少年だった。
 始めに会ったのは、彼が研究院にデータを運んでいる途中のことだった。非力だが出来る限りのことは自分でやろうとする一生懸命な姿に感心した。
 占いをするわけでもないし、ましてやおまじないをする訳でもないが、ヴィクトールは以来たまに占いの館に顔を出す。
「元気だったか?」
 軽くそう尋ねると、少年は大きく笑って頷いた。そして、水晶を置いてある机の下から、チョコを出してヴィクトールに呉れた。
 ヴィクトールは笑ってそれを受取る。甘いものは得意ではないが、それが彼の好意だと思えば、何の事はない。食べられる。
 そうこうしているうちに、人がやってくるときもあるが、今日はメルと話している間中、誰もやってこなかった。
「さて…そろそろ俺も戻らなきゃな。」
 酷く残念そうに眉を落とす少年に手を挙げて、ヴィクトールは占いの館を後にした。
 そして、学芸館に戻る。
 もう時間も遅いし、今日は女王候補二人ともに会ったから、来ることもないだろうと思う。案の定、学芸館が閉まるまで、ヴィクトールを尋ねるものはなかった。 
 やりかけの書類を片付け、学習室の扉に鍵を掛け、ヴィクトールは私邸に戻る。
 そして、いつも通りの食卓。
 「感性」の教官が気まぐれに訪れてくるのは、いつもこの時間だったが、今日は来ない様子だ。
 ひとりで、食事を済ます。
 そして、風呂。
 一日の疲れが癒されて行く。
 前髪が湯気に濡れ、落ちる。顔を拭う手には無数の傷。
 ヴィクトールはまた、新しいバスローブに着替える。
 用意された寝酒と、ルヴァの書庫から借り出してきた本。ヴィクトールは少し冷えてきたダイニングのマントルピースに火を起こした。
 聖地では、気候は一定だ。だが、昼暖かい分、夜も吹けてくると霧が出て、酷く寒いときがある。
 何もかもが露に濡れる。
 ヴィクトールは熾した火の前で、読書に耽り始めた。
 それは時によって趣味の本であったり、女王候補に例題として提示するための逸話を探すためでもあったりする。
 小1時間ほどして、ヴィクトールは本を閉じ、僅かに残った琥珀の酒を空けて、たちあがった。
 眠るためのシャツに着替える。
 そして、ベッドルームへ行き、ベッドの側で、今日最後のトレーニングを始める。
 軽く、腹筋。腕立て伏せ、ダンベル。
 ダンベルは、そろそろ新しいのが欲しい気がしている。
 汗も掻かずに一通りいつものメニューをこなし終わった頃には、酒もすっかり抜けていた。
「さて…寝るか。」
 誰にともなく呟いて、ヴィクトールはベッドに横になった。
 身体は心地よく疲れている。
 そして、今日一日起きたことを反芻しながら、ヴィクトールは眠りに落ちて行った。 

 

 

 

 
- continue -

 




うーん。体鍛えるの趣味って言ってたから…。どこまで描写して良いものか考えちゃいましたけど
次回は1度目の定期審査について書こうと思います。
やっと1度目ですよ…。ふぅ。
では、また。
蒼太

2001.4.28

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