04.訪問・宮殿

 アンジェリークが図書館で倒れた、という噂が宮殿内で駆け巡り、そして次の日の夜が明けた。 
 何事も気の持ちよう、というものだろうか。アンジェリークの体からは、昨日の微熱も筋肉痛も、ほぼ消えてなくなりかけている。
 お陰でアンジェリークもいつも通り起き出して、彼女を心配していた女王候補寮の面々に、明るい笑顔を見せる事が出来た。
「アンジェリーク、もうヘーキなの?」
 顔を見た途端、レイチェルが心配そうに言った。
「うん。もう平気よ。…昨夜はありがとう、心配かけちゃってごめんね。」
 アンジェリークは、そう言うと厨房へ足を向け、昨日のスープのお礼をシェフに、その他の人々にも改めて礼を言ってまわった。
 それからアンジェリークが席につくのを待って、レイチェルはアンジェリークを促がす。
「さあ! アンジェリーク、ちゃんと食べるんだよ。」
 まるで母親のように気遣ってくれる。
 アンジェリークはそんな気もちを嬉しく思いつつ、ずらりと並んだボリュームたっぷりの朝食を前にした。
「うわあ…すごいね。」
 どうやら、アンジェリークが倒れたせいで、シェフたちも、考える事があったのだろう。
 しかし、心配をかけたアンジェリーク本人が、それを残すわけにも行かず、彼女は昨日にも増して長い時間をかけて、それを平らげる事になったのだった。

 

 そして自室に戻り、昨日とはまた少し違う気分で、育成へ出かけようとしていたアンジェリークだったが、その彼女の身支度が終わるのを、まるで待ち構えていたかのように、ドアに取り付けられたベルが鳴ったのを聞いて、鏡の前で顔を上げた。
「誰かしら…?」
 梳かしたばかりの髪を抑えて立ち上がる。小首を傾げつつ、庭に面した窓から外を覗くと、明るい日差しの中に、きらきらと輝く金髪が見え隠れしていた。
「ジュリアス様だわ…どうぞ!」
 まだ少し、こわばり気味の体に言う事を聞かせ、ギクシャクとドアを開けるアンジェリークを、ジュリアスは見降ろす様にして待っていた。そしてドアが開けられるやいなや、容赦の無いその視線でアンジェリークの顔をまじまじと見つめると、口を開いた。
「今日は、近くに来る用事があってな。ふとお前の事を思い出し、誘いに寄ってみたというわけだ。」
 突然誰かが訪ねてくるという事は、ロザリアから聞き知って居たが、実際に訪問をうけ、しかもそれが守護聖の中で主席と言われるジュリアスであった事に、アンジェリークは少し面食らった。もちろん、ジュリアスが昨日の出来事を早くも聞きつけて、説教しにやってきたのは言うまでもなかったが、未だジュリアスの人となりを良く知らないアンジェリークに、そのようなことは、分かろう筈がなかった。
 ゆえにアンジェリークは一瞬の驚きから冷めると、朗らかに答えた。
「喜んで!」
「このような事で喜ばれても困るが、悪い気はせぬものだな。」
 説教するためとはいえ、嬉しそうに出迎えられれは、さすがに悪い気はしないものである。思わず微笑んだ顔ジュリアスの顔を、アンジェリークは初めてじっくりと見た。謁見のときは、誰よりも気難しい顔をしていたと記憶している。実の所、アンジェリークはそのせいで、昨日も一昨日も、ジュリアスの執務室へ足を運ぶのをためらっていた。
 しかしこうして来てもらい、微笑む表情を見せられれば、やはり光が零れ落ちるような印象を受け、それほど気難しい人ではないのだと、これから起こる事も知らずにほっと安心する。
「どうぞ、お入りください。」
 身体を引いて部屋の中へ招き入れ、椅子を薦めると、ジュリアスは軽く頷いて腰を下ろした。
 オレンジ色の、可愛らしい部屋の中で、ジュリアスの姿は多少異質だったが、本人は至って真面目な顔をしている。どうやら自分が中心なので、気にも止めないらしい。
「ジュリアス様、今お茶を入れますね。…珈琲ですか?それともなにか別なものを?」
「珈琲だ。それ以外は飲む気が起こらない。」
 その返事の仕方に、アンジェリークは失礼ながら近所の頑固老人を思い起だした。思わずその口端に笑みを乗せてしまう。
 気難しげな表情に戻ってしまったジュリアスを一人テーブルに残して、アンジェリークはミニキッチンに立った。煎った豆を手挽きしてから布に移し、その間に沸かしておいた熱い湯で落とす。
 ジュリアスは珈琲を待ちながら、そんなアンジェリークの一挙一動を、しっかり観察していた。
 やがて、鼻をくすぐる誇り高い香りが漂ってくる。
「…ふむ、いい香りだ。多少はものを知っているようだな。」
 アンジェリークはその言葉に微笑んだ。
「私のお父さんが、とっても好きな豆なんです。」
 そう言いながら珈琲を運んでくるアンジェリークに、ジュリアスは頷いて見せる。
 さて、アンジェリークが席につくと、責任感に溢れる光の守護聖は、さっそくアンジェリークに話しかけた。
「…私が来た理由は、他でもない。…昨日お前は王立図書館で倒れたそうだな?」
 アンジェリークはその問いに、目を見張る。
「どうしてご存知なんですか?」
「私が知らないとでも思ったのか?」
 ジュリアスは鋭い視線をアンジェリークに向ける。
「いえ…。」
 アンジェリークは思わず俯いた。
 守護聖の中では、一番の古株だと聞いた。きっと女王の信頼も厚く、おのずと色々な情報も入ってくるのだろう。
「ロザリア様や、守護聖の皆様や、…ヴィクトール様にも、ご迷惑をおかけしてしまって…。」
しゅんと肩を落としかけ、だが明るく続けようとする。「でも、ちょっと驚いてしまいました。…皆様も、ご存知なんでしょうか?」
「無論だ。」
 はっきりと答えられる。アンジェリークは無性に申し訳ない気分になって、言った。
「…ごめんなさい…。倒れてしまうなんて…。…女王候補としての、自覚が足りないんですね。…私。」
「その通りだ。」
それこそジュリアスが今日言おうとしていた台詞である。「女王候補たるもの、自己管理が出来ずにどうすると言うのだ。女王と言うものは、自分の力で全宇宙を支える存在なのだぞ。それが自分さえ思うようにコントロール出来ずに居るとは…。」
「はい…。」
 突然始まったジュリアスの言葉に、少し呆気に取られるアンジェリーク。
「現女王陛下も、決して身体のお強い方ではない。しかし、その気丈さで、立派に努めを果たされている。…倒れた事など1度もないのだぞ。」
 その言葉をいいながら、ジュリアスは心の中で、(私の前では。)と(仕事中には。)と付け加えるのを忘れなかった。
「…はい…。」
 その一言一言がどれも、アンジェリークの心を突き刺すように厳しく、容赦無い。
「女王たるもの、人に自分の弱さを見せてはならぬ。誇りを持って、常に気丈でなければならぬ。」
「……はい……。」
 畳み掛けるように続くジュリアスの言葉。
 いつしか、アンジェリークの瞳には、涙が浮かびはじめていた。
 泣こうと思ったわけではないが、自分が女王候補である事を知っていながら、ジュリアスの言うように、その実際の責任や立場について、思いを巡らせた事がなかった、その事実を知って、自己嫌悪に陥りかけていたのだ。
 しかし、自分の言葉に酔っているらしいジュリアスが、それに気付くはずも無い。
「まだお主が女王になると決まったわけではないが、もっと自覚を持って試験に臨んで欲しいものだ。」
アンジェリークが俯くに連れ、栗色の髪がさらりと両頬に落ちる。小さな膝の上で握り締めた手は堅く、華奢な肩は、ますます小さくなっていく。
アンジェリークはやがて、蚊の鳴くような声でしか返事をする事が出来なくなって行った。
「気を失うほど疲れきっていたならば、始めから部屋を出なければよいのだ。…そう言うものなのだ。女王候補も然りであるぞ。わかったな?」
 冷めかけた珈琲の最後の一口を、乾いた咽喉に流し込み、ジュリアスはつらつらと言い続けてきた小言を締めくくった。
 そして、自分の言葉が十分に女王候補に伝わったかどうかを確認するため、隣に座ったアンジェリークへ視線を向けた。
 アンジェリークは最後の言葉に漸く顔を上げ、そして目を潤ませじっと彼を見上げた。
── 余程身に沁みたのであろう。…なかなか素直な娘ではないか…。
 その表情を、己の訓戒が良く効いた証として受けとめたジュリアス。
 そうではないと気付くのに、多少の時間がかかった。
 大きく見開いたアンジェリークの瞳から、一粒涙が零れ落ちるまで。
「……… なぜ、泣くのだ?」
 ジュリアスの心の隅に、僅かばかりの動揺が走る。
── 私が何かしたのか。

 

 カップとソーサーを持った手が、我知らず止まっていた。

 

── いや、何もしてはいない。
 ジュリアスは分かっていなかった。叱られてもしかられても、ケロっとしている鋼の守護聖や、一瞬は落ち込んでも翌日には全く忘れているようなほかの年若い守護聖たちと、この女王候補では、勝手が違うと言う事を。
 自分のせいではない、と解釈し、光の守護聖はそのまま黙って待っていた。
 やがて、必死に涙を抑えたアンジェリークが口を開く。
「私は、どうして女王候補に選ばれたのでしょう?」
 こんな、何のとりえも無い私なのに…。
「それは宇宙の意思だ。私の知るところではない。」
 至極常識的な答え。ジュリアスはさらりと言ってのけた。
「…………。」
 きゅっと引き結ばれた唇。アンジェリークは長い間目を閉じていた。
「…どうしたのだ、アンジェリーク?」
 美しい眉をひそめ、アンジェリークに向き直るジュリアス。
「…… ジュリアス様…?」
 やがて、顔を上げたアンジェリーク。
「なんだ?」
空になったカップを持ちつづけていたジュリアスが目を上げる。
 そこには、不自然に口端を上げたアンジェリークの小さな顔。
 「……私、頑張ります…っ! もっと体力もつけて、絶対にもう倒れたりしないようにします! …すぐには無理かもしれないけど、頑張りますから!」
 その小さな手の平を、ぎゅうっと握り締めてアンジェリークはジュリアスに真剣な眼差しを向けた。
「女王候補、ですもんね。」
 小さく付け加えた、その言葉。ジュリアスはその心中をつかみきれていなかった。
 アンジェリークが好きで女王候補になったわけではない事。
 家族と離れたいとは思わなかった事。
 守護聖になるために育てられた光の守護聖には、そんな考えは皆無だったから。
 ただ、アンジェリークのその表情には、心ならずも気圧された。
 高潮した頬、潤んだ瞳がアンジェリークの隠れていた美しさを引きたてる。
「そ、その通りだな。」
 小さくか弱いとばかり思っていたこの栗色の髪の女王候補の、想いもよらなかった突然の強い視線。ジュリアスは思わぬ焦りを隠そうと、空のカップに口を付け、飲む振りをする。
── なんなのだ、この娘は。
 思わずその美しい眉間に皺を寄せるジュリアスだったが、心の奥では、あながち悪くも思えずに居た。
「…あ! もう珈琲がありませんね? おつぎしますね。」
 にっこりと笑って、アンジェリークがたち上がる。
「む。 そうであったか。」
 やや呆気に取られたまま、ジュリアスはキッチンに向かうアンジェリークの背中を見送った。「すまぬな。」
「しかし…、お前がそのような心構えでいたというならば、私が今日尋ねてきたのは、先走りと言うものであったかも知れぬ。…すまなかったな。」
 だが、キッチンに立ったアンジェリークの耳には、ジュリアスのその呟きのような一言は、届かなかった。
 アンジェリークが聞いたのは、珈琲を注いで戻ってきた彼女に対する、
「では、アンジェリーク。今日の本題に入ろう。…お前は何が聞きたいのだ?」
という、至極公務的な、ジュリアスの問いだけであった。

 

 

 

 

 

 

 

書庫
 

「そうですか〜。実家においてきてしまわれたのですね〜。」
 そう言った声の主は、薄暗く、どこか埃の香りがただようその部屋で、今までメモを取っていた手を休め、もう一人のほうを振り返った。
「主星に一時帰ることもあると思います。星間貨物ででもおくって置いてもらいましょう。そうすれば機会のあった時に取って来られますから。」
 そう答え、こちらの掠れた深い声の主は、大量の本を軽々と抱え、指示された通りにそれらを書棚へ積めはじめた。
 さりげなく言われたその言葉に、最初の声の持ち主は、ぎょっとしてその手を止める。
「いけません、いけませんよヴィクトール〜。あなたが読んだと言うその書物は、大変貴重なものなんですよ〜。星間貨物なんて言語道断というものです〜!」
 どうやら部屋にいるのは、ルヴァとヴィクトールであるらしい。
 ふたりは、ルヴァの執務室の更に奥、歴代の地の守護聖が集めた個人的な蔵書を納めるために作られた、書庫にいた。
 王立図書館に負けず劣らず背の高い書棚が並び、可動式の閲覧用梯子までついている。
 ヴィクトールは本を書棚に詰めながら、そのルヴァの口調が一体怒っているのかどうかわからなくて、困惑ぎみの眼差しを向けた。ルヴァは一応ヴィクトールを叱ったつもりであるらしいが、どうにもその気迫が伝わってこない為、何故か笑いを誘われる口調なのである。
「だから私がちゃーんと梱包やら何やらの手続きを整えさせていただきますよ〜。」
そんなヴィクトールの様子には気付かぬまま、ルヴァはそう言うと頷きうなずき作業を再開した。「けれども、どうやら知られずにいた事が幸いだったようですね〜。ヴィクトール?」
 ルヴァはそう言って、隣で苦笑しているらしいヴィクトールをちらりと見た。
 先日、謁見室で初めて出会ったこの精神の教官ヴィクトール。彼を一目見た瞬間、その体格と性格から判断して、ぜひ執務室に招待したいと考えていたルヴァであった。無論、書庫・書棚の整理を手伝って欲しかったというのが本音である。
  昨日早くもその機会を掴んだルヴァであったがしかし、ヴィクトールの家に、ずっと探していた幻の書物があると知った瞬間、目の前に天使が降りてきたような錯覚を味わった。実際目の前にいるのが無骨な軍人であっても。
 その体躯を見込まれた軍人は、初めこそ驚いたが、その内あまりにも熱く語るルヴァの態度につい笑いを誘われた。
── こういうのが学者馬鹿というやつなのだろうな。
「そうですね…まあ、俺を含めて家族の誰も、あの本がそんなに貴重だとは思っても見ませんでしたし、これからも多分、誰も読み返すことはないでしょう。ですから、あれは差し上げますよ。」
「ほ…本当ですか? ヴィクトール!」
 いつものぼんやりとした目が、一杯に見開かれる。
「ええ。必要とされる所へ貰われるというのが本当の所でしょう。ぜひ受取ってください。」
「ああ! ありがとうヴィクトール! ほんとうに貴方は素晴らしい!!」
  抱きつかんばかりの喜び様である。まさかこれほど感謝されるとは思っても見なかったヴィクトールは、思わず腰を引いた。
 それに気付かず、ルヴァは小躍りし始める。
 収集のつかなくなったその状況に、ヴィクトールが唖然としてたち尽くしていると、そこに執務室のドアをノックする音が響いた。
「ルヴァ様、誰かが…」
 ヴィクトールは浮かれるルヴァを制して声をかけた。
「あ? えっ? …そうですか、だれでしょうねえ。こんな時間に…」
 踊りを中断したルヴァがメモを置いてドアに向けて声を掛ける「どうぞ。あいていますよ〜。」
 その声にドアのノブが引かれる。その向こうから覗いたのは、真紅の髪、アイスブルーの瞳。
 そして対照的な深い青のマントを着けたその人、炎の守護聖、オスカーであった。
 ヴィクトールは、それに気付くと、僅かに…眉根をしかめた。相手に気付かれぬ程度に。 
「済まん。とり込み中だったか?」
 相変わらず顔だけドアの隙間から覗くようにして、オスカーが言った。その視線が荒れ果てた室内に伸びている。
 ルヴァは踊ったせいでずれたターバンを戻しながら尋ねる。
「いや〜。珍しいですねぇ、オスカー。今日はどうしたのですか〜。」
 オスカーはやっとのことで扉を開き、身体を執務室へ押し込んだ。積み上げた本が扉の内側に置かれ、満足に開けることさえ出来なくなっていたからだ。そして、足元に散乱した本を爪先立ちで避けながらルヴァの方へ歩く。
 二人は簡易な礼を取り、オスカーも二人にさりげなく礼を返した。
「済まんが、お嬢…いや、女王陛下を探しているのだが…見掛けなかったか?」
「陛下ですか〜? …いいえー。見かけませんでしたねぇ?」
ルヴァはそう言いながらヴィクトールを振り返った。ヴィクトールはその視線を受けて
「俺も見かけなかったが…」
と答える。
「執務中ではないのでしょうか〜。」
 オスカーはルヴァの問いに軽く首を振った。
「いや…、今行ったところだ。ロザリアに今は休憩時間でここにはいないと追い返されたよ。」
「心当たりは……うーん。無いですねぇ。」
 オスカーはそれを聞くと、眉を下げて少し悲しげな表情になった。
「そうか…。…もし見かけたら、俺が探していると伝えてくれるか?」
「わかりましたよ〜。」
 ルヴァは呑気な声で答えたが、オスカーは上の空で、本に躓きながらもそそくさと執務室を出ていってしまった。
 そしてまた、ヴィクトールと、ようやく喜びの収まったルヴァが二人、部屋に残される。
「彼はよく来るのですか?」
 ふと、ヴィクトールが尋ねる。ルヴァは頷いて、書棚の整理に戻りながら言った。
「いえいえ。本当に珍しいことですよ。以前はよくアンジェリーク…女王陛下と一緒にお茶会にいらっしゃったものですが〜。上手くいったらもうあまり遊びに来てくれないのですよ〜。……そういえば、最近は二人でいるところも見ませんね〜。…どうしたんでしょうか〜?」
言いながらこくりと首を傾げた。
「……? なんですって?」
ヴィクトールは思わず聞き返した。
「お茶会ですよ〜。その内またやりますから、その時は是非いらっしゃって下さい〜。女王候補達も呼ぶつもりですよ〜。」
にこにこと笑うルヴァの笑顔に騙されそうになりながら、ヴィクトールはふるふると頭を振った。
「いえ、そうではなくて…その前の…」
── 聞き違いか? あれではまるで、女王陛下とあの炎の守護聖殿が……。
「あー …そうですね〜。貴方がご存知な筈がありませんでした〜。つまりですね、オスカーと現女王陛下は恋人どうしなのですよ〜。」
 ヴィクトールはその言葉を聞いたとき、天地がひっくり返るかのような衝撃を味わった。
「しかし…。」
 女王と守護聖に対する一般常識を述べようとしたヴィクトールの言葉はルヴァの呑気な声に、遮られた。
「いつでしたかね? まだあんまり経っていないんですが、アンジェリークが守護聖を全員呼び集めましてね〜。そこでちゃーんと言ったのですよ。ですから公認なのです。」
── 公認…認めるとか認めないとかいう次元の話なのか?
「あー、まだ納得されていないようですね〜。いやいや、その気持ちはわかりますよ〜。私も驚きましたし、ジュリアスなどはまるで舅のように反対したものです〜。でも女王試験中からあの二人は好き合っていた様でしたし〜。いえいえ私は全く気付かなかったのですが〜、ロザリアがそう言っていましたー。それに既成事実もあったので〜、ジュリアスも認めないわけにはいかなかったのですよ〜。彼にとっては理解しがたい事であったのは確かですがね〜。」
そう言って、ルヴァはさも面白そうに口元に手を当てて笑った。だが、ヴィクトールにとっては面白いどころの話ではない。
「…っき…」
── 既成事実!?
 さらりと吐かれた言葉に、今度こそ完全にヴィクトールの常識は混乱に陥った。女王というものは伝説では純潔の乙女のはずである。それが…。
「おかげさまで私も大分楽になりました〜」
 訳のわからないルヴァの台詞は、ヴィクトールの耳には届いていない。ヴィクトールは自分の知識の枠から未だ離れられずに現実逃避をしようとしていた。
── もしかするとここ(聖地)では、既成事実ってのは、せいぜい手を繋ぐくらいの認識なんじゃないのか!?
 女王のサクリアは、既成事実などしてしまったら、消えてしまうはずであった。…地上に伝わる伝説では。そして目の前ののほほんとした守護聖を見る限りでは、それがあながち間違っていないような気がしてくるのである。
「…し、失礼ですが…、地上とこちらでは、その…既成事実の認識のほうは…?」
 しどろもどろで尋ねるヴィクトールに、ルヴァはきょとんとした顔で答える。
「認識ですかー。いえ、ちゃんとあると思いますよ〜。マルセルなどにはですね〜、一応口づけをすることが既成事実だと説明してあります〜。本当の事を言ったら、刺激が強すぎるのではないかと〜。その程度ですかね〜。」
 最後の言葉でヴィクトールの浅い考えも儚く散った。
「そ、そうですか…」
 思わず叫びそうになる口元を抑えるヴィクトールであった。
「あれ? あまり驚いていないようですね〜、私など度肝を抜かれたのですがね〜。さすが「精神」の教官であるだけはありますねー。」
 十分驚いているのだが、ルヴァには通じていないようである。
「あ、でもこれは一般の方には秘密ですよ〜? 一応、象徴に対するイメージと言うものがありますからねー。」
「は、はぁ……」
 聖地の奥深さを初めて垣間見たヴィクトールであった。
「それでは本棚の整理を続けましょうか〜? 出来ればお昼もご一緒しましょう〜。それで、貴方さえよければ午後もしばらくお付き合いいただきたいんですが〜?」
 ルヴァにとって、これほどいい機会は次にいつ回ってくるか分からないのである。できるなら女王候補の球体育成が一段落するその日まで、毎日ヴィクトールの予約をしておきたい程であった。
 そして外面はなんでも無いように見えるが、その実未だ混乱の収まらないヴィクトールは、つい上の空で頷いてしまう。
「そうですか〜手伝っていただけるのですね〜。それはとてもありがたいです〜。」
  ルヴァが心底嬉しそうに言ったのを聞いて、ヴィクトールはしまったと思いつつ、何も言えなかった。待ちかねたようにメモを構えなおすルヴァを見て、今日一日のスケジュールをここで潰す事を覚悟をする。
 そこで、ヴィクトールは頭をふりふり、山積みの本に向かったのだが。 
 やはり手が止まるとふと、女王と守護聖のことを考えていたヴィクトール。その為か、ルヴァの手伝いに集中していたつもりが、何度も溜息をついてしまっていたらしい。
 そんなヴィクトールの心中に気付いたのかそうでないのか。
 ルヴァは、書棚の前でリストの確認をしながら、ふと呟くように言った。
「…でもねえ、ヴィクトール。」
 その、これまでと少し違う声色に、ヴィクトールはその手を止めた。
「女王と守護聖と言えども、別れなければならない日が、来るのですよ〜。女王のサクリアも、炎のサクリアも、いつかは失われます。サクリアを失ったら、地上へ行かなければならないでしょう? けれど二人のサクリアが、同時に失せると言う可能性はきっと薄いでしょうねぇ…。たとえ二人のサクリアがほぼ同時に消えるとしても…聖地の時の流れは一定ではありませんが、ここでの一年と言う時間は、平均して地上の4・5年になります…。2・3年程ならまだしも、5年、6年と違えば…。…多分、片方はきっと…。」
 それが、ヴィクトールが初めて聖地と地上の時の流れ違いを、現実として認識した瞬間だった。
 言われて見れば、現女王の即位式が行われたのは、確かあの事故と同時…。
 そのときの喧騒をやや苦い思いと共に思い返して、ヴィクトールは考え込んだ。
 ならば、女王と女王候補はまだしも、守護聖たちは自分が生まれるよりずっと前からここにいる計算になる。
 そうと気付いて視線を上げたヴィクトールに、ルヴァはふと悲しげに微笑んだ。それは、悟ったものの微笑なのだろうか。
「ですからね、一緒にいられる時間は、大切に、大切にするものだと思うんですよ〜。たとえば、貴方と私、私と今回の女王候補達、それからこの聖地にほんのしばらく働きに来ている人達でも、絶対に、忘れないでいたいと思うんです…。」
 考えてもみなかった事実に、ヴィクトールは押し黙る。
 そしてふと、ここにいる間に聖地のことをもっと知っておきたいと思った。
 これからの人生の中で、決して忘れないように。
 自分はここを去る身であるからだ。
 もとの時間の流れに戻って行くのである。
 ヴィクトールは考え込んだ。そして、二人の女王候補の顔を思い出す。
── あの少女達のどちらかが女王になったときには…つまり、家族とも友人とも、2度と会えないと言う事か…
 それを知ってここへ来ているのだな…。
 改めてこの試験の重みを思い知ったヴィクトールであった。

 

 そして午前が過ぎ、ルヴァの「わふうごぜん」とかいう昼食を頂き、午後が過ぎていった。
 いつしか二人の間には会話がなくなり、ただもくもくと作業を続けるまでになったが、ふと、それを怪訝に思ったヴィクトールは、書棚の間にルヴァの姿を探した。
 深い書庫の中、彼を見つけ出したとき、彼は書庫の隅で立ったまま、手に持った分厚い本を食い入るように読んでいた。
 一瞬声をかけようかと思ったヴィクトールだったが、そのまま黙って、椅子の上の所蔵リストを手にとり、元の場所に戻る。今日半日この仕事をやってみて、このリストさえあればルヴァに聞かなくてもどうにか続けられそうだと分かっていたからだ。
 そしてまた、床に置かれた本を一つづつ手にとっては書棚にいれて行く作業を繰り返すうちに、ヴィクトールは小さな明り取りの窓から漏れてくる光が、随分弱くなってきている事に気付いた。
 手を休め、ルヴァの様子を見に行く。驚いた事に、彼はさっきと同じ姿勢のまま、同じ本を繰っていた。
 ヴィクトールはそんな姿に苦笑しながら、そっと入り口に戻ると、常明から火を移し、書棚の隅に一つづつ取りつけられたランプの中に、火を灯しはじめた。
 ふわりと優しいオレンジの光が、書棚の奥まで届く。
「あ…。」
 ルヴァは、そうやって初めて、手元が暗くなっていたことに気付いて顔を上げた。天窓を見上げ、それから辺りを見まわす。あれだけあった本の山が、すっかり書棚に納まっていることに気付いて、驚く。
 慌てたように手に持った本を閉じ、書棚に戻すと、ヴィクトールを探しにいく。
「いや…。申し訳ない…どうやら随分時間が経ってしまっていたようですね…。」
 書棚の間を抜け、ヴィクトールの所にやって来たルヴァは、すまなげな表情をして言った。「もう日が暮れてしまいますね。…気付かなくて。」
 ヴィクトールは首を振って手もとの種火を吹き消した。
「お気になさらず。」
「あ〜、本当に助かりました〜。まさかこんなに早くに片付くなんて…。」
 まさに夢のよう、とルヴァは思った。ゼフェルやマルセルに頼んだのでは、とてもこうは行かない。…今日のように自分が本を読みふけってしまうのがいけないと言うのもあるが。 
「よろしければ、お茶でも飲んでいかれませんか〜?」
 ルヴァは、お礼のつもりでにこやかにヴィクトールを誘った。
「そうですね…。」
 火置きに棚に長手の火を戻しながら、ヴィクトールは返事をしかけたが、ふと気付いて、慌てて手を振る。「いや、やはり…。」
 お茶と、ルヴァ。それから今日の昼食で、ヴィクトールは密かに懲りていた。
「そうですか〜? 美味しいお茶ですよ〜。お昼に飲んだ『抹茶』とはまたちょっと違うんです〜。」
「いや、本当に…」
 じわじわと、後ずさりをはじめるヴィクトール。
── 退路確保、出入り口確認!
「本当に申し訳ない。…では、俺は失礼させていただきます!」
「あ、ヴィクトール〜?」
 呼びとめようとするも、ルヴァの動きでヴィクトールが捕まえられる筈もなく。
「もしよろしければ、また明日も〜…。」
 というルヴァの声がするころ、ヴィクトールは驚くべきすばやさで、すでに書庫から姿を消したあとだった。

 

 
- continue -

 

次回はオスカー様が主役!
蒼太
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