03.王立図書館

ACT1

 次の日、ベッドのなかでうっすらと目を開けたアンジェリークは、今見ていた夢の続きをもうしばらくだけ楽しもうと、寝返りを打とうとし、
「んっ…」
 小さく眉をしかめた。全身の筋肉が強ばっている。昨日は育成とその後のお話でハートを使い果たした上に、更に公園の散策で余力を使い果たしていたのだ。
 > 夕べは食事もシャワーもそこそこに、床に入ってしまったわけだが…
「ちゃんとマッサージしておけば良かったわ…」
思わず声に出して呟いてしまうほど辛い。それでもギクシャクと身体を起こし、洗顔と着替えを済ませ、制服ののボレロだけは残してしっかりと身支度を整えると、一旦自分の部屋を出た。
 女王候補寮は2階建て。 玄関を入って正面にある階段をずっと上れば、その更に上に、大きく窓を取った、サンホールのような小さな部屋があるのが、外からでも認められる。
 この建物の中で候補生達が住んでいるのは、このサンホールを擁した塔をもつ、本館の東と西の角部屋である。先ほどの正面玄関とは入り口さえ違う、独立した部屋であった。たぶん女王試験中でなければ、他の目的…聖地へ長期滞在する人間の為の施設だったり、するのだろう。
 だからこそこの部屋にはあくまで客室としての機能しかなく、小さなキッチンやユニットバスがつくのみで、毎日の食事を取るときや、大きなお風呂に入りたいときは、1度部屋を出てから正面玄関に回って、本館…とここでは呼ばせてもらおう…へ出かけなければならなかったのだ。
 外のまぶしさに、そっと目をつぶって伸びをするアンジェリーク。だが身体の痛みに思うように出来ない。うんうん唸りながらストレッチを続けていると、そこへ遠くから声が掛かった。…というより
「きゃははははっ!」
と笑われたと言った方が正しい。
 その声にアンジェリークは振り返って、
「おはよう、レイチェル。」
と、微笑んだ。
「おはよっ!」
レイチェルも明るく笑い返す。だが、一言付け加えるのは忘れない。「どうしちゃったのよ! アナタの動き、オカシイよっ?」
「実は、筋肉痛になっちゃったみたいなの。レイチェルは平気なの?」
「ワタシ? もっちろん! アナタとは元が違うもん!」
 スポーツ万能だからネ、とレイチェルはアンジェリークと共に本館へ歩き出しながら言った。それを尊敬の眼差しで見つめるアンジェリークの運動神経が、お世辞にも良いと言えない事は、昨日ヴィクトールに躓いて自分の身体を支えられずに転んだことからも明かである。
 さて、本館へついた二人は玄関を入って、すぐ左手の扉を開いた。
 食堂とは言え、一般の定食屋といったものではないことは、もちろんである。入ったその部屋には、長い長いテーブルが一つ置かれており、真っ白に糊付けされたテーブルクロスが敷かれ、さらにかわいらしいコサージュが合間あいまに置かれているのだ。
 そしてその長いテーブルの両端に二人の食事が用意されていた。
 昨夜はレイチェルも居なくて、この広い場所に一人きり。
 アンジェリークは寂しくて、つい給仕の女性を捕まえて、聖地についての話など聞いていたのだが…。
 こんなに離れていては話をすることも出来ず、やっぱり寂しいと思ってしまうアンジェリークだった。
「ねえ、レイチェル。隣へ行っても良い?」
席につこうとするレイチェルに尋ねる。
「え?」
「だって、きっと二人で食べたほうが楽しいよ?」
 そんな言葉を聞くとは思ってもみなかったのだろう、レイチェルは少し考え込んでしまったようだった。
「んー…。それって、話をしながら食べようって事? 」
その答えをハラハラしながら待つ。レイチェルは顎先に手を添えて、更に考え、それから言った。
「…ん〜、良いんじゃない?」
レイチェルのその言葉を聞いて、アンジェリークはほっとしたように笑った。
「ありがとう!」
「…だって、女王陛下は会話も上手くなくっちゃ!」
 お礼を言ったアンジェリークに答えたその顔が、心持ち照れくさそうにしていたように、アンジェリークには思えた。
 さて、二人ががりで皿やミルクの入ったコップを真中に持ってくると、二人は長いテーブルを挟んで向かい合って座る。
 今日の朝食はカリカリに焼いたベーコンと目玉焼き。しゃきしゃきのサラダには、シェフこだわりのドレッシングがかかっている。
 しばらく他愛のない話を続けていた二人だったが、ふいにレイチェルが
「ねえ、変な夢をみなかった?」
とアンジェリークに尋ねてきた。聞かれたアンジェリークは、心持首を傾げる。
 そう言えば…
「なんだか、夢の中でアルフォンシアに会ったような気がする…」
「そう! そうなの! 実はワタシもルーティスに会ったような気がするの…ううぅん、絶対にあれはルーティスだった!」
 アンジェリークはその言葉に記憶の糸を手繰り寄せて行く。
「そういえば…アルフォンシアに何か力が集まって行って…アルフォンシア、とっても喜んでた!」
「きっと、あれが『育成』してるってコトなんだよ!」
 レイチェルの言葉に、アンジェリークは大きく頷く。なぜだか無性に嬉しい気持ちが溢れ出す。
「大事に育てて行こうね…私たちの大事な『宇宙』…」
「えっ?」
レイチェルがアンジェリークの顔を覗く。アンジェリークははっとして、レイチェルを見返した。
「…あれ? 私いま何て…?」
「なんか『宇宙』とかなんとか言ってたよ〜。アタマ、大丈夫?」
「う、うん…。」
「しっかりしてよね! …さ、ワタシはもう行くよ? アナタったら食べるの遅いんだもん。」
 いいながら既に立ちあがっている。アンジェリークは慌ててフォークを持ち直した。
 聖地は今日も好天気に恵まれていた。
 そうして、レイチェルに遅れること小1時間。やっとアンジェリークは出かける支度を整え終わった。とにかく酷い筋肉痛に悩まされながら歯を磨いたり髪を梳かして例のリボンで縛ったりしている間に、時間がどんどん過ぎて行ってしまっていたのだ。
「どうしようかな。」
 とにかくしばらくは、アルフォンシアの望みである、水の力を送って貰うのがいちばんいいのだろう、そう考えてアンジェリークは一旦外へでて、宮殿に向かう事にした。
 外は今日も快晴である。
 身体は痛くはあったが、気分的には爽快である。それは昨日の育成がおもったより上手くいった事が原因だろう。アンジェリークはともすればスキップしたいような気分だったが、それが出来ないのはもちろんである。
 そうして、アンジェリークが宮殿の傍に差し掛かったときだった。
「お〜や〜?」
酷く間延びした声がして、アンジェリークはそちらに顔を向けた。
「アンジェリークじゃ〜ありませんか〜。」
「ルヴァさま…?」
 そこには、薄蒼い髪をターバンの中にたくし込み、小脇に数冊の本を抱えたルヴァの姿があった。
「どちらへいかれるんですか〜?」
「えっと…育成をしに、宮殿までいこうとおもっているんです。」
 アンジェリークは、初めて言葉を交わしたこの地の守護聖の、のんびりした口調に、さすがに少し驚きながらも答えた。
 この言葉を、ルヴァは自分の立っている場所と、ゆっくりと比較して考えてみたようだ。
「あ〜、なるほどー、もっともですね〜。それはごくろうさまです〜。」
 うんうん、と頷きながら微笑まれて、アンジェリークはこの人物に、自分の父親に近い印象を持った。アンジェリークの父は、決して声を荒げる事も無く、いつも穏やかで知的な雰囲気をたたえているような人間だったのだ。
 アンジェリークはそんな理由もあって、ルヴァに尋ねた。
「ルヴァ様はどちらへ?」
「あー。わたしですか〜? わたしはこれから王室図書館へ本を返しに行くのです〜。あなたもご一緒しませんか〜?」
つい今さっき育成という目的を告げたばかりなのに、聞いているようで聞いていないのである。
「………。」
── しらんぷりしたほうがいいのかしら…?
 初めてルヴァのマイペースに遭遇したアンジェリーク。これがうっかりの間違いなのか、それならその過ちを正して良いものなのか、とにかくどう答えて良いものか言葉に詰まった。
 しかし、ルヴァの誘いは続く。
「図書館にはですね〜。数え切れないほど多くの蔵書がありまして〜。きっとあなたが好きな書物も見つかるはずです〜。本以外にもディスクやらなんやら、いろいろありますよ〜。」
 どうやらルヴァに自覚は無いらしい。いくら父親に似ていても、こんなに呆けてはいなかった。
「あの…じゃあ、ちょっとだけ。」
 水の守護聖のところに行くのは午後でもいい。そう考えて、アンジェリークはルヴァと共に今来た道をきびすを返して歩き始めた。

 

03.王立図書館    ACT2

王立図書館の外壁は、今ではあまり目にする事の無い、昔風の赤煉瓦で組んであり、そこに緑の蔦が絡まっていた。
「ね、素敵でしょうアンジェリーク。こんな風に作ってくれたのは三代前の女王陛下なんですがね〜。あの方はとてもわたしと趣味が合いまして〜。当時では宇宙のどこにもこんな近代的な建物はなかったのですがー、それが今ではとても古風な建築物になってしまって、これもまあ、時代の流れと言うものですね〜。私はその事を考えると、なんだか少し切ないような気分になるのですよ〜。」
 ルヴァの言葉に、肯定の意を示して微笑んだアンジェリークを促し、ルヴァは図書館に足を踏み入れた。
「まあ…。」
中に入ったアンジェリークの口から、思わず感嘆の溜息が漏れる。
そこには、異空間が広がっていた。
 何階あるのだろう。とにかく遥か遠くに見える天窓から、一階まで吹き抜けるフロア。真鍮と思われる手すりがついた螺旋階段がぐるりと大きく吹き抜けを回って、そこまでつながっているらしい。かなり広いその吹き抜けを中心に、どの階にも更に広いフロアが続いている様子だった。
 そして遥かかなたのその天井からは、くすんだ薄い日の光が階下へ降りて、そのあまりの淡さに所どころ灯かりが灯されている。よくよく目を凝らしてみれば、フロアの隅には、やはり真鍮のゲージのついた、古めかしいエレベーターが備え付けられていた。
 しんと静まり返った館内にぎっしりと書架が立ち並び、その暗い合間から、古ぼけた香りが立ち込めている。
 驚きに目を丸くするアンジェリークを横目で見下ろし、ルヴァは満足げな表情を浮かべた。どうやらこの子はルヴァと同じ感覚を持っているらしい。
「ここにはこの宇宙に限らず、他の宇宙のものも含め、古今東西、ほぼ全ての書物が集められていると言ってもいいでしょう〜。残念ながらそれら全てが実物とは限りませんが、それでもディスクとして保存してあります〜。貸出しももちろんしておりますしー、夜の九時まで開いていますからー、とても便利なのです〜。」
 本当は夜中も開けていてくれると嬉しいのですがね〜。そう言って、知識を司る守護聖は、更に奥へアンジェリークを連れて行く。
 その間にもアンジェリークはきょときょとと辺りを見回し、その膨大な量に目を回しそうになる。とにかく書棚は一階も二階も、頭の上にかぶさってくるのではと思うほど高く、一つ一つに可動式の梯子まで据え付けられている。
「さて〜。この扉を開けますとですね〜。あなたはとっても驚くんじゃないかとおもいます〜。」
 アンジェリークを連れて広いフロアを横断したルヴァがふと足を止め、そう言った。その目の前に、木製の大扉がある。アンジェリークは瞳でルヴァに尋ねたが、ルヴァも微笑んだだけだった。
「さあ〜。あけますよ〜。」
女王候補の驚く顔が見たくて、ルヴァはうきうきした様子を隠しきれない。
 そうして、開かれた扉の向こうは、打って変わってまぶしいくらいの白い光が溢れていた。暗い図書館の雰囲気に慣れ始めていたアンジェリークは思わず目を細める。
「こちらがですね〜。ディスクやヴァーチャルビデオの管理塔です〜。どうです〜? あんまり違うからびっくりしたでしょう〜?」
 確かにそこは先程までとまるで違う、最新機器がずらりと並んだ、機能的な雰囲気のあるフロアになっていた。
「実はですね〜こっちのほうが広いんですよ〜。なにせ、本と言うものは嵩がありまして〜、始めに作っていただいたあの『本館』にはとても収まりきらないのです〜。」
 先程の本館の広さに目を丸くしていたアンジェリーク。こんどは建物の果ても見えないほどの作りに、ただ呆然とするしかなかった。
「え〜私としては全ての本を、本館のように実物でそろえたいのですがね〜。僅かな司書官を除いては、どの本が何処にあるのか分かっていないので〜、どうしてもこちらの力をかりなければならないのです〜。」そう言うと、ルヴァはうっとりと微笑んだ。「でも〜、もしそんな事が出来たら、私はここから離れられないでしょうね〜。」
「ル、ルヴァ様は、ここにある本を全てお読みになられたのですか?」
アンジェリークは尋ねた。
「いえー! それはそうできたらどんなに素晴らしいかしれませんが〜、私が読んだのは、まだこの半分と言う所でしょうか〜。」
ですからこうして毎日本を読んでいられるのですよ〜、とルヴァは微笑んだ。
── 半分でも、凄い量じゃあないかしら…?
 アンジェリークはほとほと感心してただ溜息を漏らした。
 地の守護聖は、そうしてやっとここに来た本来の目的を思い出すに至ったらしい。
「そうそう、私はこちらに本を返しに来たのでした〜。それにですね〜そう言えばちょっとした調べものもあったのです〜。」
 そう呟いて、アンジェリークの方を見降ろす。 
「あ〜、ところであなたはどんな本がお好きなんですか〜?」
 ルヴァはそんなアンジェリークに尋ねた。その声でアンジェリークは我に返り、そしてちょっと考え込む。
「ええっと…不思議な感じのお話が好きです…。」
「不思議な〜。そうですか〜。」
 アンジェリークは頷いて、ふと考えた。伝説でしかしらなかった女王陛下や守護聖たちにこうして実際会って話すことがあろうなどど、思ってもみなかったことを。それを考えれば、今の自分の状況こそ、確かにあのとき読んだ数冊の本の、主人公になったようではないか。
「それならばですね〜。本館のU−1の本だなのあたりに行くとよいとおもいますよ〜。きっとあなたの好みの本があるかと思います〜。」
「ありがとうございます、ルヴァ様!」
「ここまでお付き合いいただいたのに、済みませんね〜? 今度はお茶にお誘いします〜。ご一緒しましょう〜。えー、楽しかったですよ〜、アンジェリーク〜。」
 そう言って、ルヴァはリノリウム張りの床に、ずるずると緑の衣を引きずりながら、歩いて行った。
 その後姿を見送って、アンジェリークは辺りを見まわした。
── 折角来たんだもの、なにか借りて帰りたいな…。
 そこには、無意識のなかにも、本があれば一人の部屋に帰るのも苦ではないかもしれない、と言う考えが僅かに入っている。
 確か部屋の備品の一つに、ヴァーチャルビデオの再生機もあったはずだ。
 その気になったアンジェリークが、ともかくこの『別館』を探検してみようと言う気になったのは、そんな事からであった。
 別館のディスクラックは、アンジェリークが先程みた本館の書棚に比べ、圧倒的に多い。がしかし、その高さはさほどでもない様だ。アンジェリークの背丈よりほんの少し高いくらいに作られている。おかげで無機的な圧迫感も少なくて済んだ。
 アンジェリークがあてども無く歩いていると、ふとその目のはしに見覚えのある紺と白の服の端が見えた。
── あら?
 それは、王立研究院の制服である。つまり、レイチェルだった。
 話しかけようとして、アンジェリークはそのすぐ傍に、もう一人同じ色の制服を着た人物が居る事に気付いた。
── あれは確か…エルンストさんだわ。
 ふたりは同じ王立研究院のエリートである。そのなかでもエルンストはずば抜けた才能の持ち主であるらしかったが、試験の最初の日、彼について辛口の批評をして見せたレイチェルが、今はエルンストとなにやら真剣に話し合っているのだ。静かな館内で、途切れがちに聞こえてくるのは少々激昂したようなレイチェルの声である。
── きっと、育成のことだわ…このままここにいたら邪魔しちゃうかしら?
 少し興味を引かれたアンジェリークだったが、その場は大人しく引き下がることにしようと、きびすを返す。そして、先程ルヴァに教えられたとおり、本館の方へ行ってみることにした。
 そうして、『別館』から外へ出ようとして、先程の大扉まで戻る。と、その扉を開けようとして、それがびくともしない事に気付いた。
「あら?」
 先程ルヴァはこの扉をいとも簡単に開けていたはずである。良く見てはいなかったが、片手で軽く押しただけで開いていた。
「ん、うーん…」
 肩まで使って扉を押しているのに、相変わらずびくともしないのだ。いくら扉が大きくとも、いくらルヴァとの力の差があろうとも、こうまでしているのに、開かないなんておかしい…。
── 壊れているのかしら?
 アンジェリークはそう考え、小首を傾げる。そのときだった。
「ばっかじゃねーのか!? お前!」
 突然、鋭く大きな声がアンジェリークの背中に向かって投げられた。
「えっ?」
 アンジェリークは振り返る。
 そこには、白銀の髪を立ち上げ、むっつりとした表情で腕を組み、こちらを見ている『鋼』の守護聖の姿があった。
「その扉は押すんじゃなくて、引くんだよ! そのくれー、簡単に思いつくだろーが、普通!」
「あ、あっ!」
 アンジェリークの頬が見る見るうちに赤く染まる。言われて見ればその通りだ。向こうから来るときに押して開けた扉が、どうしてこちらからも押すことになるだろうか。
「分かったらとっとと行けよ! あとが詰まってんだからよー!」
「あっ、はいっ!」
 アンジェリークは慌てて扉を開こうとして…慌てすぎたのだろう、その小さな鼻を、角のとがった部分にぶつけてしまった。
「い、痛っ。」
 思わず鼻を抑えて立ち尽くす。つーんとした刺激が鼻を伝って涙を誘った。
 そのあまりのうっかりさ加減を、飽きれた様子で眺めていた鋼の守護聖。
「…本気かよ…。」と、思わず呟いていた。そうして、鼻を抑えた女王候補に歩み寄る。「おい、おめーよ…」
 アンジェリークの身体がびくりと動く。もちろん鋼の守護聖を怒らせたと思ったためだ。ゼフェルはそれを見て、くしゃりと白銀の髪を掻き回した。
「…わかった、悪かったよ。おめーがあんまりトロくせーから、つい怒鳴っちまった。鼻、大丈夫か?」
溜息混じりに発せられた言葉に、アンジェリークは初めてその鋼の少年をまっすぐに見る事になった。
 主星では余り見かけたことの無い真紅の瞳が、自分を映している。決して逸らされないきつい視線だったが、その中に冷たさは見あたらなかった。
 アンジェリークはつい、その少年らしい固さににっこりとした。彼は、今ではうっすらとしか覚えていない、小さな頃の遊び相手…頑固で照れ屋だった幼馴染を思い出させる。
「はい、大丈夫です。…ありがとうございます。」
 鼻を抑えながらも、笑ってぺこりと頭を下げたアンジェリークから、思わずゼフェルはぷいと顔を逸らした。やはり照れてしまったようである。年の頃はほぼ同じ。先の女王試験のときもそうだったが、ゼフェルには同世代の女の子にどう対処すればいいのかという事が、全くわかっていなかった。
「けっ、しゃーねーな。…ったく…。」
 等と言いながら、アンジェリークの前に立ち、自分で扉を開ける。アンジェリークは幾分慌て気味に、そのあとに続いて扉を潜った。
「おめー、ここで何してんだ?」
 歩き出しながらゼフェルは尋ねた。女王候補なら、この時間育成にでも行っているのが普通である。あるいは、先程見かけたもう一人の女王候補のように、研究に勤しむとか。
 ところがこっちの栗色の方は、ふらふら歩き回っていたと思ったら、ろくに役立たない(としかゼフェルにはおもえない)本ばかりある本館に行こうとしていた。…結局、アンジェリークのことが気になって、しばらくその様子を見ていたゼフェルだったのだ。
「ええと…」
何処から話せばいいのか、アンジェリークはしばし悩む。「ルヴァ様に、連れてきていただいたんです。」
 結局簡潔にまとめる事にしたアンジェリークである。
「ルヴァ?」少年の赤い瞳が見開かれる。「あいつ、なにやってんだ? さっきは『今日は書架を片付ける事にします〜』とか何とか言ってたくせに。」
「本を返しに来たと言っていましたよ。」
「あ〜、だろうな。」
 どうせ片付ける内に、私物だと思っていた本が、実は図書館のものだと気付きでもしたのだろう、とゼフェルは思った。
「で、おめーはこれからどうするんだ?」
「本をなにか、借りて帰ろうと思ってるんです。」
と、アンジェリークは答えて、先程ルヴァに聞いた書架の番号を伝えた。
 するとゼフェルが少し困ったような顔をする。
「どうなさったんですか?」
 アンジェリークが小首を傾げ、ゼフェルを見た。ゼフェルは少し言葉に詰まり、それから言った。
「あのよー、おめーは知らねーと思うけどよ、U−1の棚ってのは、スッゲー上の階にあるんだ。」
「そうなんですか。」
アンジェリークは曖昧に頷く。ゼフェルは続けて言った。「で、そこに行くにはエレベータか、階段しかねーよな?」
「? はい。」
「で、本なんか興味のねー俺が何でここに居るかって言うとだな…」
ゼフェルは年季の入った工具箱をアンジェリークに差し上げて見せる。「そのエレベータ、故障したっつーから、直しに来たんだよ。」
「え…知らなかった…。」
「だろーな。」
 ゼフェルはエレベータと、後の螺旋階段とを見比べ半ば呆然とするアンジェリークをみると、肩をすくめた。
「ゼフェル様…『スッゲー上の階』って、何階ですか?」
「多分…十一階あたりじゃねーの?」
 数だけ聞くならもしかしたら登る気にもなったかもしれないが、昔風の天井の高いこの建物を、実際見てみて、アンジェリークは溜息を付いた。
 今、アンジェリークの身体には、十一階を登りきれるほどの体力は無かった。いまだ全身筋肉痛は治まっていなかったのだから。
 途方に呉れたようなアンジェリークのその表情を見て、ゼフェルはこう言った。
「よー、そんなに読みてー本なのかよ?」
「ええっと…」
 実は、ルヴァが何を指して薦めてくれたのかよく知らないアンジェリーク。とくにそこにある本でなくてもいいのだが、それでは折角教えてくれたルヴァに申し訳無い。そう考え、困惑している間に、気の短い鋼の守護聖は、勝手に結論を下してしまったようである。
「よし! ちょっとだけ待ってろよ。こんな旧式なんて、ちょっといじりゃ治っちまうからよ。」
「まあ、本当ですか、ゼフェル様!」
 アンジェリークは驚いて尋ねる。機械の事など毛の先程も分からない分、そういったことのわかる人間には無条件で感心してしまうのだ。その賞賛が言葉尻に現れて、ゼフェルをいい気分にさせたのは言うまでも無い。
「ああ、こいつは前にも直した事があっから。」
自信たっぷりに頷く。そして工具箱を下ろすと、その場にしゃがみ込んで、なにかを取りだし、ごそごそとやり始めた。
 どうやら小さな機械に何かをくっつけている様だった。アンジェリークはそれが見たくて、夢中になっているゼフェルに一歩近寄る。
「おい、こっちに来んなよ。…手元が暗くなるだろ?」
 途端にゼフェルの声が飛んで、アンジェリークは後ずさった。ゼフェルはそんなアンジェリークに見向きもせずに作業に没頭している。アンジェリークは仕方なくただその傍に立ち、しばらくその様子を見ていたが、やはり彼が何をしようとしているのか全く分からない。
「あの…。」
 アンジェリークはおずおずと声をかけた。
「なんだよ?」
 振り返らずに、ゼフェルが答える。
「私、なにか灯かりを持ってきましょうか?」
「………。」
 ゼフェルはその言葉に顔を上げ、驚いたような紅い瞳でアンジェリークを見た。「あ、ああ。…そうだな。まあ、…おめーがそうするってんなら止めねーし………。」
 そしてドライバーの柄で、軽く頭を掻く。
「…ありがとよ。」
 照れたように目を逸らされ、アンジェリークは思わず破顔した。
「じゃあ、私灯かりを借りてきますね!」
 きっと何処かにあるはずだ。アンジェリークは走り出そうとして…
「ちょっとまて!」
ゼフェルの鋭い声に止められた。
「はい?」
 アンジェリークは足を止めて振り返る。
「…つーかよー、灯かりはやっぱ、いい。」
 ゼフェルはアンジェリークの表情を伺いながら、言いにくそうにそう言った。案の定、アンジェリークの表情が曇る。
 予想通りのその表情の変化に、ゼフェルは困ったように眉を潜め、首を掻いた。
「それよりよー、……その、ちょっと頼まれてくんねーか?」
 別の用事があると知り、アンジェリークの表情は一変して明るくなる。その顔にほっとする。
「なんですか? ゼフェル様。」
「実は、『これ』の調子がイマイチでよ。変わりになるものをマルセルのヤローに貸してあるんだ。行って借りてきてくんねーか? オレはその間にちょっくら家に戻って取ってくるもんがあるからよ。」
「家…?」
 アンジェリークは聞きなれない言葉に目を丸くする。ゼフェルはアンジェリークのその疑問を察して答えた。
「私邸っつーの? 俺んちこの裏にあるからよ、ま、ひとっ走りすりゃいいんだ。」
「まあ…私、守護聖様たちは宮殿にお住まいかと思っていました。」
「ばっかかおめー。あんな窮屈なとこに住めっかよ!」
 もしそんな事があったら、年がら年中ジュリアスやルヴァと顔を付き合わせて暮らさねばならない。…ルヴァに関しては今でも余り変わりは無いが。
 アンジェリークは怒鳴られたものの、何となくこの少年の人となりが分かりかけて来たので、こくりと頷き、尋ねる。
「そうなんですか。…それで、私は何を借りて来れば良いんですか?」
「お、そうだった。マルセルによ、「メカチュピ返せ。」って言ってくれ。多分遊んでると思うけどよ。まあ、緊急の用事だってな。」
 言いながらゼフェルが立ちあがる。屈んでいた背を伸ばすと、アンジェリークより幾分背が高かった。
「わかりました。メカチュピですね?」
「おう。…じゃ、オレは行くからな。頼んだぜ。」
 言うが早いか鋼の守護聖は、あっという間にアンジェリークの目の前から姿を消した。
 そしてアンジェリークはそろそろ昼時になろうかという聖地を、今度は宮殿に向かって歩き出した。
 太陽がさんさんと降り注ぐ。図書館から学芸館の裏を抜け、街路樹に沿って続く長い道。
── ちょっと急がなくちゃ駄目かしら?
 ゼフェルを待たせてしまうかも知れないから、とアンジェリークは急ぎ足で歩いた。けれどやっぱりまだ身体は重くて、少々苦労する
 それでも30分ほど掛かって、アンジェリークはやっと宮殿に到着した。
 マルセルの執務室は幸いにも一階に設けられている。がしかし、宮殿は広い。宮殿の正門を潜り、更に歩く事数分。長い廊下を抜け、突き当たったその部屋が、漸くついた緑の守護聖の執務室だった。
 コンコン。
 ドアを軽くノックする。すると中から少々低めのボーイソプラノで返事が返ってきた。
「どうぞー!」
「失礼します…。」
 アンジェリークは扉の隙間から、ちょっとだけ中を覗き込んだ。目の前に若草色の絨毯が飛び込む。
「あっ! アンジェリーク! こんにちは。…今日はどうしたの?」
緑の守護聖は、まるで抑えきれない喜びを表すかのように、執務机から身を乗り出しアンジェリークを見た。「育成?それともお話してくれるの?」
 アンジェリークは知らないことだったが、昨日アンジェリークがリュミエールに育成を頼んだ事、ランディの執務室を訪れ、しばらく話しをして帰ったことは、年少組は言うに及ばず、すでに全ての守護聖に伝わっていたのだ。ランディの自慢気な話しを聞かされたマルセルが、どんなにアンジェリークを心待ちにしていたかは言うまでも無い。
「あの…お願いがあるんですけど…」
「なあに? アンジェリーク。」
 お願いと聞いて、マルセルはてっきり育成と思ってうきうきと答えた。が、勿論女王候補のお願い事は、宇宙に全く(?)関係のない事だった。
「メカチュピというものを貸して欲しいんです。」
「?? …メカチュピ?」
 目を丸くするマルセルに、アンジェリークが慌てて事の次第を説明する。
 マルセルはすぐに納得してくれた様子だった。
「なあんだ。ゼフェルのお使いだったんだね。うん、勿論いいよ! すぐに連れてくるから!」
「よかった…。」
 実はまだマルセルと話しをしたことが無かったアンジェリーク。すんなり貸してもらえるのかが心配だったのである。
「それに、楽しそうだから僕も一緒に行きたいな。いい? アンジェリーク?」
「はい!」
 緑の守護聖の、その素直さを全身に纏ったような様子は、どこか小さな子供を思い出させる。アンジェリークはそう思って、ほっと息をついた。その時。
きゅう…。
 安心してしまったのか、アンジェリークのお腹が小さく鳴った。
 もうすぐお昼時。しかも朝からかなりの距離を歩いたアンジェリーク。本人の知らぬ間に、お腹のほうはすっかり減っていたのだった。
 それを聞いて、アンジェリークの頬がぽうっと染まる。
 思わずお腹を抑え、アンジェリークは上目遣いにマルセルを見た。
「うふふふっ、アンジェリークったら、お腹が空いてたんだね。うん、僕もそろそろお昼にしたいなって、思ってたんだ!」
「マルセル様…。」
「きっとお使いに夢中だったんでしょう? アンジェリークって頑張り屋さんなんだね!」
 まっすぐに誉められそんなつもりではなかったアンジェリークは更に頬を染める。だが、マルセルはそんな事とは露知らず、にっこり笑って言葉を続けた。
「じゃあ、メカチュピを探しに行く前にちょっと厨房に寄って、サンドイッチを作ってもらおうよ! サンドイッチならすぐに食べられるものね? アンジェリーク。」
「ありがとうございます! マルセル様!」
「どういたしまして! …そうだ! ゼフェルにも持っていってあげようか。あのね、ゼフェルって、全然ご飯食べないんだよ。」
 信じられない! と言った様子で緑の守護聖は言った。
「え? そうなんですか?」
「うん、あのね。ルヴァ様にきいたんだけど、ゼフェルは栄養剤を沢山飲んでるから、ご飯なんかいらないって言うんだって。ご飯の時間が勿体無いんだって。おかしいよね?」
「勿体無いって…何をなさっているんですか?」
 アンジェリークはマルセルの後に続いて執務室を出ながら尋ねた。
「あのね。ゼフェルは毎日色んなものを作るんだ。とっても器用なんだよ。でもね、夢中になりすぎて、ご飯の時間を忘れちゃうんだよ。」
アンジェリークはその言葉に、先程のゼフェルの姿を思い出す。
「そうですね。なんだかそんな感じがします。」
 小さく笑ってそう言うと、マルセルは頷いて笑い返した。
「でしょう? ゼフェルって、凄いんだ!」
 色々な意味で発せられた言葉に、アンジェリークは更に微笑んだ。
 そして、二人は回廊を回り、厨房へ行き、サンドイッチを注文すると、マルセルの先導で庭園へと向かった。
 庭園は、マルセルが聖地に来て、先代の緑の守護聖から譲り受けたものだ。マルセルだけでなく、先代、先々代とも、連綿として受け継いできた庭だった。
「ほら、アンジェリーク。あれがチュピ! それに、あれがメカチュピだよ!」
 すでにマルセルからチュピとメカチュピについて聞いていたアンジェリーク。中庭の高い空を飛ぶ、二羽の姿に、すぐに気付く。
 小さな蒼い羽。それに添うように同じ弧を描いて飛ぶ銀色の影。
「素敵!」
 アンジェリークは思わず声を上げて庭園へ駆け出した。それは蒼い鳥とその姿を模した二羽にだけでなく、その回りを囲む、自然の風景への賛美も含んでいた。
 さまざまな色彩のグラデーション。緑にこれほど色があったのかと思えるほど深い。その中にとりどりの花が咲き、耳を澄ませば鳥の声。気をさ迷わせれば、さまざまな動物の気配がした。
 そんなアンジェリークの隣に、マルセルが追いつき、その様子を、嬉しそうに見る。
「気に入ってくれた? アンジェリーク。」
「ええ、とっても!」
 文明の最新地である主星に居たときでも、これほど素晴らしい庭をみることは無かった。アンジェリークは思わずその澄んだ空気をおもいきり吸い込んだ。
「なんだか、とってもあったかな気分です!」
「ほんと? うふふ。僕もここに来るとそんな気分になるんだよ!」
 二人は顔を見合わせて笑った。そしてマルセルが手を上げ、指先を伸ばし
「おいで! チュピ! メカチュピ!」
そう言って呼ぶ。
 途端に二羽がマルセルの方へ進路を変えて、舞い降りてきた。
「マルセル様、凄いですね。」
 アンジェリークは感心した口調で言った。
「僕たち、仲良しなんだ。…あのね。僕、鳥や花や動物の言ってる事、分かるんだよ。」
「まあ…。」
 そう言われても素直に納得できるような雰囲気が、この緑の守護聖には備わっている。そして実際マルセルは言葉を交わすことが出来るのだろう。今もマルセルの周囲に、動物たちが集まり始めていた。
 マルセルはチュピとメカチュピを肩に止まらせると、そういった動物たちに声をかけた。
「ご免ね。今はちょっと忙しいんだ。また来るから、今度一緒に遊ぼうね。」
 動物たちの間から、残念そうな気配が上がる。それでもマルセルを困らせまいと、しぶしぶ承知したようだった。
「さあ、行こうよ、アンジェリーク。きっとサンドイッチもそろそろ出来あがってる頃だよ?」
「はい!」
 そうしてアンジェリークとマルセルは庭園から今度は厨房へ、再び歩き出した。

 

「おっせーじゃねーかよ!」
 開口一番、こう言ったのは勿論鋼のゼフェルである。
「ごめんねゼフェル。でも、いいもの持ってきたんだよっ。」
と言うのはマルセル。マルセルとアンジェリークは微笑みあうと、後ろ手で隠しておいたバスケットをゼフェルの目の前に差し出した。
「サンドイッチ! つくって頂いたんです。皆で食べましょう?」
 案の定、修理に夢中になっていたゼフェルは、栄養剤さえも口にしていなかったらしかった。アンジェリークの微笑みに、ちょっぴりばつの悪げな顔をする。
「…き、気が利くじゃねーか! …けど、そうならそうと、早く言えよなー!」
 と、結局の所、怒っている。そして、マルセルの後ろに立つアンジェリークに目をやった。
「おい、おめーも食べてねーんだろ? とっとと座れよ!」
「はい。」
 にこりと笑って、アンジェリークは二人の隣に腰掛けた。素肌に少し絨毯の起毛が痛かったが、本当は食べ物を食べてはいけないらしいこの場所で、バスケットを開くのは、やっぱりどきどきして楽しい。
「メカチュピ、なんに使うの?」
「それはだな…」
 油で汚れた指先を、添えてあった濡れタオルで拭きながら、ゼフェルが答える。「この超小型カメラとライトをメカチュピに持たせて、最上階にある、ケーブル巻き上げ機を見てきてもらうんだ。」
「巻上げ機?」
 アンジェリークはサンドイッチをぱくつきながら小首を傾げる。
「おー。コントロールボックスには異常ないんだ。これは昨日確かめた。だから、きっと巻き上げ機に何か挟まってるんじゃないかと思って…。」
と、小さな箱から何かを取り出す。「この、メカチョロ1号に見てきてもらうはずだったんだが…」
 それは、銀色をした、赤い瞳の小さなネズミ。
「わあ、すごいね。いつの間に作ったの?」
「昨日の晩。でもよ、昨日の試運転では景気よく動いてたくせに、今はさっぱりなんだ。」
「それでメカチュピの出番なんだねっ?」
 メカチュピはゼフェルの作った小型動物系自動機械の中では最高の出来なのである。とにかく故障が少ないのが長所だった。
「よかったねー。メカチュピ。」
 マルセルはメカチュピを指先に乗せ、話しかける。「頑張ってね。」
「メカチュピ用に、もっと軽いカメラとライトを作ってきたんだ。まだ試してねーからなんとも言えねーけど、上手く行くはずだぜ?」
 どうやらこの小1時間でそれだけのものを作ってしまったらしい。そして気の短い鋼の守護聖は、あっという間にサンドイッチを数枚平らげると、さっさとたち上がった。
「さあて、やってみようぜ。今度こそ上手く行くはずだ。」
「えっ? もう? 僕たちまだ食べ終わってないよ?」
 マルセルの言葉に、ゼフェルが自信たっぷりに答える。
「ならそこで見てろって。すぐ終わるからよ。」
「頑張ってくださいね。」
 アンジェリークは声をかけ、その声に振り返ったゼフェルに、にっこりと笑いかけた。当然鋼の守護聖は顔を逸らしてしまう。
「…へっ、…まあ、おめーにも手伝わせたかんな。治ったら一番に乗せてやるよ。」
「はい!」
 アンジェリークは、マルセルと一緒に、食べかけのサンドイッチを置いてたち上がった。事態をもっとよく見るためである。
 ゼフェルはメカチュピに、先程言った通り、小型カメラとライトを取りつけた。
「よし、飛べ、メカチュピ!」
 その声に反応し、銀色の羽が羽ばたく。アンジェリークはその見事な飛翔に目を丸くする。
 メカチュピを見送って、ふと視線をおとした鋼の守護聖は、その横顔に心がどきりと跳ねるのを感じた。
 栗色の髪が揺れ、白い首筋が露になって、その蒼い瞳が映える。
「ゼフェル?」
 マルセルの声。ゼフェルは我に返る。
「あ? ああ。…っと…、メカチュピ! 一番上まで行くんだ! ちょっと高いけど頑張れよ!」
 その言葉にメカチュピは暗い闇の奥へ羽ばたいて行く。ゼフェルはそれを確認し、その場に座り込む。そして先程の工具箱にセットした、画像に目をやった。
「これで後は待つだけだ。」
 画面の中には、メカチュピの視線で映る、何階かの映像。ぐんぐん昇ってゆく、その光景が移る。やがて、メカチュピは最上階に達したようだった。エレベータのボックスは一階にあるために、剥き出しになった巻上げ機の姿が、天窓からの光も借りてはっきりと映っていた。
「メカチュピ! 周りを回るんだ。…ゆっくりな!」
 ゼフェルたちはメカチュピの送る映像を凝視する。その奥に、なにか黒い物体を見つけたのは、アンジェリークだった。
「あれ、見てくださいゼフェル様。」
「ん? どれだ?」
 アンジェリークは画面に指をつけてそれを指し示す。それは巻上げ機のワイヤーを巻き取る歯車部分にあった。ゼフェルが頷く。
「よし、メカチュピ! それだ! それを突付いて、外せるか?」
 メカチュピの視線が、頷くように上下した。そしてまっすぐにその黒いものに近付く。
 三人が見守る中、メカチュピの奮闘が続いた。
「もし…取れなかったらどうするの?」
マルセルが幾分不安げに聞いた。
「そりゃ…、決まってんだろ? 上まで行って取る。」
ゼフェルは当たり前のように答える。「頼まれたもんはぜってーやる。」
「上まで一五階もあるんだよ!?」
 マルセルの驚いたような声にも動じない。
「行くったら、行く。今日中に治してみせるぜ。」
 すでに意地になっている。
 その間にも、メカチュピはゼフェルの言葉を実行していた。
「あっ!見てください!」
アンジェリークが叫ぶ。
「わあっ!」
「おおっ! やったぜ! さすが俺の作ったメカだけはあるな!」
 画面の中では、見事メカチュピが障害物を取り除いていた。「降りて来い、メカチュピ!」
 その声にメカチュピは降下を始め、ほどなくアンジェリーク達の元に返ってきた。
「ご苦労様、メカチュピ!」
 マルセルの肩にもどり、メカチュピはチュピと戯れる。それを捕まえ、ゼフェルがその背中からカメラとライトを取り外した。
「さあ、動くかどうか試してやる。」
 ゼフェルはエレベータボックスにのりこんだ。ゲージは閉めずに、右脇にある手動のコントロールボックスのハンドルを握る。どうやらそのハンドルを目指す階の数字に合わせることで巻き上げられる仕組みになっているようだ。
 そして、旧式エレベータは、ゼフェルを乗せ、がくんと動き始めた。アンジェリーク達の見守る中、ゆっくりと上昇する。その中には、ゼフェルの生真面目な顔。そして彼は、しばらくエレベータを上下させた後、もう大丈夫だと判断したらしかった。
「よーし! 乗れよ。上につれてってやる!」
 軽く手を上げて、アンジェリーク達を招く。アンジェリークと緑の守護聖は、顔を見合わせ、エレヴェータに乗り込んだ。
 真鍮のゲージを自分の手で閉める。ゼフェルがハンドルを握る。
「たしか、U−1だったよな?」
「はい。」
 ゼフェルがハンドルを傾ける。カチカチカチと心地よい音がして、目盛りが刻まれた。そして『昇』のボタンが押される。
 アンジェリークは我知らず心を躍らせる。
「ゼフェル様、私、こういうエレベータに乗るのは初めてなんです!」
 動き出したエレベータの中で、ゼフェルに話しかける。「凄く素敵! …あっ、外がみんな見えるんですね!」
 その通り、吹き抜けに面したエレベータは、一階のフロアを見降ろすようにあがって行く。
「アンジェリーク、高いのは平気?」
 マルセルが尋ねる。
「はい! 大丈夫です!」
 アンジェリークは明るく答えた。
「へー、オメーって、結構やるじゃねーか。」
 ゼフェルがハンドルを握ったまま、意外そうに言う。それとは別に、マルセルが嬉しげに、
「じゃあ、こんど木登りしに行こうね! 『見晴らしの木』っていって、凄く眺めのいい場所があるんだよ!?」
「高いとこヘーキなら、木登りだって、大丈夫だよな?」
── 木登りって、したこと無いんだけど…。
 おっとりと育ってきたアンジェリークである。
── でも、きっと大丈夫よね。
 おっとりとそう思う。
「はい!」
 つい答えてしまった。そんな事とは露知らず、嬉しげに笑う鋼と緑の守護聖。そして、エレベータが目的の階までやってきた。
「お、着いたぜ、アンジェリーク。」
ゼフェルが言い、ゲージを開けた。
 そこにも、一階と同じ、天井までつきそうな本棚がずらりとならんでいた。
「U−1、U−1っと。」
さっさと歩き出す鋼の守護聖を、アンジェリーク達は急ぎ足で追いかけた。
「あった!」
 三人はその書棚の前に立った。ゼフェルがその棚の目立つ題名を読み上げて行く
「えーと? …『知られざる心霊の世界』…『ミステリーサークル』…『矢追純一 UFOの謎』??…なんだこりゃ?」
「…アンジェリーク…こんなのが趣味なの?」
 緑の守護聖は、おそるおそるアンジェリークの顔を見た。
「えっ? えっ、えぇっ!?」
── 不思議な感じの本って…これって違いますぅ〜ルヴァ様〜!!
 心の中で、精一杯叫んだアンジェリークであった。
「ち、違うんです! 私がルヴァ様に聞いたのは、『不思議な感じのする本』であって、こう言うのじゃなくって…!!」
慌てて弁解するアンジェリーク。
「なぁんだ、ルヴァ様の勘違いだったんだね? よかった〜。僕、アンジェリークがこういう趣味だったらどうしようって思っちゃった!」
とマルセル。
「…驚かすなよな〜。」
ゼフェルも心持ちほっとする。この外見で、こんな妙な趣味では話しが違うと言うものだ。まあ、好きだというなら止めないが。
「アンジェリークの言う『不思議な感じの本』だったら、僕が何処にあるか知ってるよ! 案内してあげる!」
その言葉に、
「よかった…。ありがとうございます。」
 ほっと安堵の溜息を付くアンジェリーク。
「俺もたまにゃー本でも読むか。」
 普段はディスクばかり見ているゼフェルも、この二人に付き合う事にしたらしい。
 そうして、三人は再びエレベータに乗り込んだ。
さて、そんなこんなでそれぞれが本を手に入れた頃。
 外は昼の日差しも弱まって来ていた。
「ねえ、アンジェリーク。そう言えば…」
 天窓から差し込む光の具合で、それに気付いた緑の守護聖が、最後にアンジェリークを案内したお菓子作りの本のあるフロアで、ふと言った。
「今日はもうハートを使ったの?」
「お。そう言えばそうだった。オメーは女王候補だったな。」
 すっかりそのことを忘れていたゼフェル。
 アンジェリークは言いにくそうに言った。
「いいえ…まだなんです。今朝は宮殿に行く途中でルヴァ様に会って、そのままここへ来てしまったものですから。」
 しかし今更宮殿に行っても、話しもせずに育成だけ頼むことになってしまう。それではあまりにも失礼なのではないかと考えたアンジェリークは、既に今日の育成を諦めかけていた。
 それを聞いて、緑の守護聖と鋼の守護聖は黙って顔を見合わせる。そしてどちらからとも無く言った。
「ねえ、僕たちの力じゃ駄目かなぁ? …たしかアルフォンシアは僕たちの力も、ほんの少しだけだけど、欲しがっていなかったっけ?」
「どーせもう、こんな時間だし、宮殿に行くまでに日が暮れるぜ? …まあ、俺に付き合わせちまった、ってのも、…あるしよ。」
 アンジェリークは小首を傾げる。
「かーっ! にっびーなー! ここでちょいと育成なり話しなりしてやるっていってんだよ!」
 ゼフェルがおっとり気味の女王候補に向かってそう言った。それにマルセルが続ける。
「ね? それがいいよ! アンジェリーク!」
「でも…。」
── そんなことしちゃっていいのかしら? 確かに宮殿の執務室でしかお願いしちゃいけないなんて、決まりは無いけど…
「いらねーなら良いけどよ…。」
 ゼフェルの不機嫌そうな声。アンジェリークは心を決めた。
── 折角こう言って下さってるんだもの! いいよね?
「お願いします、ゼフェル様、マルセル様!」
 アンジェリークはぺこりと頭を下げた。
「そうこなくっちゃ!」
「今日はもう十分話したし、力を送る、でいいよな?」
「はい。」
 頷くアンジェリーク。
「じゃあ、オメーのハート、二つ貰うぜ?」
「アンジェリークのハート、二つ貰うね。」
 二人の守護聖がほぼ声を合わせてそう言ったのと、アンジェリークの身体から、昨日のように力が抜けたのは、ほぼ同時だった。
 とたんに、歪む視界。
 目の前が白くなる。
 膝から感覚が失せる。
「おい…? アンジェリーク?」
「大丈夫………?」
 二人の声が、遠くに聞こえた。
 次の瞬間、アンジェリークの記憶は深い闇の底に落ちていった。

 

 

 その日、彼は昨日と同じく、王立図書館で暇を潰していた。
 学芸館のほかの教官たちは、荷物の整理やら芸術的散策やらで色々と忙しそうにしていたが、彼だけは軍隊生活の賜物か、そういった雑事に振り回されるほどの手荷物を持たずにここへやってきていたのだった。
 軍からは、なるべく試験の妨げになるような仕事はさせないようにするとの知らせのあったとおり、今日は本当に何の連絡も来ない。
 いささか気を削がれたような気分だった。
 聖地の散策をしようかとも思いはしたが、元来それほど外に出るのが好きではない為に、つい学芸館にちかいこの図書館へ足を向けたのである。
 が、今日は正直それを後悔し始めていた。
 というのも、彼は…ヴィクトールは、昼前からずーーーーーっっと、地の守護聖の長――い、長――い話しを、聞かされつづけていたからだった。
 昨日と違って、別館に姿を現したヴィクトールを、ルヴァが見つけ、声を掛けたのである。それは、実のところある目的があったのだったが…。
「ええ〜、そうですね〜。なんと申しましても素晴らしいのはそこで取れる一番摘みの新茶でして〜。」
 それを言い出せずに他の会話からさりげなく本題に入ろう、などと気を回したが為に、ルヴァの「さりげなさ」は延々と遠回りし続けていたのだった。
 途中から、別館の中に出店している喫茶店に場所を移し、腹ごしらえをし、故に、あくびが出そうになりながらも、守護聖に対する礼儀と言うものを必要以上に重んじているヴィクトールは、食事が終わった後も、店の人間の視線を痛いほど感じながらも、それを辛抱強く、さらに忍耐強く、聞きつづけていたのだったが。
 やがて、お茶の時間が過ぎ、日が翳りはじめ、流石のヴィクトールももう限界に近くなっていた。
「ルヴァ様…。」
我知らず苦虫を噛み潰したような表情になってしまう。
「えー、という訳でですねー。飲んだ事が無いと言うあなたはとっても損をしているのではないかと〜。」
「ルヴァ様!」
「はぁ。…はい、何でしょう?」
 きょとんとした地の守護聖。ヴィクトールはこほんと一つ咳をした。
「面白いお話を聞かせていただいて、本当にありがとうございます。」
「いえいえ〜。」
「しかし…その…、俺が無骨者のせいか…どうも、その、『茶』というやつは…。済みませんが。」
 遠まわしに、『もう話しを切り上げたい』と、伝えたつもりだった。
「そうですか〜? じゃあ、別の話しを…」
「ああっ!」
 思わず悲鳴に近い声が、ヴィクトールの口から上がる。
「どうしました〜?」
 その叫びは理性の糸が切れ掛かる時に出るものだったが、ヴィクトールはそれを寸でのところで抑えきった。
「…失礼。少し…、咽喉が。」
 眉根を寄せて、本当にそうだったらどんなにいいかと考えるヴィクトール。それに重なるのほほんとしたルヴァの声。
「そうですか〜、それはたいへんですね〜。それではですね〜今度は囲碁について…」
── 今日はもう何も出来ないな…。
 ヴィクトールが本日何度目かの溜息を付いた、そのときだった。
「おっさん!」
── おっさん?
 聞きなれない声。ヴィクトールは思わず目の前の地の守護聖を見た。無論、自分が呼ばれたと思いたくない、彼なりの意地である。
 一方のルヴァはゆっくりながらも怪訝そうに、その細い目を声のした方に向けた。その呼称はともかく、その声には嫌と言うほど聞き覚えがあったのだった。
「来てくれ! はやく!」
店のガラスの向こう、貼りついているのは紛れも無く鋼の守護聖、ゼフェル。「アンジェリークが倒れたんだ!」
 酷く慌てた様子で、ガラスごしに店の外を回り、扉を乱暴に開け放って叫んだ。
 聞くが早いか、ヴィクトールはすばやくたち上がった。それを見て、ゼフェルは早くも身を翻し、ヴィクトールがその後に続いて店を飛び出す。
 そして、それに遅れる事数秒の後、やっとルヴァが立ちあがり、その後を追いかけ、のこのこと小走りに走り出した。
 本館に駆け込んだヴィクトールはその暗さに一瞬目をくらませる。だがそのすぐ前を行くゼフェルに促され、ものの一分もたたない内に、本館のエレヴェータの前にやってきていた。
 完全に意識が無いのだろう、絨毯の上に横たわったアンジェリークの隣に、マルセルが付き添っている。
「上で倒れたんだ。とりあえずここまで二人で運んだんだけどよ…。」
「倒れたときに、頭など打ちましたか?」
「ううぅん。僕たちとっさに支えたから。」
マルセルが答える。
 二人がアンジェリークの願いを叶えるやいなや、アンジェリークの白い肌から更に血の気が失せ、あっという間に倒れてしまったのだ。
「どうしよう、ヴィクトールさん。」
 ヴィクトールは黙ってアンジェリークの手首を取る。
── 脈が遅いな。
 血圧が低下しているのだろう。身体が冷えている。
「とりあえず温かくして、寝かせましょう。」
ヴィクトールは呟くように言うと、自分の上着を脱いで、アンジェリークを包む。小柄なアンジェリークは、ヴィクトールのジャケットの中に、ほぼすっぽりと収まってしまう。
「ここでは何ですから、…どちらかの私邸にでも。」
 漸く追いついたルヴァと、年若い二人の守護聖に向かって言う。自分の私邸でも構わないような気がしたが、抱きかかえたアンジェリークの身体の、あまりの軽さに、ヴィクトールは知らず怯んでしまったのだった。
「ああ、では私の家へ。裏門から出ればほんのすぐそこですから〜。」
 流石のルヴァもその顔にほんのり焦りの色を浮かべて、ヴィクトールを促した。
 頷いて歩きだすその後ろに、ゼフェルとマルセルも続く。
 が、振り返ったルヴァに止められた。
「え〜。あなた方はロザリアにこのことを伝えに行って下さい〜。それと、お医者様にもお願いしますね〜。」
「うん、わかった!」
「まかせとけ! すぐ呼んでくる。…いくぞ、マルセル!」
 二人は依然意識の途絶えたアンジェリークに一瞬目を向け、心配そうに目を見交わすと、全速力で宮殿方面へ向かって走り去って行った。
「ん…。」
 小さく、ヴィクトールの腕の中でアンジェリークがうめいた。
 暖かな上着に包まれた事で身体の緊張が解け、微かに意識が戻りかけていたのだ。
── どうしてかしら? 凄く胸が苦しい。
 アンジェリークは薄らと思った。
 身体が何かに包まれて、とても温かい。けれどそれが何かを確かめたくても、どうしても瞼が上がらない。自分の心臓の音が、酷く大きく聞こえている。周りに人が居る事ははっきりと分かるのに、なにを言っているのか全く分からず、身体に触れられても、指先一つ上がらない有り様だった。
── 私、倒れちゃったんだわ。
 遠くでざわめく人の声が、さっきまで一緒に居たゼフェルとマルセルのものだと気付いて、アンジェリークは申し訳ない気分になる。
── この人は、誰?
 抱えあげられて、腕がだらりと落ちる。自分の頭を支えられず、カクンと後ろにのげ反ってしまった。
 相手もそのことに気付いたのだろう。1度アンジェリークの身体を抱えなおし、暖かな布の中に、酷く優しく腕を折り込んだ。
 身体に掛かる重力が、この人の背の高さを感じさせる。
 耳元で、けれど遠くに聞こえる低い声。
── 心臓の、…音。
 自分のとは違う、この人の心音。その胸にぴたりと頭を寄せるように抱かれているからだろう、酷くよく聞こえる。
 ざらついた、胸元の布地の感触には、覚えがある。
── …この人は………。
 その優しい琥珀色の瞳と、赤銅色の髪を思い出す。
 寝乱れた髪を大きな片手で掻き揚げる仕種。
 話しかけた時、少し戸惑ったように歩みを止めた背中。
── ヴィクトール、さ…ま…?
 そして、アンジェリークの意識は、また混濁の中に落ちていった。

 

 

そして、次に目を開けたとき、アンジェリークは見慣れた自分の部屋で、ベッドに横たわっていた。
「………。」
しばらく状況を確認できず、辺りをいぶかしげに眺める。部屋の中は薄暗い。外は既に夜の帳が落ちていた。
 上半身を起こし、辺りを見まわし、そして更に思いを巡らす。
 やがて、はっと顔を上げた。
── わたし、倒れちゃったんだわ。
 慌てて自分の姿を確認すると、しっかりとパジャマに着替えていたが、それに着替えた覚えは勿論ない。
 その頬がかあっと朱に染まる。
── それで、それから? それからどうしたんだったかしら?
 あの時、支えてくださったのは…? マルセル様と、ゼフェル様だわ。
 それから?
 何人かの人達が、回りで心配してくれていたのは、覚えている。でも。
── どうして私、部屋に帰っているの?
 熱があるのだろうか。上手く考えがまとまらない。
 頬を両手で挟むように、その熱を抑える。
── そうだわ…たしか…。
 アンジェリークが思い出しかけた、そのとき。
がたっ
 台所から物音が聞こえた。
 びくりと、アンジェリークは思わず身構える。
 しかし、そんなアンジェリークの前に現れたのは、もう一人の女王候補、レイチェルだった。
「あっれー? 目が覚めてたの?」
 レイチェルは、寝起きには少々きつい、高めのテンションでアンジェリークに歩み寄った。
「レ、レイチェル?」
 アンジェリークはただ呆然と、その姿を目で追う。
「アナタったら、貧血で倒れたんだよ? 覚えてないの?」
 そう言われて、慌てて首を横に振る。
「う、ううぅん! 覚えてるわ! …でも、どうして私、ここに寝てるの? ……それに…」
 アンジェリークは言いにくそうにして、ちらりと視線を自分の身体に走らせた。それを見てレイチェルが笑う。
「着替えさせたのはロザリア様だよ! 当ったり前じゃない!」
「え? えぇっ!? ロザリア様がいらっしゃったの?」
 寝起きの混乱に、更に拍車が掛かる。
「そうよ。それにルヴァ様もね。お二人ともアナタの事心配して、ついさっきまでここにいらっしゃってくれたんだからね! 感謝しなよ?」
 椅子をベッドに向けて、座りながらレイチェルはそう言った。
「…まあ…。」
 感嘆とも、自失とも取れない溜息がアンジェリークの咽喉から漏れる。
 自分はどうやらひと騒動起こしてしまったようだと、アンジェリークはうっすらと思った。
「その前まではゼフェル様もマルセル様もずーっとアナタの意識が戻るの、待ってたんだ。 でもルヴァ様がもう夜遅いからって、先に帰したんだよ。」
 アンジェリークはそれを聞いて、黙り込む。その沈黙を反省と取ったレイチェルは、更に言葉を続けた。
「で、ワタシにお鉢が回って来たってワケ。ま、イイケドね。ワタシは心が広いし、面倒見も良いもの。」
「ごめんなさい…。それに、ありがとうレイチェル…。ずっと居てくれたのね?」
 アンジェリークは心からお礼を言った。レイチェルは心持ち顔を赤らめ、さっとその視線を逸らす。
「お礼なら皆様や、シェフにしなってこと! 言ったでしょ? …ワタシは面倒見がいいから、いいの! 」
 すこし強引にレイチェルは言って、それからまた台所に姿を消した。
 そして次に姿を現したその手には、温かな湯気のたった、よい香りのするスープがあった。
「それでも、ありがとう。レイチェル。…とっても美味しい。」
 スープを一口含んで、アンジェリークはそれが胃にしみ込んでいくのを感じた。それが更に空腹を実感させる。
 その傍で、レイチェルは先ほどと同じくベッドの脇の椅子に腰掛け、アンジェリークがそれを食べ終わるのを待っていてくれた。
「ねえ、レイチェル。」
アンジェリークはふとその手を止めた。
「何?」 
 彼女は考え事をしていたらしい。少し驚いたような表情をアンジェリークに向けた。
「あの……。」
言葉に詰まりながらアンジェリークが思い出していたのは、気を失いながらもおぼろげに感じていたあのぬくもりのことだった。「他に、誰か居なかった?」
「え?」
「ロザリア様と、ルヴァ様、ゼフェル様とマルセルさま…。」
アンジェリークはそこで言いにくそうに、「それと。誰かいらっしゃらなかった? …私をここまで運んでくださったのは、誰?」
「ああ。そのこと?」
レイチェルは思い出したように頷く。「それなら、ヴィクトールさまだよ。アナタを寝かせると、さっさと帰っちゃったけど…。マルセル様のお話では、図書館からルヴァ様の私邸に運んでくれたのも、ヴィクトール様だって事よ? …忘れかけてたわ。」
 ずっと一緒に居たルヴァたちの印象が強く、ヴィクトールについてはレイチェルの記憶の中で、体力要員としてしか残っていなかったのだ。
「やっぱり。」
 アンジェリークの小さな呟きを、聞き逃すことなく、レイチェルが首を傾げる。
「やっぱりって?」
 聞き返されて、アンジェリークの頬がかっと赤く染まる。それが更にレイチェルの気を引いた。
「どうして赤くなるの?」
 いぶかしげに視線をよこす。
 アンジェリークは驚いて目をしぱたかせた。
「わ、私、赤い?」
「赤いわよ。」
 きっぱりというレイチェル。
「ど、…どうしてかしら…?」
 更に頬が染まるのを感じ、アンジェリークは動揺して手の平を寄せる。
「ちょっとー! 何かあったんじゃないでしょうね!?」
「えっ? あ、あの………。」
 口篭もるアンジェリークに、更にいぶかしげな視線を向けるレイチェル。
「何も無いならそんなに赤くなる事は無いはずだよ! だいたいアナタどうして、ココまで連れてきてくれたのがヴィクトール様なんじゃないか、って思ったワケ? 」
「それは…。…あ、あのね…。私、気を失ってたけど…ほんの少し、周りの事が分かってたの…。誰かが、私を運んでくれた事、覚えていて…それが、ヴィクトール様だったんじゃないかって、おもってたから…。」
「ふーん。」
 レイチェルはその言葉に頷いて、それから顎先に指を当て、
「で、どうしてヴィクトール様だって、分かったの?」
 と、更に突っ込んで訪ねたのだった。そこでアンジェリークはとうとう黙っている事が出来なくなり、小さな声で昨日の夕方公園で起きた出来事を、レイチェルに話して聞かせはじめた。
「…それで…。寝ていたヴィクトール様に躓いて、転んでしまって…。」
「ヴィクトール様に?」
レイチェルの脳裏に、王立派遣軍のいかめしい軍服姿が浮かぶ。「怒られた?」
 その言葉に、アンジェリークはぶんぶんと頭を振る。
「ううぅん! そんな事全然なかったの。それどころか、もう遅いからって、寮の前まで送ってくださって…。」
「へえー。結構優しいんだ。」
意外な一面、というよりまだヴィクトールに付いては何も知らなかったレイチェルだったが、考えを少し改める事になった。「怖そうだと思ってたけど、そうじゃないんだね。」
 アンジェリークはこくこくと頷く。
「で、好きにでもなった?」
 半ば冗談めいた口調で、レイチェルは言った。…ところが。「ちょっと…なによ!?」
 降り返って見たら、アンジェリークは首まで真っ赤に染まっていた。勿論、熱のせいではない。
「あ、…あの…ね。」
流石にレイチェルも慌てる。「ウソでショ!? ちょっと、やめときなさいよ! ワタシたちは10代! アノ人は30代なのよ!」
「ち、違うのっ。」
アンジェリークは慌てて首を振った。
「何処が違うのヨ? そんなに顔に出たら、分かるわよ!」
 慌てて弁解しようとして、口篭もるアンジェリーク。その様子を、いぶかしげに見るレイチェル。
「なにってば?」
 痺れを切らしたようにたずねられ、そこでアンジェリークは小さく、小さく呟くように言った。
「本当は、…本当はね。…躓いて、…ヴィクトール様の上に倒れてしまったの…。」
「はあ? 倒れた?」
 眉を上げるレイチェル。アンジェリークはそれを受けて、更に顔を上気させる。
「私、男の人の傍に、あんなに寄ったこと、なかったんだもの! だから、凄く印象が強くって…それで…、だから…覚えていたの。」
 その温かな胸の感触、その声の響き。
 堰を切ったように話し始めたアンジェリークを、レイチェルは半ば呆れた様子で見ていた。
── この子ったら、ホントに箱入りだったのね。
 きっと今までに一度も異性と付き合った事など無いのだろう。
 レイチェルとて、元は研究院のエリート。外見は兎も角、恋愛の為に時間をとる余裕も興味もない生活をしてきたが、これほど無知ではない。
── つまり、倒れたっていっても、抱きしめられた状態になった、ってコトね?
 聡いレイチェルは、一を聞いて十を知る。
 真相を知って、拍子抜けしたように息をついた。
「なあんだ。そんな事なの? …まあ、分かったわよ。なぜ鈍いアナタが気付いたのかってコトはね。」
「誰にも、言わないで、…ね?」
 どうやらアンジェリークには酷く恥ずかしいことらしかった。レイチェルは上の空で頷いて、席を立つ。
「ま、どーせ誰に言ったって、アナタほど動揺しないよ、安心したら?」
「動揺? …してるかしら? 私。」
 気付いていないらしいアンジェリークの手から、飽きれたような溜息を付きながら、レイチェルがスープの椀を取り上げる。
「してるんじゃないの? さ、ワタシはもう帰るね。明日の為に、さっさと寝なきゃ。」
「あ、ご、ごめんなさい。私のせいで…。」
 些細な言葉尻を掴んで謝るアンジェリークに、レイチェルが痺れを切らせたように振り返る。
「あのね! アナタがそんなじゃ、なんだか居心地が悪いじゃない! いい? これはワタシが勝手にやってるんだから…イイの!」
 そして、はっと口元を抑える。
 アンジェリークは目を丸くした。
── さっきは、ロザリア様に頼まれて、って、言ってたのに…。
 どうやら彼女が自主的にそうしてくれていたらしい事に気付いて、アンジェリークの口元に幸せそうな笑みが広がる。
「ありがとう! …レイチェルって、優しいのね。」
 面と向かって言われて、レイチェルの頬が染まる。
「ば、馬鹿ね…」
そういって、部屋の中にちらっと視線を走らせる。「…そうだ、言い忘れてたんだけど、ゼフェル様がアナタの借りた本、わざわざ持ってきてくれたよ? 机の上においてあるからね!」
「まあ…本当だわ。」
ベッドの上からそれを確認して、アンジェリークは呟く。レイチェルもそれを受けて、小さく呟いた。
「ホント、イイ人ばっかりだね。ココって…。」
「…うん。」
 聖地になど、来たくはないと、そう思っていた日も確かにあった。右も左も分からず、誰も知り合いが居ない場所で、どうしたらいいのかなど、分からなかった。
「また、明日ね。 …朝はちゃんと出てこられるでしょ?」
「うん! …おやすみなさい、レイチェル。」
「オヤスミ!」
 軽く手をあげ、レイチェルはドアを抜けて出ていった。
 そして、レイチェルが出ていったドアを、しばらく眺めていたアンジェリークは、ほっと温かな溜息を付いた。
 昨夜までの寂しさが、嘘のように感じられる。始めはとっつきにくいと思っていたレイチェルが、あれほど優しい人だったこと、それだけでこれからの生活に希望が見えてきたような気がしている。
── それに、レイチェルが言った通り…
 今日までに出会った誰もが、ぶっきらぼうだったり、話しが長かったりはするものの、とても良くしてくれる。
 それは、しいては女王の力、と言う事になりはしないだろうか。
 統括するものの気がすさんでいては、これほどにはならないだろう。
「女王………さま。」
── 私は、それになるんだ。
 まだ、実感こそ沸かないものの、改めて、この試験に立ち向かおうとする気力が沸いてくる。
「でも、倒れてちゃ、だめね。」
 思い出して、思わずくすりと笑う。しかし、それは決して自嘲の笑みではない。
「よし! 明日から頑張ろう!」
 誰にともなく呟いて、アンジェリークは改めて眠りについた。…聖地に来て二日目の夜だった。

- continue -

 

第3話、いかがでしたでしょうか? やっとラブ入って来ました(照)。
まだこの程度ですが。これからです!!
しかし…ここでちょっと休憩。
今度は二人を別々に追ってみたいと思います。
次回は説教ジュリアスと栗アンジェ、ボケボケルヴァとヴィクトールです。
どうかお付き合いをば。
では、また!
蒼太
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