02.育成


 

 いま私が持っているハートは4つ。
「どうしようかな…」
 外出の準備を整えたアンジェリークは、コルクのピンナップボードの前に立って、軽く小首を傾げた。
 ハートとは、目には見えない自分の力を具体化したものである。かといってやはり重みや感触のあるものではなく、今日初めてその力を使う事になるアンジェリークはまだその存在が掴め切れずにいた。
 『育成物』と呼ばれることになったあの小さな生き物に、アンジェリークはアルフォンシアと名付けた。アルフォンシアはアンジェリークが『ハート』を使って守護聖から送ってもらう、『力』を必要としている。
 そして、今見ている王立研究院から送られてきた育成情報によれば、 アルフォンシアが今一番望んでいるのは、どうやら水の守護聖の力であるらしい。
「そうね、外に出ようかな…。」
 そう一人呟くと、アンジェリークは寮を出た。
 外は、快晴だった。昨夜の霧も朝方の内に晴れたのだろう。雲一つない青空が広がっている。
 アンジェリークはなんだか嬉しい気持ちになって、 宮殿までのゆうに30分はかかる道のりを、我知らず軽やかに歩き出した。
 昨日ロザリアとともに馬車で通りすぎたときには、ゆっくりと見る事が出来ずにいた風景。
 空から降り注ぐ太陽の光が、宮殿に続く並木道の葉を透かして地上に影を落としている。
 目に映るどの光景も、活き活きと、輝くようだ。
 何もかもが目新しくて、心地よい。
 そして研究院の傍を通りぬけ、更に北へと向かうと、やがて視界が開ける。
 そこにあるのは、まぶしいほどに白い煉瓦が敷き詰められた前庭に、咲き誇った色とりどりの花や木々。
 遠くに見えるのは、昨夜部屋の窓から眺めた宮殿。
 初めこそ辺りに見とれながらいつも通りに歩いていたアンジェリークであったが、宮殿に近付く頃になると、その歩みが目に見えてゆるんだ。
 軽く見上げるその視線の先には、足元の煉瓦と同じく白亜で建てられた巨大な建物がある。
 それは太陽に照らされて、まるでそれ自身が光を発しているかのよう。 
 アンジェリークはしばし躊躇った後、そこに足を踏み入れた。
 大きく窓を取られた広い吹き抜けは、天窓からの光で、思っていたよりも暖かだった。
 落ちついた朱に、金の縁取りがついた絨毯が、2階へと続く階段に引かれている。アンジェリークは磨き込まれた大理石の手すりに手を置いて、軽やかにそれを昇った。
 絨毯の毛足のせいか、それとも彼女の自重のせいか、殆ど足音がしない。
 2階に上がると、長い廊下が南むきの窓にそって長く伸び、そこに同じ作りの扉が五つ続いていた。
 少しきょろきょろしながら、アンジェリークは4つ目の扉を叩いた。
 そして、開けた扉の向こうには、広く穏やかな淡いブルーの部屋が広がっていた。
 目の前に座っているのは、優しさを司るとも言われているリュミエール。部屋と同じ色合いの髪が、まるで辺りと一体化するかのように見える。
 リュミエールは、扉を開いたのがアンジェリークだとわかると、にっこりと微笑んだ。
「女王候補アンジェリーク。今なんの力が必要とされているのか良く考えてから行動してくださいね。」
 その微笑に一瞬安心したのもつかの間、そう、ゆったりとしかし言外に厳しさを込めたした口調で言われたアンジェリークは、まるでスモルニィのシスターに、また会ったかのような気分を味わった。
ところで、今日はどんなご用ですか?
 言われて、はっと気付く。
「あの、今日はお願いにきました。アルフォンシアが、水の力を望んでいるので、育成を…」
言いかけて、ちょっと迷う。「…少しだけ。」
 リュミエールは、はにかみながらそう言った少女に、微笑んで頷く。
分かりました。少しですね。
 守護聖という立場上、育成物の状態に付いては勿論知っている。自分の元に、一番に来ただろう女王候補の行動で、リュミエールはこの少女が今回の試験について、真面目に取り組もうとしている事を知った。
「はい! お願いします!」
 快く引き受けてくれたリュミエールの言葉が嬉しくて、アンジェリークは思わず微笑み、自分でも少し驚いてしまうほど大きな声でお礼を言った。
 面食らったような顔に、アンジェリークははっと口元を抑える。
「やだ…わたしったら。」
 その姿にリュミエールはおかしさを隠し切れず、小さく笑ってしまう。それをみたアンジェリークはますます顔を赤らめた。
「いえ…いいんですよ。あなたはとても素直ですね。アンジェリーク。」
 水の守護聖が、これでアンジェリークに好感を持った事は間違いなく、それに気付かないまでも、嫌われていない事ははっきりと感じる事が出来て、アンジェリークはほっとする。
「まだお昼には早いですね…。すこしお茶でも飲んで行きませんか?」
 リュミエールはそう言って女王候補に椅子を薦めた。

 

 そして、午前が過ぎ、リュミエールの執務室を後にしたアンジェリーク。

 

 ハートを二つしか使わなかったのは、どうしてか。
 それは、「育成だけではなく、守護聖様たちと分かり合うことも大切ですよ。」とロザリアに言われたことを思い出したからだった。
 女王試験は始まったばかりだ。今持っているハートの数は少ないけれど、毎日育成を2個分してもらって、のこった2個はロザリア様の言う通り、皆様とお話をするのに使ってみよう。
 アンジェリークはそう思ったのだ。
 けれど、どこへ行ったらいいのか分からない。なにせ守護聖は九人も居て、リュミエールのところへ行った今でさえ、あと八人も居るのだ。
 が、ドアの前で傍目にはぼんやりしているかのように、考え込んでいたアンジェリークの目の隅に、宮殿の長い廊下の向こうから、こちらに向かってくる人影が映った。
 赤に近い濃い茶色の髪。風の守護聖、ランディだ。
 アンジェリークがその姿を認めたと、ほぼ同時に相手もアンジェリークを見つけたらしかった。
 不安や恐れを吹き飛ばしてしまいそうな明るい笑顔を浮かべ、颯爽と歩いてくる。アンジェリークはまっすぐ彼に向き直り、微笑を浮かべて待っていた。
「やあ! アンジェリーク。今日はどうしたの?」
「こんにちは! ランディ様。…今日は、育成のお願いに来たんです。」
 ランディは感心したように頷く。
「そうか。頑張ってるね。リュミエール様にお願いだったのかい?」
「ええ。」
 それを聞くと、ランディは笑って、
「そう、俺はいま公園から帰ってきたところなんだ。すっごく天気がよかったし、マルセルに誘われたしね。他の皆はどうか知らないけど、こんな天気の日に、じっとしてなんか居られないよ!」
自分より年上のはずのこの守護聖は、まるで少年のように快活に笑った。「でも、もう仕事に戻らなきゃ。…アンジェリーク、良ければ今度は俺の執務室にも寄ってくれよ! 」
 アンジェリークはそれを聞いて、あっという間に立ち去ろうとしたランディの背中を呼び止めた。
「わたし…、まだ力が二つ、残っているんです。それでどなたかとお話がしたいと思っていて…もし、ランディ様がお忙しくなければ…。」
 それを聞いたランディは、破顔する。
「もちろんさ! 寄って行ってよ!」
 ランディは目の前の執務室のドアを勢いよく開けた。
 そこはきっぱりとコントラストの効いた、濃いブルーの部屋。
 ランディは木製の椅子を何処からか引っ張り出すと、アンジェリークに薦め、アンジェリークはお礼を言ってその椅子に座った。その間にランディは人を呼び、お茶の支度を頼んでいる。
本当は俺がお茶を出せればいいんだけど…俺、皆から気が短いって言われてて。そういう奴には美味いものは作れないって言われちゃったんだよ。」
ランディは執務用の机に腰掛けながらそう言って、おどけたように肩をすくめた。「それなら…って、まかせちゃってるんだ。」そして、声を落として悪戯げに続けた。「それに…ほんとにオイシイお茶は、ルヴァ様やリュミエール様の所へ押しかけるのがいいよ!」
「まぁ。」
 その姿はとても年上とは思えないほど少年的で、アンジェリークはその茶目っ気に、鈴の音色のような声を立てて笑う。こんな人が兄弟にいたら、凄く楽しいのに…と、そう思って微笑む。
 やがてお茶が運ばれてきて、ランディが給仕の背中ごしにウインクをして見せる頃には、アンジェリークはすっかり明るい気分になっていた。
 だが、茶が来てしばらくの間は他愛もない話をしていた二人だったが、その場が落ちつき始めると、不意にランディが切り出したのだ。
「さて、今日はお話ということだったけど…どんなことがいい?」
 アンジェリークはこれが試験だと言う事を忘れかけていた自分に気付き、はっと居を正す。
「ええと…私のことをお話しますね。」
 力をつかうときは、2種類しか話題を選べない。女王試験について何も知らなかったアンジェリークに、昨夜レイチェルが教えてくれたのだ。
「じゃあ、そうだね、君は外に出歩くのは好き?」
 悪戯そうに尋ねる。勿論先ほどの会話を踏まえての事に違いない。
「はい、好きです!」
 その言葉には嘘は無い。アンジェリークは木々の中を歩く事も、風に髪をあそばせる事も、好きだった。
そうか、 じゃあ一緒だね!
 二人とも嬉しくなって、どちらからともなく笑い合った。
「聖地はね、広い分探検のしがいがあるよ。今度皆で遊びに行こう!」
…はい!
 嬉しそうなアンジェリークを見て、ランディも笑う。が、少し真面目な顔に戻って、アンジェリークに言った。
「じゃあ、君のハートを2個貰うよ。」
 そう、言われた瞬間、身体から力ががくんと抜けた。
「はぁ…っ!」
 その急激な体力の消耗に、思わず声が上がる。ランディはそれを予期していたかのように、すまなげな顔をした。
「ご免、アンジェリーク。まだ基礎が出来ていない君には辛いだろう? 今の女王陛下も初めはそうだったんだ。でもすぐに身体が慣れて、こうして最後のハートをつかった後でもそんなには疲れなくなるからね。」
「…はい、分かりました。」
 アンジェリークはランディに心配を掛けまいと、唇の端を持ち上げたが、ランディには通じなかったようだった。
「じゃあ、今日はもう帰って休んだほうが良さそうだね。これからが大変だけど、一緒に頑張っていこう!」
「はい、ありがとうございました。ランディ様。」
 自分の急激な体力の変化に驚きながらも、アンジェリークは慰められつつ、ランディの執務室をでた。

 

 外に出ると、空はそろそろ夕暮れに近く、しかし辺りはまだ十分に明るかった。
── もう、帰って寝ようかな。
 ランディの薦めもあったし、1度はそうしようと寮へ向かって歩き出したアンジェリークだったが、夕食までにはまだ間があり、一人の部屋にこんなに早い時間に帰って行くのはなんだか寂しい。それに、聖地を渡る涼やかな風と、ランディの励ましおかげで、アンジェリークも少し元気を取り戻せたような気がしていた。
 だから、少し遠回りをして帰ろうと決める。
 幸い、聖地の公園から寮までは、割と近い。
 アンジェリークは公園の方へ足を向けた。
 まだ人も沢山居るだろうと見当をつけてやってきた公園についたとき、あたりはだんだんと本格的な夕暮れに近付いて来ていた。ゆえに、人恋しさのせいでここまで来たアンジェリークは、すこしがっかりする事になる。
 公園にはもうあまり人気がなく、昼間の喧騒の名残が多少残っているだけだったのだ。
 けれど、アンジェリークはすぐそれ以上のものを得る事になった。
 公園に入ってすぐのところにある大きな二つの噴水。
 それが夕日に美しく染まる時間だったのだ。
「…きれい…。」
 アンジェリークはそのすぐ傍に据えられていたベンチに腰掛け、その時間を楽しむ事にした。幾らか肌寒く感じられるようになってきた風に、栗色の髪が流れる。
 ロザリアに連れられてきたときには、あまり時間もなく、この噴水もその不思議な力について聞かされたくらいで、その素晴らしさに気付く余裕は無かった。だが今それはたとえようもなく、それはアンジェリークの心に焼きついた。
 だから、余り疲れ過ぎない程度に軽い散策をするだけに留めようと思ってやってきたアンジェリークであったが、いつしかその景色に、空気や風に、たそがれの光や影に、誘われるようにして歩きだしていた。
 身体全体で全てを感じようとするアンジェリーク。
 日の暮れかけた公園の中を、瞳を閉じて、その香りを楽しみながら歩く。
 奥へ、奥へとゆっくり進んで行った。
 木の葉の陰が、だんだんと闇に溶け、夕暮れの光が冷めていく。
 明るい公園の中も、奥へ行くに連れて、木々が茂り、深くなって行く。
「…ちょっと、奥まで来すぎちゃったかしら…?」 
 探索を続けていたアンジェリークはふと立ち止まり、辺りを見まわした。気付くと、アンジェリークは公園の奥、林の中に入り込んでいた。辺りは薄闇に包まれ始めている。
 まだ街灯がともるには間があるが、なんだが目が良く見えなかった。
 薄らと、肌寒い気がして、アンジェリークは身震いした。
「もう、帰ろうかな…。」
一人小さく呟くと、きびすを返す。
 辺りに人気がないことに気付いてしまうと、少し、気味が悪くなってきた。
 さっきまでなんとも思っていなかった林が、どこか空恐ろしいものに思えてくる。アンジェリークは無意識に小走りになっていた。
 そのとき、小さな小枝がアンジェリークの目の前で跳ねた。
 慌てた足元が、ふらりとバランスと崩す。その上、その足先が何かに引っかかった。
「きゃ…。」 
── 転んじゃうっ。
 アンジェリークは、次に来る痛みを覚悟して、身構えた。
 薄暗いせいもあったが、焦りで足元を確認せずに走り出したのがまずかったのだ。
 だが、予想していたより遥かに地面は柔らかく、少しごわついていて。
 そして、温かかった。
「なんだっ!?」
 自分のすぐ耳もとで上がった低い男性の声と、その慌て様。
── ?? …?
 目の前には、芝生と開けられたままの本。大きな手。
「あれ…?」
 呟いて、それからしばらくして。
 アンジェリークは自分が多分、寝ていた人間に躓いた上、その人物を下敷きにしたということに、ようやく気付いた。
…気付きはしたが、動転してしまって、どうたらいいのかが判らない。
 突然眠りを妨げられて、しかも腹の上に倒れ込まれたその人物も、もちろん驚いている。
 彼は、寝ぼけた頭を起こしてまず、ここは何処かと辺りを見まわした。そして辺りが既に夜の帳を下し始めている事、そして自分がだどんな状況に置かれているのかをすばやくその目で確認すると、更に上半身を起こし、一体誰かと薄暗い中目を凝らした。
 そこで漸く、向き直ったアンジェリークの透青の瞳と、その琥珀色のするどい視線が交錯する。
 アンジェリークには、薄暗い中で驚きに目を見張った相手の瞳だけが、まるで野生動物のように光って見えた。
 アンジェリークはそれがすぐに怒を含むのだろうとおもって、きゅ、と目を閉じた。
「ご、ごめんなさいっ。あの、私人が居るのに気付かなくって…」
 その頃には、相手も状況を確認し終えて居た。
「…アンジェリークか…?」
 呼ばれて、アンジェリークはおそるおそる目を開ける。
 ヴィクトールは、その丸い瞳を除き込んだ。珍しげに。
「…ヴィクトール様!?」
 ヴィクトールとは、謁見のときとそれからロザリアに案内され学芸館も行った時会っただけだった。それはあまり長い時間ではなかったし、学芸館も準備中と聞かされて、しばらくは顔を会わせる機会もないだろうとおもっていた。 だが、教官も聖地に住んでいるのだ、縁さえあれば会う事もあるだろう。ただそれがアンジェリークとヴィクトールの場合、ちょっと妙な状況で起きたというわけだ。
「そうだ。」
 ヴィクトールは、事もない。と言うように答え、そして言った。
「…さあ、落ちついたらそろそろ俺の上からどいて呉れると嬉しいんだが。」
 言われてやっとアンジェリークは自分がヴィクトールの胸の中に、殆どすっぽりと入ってしまっていたことに気付いた。
「きゃあっ。」 
 気付いた途端に真っ赤になり、慌てて身体を起こす。
 そんなアンジェリークを放って、ヴィクトールは起きあがり、立ちあがって辺りを見回した。
「おう、もうこんな時間だったか。…今日は好天気だったからな…。たまにはいいと思ってこの木陰で本を読んで居たんだが、どうやらいつの間にか眠っていたようだ。…お前が起こしてくれなかったら、俺はここで明日の朝まで眠っていたかもしれん。だとしたら幾ら丈夫な俺でも風邪を引いていたかもわからん。助かったぞ、アンジェリーク。」
 一気にそう言うと腰を屈めて、草の上に放ってあった読みかけと思われる本を手に取り、立ちあがった。
 どうやら彼は、昨日の晩に決めたとおり、図書館へ行き、こうして木陰で借りてきた本を読むうちに、寝入ってしまっていたようだった。
 アンジェリークは座り込んだままぽかんとして彼を見上げる。首が痛くなるほど背が高い。
 夕日でその表情が影になり、アンジェリークからは良く見えないが、どうやら微笑んでいるらしい。そこに昨日感じた威圧感はなかった。
 それは寝乱れたその赤銅色の髪のせいかもしれないし、謁見式のときの、堅い軍服ではないせいかもしれない。
 ぼうっとしているアンジェリークに、ヴィクトールの手が差し出された。
 父親以外では始めてそんな扱いを受けるアンジェリーク。片方の手で未だに早鐘のように打ち続ける心臓を抑え、もう片方で躊躇いがちにその手を取り、立ちあがる。そうしてヴィクトールの手に茶の皮手袋がはめられていること初めて気付いた。
 立ちあがって、顔を上げる。それでもまだずっと上に彼の肩も、顎の線もあり、そしてその瞳と改めて目が合ったとき、アンジェリークは更にどきりと胸を弾ませた。
 鋭く射るような視線が、はずされる事無く自分を見ている。
「…どうした?」
 不審げに言われて、アンジェリークははっと気を取り戻した。ヴィクトールが自分の顔をまじまじと見ている。
「なにか、気になる事でもあるのか?」
「えっ? いいえっ!」
 慌ててぱっと視線を逸らす。
 そして自分の心臓の音に、ヴィクトールの小さな溜息は聞き逃していた。
「もう暗い。部屋まで送ろう。」
「え…?」
 アンジェリークの返答を待たず歩き出したヴィクトールの後を、アンジェリークは早足で追いかける。アンジェリークとは決定的にコンパスも体力も違うだけに、軽く歩いているはずの彼に追いつくのは困難だった。
「あ、あのっ」
 疲れのせいもあるだろうが、あっという間に息を上げたアンジェリークが、掠れた声でヴィクトールを呼ぶ。
「なんだ?」
 ヴィクトールは軽く振り返って、しかし足を止める事も無く、アンジェリークを見降ろした。
 先ほどのことは、既に頭にないようだ。まだ胸をどきどきさせながらも、躓いたことを謝ろうとしたアンジェリークは迷い、その末に、
「…ありがとうございます。」
 なんだか多少顔を赤らめて、呟くように礼を言った。するとヴィクトールは随分はっきりと、
「ここでの俺の役目は女王候補を導くことだが…軍人として、他の人間を守ることも当たり前のことだ。」
と答えた。
 その言葉に、アンジェリークは小首を傾げる。
「あれ…? えっと…違います私…、躓いて…でもヴィクトールさま、怒らないでくれたから…。」
そこでアンジェリークの脳内回路が多少ずれた。「あの、でも私、ヴィクトール様は軍人さんでなかったとしても、私達を守ってくださるって思いますけど…。」
 普段のアンジェリークならちゃんと筋道を立てて二つの事を言えただろうが、今回に限っては先ほどの出来事の為に心乱れて、いつもの通りと言うわけにはいかなかったのだ。
 ヴィクトールが足を止め、振り返る。必死で追いかけていたアンジェリークはその背中にぶつかり掛けて、思わずとどまった。
 琥珀色の瞳が、アンジェリークを射すくめる。そして、その色を和らげた。
「そうだな、俺の言い方が悪かったな。人間として、誰かを助けるのは当たり前のことだ。なにも軍人ばかりのことじゃあない。」
 アンジェリークの口を突いて出た言葉は、本質的にはもっと違ったニュアンスを含んでいたが、ヴィクトールは勿論そんな事とは気付かない。
「なるほど、女王候補に選ばれただけはあるんだな。…すこし、感心したぞ。」
 琥珀の瞳が笑って、その深みのある声が自分を誉めてくれた事を、アンジェリークはどうしてかほんわりとした気分で受け止めた。
 そしてそのアンジェリークのはにかんだような笑顔に、ヴィクトールも小さく微笑むと頷いて、二人は黙ったまま、寮への道を歩き出したのだった。

 

 

- continue -

2000-01-01

第2話です。いかがでしたか?
ほんのちょこっとヴィクトールを出せました。
もっと甘々にしたかったけど、出会って間も無いので、それはまたこれから…。
では、また。
蒼太
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